翻訳記事ではないですが、個人的に大変に興奮するニュースのひとつがありましたので、いろいろと長くなりそうですが、その周辺について書かせていただきます。
米国の投稿サイトを見ていましたら、
Full Color Night Vision Developed by Japanese Researchers (日本人研究者によってフルカラーの暗視装置が開発される)という英語記事がありました。
「なんだろう」と読み進めていて、最後まで読み終えたところにソースリンクが書かれてあり、それは日本語のページなのでした。
というわけで、こちらのページです。
暗視カラー撮像技術を開発独立行政法人 産業技術総合研究所 2011年02月08日--
これは一言で書くと、「
暗闇中にある被写体のカラー動画像の撮像に成功」というもので、リンク先の記事をお読みになっていただくのがいいかと思いますが、冒頭部はこうあります。
この技術は、独自に開発した高感度赤外線撮像技術と高速画像処理技術を用いることによって、暗闇でも被写体のカラー動画像をリアルタイムで撮像することができる技術である。この技術を応用することによって、視認性の高いセキュリティーカメラを提供することが可能となり、より安全な社会の実現に貢献するものと期待される。
防犯上などの目的で作られたということが書かれてありますが、その開発の目的や用途は私にはどうでもよく、では、なぜこのニュースにそんなに興奮したかというと、もう 2008年くらいから連綿と個人的に続いている
「2つのこと」が交差した場所にある報道だからです。
その2つのこととは、
・日本人科学者による発見(あるいは発明)そして、
・「見る」という行為の真実の2つです。
これだけ書くとわかりにくいと思いますので、書いてみたいと思います。
どちらも、人間の進化やあるいは「真実の人間の体内器官の役割」を求めることと関係しています。
人間自身の体内の「見る」行為の進化の可能性は?今回のことは、特に「見る」ということと関係しています。
これまで、松果体などのことについて書いたことがありましたが、今、私たちは「見る」という行為について、非常に狭い範囲で考えている面はあります。その狭い範囲とは、すなわち「目で(だけ)見る」と考えていることです。
目から光を受けて、それを受容体で受けて脳が認識することで、光と色を「感じる」のが見るという行為とされていますが、これだと、
人間は「真っ暗な中では見えない」という宿命と共に生きていくことになります。
しかし、
「本当の本来の人間の体の仕組」はそうなのだろうかという疑問です。
あとでリンクいたしますが、光を松果体で見ているメキシコの魚の存在などがある一方で、そして、あらゆる地球上の生き物には「横のつながり的な組織的系統」がある。つまり、「生き物は基本的に似ている」と。
この「生き物は基本的に似ている」ということに関しては、ハエの眼球の動きの働きと哺乳類の眼球の働きを比較した研究データがどこかにあるのですが、ネットではなく自分の持っている本ですので、見つかれば掲載いたします。今は曖昧な記憶だけです。
いずれにしても、そういうことがあり、
松果体で光を見ている生命はメキシコの魚だけではないはずです。多くの地上の大型生物は視覚(目で見る)に頼って生きていますが、特に、人間に関しては「いくつかの機能を使っていないだけではないか」という話が、中世の学問やオカルトから延々と続いているようです。
それらの難しい話は関係なく、今、ここに、産業技術総合研究所は「闇夜でクリアに見える技術」を開発しており、少なくとも技術ではできている。ということは、
「宇宙の物理の仕組み自体は本来は暗黒でも見える可能性がある」ということなのではないか、などと思った次第です。
▲ 真っ暗の中で撮影した写真。「真っ暗闇でハイチーズ」とかもできそう(そんなための技術じゃないやい)。この「光のない場所にあるものが普通に見える(撮影できる)」概念や具体的な仕組のようなもので、人体の構造の中に隠された機能がどこかにあれば、人間はいわゆる「光」だけに頼らなくて「見て」生きていくことができる。
もちろん、かなり遠い未来の話にしても、姿形は同じままで「
新しい人間」というものは、遠い未来には存在「していてほしい」し、それには松果体や脳下垂体、あるいは今は軽んじられている脾臓や盲腸といったすべての器官までもが完全に機能する人間が存在してほしいと考えています。
というわけで、上の「2つのこと」をひとつずつご説明させていてただきます。
