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2011年03月31日



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雲の形が戻ってきた



今週の初め頃だったと思うんですが、「雲」の様相が変わりました。
変わったというか、戻りつつあるように見えます。


震災後の2週間くらいは、東京の雲はそれまでには見たことのないような形や色や動きの雲が次々と出ており、そして、「突然気温が低下する」ということも(これは今日もあった)続いています。


空に関しては、3年くらい前から何となく毎日見るようになっていて、ヒマなせいもあって、ベランダから見る以外にも、外を歩いている時にも空を見上げて、そのままボケーッと立っていることもあります(あぶねー)。

そんなこともあり、雲の名前などはよくわからないままに空の色とか雲の形なんかはわりと見てきたのですが、3月11日からの2週間くらいの間は、そういう過去に見てきたものをすべて否定するような雲が多かったです。

震災当日にも、暗雲と気温の急激な低下はあったのですが、その3日後くらいから空の様子はむしろひどくなっていき、こちらの記事の日(3月16日頃)に現れた「とぐろを巻くような黒い雲」を見た時には本当に「ああ、これはだめかも」と思いました。

その上の記事には、

「まあ・・・お前みたいな黒い雲も、ずっと不吉だ不吉だと言われてきて、まあ、オレなんかもそう思っていたわけだけど、そのへんはお互いの考え違いという面もありそうだわな。まあ、お互いあんまりトゲのない程度に行こうぜ」。



と書いてありますが、基本的には、その後の日々でイヤな感じの雲を見た時には同じように思って過ごすようにしていました。

そして、数日前、確か4日前だと思いますが、やっと以前と同じような雲に戻ってきたような気がしました。東京ではその翌日から、それまで異常に低かった気温も、また普通くらいの温暖な感じに戻りつつあります(一時的かもしれないですが)。



この数日の間、自宅以外も含めて室内での用事が続いて、ほとんど散歩ができない日が続いていました。それで、昨日の夜あたりに、震災後としては、初めて「イライラが非常につのって」ちょっと危ない感じでした。


ちょうど、今日から数日の間、子どもが奥さんの実家のおばあちゃんのところに遊びに行くことになって、今日は久しぶりに数時間歩き回っていました。

やっぱり、今の私は外を見て歩かないと精神衛生上良くないようです。
また井の頭公園にも行ってきました。



春の池と瓶ビール

散歩を始めたのはまだ午前中で、井の頭公園にも午前 11時くらいに着いたのですが、平日なのに混んでいる。「なんで?」と思ったのですが、春休みということがあるのかもしれないです。


今日は暖かいこともあり、ボートもたくさん池に出ていて、アベック、子ども連れがたくさん来ています。

公園の入り口から池の中央に向かって渡る橋があって、最近はいつもそこで池を眺めるのですが、何十年もここには来ているのに、その池の周辺の風景といったものを気にしたことがなかったので、見ていると、こちらの記事にも書いたような、「自然というのはなんということか」というような感動もありました。

まだ葉のない木のほうが多い時期で、つまり、「茶色のもの」が多い。
それだけに緑のあるもの、花のあるものが目立つのですね。これが春が過ぎ、全部緑になっていくと、「いきいきしすぎて、つまんね」というようなことになりそうな気がします(わがままだな、おい)。


歩き出した時に、ふと思って、木に向かって、

「お前がそのまま緑を出さずに永遠に枯れてしまえば、このまま永遠にいいコントラストでいられるのにな」

とひどい言葉をかけながら進みます。

でも、途中で、「でも枯れちゃったら朽ちてなくなっちゃうか。ハハハハ」と笑いながら(キチ・・・)進みます。

最近、歩きながら笑うことが多いんですよ。


ino-1.jpg

▲ 携帯で撮影した橋からの風景。古い携帯なので色が実際とは全然違います。右のほうの柳みたいなのがきれいでした。


橋を渡ると、小さな動物園とボート乗り場があります。
動物園は震災以後は休園となっていましたが、張り紙があり、「4月1日から再開します」とのことでした。

動物園の入り口の周辺にはベンチなどの座れる場所がたくさんあります。
子ども連れやアベックが多い中に、男数人組で午前中なのにビールを飲んでいる人たちがいる。しかも、よく見るとごっつい男たちが「瓶ビール」を呷っている。


「瓶ビール売ってんの? つーか、家族連れの横で瓶のままで酒飲むなよ。愚連隊かよ」


と思って見てみると、そのうちの男のひとりが赤ちゃんを抱いており、さらによく見ると、それらは複数の家族グループなのでした。


それを見て、売店のほうへ行って見てみると、やはり瓶ビールなどなく、あの人たちは持参したようです。午前中とはいえ、結構ビールを飲んでいる人は多く、私も缶ビールを買って、池を見てみました。ボートがたくさん出ています。

ボート・・・。
この公園のボートには、普通の手で漕ぐボートと、足でペダルみたいなのを踏んで進むボートと、スワンボートがあります。スワンボートが圧倒的に多いのですが、中にはやはり手こぎの人もいる。