日本人科学者たちが見つけていること私は 2008年の11月くらいに突然、自分で変化を感じて(基本的には何も変わっていない気もするんですが)、その頃から感銘を受けるニュースの種類というものに変化が生じました。
その上で、この3年の間ほどの間で私がもっとも衝撃を受けた三大ニュースというのが、すべて「
日本人による発見と発明」でした。それは次の3つです。それぞれニュースサイトや当事サイトなどのリンク先を貼っていますので、ご存じのないニュースがありましたらぜひお読みください。
並べてみると何だか地味な三大ニュースですが(苦笑)、国立天文台の観測結果は、「
地球の生命すべてが宇宙から来た物質で構成されている」ことをほぼ証明し、大内正己さんのヒミコは宇宙のビッグバンの事実上の否定に繋がりかねないもので、大阪大学の葉緑素の研究発表は、「
太陽の光を失った時に生命が生きる方法」を裸子植物(マツやソテツなど)が教えてくれていることを示します。
▲ 古代銀河ヒミコ。129億光年のところにあるこの巨大な天体はビッグバン理論では説明がほぼできません。他にも、同じようなビッグバン理論では説明のつかない巨大な古代銀河がたくさん発見されています。ビッグバンという言葉も最近では科学者の間ではあまり使われなくなってきた感があります。そのうち自然消滅すると思われます。国立天文台の「生命の起源」に関しては、「そうも考えられる」ということではなく、
地球の生命が宇宙から来たという「以外」には考えられない観測結果となっていて、地球の生命が宇宙から来たことは断定できると思います。
下の文章は報道記事からの抜粋ですが、「断定できる根拠」はこの部分
アミノ酸は互いに鏡像の関係にあり、L型(左型)とD型(右型)に分類されている。地球上の生命を構成するたんぱく質はアミノ酸から構成されているが、ほとんどが左型になっており、生命の起源と関わりがあるのではないかと考えられてきた。
に由来します。
ここでは「ほとんどが左型になっており」と書かれていますが、実質的には全部です。理由はわからないのですが、地球の人類や他の生命も、ことごとく「左型のアミノ酸」というもので構成されているらしいのです(自然に発生させれば右と左は均等にできる)。そのあたりの観測との一致に関しては、いろいろと難しい記述も続くのですが、衝撃的な報道記事でした。
このことに関しても、今後、私たちの共通の認識として、
生命は宇宙からやって来たという認識にスムーズに移項していくと思います。
科学は最終的には人間を裏切らないと私は信じたいですが、その希望を見出すニュースの多くを、私は日本人研究者による「一見地味な」研究に見ることができるのです。
他にもいろいろとあります。
上に書いたメキシコの魚の松果体の働きを発見したのも日本人でした。
・
Blind Fish Sees With the Pineal Gland(英語)ヨシザワ マサト(米国メリーランド大学) 2008年7月▲ そのメキシコの魚。目は退化して持たない。下は以前書いた記事からの抜粋です。
(参考記事) ペアである自分(2)より。
これは、彼ら眼を持たない魚が、視覚で光を見ているわけではないけれど、彼らが見ているものは決して夢や想像だけではなく、「光」という現実を見ていることを示します。
▲ 人間の松果体の位置。
松果体というのは二つの大脳の間あたりに位置する器官ですが、医学的な意味では、メラトニンというホルモンを作り出すことに関与していること以外の役割はほとんど不明です。ただ、思想ベースでは古くから語られてきたようで、Wikipedia にこうあります(抜粋)。
デカルトはこの世界には物質と精神という根本的に異なる二つの実体があるとし、その両者が松果体を通じて相互作用するとした。デカルトは松果体の研究に時間を費やし、そこを「魂のありか」と呼んだ。
松果体は眠っている器官であり、目覚めるとテレパシーが使えるようになると信じる人もいる。ニューエイジ運動の初期の指導者であるアリス・ベイリーのような作家は、精神的な世界観において「松果体の目」を重要な要素としている。
このメキシコの魚たちも、目は使っていないとはいえ、実際には松果体で「光」を見ているということになり、「
やはり光は重要なんだ、光だ、光だ」と幼き我々は叫ぶわけですが(誰だよ)、しかし、そこに立ちはだかったのが、上の3番目のニュースの大阪大学の栗栖教授たちの研究「
植物や藻類の中で葉緑素が緑色になる反応のしくみを解明」なんです。
裸子植物、つまり、マツやスギやソテツたちの仲間。