「経済的な問題なのかな」と、料金表を見てみると、手こぎは600円で、スワンボートは 700円とあり、料金の差は 100円。金銭的な問題ではなく、「手こぎがいい」として乗っているようです。


昔、「世界が水没した時にはスワンボートなんていいかも」と思っていた時がありました。
それがなくても、スワンボートは今でも欲しいものひとつですね。
2台くらいあれば家族で水上で暮らせそう。



公園を出ようとした頃、空には青空も見えているのに、ボツボツと雨が。わりと雨に敏感に反応する人は多く「あ、雨だ」とは言うものの、私もそうですが、こんな天気の日に傘など持っている人などおらず、言うだけです。

「私たち放射能のことも忘れないでね」

と、雨がさりげなく言っているかのように、本当に少しだけ雨が降り、しかも、雲が消えて青空になったのに、まだ少し水滴が落ちてくる。恋人とふたりでソフトクリームを食べながら歩いていたアベックの男のほうが空を見て、「なんで雲がないのに雨がまた少し降るんだよ」と言っています。


まあ、前述したように雲とか気候とかは最近は基本的にコントロールを失った感じはしますので、適度にやり過ごすのがいいようです。

井の頭公園にいた全員に多少のいろんな物質を振りまきながら、雨は去りました。



こどもたちの遊びに対しての無秩序な希求

そういえば、今日ではないのですが、先日、吉祥寺を歩いていた時、ヨドバシカメラの裏側に細い道がたくさんある場所があって、そこで、若いお父さんと5歳くらいの男の子が自転車に乗ってゆっくりと私の横を通りました。

子どもは、大きな声で、


「パワー全開! おとーさんに、放射能ビーーーーーム! ビビビビビ!」



と言って、お父さんの横を走っていき、その若いお父さんも、


「ああ、やられたあああ!」


とか言ってました(笑)。

テレビなどをつけているのなら、子どももニュースでいろんな言葉覚えるでしょうしね。


それを見て、そういえば、小さい頃に自分たちで作り出していたいろいろな遊びを思い出しました。


1番印象深いのは「自主的な生き埋め遊び」でした。

今は家の構造が変わったので、北海道でも屋根から雪はそんなにドサドサと落ちないかもしれないですが、30年前40年前は、とにかく、屋根の雪下ろしをしないと、すぐに屋根に雪が積もり、そして、それは少し暖かい日などに下に落ちます。

この「雪が屋根から落ちる物理的な力」というのはものすごいもので、まず音がすごい。

「ドドド・・・ドドドドドドドドドドド・・・・・ドッカーン!」

という本当に冗談でもなく、爆撃を受けたようなものすごい音で落ちます。
稀に、この屋根から落ちた雪に当たって、怪我をしたり、生き埋めになる人たちが出ます。


私も、小学2年か3年くらいの時に、友だちの家でその友だちと屋根の近くで遊んでいた時に、落雪の直撃を受けたことがあります。

怪我は大したことはなかったのですが、ふたりとも雪と氷中に閉じ込められ、少しして気付いた家の人たちに救出されたのですが、結構な時間、雪と氷に閉じ込められた中にいました。

その時に「初めて知ったこと」がたくさんありました。
これは圧縮されて、氷に近いものに密閉された状態で、いわゆる新雪の中などとは違うのですが、すなわち、

・雪の中は暖かい
・雪の中は音が聞こえない


ということでした。
もちろん、光りはほとんど入らないので、ほぼ真っ暗です。
そして、外部の音がしないので、自分の鼓動だけが聞こえるのです。


救出された後、しばらくして、一緒に埋まった友だちと、「静かだったね」とか、いろいろと話していたのですが、しばらくして、

「あれをもう一回経験したい」

と思ったのです。


そして、学校に行った時に友だちに話して、何人かで「あの状況を再現する」という遊びを作り出したのでした。これは小学生が行う行為としては、実は非常に危険なものだったのですが、手順として、

・雪に深く穴を掘る
・その中に下向きか横向きで横たわる
・空気穴のバイブを上に出す
・上から雪をかけて、上にいる全員で踏み固める
・いよいよ苦しくなったら、パイプを動かして救出を求める
・上にいる子どもたちが救出する

というものでした。
密閉するくらいに強く踏み固めないと、無音にも暖かくもならないということがあって、「本人が自力では脱出できないほどの厚さまで」みんなどドンドンと踏み固めます。


最初は私が自分であの体験を再現したくて、中に入って、そして出てきたのですが、他の子たちもやりたがって、結局、全員で交代でこれをやりました。


この遊びはなんというか・・・本当に快感だったのですよ。

その時はそういう言葉は知らなかったですが、「胎内」というようなニュアンスもあったのかもしれません。みんながまたやりたくなる遊びでした。


ある日、学校で、「雪の中に埋め合ったりするような遊びが最近あるようなんだが、危険だから絶対にやめるように」と教師がクラスで言いました。私たちは「なんで広まったの?」と言い合いましたが、誰かが他の誰かに教えたのか、あるいは、同時多発的に(屋根からの落雪で埋もれる子は多かったので)発生したものだったのかもしれません。


小学生の時は本当にみんな遊びを作り出すことが得意で、私も得意でしたが、しかし、男の子の考え出す遊びには「命の危険」がつきまとうものが多かったです、これは乱暴とかアクティブとかという意味だけではなく、そうでない遊びもそうなってしまう。

ただの雪合戦でさえ、気付くと、誰かがそこに「石」を入れ始めた時から、流血になり戦争状態になり、「戦略」が必要となってくる。あるいは、最初は単なる水鉄砲遊びだったのに、理科の実験室から誰かが塩酸を盗み出して、それを入れるやつが出てくる。

上の水鉄砲は中学生の時ですが、当時の田舎の中学生なんて子どもそのもので、中三でも学校で水鉄砲で鬼ごっこやってたわけです。「かけられたら負け」という感じで。

ある時、水鉄砲遊びの時に廊下の奥から、

「えんさーん、えんさーん!」

という叫び声が聞こえてきて、逃げてくる生徒たちがいる。

「どうしたの?」
「一部のやつらが塩酸を詰め始めた! 服焼かれたやつがいる」


ということで、これも本気でみんな隠れて相手を探し出そうとする。
なんでもかんでも戦争じみる。


そのまま男性性社会のシステムを体現するかようですが、でも、私たち全世代はそんな「ただの遊びが殺伐として」どう感じるかというと、嬉しくてたまらなかったんです(笑)。

そして、無傷で遊びを切り抜けられた時は子ども同士で喜びを分かち合う。

遊びの戦争が終わった後にはみんなで学校を出て、家で「今日も生き残れてありがたい」と、みんなそれぞれに眠って夢を見る。
うーん・・・・・。今考えても、わかるようなわからないような。



七夕の因果

そういえば、私は 1963年生まれなんですが、メールなどをいただく方にもこの周辺の年齢の方も多く、変なこと書いて下さる人が多いですね(笑)。


ちなみに、誕生日は 8月 7日なんですが、これは本州では何の意味もない、この 8月 7日というのは、北海道では当時は七夕の日だったんですよ。気候の問題でそうなったんでしょうが、本州とは1カ月違ったんです。

なので、子どもの時は「七夕に生まれた子なんて、めでたいねえ」などと言われていたのですが、本州に来てから何の意味もない日だと知りました。

鼻の日?

とか言われる始末。
実際にそうらしいですが。


そういう「七夕への因縁」というか、そういうものを持っていたんですが、その 42年後に生まれたうちの子どもの誕生日は 7月 7日で、こっちは正真正銘の七夕に生まれました。「さすが東京生まれの子だねえ」と感心したものです(よくわかんないが)。

そんなわけで、長い逡巡だった「実は七夕と無縁だった私」という問題も、子どもに救われたという話でした。


今回は特に支離滅裂ですみません。
ちょっと用事となってしまいました。




  

2011年03月30日



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なるべく毎日書きたかったのですが、昨日はどうしても時間がとれず、今日も基本的に何だか慌ただしいのですが、ただ、うちの奥さんの震災後の行動など見て気付いたのですが、「それまでインターネットで積極的に情報やニュースをあまり探すというようなことをしていなかった人たち」の中で、震災後からネットで情報を得ようとしている方もいらっしゃるかと思います。


その場合、本人も気付かない状況に陥ることがありますので、簡単に書いておきたいと思いました。

これはふだんからネットで情報を大量に見ることに慣れている人にはあまり関係のない話です。



不安の輪廻

インターネットの閲覧には、「ハイパーリンクの持つ自己洗脳性」というような若干の危険性がもともとあって、ハイパーリンクというのは、ここではネット上にある「リンクすべて」を指していますが、それは一般論としての前提として、

まず、


・「どうして普段は一晩中ネットで情報なんて探らないのに今は、それをやっているのか」


というと、それは、



・「何か不安か心配があるから」



であることが多いと思います。

そうすると、たとえば、ニュースでもブログでも何でもいいのですが、



・「まず、不安なリンクタイトルに目が行く。そして、そちらを選んでクリックする」



ことになります。
その後、どうなるかというと、「不安なリンクからさらに不安なリンクへとたどる」ということになり、最初はリンクの候補は、楽しいものや不安なものも含めて、いくつかの感情のあったサイトやブログからスタートしても、最終的に行き着く雰囲気は、