あれらは光も要らないのです。
ついに、「
光を否定した生命」が出てきた。
論文は下のようなものです。
これは論文そのものではなく、プレスリリースから。
ダイズを暗いところで芽生えさせると緑にならないで黄色い"もやし"になってしまいます。これはダイズなどの植物では、緑色のもとになる葉緑素を作るための最終段階ではたらく酵素が光を使ってはたらくためです。これに対して、クロマツやドイツトウヒなどの裸子植物の芽生えは暗いところでも葉緑素を作り緑色になることができます。また、多くの藻類やラン藻、光合成細菌も暗所でも緑になる能力をもっています。
「お前たちは光もなしで光合成をやっちゃうのかよ・・・」と私は驚き、興奮しました。
うちには観葉植物としてのソテツもあるのですが、その
ソテツと向かい合って、酒を飲んだりしたものでした(キチガ・・)。
ちなみに、ソテツは
ソテツ(生きた化石)によりますと、
> ソテツの化石は古生代のペルム紀初期の約2億8000万年前にさかのぼることができます。と、非常に歴史のある生命のひとつです。
3億年の地球の歴史の中にはかなり苛酷な時代もあったと思われます。
低温、高温、そして超巨大火山の噴火などでの日照不足や、大洪水、大干ばつ、いろいろとあったでしょうが、ソテツは生き残っています。
滅んでいった恐竜や、あらゆる小型生物、大型生物そして、やはり生き残れなかった大多数の植物を横目に生き残り、今では観葉植物店で売っていたり、あるいは、たとえば私の部屋にあったりします。
今もこれを書きながら、「ソテツよ・・・お前のことを書いている」と話かけたりしていますが(キ・・・まあいいや)、人類あたりと比べると大変な歴史を持つ生命のひとつであることは確かです。
▲ ソテツ。うちのはデカいです。「先人の知恵」というような言葉がありますが、マツやソテツが生き残ることができた方法を体得すれば、他の生命も追随できる可能性はあると考えます。
どうしてこんなに植物のことにこだわっているかというと、「人間が植物を目指すことは理想的なことかもしれない」という考えを知ってからのことです。
「原植物」を目指す人類昔、ブログに西洋オカルトの中心的思想のひとつである「薔薇十字」の修行をしている方がコメントを書かれていたことがあり、その人が書いていたコメントを転載させていただきたいと思います。
私は中世のオカルトの知識がゼロですので、私自身が理解しているかというと、それはわからないですが、概念として興味深く、今でも好きなもののひとつです。
ここから転載です。
改行だけさせていただいています。
部屋とウイルスと私 コメント欄より。
--
シュタイナーが言う体内における光合成の件、これは明らかにオカルトに聞こえますが、薔薇十字の伝統に生きる者は本気でこれを実践します。狂気の沙汰と言われようと、呼吸による身体内の炭素の把握はぼくらの最重要の関心事です。
これは呼吸の行とよばれます。
ぼくら薔薇十字の徒は人間の本来のバランスを取り戻そうとします。呼吸の行というのは人間である自分と植物との共生の問題です。人間は生きているだけで大気中に二酸化炭素をばら撒きます。そして「どれだけ二酸化炭素を排出しないか」という冗談みたいなことが、ぼくら薔薇十字の修行者にとっては真面目な課題です。
古神道の大国隆正という人の『本学挙要』という本の中に人と稲が逆さに並べて描かれている図があります。これはフトマニの区象といって、人間は逆さまになった植物であり、互いに共生しているという旨を説明するものです。西洋でも東洋でも霊学ではこれは一般的な認識です。
薔薇十字でもおなじです。
植物というのは、体内に緑色の血が流れ、太陽に向かって真っすぐに成長する地上の存在としてはピュアなあり方のお手本みたいなものです。
ゲーテには「原植物」という理想的な植物の概念があります。つまりあれが人間として目指すべき理想であり、最高の元型です。鉱物の中にも例えば水晶のように炭素が純化された存在として理想的な存在たちが居ます。植物や鉱物というのは本来の意味において頭上の天体運動の鏡像みたいなものです。薔薇十字の理想は、赤い血の情熱を保ちつつ植物のように上へと向かうことです。そして太陽に向かうことです。これが重要な点です。
天体のなかで西洋神秘学でロゴス(言語)と呼ばれるものの象徴が「太陽」です。
でも現在の宇宙で頭上に輝く太陽が人間にとっての「言語」の象徴に過ぎないとすれば、物理的に把握されるただの象徴である太陽より、植物のほうが先に創造されるというのは自然ですよね?
その前に「言語」は既に存在している、というより、むしろこの宇宙の原初には「言語」が先にあったのですから。それ自体は植物の誕生よりずっと昔だというわけです。「言語」という表現がいけませんね。ロゴスとは「秩序」のことです。
人間によって認識される物理的な宇宙が誕生したのは、つい最近のことです。
それを観察する科学が人間中心であるのは当然といえば、当然かも知れません。ロジックによって把握する対象として宇宙が存在を開始したのは、ロジックを駆使するようになった人間の大脳の誕生と密接に関わりがあります。人間はそれ以前に存在していた "見えない" ロジックの宇宙を "見える" ロジックとして観察することが出来るようになりました。
これは物理的な脳が誕生したおかげです。人間のロジックは宇宙のそれの模倣に過ぎませんが、でもこの模倣を可能にする大脳という精密な器官を作り上げるために、宇宙はとてつもない長い時間と労力を費やして来ました。だからある意味、科学的な認識手法というのはこの宇宙の最大の成果であると言えます。
それ以前の宇宙は、光があっても太陽がないようなものでした。内的な光で認識されただけです。
しかし実際、太陽が出現し、またこれによって眼という器官が形成され、そして脳が作り出されました。人類がこの能力をどう利用したかは別として、人間における理知的な行為を可能にする完成された脳神経系は、どう見積もっても神の最高傑作であるに違いありません。
そして人間に与えられたこの認識力の限り、ロゴスの象徴である太陽のなかに根源的な神性を知ることこそ、霊的な伝統のいずれの系譜においても追求されてきた共通の課題でした。
気の遠くなるような昔から過去の賢人たちはそのために気の遠くなるような努力によってその道を準備して来ました。宗教とは、そのようなものの大成です。
太陽へと向かう植物のようにしかも自由への衝動を内に担いながら上へと成長しようとする、地上では類をみない神聖な存在として人間存在が語られ、そしてその正しい道が古今東西どの流派に限るとなく実践されて来ました、、、、、と、このようなことを信じる、信じないは別として、いずれにせよこれが宇宙と人間の歴史に対する薔薇十字の伝統の解釈です。
転載ここまで。
まあ、難しいことに関してはともかく、私は「人間はいずれにしても進化するのだろう」とは思っています。
それがどういう方向性かというのはわかりません。
ただ、上で3つあげた日本人による研究と発表というものが、それぞれひとつずつダイレクトに「人類の進化と関係している」ように思えたのでした。
進化といえば、
ヤスの備忘録のヤスさんが訳されて配布しているウェブボットの最新刊のクリフ・ハイのエッセイは感動的なものでした。
そこにはこう書かれてあります。
私は「アセンション」ということがあるとすれば、なにものにも影響されない魂の自由を獲得することだと思う。それは、欲望にもイデオロギーにもドグマにも影響されない魂の真の自由のことである。
そして、最後にこうあります。
インドの著名な修行者、J・クリシュナムルティ師は「あなたがどうすれば魂が自由になるのか私に答えを求めるのは間違っている。あなたは私の言っていることをまったく聞いていない」と言っていた。まさにその通りなのだ。
と。
この最後の「どうすれば魂が自由になるのか私に答えを求めるのは間違っている」の意味は、クリフ・ハイがどういう意味で引用したかはわからないですが、私自身はこれを読んで、彼とは違う意味なのかもしれないですが、「ああ、そうなんだよなあ」と思いました。
すなわち、「
自分のことを人にきくのは間違っている」、そして、「
最終的には自分と自分だけの問題」だと感じました。
今、「
ペアである自分」は書いていないですが、このことを言いたい部分もあるのだと思います。
つまり、「自分のことは自分に問いて、そして自分で答える」ということです。
これに関して「偉い人が言うことは聞いてもいいのでは?」ということを感じる方もいらっしゃるかと思いますが、それも違うように思います。どうしてかというと、
「偉い」という絶対基準がこの世には存在しないからです。人の価値観が多様化していろいろとありますから、「偉い」と思う基準も人によってバラバラだからです。
なので、キリストでもお釈迦様でも聖徳太子でも、どんな偉そうな人が出てきて「こうしなさい」と言っても、単なる世間話として聞けばいいのだと思います。
「聞く耳を持たない」という日本語がありますが、大事なことに思います。なぜなら、自分と自分なら「思うだけでいい」ので、聞く必要はないからです。
長くなってしまいましたが、光と人間の生命の問題は、何年後か、あるいは何千年後か、何百億年後にはきっと解決しているのだと信じたいです。