・すでに不安と恐怖の文字列しかないような場所



であることが多くなり、知らない間に、「不安と恐怖の項目しかない中から情報を選んでいる」ということになることが多いです。


そして、この場合の問題は、どういう経緯であれ、「自分でリンクをクリックしていった」という事実があります。

つまり、

・「これは自分で選択した情報なのだから正しいはずだ」という錯覚に陥りやすい


ということです。

これが結局は、「不安心理から自動的にリンクを辿っていっただけの行為」が、いつの間にか、その正誤を判断する前に自分にとっての「真実の情報」となっていく仕組みです。つまり、言い方としては適切ではないにしても、自分で自分を洗脳に追い込んでしまうというようなことになってしまうようです。

歴史では、いろいろな団体などが、様々な勧誘の方法などを考えてきましたが、実は最も効率的なのが、「自分で考えた結果だ」と思わせることだというのが確定した技術かと思われます。

これはそんなに難しく考えることではなく、様々な局面や著作などの中でおこなわれています。

つまり、

「これは○○である!」

という言い方を人にしないで、

「これは○○でしょうか? それとも△△でしょうか? お考え下さい」

という言い方です。
もちろん、この前提として、ずっと言外に「○○がいい。○○が正しい」というニュアンスを伝え続けているわけです。

その最終形として、「これは○○でしょうか? それとも△△でしょうか?」と訊かれた場合、訊かれた人々の多くは、


「それは○○だ」


と自分で結論に至ります。

これは一見自分で考えて出した結論のように思えるので、実に強固な意志となっていきます。

この方法はこれまであらゆるジャンルで使われてきたと思います。
商品の CM なども含みます。


もちろん、これがいいとか悪いとかでなく、インターネットの場合、自分自身の手によってこの状態に陥っていく可能性があるということを書きたかったのでした。


まあ・・・ハイパーリンクは本当に便利なんですけどね。

私が初めてインターネットに接続した頃は、ダイヤルアップという方式の、しかも、最初は 12800bps という速度で、これは最近の一般家庭のインターネットの、もう・・・何十分の一から何百分の1という速さで、たとえば、ハガキ大くらいの写真が全部表示されるのに、コンビニで買い物をして帰ってきても、まだ表示が終わっていないというようなことはよくありました。

当時は、「インターネットをすることがそのまま電話代」となり、大変な料金がかかったもので、多くの人が、「テレホーダイ」という夜中に NTT の電話代が固定化されるものを使っていたのですが、その夜中の時間全部を使っても、得られる情報などそれほどではなかったのです。


今のほうが、環境も内容もコンテンツも充実していて、信憑性が感じられるものも多い。
しかし、それだけに、「どんな情報も正しそうだ」ということを思いやすいです。

前にも書いたように、実際に現在ネットにある「どんな情報も正しい」のだと思います。
見方や考え方を変えれば、それぞれの主張や意見すべてが正しいかもしれないです。

しかし、今のこの時期に、まして、まだ被災地ではほとんど何も手つかずの状態というような中では、「不安」というような要素は私たちの一部にはあまり必要ないのではないかとも思います。



精神の自己防衛は必要


誰も予測しない中で今回の大災害が起きたように、基本的に私たちには未来が予測できないのなら、少なくとも今は不安を排除するということをした場合がいいということはあるのかもしれません。


私自身は他の情報を今ではあまり見ていないですが、いろいろな見地からいろいろな先行きを予測されている方々がいらっしゃるとは思いますので、そのようなものから情報を得ることは大変に有意義なことだと思います。ただし、そこから「ハイパーリンクの不安の輪廻」に陥らないように、長い時間、関連項目を見ないなどの「自己防衛」は必要かと思います。


最近ちらほらと Yahoo! などのニュースの見だしで見るようになりましたが、以前記事にも書きました PTSD (事故や出来事などの精神的ストレスが後になって肥大化すること。病名や言い方は様々でも、多くがひとつのもの)が本格化するのはこれからです。一般的には、事件後、数週間から数年で顕著になっていきます。

私の経験(私は PTSD から最終的に不安神経症とパニック障害に陥りました)だと、「最初は事件そのものへの恐怖だったものが、恐怖の対象が変化してきて、生活そのものが恐怖に変わってくる」までに数ヶ月を要しています。


この PTSD というのは本当に軽く見てはいけない。

今回は出来事も大きいですし、被災地以外のあらゆる人が PTSD に陥る可能性があるように思います。そして、これは本当に長く本人を苦しめるものです。

そういう意味でも、今の時期だけでも「不安は最小限」にして生活されたほうがいいというように感じます。どちらかというと、震災後に見てきた、たくさんの子どもや若い人たちのような「ゆるい思考」のもとで、精神の現状復帰を目指し、 PTSD を極限まで避けるようにしたほうがいいように感じます。

今回の出来事はそれくらい大きなものです。


未来を予測できない人類には「人生を楽しむ」という性質の一方で、「闇を覗き込みたがる」という性質もあるように思います。そして、覗かない時には覗かないほうがいい時もあるように思います。


タグ:PTSD



  

2011年03月28日



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6歳児たちの「恋の奴隷」


私は 1963年に生まれているのですが、大体、私が生まれた数年後くらいから一般の家庭にもテレビが普及し始めます。今の若い人向けの流行ソングはほぼひとつも知らないですが、当時のものは今でもよく覚えていて、口ずさめます。

もちろん、当時も童謡や子ども向けの歌はたくさんあったと思うのですが、どう考えても、町のどこかで流れている流行歌のメロディのほうが頭に入ってくる。

また、当時のヒットソングの多くはきわめて「脳に刻み込まれる」ように頭に入ったメロディで、一度聴いただけで頭に入るという曲はたくさんありました。


その結果として、どういう現象が起きるかというと、幼稚園児たちが道で並んで、

「あなたがかんだ〜小指がいたい〜♪」

小指の思い出 - YouTube


とか歌いながら歩くというような光景が見られるようになるのでした。

意味はもちろん知らないわけですが、そのうち「フルで歌詞」などを覚えるようになり、遊びに疲れた5歳くらいの子どもたちが畑の横で、

「そっと唇 おしあてて あなたのことを偲んでみるの」

とかつぶやいているというような状況になっていくわけです。


しかし、ふと、「なんで小指を噛まれたのか?」というような疑問はもちろん湧くのですが、「ま、いいか」と、つまらないことは考えない子どもたちのたくましさが、辛うじて真意の追究から免れることとなっていたりしました。

この頃の1960年代後半から1970年代くらいまでの歌謡曲は子どもたちには一種、苛酷な世界で、「ものすごく覚えやすいメロディなのに、内容は完全に大人向け」だったんですよ。


私がいちばん口ずさんでいた歌は、森山加代子さんという人の「白い蝶のサンバ」という曲で、当時、「コンプリート」で歌えた記憶があります。




やっぱり、小学生が、


「恋は心も命もしばり 死んでいくのよ 蝶々のままで」


と、道で歌いながら歩く光景というのは、今にして思えば「変」なわけで、この1960年代の前半くらいに生まれた人たちが「どうもおしなべて頭がおかしい」と感じるのは、こういう幼少期の「異常体験」も関係しているかもしれません。まあ、本当に楽しかったですが。

童謡とか子どもの歌なんて馬鹿馬鹿しくて歌えなかったです。
それほど流行歌にはいい歌が揃っていました。

それにしても、森山加代子さんは今見るとかわいいですね。当時の私たちにとっては、こういう歌手の人たちは全部「大人の女の人」という括りだったので、こういう「かわいい」とかいう視点で見たことがなかったですね。なるほど、当時の青年やオヤジたちは、こういう別の視点でも見ていたわけか・・・。


さらに、小学生に入ったばかりだったか、「恋の奴隷」という曲もヒットして、やはり即覚える私たち。

畑で父親が栽培したトマトなんかをかじりながら、「あなたと遭ったその日から、恋の奴隷になりました」とか、暗い目をして呟いている。

6歳くらいの男の子にとって「恋の奴隷」という概念を理解するのはあまりにも厳しい(今でもよくわからないですが)。なのに、「歌詞は覚えちゃった」と。

多分、この頃はこういうような「知識に先行して」結構いろんなことを覚えてきたという経緯は多くの人にあったような気がします。


テレビなんかも、男の子は特撮ばかり見ていたわけですが、その後に知ったオカルト的な知識は関係なく、少なくとも、小学校に入る頃までは、

「人類は宇宙で私たちひとりではない」

と、多分、ほとんどみんな考えていたと思われます。



文明の崩壊を見ながら悲観しないために

そのあたりの様々な「洗礼」を受けた後、小学校や中学校から「教育」というものが始まるわけですが、「教育」の歴史というのは、否定的な言い方をしてしまえば、私たちからそれまでに学んだことや自由な発想を消す作業だったようにも思わないでもないです。

子どもたちから「恋の奴隷」を奪い去り、「メトロン星人」を奪い去る。


子どもは女の子の小指なんかを噛んじゃダメだ(そりゃまあそうだ)、宇宙からは宇宙人なんか来ない。

そういうのが「教育」というものだったわけですが、しかし、やはり1960年代前半の私たちの多くは「完全に気が狂った世界」で過ごし始める人は多かったように思います。

私もそうでした。


世界はまあ・・・6歳までの自分が知ったくらいのもんでいい」と。


なんとなく、今、ちゃんとした会社や企業の上のほうにいられるような人たちも、内心はそんな感じで生きている人は多そうな気がします。


さて、そこで、私たち日本人は、今回の文明の崩壊の兆しという現実に直面したわけです。

「文明の崩壊」という言葉は否定的に響くかもしれないですが、私はほとんど反対の意味として使わせていただいています。


第二次大戦後、日本は「復興した」というような言い方を私たちは教わってきたわけですが、しかし、そうではないことは何となくわかっていました。

この正体は、

物質文明が肥大しただけ

だと。

前回の記事にも書きましたように、「子ども」というのはその時代や状況のあらゆるものを娯楽にしてしまう才能を持っているわけで、私たち1960年代生まれあたりは、「物質的な繁栄の極限」を見てきました。

それは特に娯楽に見てきました。

スペースインベーダーに始まるアーケードゲームのブームは、私はずっとその渦中にいました。ワープロが一般の人に購入できる価格になった時には真っ先に買いました。ビデオ、パソコン、そして、インターネット。

どんどん肥大する。

娯楽といえば、北海道の田舎で「あなたがかんだ〜小指がいたい〜♪」くらいしかなかった時代から、たった20〜30年で、とんでもない速度で物質文明と、それに伴う情報文明は肥大していき、それらの多くを体験して利用してきました。

「どこまで進むんだろう」という思いの一方で、常に「限界なのではないか」という思いもありました。


そして、今回、その文明の一部分が崩壊しようとしています。


これは(最近は他のブログなどを見ないので)多くの人はどう言っているのかわからないですが、現在の「文明だと考えているもの」が、実際には資本主義の経済の中でないと機能しないものであり、娯楽もインフラまでも、現在の経済のサイクルが消滅した時には同時に消滅してしまうことが明かで、そして、「元の経済体制へと復興する」という可能性を考えるのが夢物語にも近いということは多くの方が感じているのではないでしょうか。

しかし、「元に戻ることができない」という退行思考ではなく、「次に進むチャンス」という考え方は当然あると思っています。もちろん、被災の状況が進行中である中でそれは口に出すべきことではないと思いますが。



次のジェネレーションへ

外で見る子どもや若者たちが、なんとなくウキウキしたように見えなくもないのは、無意識では現在の「システムの崩壊」に希望を抱いている部分もあるのではないかなあと思います。

私は、以前、ほんの少しの間やっていた仕事の関係で、現在の教育主義の中の子どもたちの置かれている極めて苛酷な心理状態の子どもたちの姿を知って、かなり絶望したことがあります。学校とは別に、週にいくつものも習い事をさせられる子どもたちというのは、今では特別ではなく、ありふれています。


「習い事なんてしたい子どもがひとりでもいるか?」

というのは、本当は大人も知っているはずです。

でも、動き始めてしまったこの狂ったシステムを止める方法も、大人たちも子ども本人たちもわからなかった。


今、「止まるかもしれない」という感じはあるのかもしれません。

もちろん、それは経済的な意味も含めて、苦痛を伴う可能性はありますが、今の子どもや教育の周辺に漂う「教育の狂ったシステム」が止まる可能性というのは、あるいは、本当に起こり得るかもしれません。



ここで時間切れとなってしまいました。

こんなに余計な話ばかり書き続けていては、散らばったテーマがまとまるのには、100年くらいかかりそうです(あ、放棄するつもりだ)。


それでも、やっと・・・本当にやっと時間がまた少し動いている気がします。
以前とは違う時間の進み方ではありそうですが、とりあえず動いているような気がします。
タグ:文明



  

2011年03月27日



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関東や東北では子どもたちの不満が高まっているんだろうなと思っていました。
すなわち、多くの地域で、

・家から出ないような感じの習慣
・節電や停電でほぼ営業が停止している娯楽施設


がおこっています。

そして、震災後しばらくは NHK教育を含む多くのチャンネルは非常時放送で、子ども番組もなかなか再開されませんでした。

情報から受ける精神的なダメージもあるだろうかと思っていました。

たとえば、今の多くの子どもたちにとっては、生まれた時からあり「日本にあって当たり前」だったディズニーランドも閉鎖され、少なくともかなり当分は開くことはない。動物園なども多くが休園しているというような「ダメージの多い情報」は多いです。私は遊園地が好きではないなので、ディズニーニーランドにも他の都内の遊園地にも行ったことはないですが、好きな子どもは多いと思います。

しかし、では、街の子どもたちの様子は暗いかと、それはまったくない。


震災の二日後だったか、私がホームセンターの様子を見るために歩いていた時に、交差点の信号のところで、自転車に乗った小学生の男の子三人が大声でこんなようなことを話していました。何か特定の商品を探しているようでした。


「サミットは全滅〜ッ。ガラクタばっかり」
「加藤たちは久我山のほう回ってみるって言ってた」
「どこで落ち合うか決めた?」
「西荻と青梅街道の交差点」
「今何時よ?」
「4時」
「ちー、あと1時間か。時間ない。じゃ、宮前のほうまわろーぜ」
「ひゃっほー!」



と叫びながら自転車で走り去りました。
嬉しそうでした。


この頃はまだ、とにかく騒然としていた頃で、大人たちで「ひゃっほー!」とか言っている人はいない頃でしたが、子どもたちは「生まれて初めて見るスーパーに何もない状態」に興奮していたらしく、とても高揚していた。

生まれて初めて見る様々な光景・・・。


もっとも、今回のことは、老人たちでも「初めての体験」。
しかし、うろたえる大人を尻目に子どもたちは強いというのが実感です。

そういえば、第二次大戦中の手記などを読んでも、戦争中でも娯楽を探し続ける少年少女の姿の記述を目にします。東海林さだおさんのエッセイの中に、戦闘機のガラスは「独特の匂いがした」ために、「においガラス」と呼んで、子どもたちは先を争って戦闘機の残骸をあさっていたというような記述があったと記憶しています。

子どもというのは、「そこがどんな地獄であろうと楽しくないとイヤだ」という面というか、そういう資質はありそうです。

なので、ディズニーランドがなくなり、節電や停電などで娯楽施設や、家でのゲームなども損なわれていき、これまでの物質的な楽しみがほとんど消えても、子どもたちは「絶対に」娯楽を見つけていくはずです。


昨日また井の頭公園にひとりで行ったのですが、若い人たちの表情から、私はそこに憑きものが落ちたような気配を感じていました。一応、今はまだ非常時なわけですが、力が抜けきった、非常にリラックスした人たちの姿がありました。

まあ、そういう人たちばかりが公園に来ていたということなんでしょうが。


ところで、井の頭公園は大変混み合っていましたが、地元の西荻窪の公園は、今日のような暖かい日中ならいつもは混み合う公園でも、どこもガラガラで、やはり基本的には外出は控えているという感じになっているようです。

「そんなの、もーいいや」という人たちの集団が昨日の井の頭公園にいた人たちなのかもしれません。

アベックたちが話している内容といえば、

鯉にエサをやっているふたりは、

「エサをね、こっちに投げようとしてフェイントかけて、逆のほうに投げたのよ。そうしたら、鯉がさ、先にそっち回ってんの。鯉ってさ・・・頭いいよね。」

とか話しており、その横のふたりは、

女 「ここの池にいる鳥ってアヒル?」
男 「アヒルじゃね?」
女 「飛ぶの? アヒルって」
男 「鳥だから飛ぶんじゃね?」
女 「ここであの鳥が飛んでんの見たことある?」
男 「あー・・・そういえば、ないなあ」


と真剣な顔で話しあっていたり、「脱力にも程があるだろ」というような人々が多かったのですが、それだけに私が安心できる場所になりつつあります。


ちなみに、ガイガーカウンター(放射能測定器)を持っている知人が言っておりましたが、東京都内の放射能値は、通常に比べると、数値的にはかなり高いです。これは厳然たる事実です。

でも、「じゃあこうしよう」という行動指針が存在しないのが今の私たち東京の人たちの毎日です。

何しろこれだけ広範囲の都市が「放射能に囲まれながら日常生活を送る」なんてのは、世界で初めてのことですしね。



見ていなかった自然の風景

今日は、子どもが「もう外に出たーい!」と言い始めたので、小一時間ほど奥さんと子どもと三人で散歩しました。

前述したように、公園にはあまり人はおらず、住宅街そのものにも人の姿があまりありません。


歩いている時に、わりと大きな敷地の家の門のところで、やや高齢の女性が、「じゃあ、ちょっと行ってきますね」と、外出するところで、その後ろに立っていた、多分ダンナさんと思われる高齢の男性が、

「放射能、気をつけて」

と声をかけているのを見て、私は自分の奥さんに苦笑気味にこう言いました。


「なんだか、モンティバイソンの世界だよなあ。まさか生きている間に、実際の生活の中で、『放射能に気をつけて』なんて声をかけながら生活することになるとはねえ。それに、言っていたあのオジイサンもわかっていると思うんだけど、『気をつけて』って言ってもどうにもならないことはみんな知ってんだよね。でも言う。風邪がはやっているから気をつけて、泥棒に気をつけて・・・。挨拶だよね。放射能という言葉が日本の挨拶に組み込まれた日だよなあ」。


ところで、そのオジイサンの姿を見たすぐ後に、住宅街の中に、ものすごく大きな木が立っているのが住宅の屋根越しに見えました。

私は指をさして、

「なんだあのでかい木は?」


すると、奥さんは、「何言ってんのよ。いつもここ来てるじゃない」と言いました。
木のところに行ってみると、そこは小さな公園で、その公園の面積よりも広いのではないかというくらいに上部で枝が周囲に大きく広がっているケヤキの木があるのでした。

奥さんによると、「ここは、この木を残すためにわざわざ公園にしたみたい」のことでしたが、しかし、住宅街の中にあるとは考えられない大きな木でした。


このあたりは私は今まで何年もの間、歩いていた場所です。


しかし、このでかい木を知らなかった。つまり、「認識していなかった」。

これは先日の記事の「黄色い付着物」と同様に、今まで「普通にそこにずっとあった光景」だったのに、私は「見て」いなかった。見ていると自分では思っているけど、実際には見ていないのと同じ。


最近書いているように、「宇宙や自然の法則はすでに死んでいて、人類の認識によって起動する」というようなことがあるのならば、私はこのケヤキの生と存在を「殺し続けていた」ということになり、何とも無念な気持ちになりました。


その後、善福寺公園というところを歩いたのですが、見れば自然の姿のなんということか! この「なんということか」というのは「美しくて」とか、そういう形容が入るものではないのですが、「なんということか!」と、見入っていました。


1998年のアメリカの戦争映画で「シンレッドライン」というのがあるのですが、アメリカの戦争大作ではベトナム戦争の映画などが多い中では珍しい太平洋戦争を題材にしたもので、ガダルカナルでの米軍と日本軍の戦いを描いています。

結構好きで何度か見ましたが、この中で、主人公が今日の私とほとんど同じ心境に陥るシーンがあります。YouTube を見てみたら、映画の予告の最初のシーンに入っていましたので貼っておきます。

この予告の最初の10秒くらいです。





日本人と戦う米軍の主人公がガダルカナルの自然の姿に「圧倒」され続けるシーンが映画の中で何度も描かれます。

上の動画には字幕等入っていないのですが、この森林のシーンでの主人公がつぶやくイメージ(台詞ではなく感じ)と、今日の善福寺公園で感じた心境とわりと似ている感じでした。


「好きな映画のワンシーンを体験できるとは」


とちょっとご満悦でした。


ところで、先日本棚を見ていましたら、大岡昇平の「野火」がありました。

奥さんのものだと思うのですが、この「野火」は中学だか高校だかの時に読んで、極めてショックを受けた小説で、震災後の In Deep での一連の記事を書いている時に、何度かこの小説のことを思い出していたのですが、私は大人になってからは「小説」というものをはほとんど読まなかった人で(ここ20年はほぼまったく読んでません)、「野火」も手元にはないと思っていて、わざわざ買い直すのもなあと思っていたところでした。それが奥さんの本棚から見つかったのでした。


「野火」は第二次大戦中に、フィリピンの戦場での殺人経験と人肉食いの光景(主人公は人肉を食べなかった)の中で発狂していく「私」の姿を描いた日本の戦争小説の代表作のひとつです。教科書などにも取り上げられていそうなものですが、後半は「あまりに狂った心象描写」が続くので、あるいは教科書にも載せづらいかもしれません。


後半の章である「狂人日記」や「人類」といった名前のつけられた章あたりからの展開は異常であり、若かった私にはむしろ「パンクな小説だねえ」とかっこよく思えたものでした。


たとえば、これは戦場でひとり戦場を彷徨う主人公が次第に「あらゆる草木が自分に語りかけてくることが始まる」シーンです。


(30章 「野のゆり」 より)

 万物が私を見ていた。

 草の間から一本の花が身をもたげた。直立した花梗の上に、硬く身をすぼめた花冠が、音楽のように、ゆるやかに開こうとしていた。その名も知らぬ熱帯の花は芍薬に似て、淡紅色の花弁の畳まれた奥は、色褪せ湿っていた。匂いはなかった。

「あたし、食べていいわよ」

と、突然その花がいった。私は飢えを意識した。その時、再び私の右手と左手が別々に動いた。

 手だけではなく、右半身と左半身の全体が、別もののように感じられた。飢えているのは、確かに私の右手を含む右半身であった。

 私の左半身は理解した。私はこれまで反省なく、草や木や動物を食べていたが、それ等は実は、死んだ人間よりも食べてはいけなかったのである。生きているからである。

 空からも花が降って来た。同じ形、同じ大きさの花が、後から後から、空の奥から湧くように夥しく現われて、光りながら落ちて来た。そして末は、その地上の一本の花に収斂された。

 その空間は広がって来た。花は燦々として私の上にも、落ちてきた。しかし私はそれが私の体に届かないのを知っていた。

 この垂れ下がった神の中に、私は含まれ得なかった。その巨大な体躯を大地の間で、私の体は軋んだ。

 私は祈ろうとしたが、祈りは口を突いて出なかった。私の体が二つの半身に別れていたからである。

 私の身が変わらなければならなかった。




その後、主人公の体は、「生命などの有機物を食べる」ということに対して、「右半身」と「左半身」がバラバラとなっていき、狂人と化したまま、捕虜となり、日本へ帰還した後もそれは続くというようなことになります。


興味深いのは、今から 70年前に書かれた小説に「右脳と左脳」という概念とほぼ同じような概念が描かれていることです。小説では、主人公は、「右脳と左脳の整合性が崩れることによって」発狂しました。


ヤスの備忘録のこちらの記事にコルマン博士の 2009年の論文の翻訳がありますが、コルマン博士は一貫して、新しい時代は右脳と左脳が統合することによって、人類に新しい価値観が生まれることを書いています。




大阪ショックを越えて

今はほぼ回復しましたが、「食べることの悩み」に関しては、ちょっと前に私も経験したことがあります。

それは、前回の記事でふれた、「大阪ショック」の翌日から肉が食べられなくなったのでした。あの記事を書いたのが、2009年の9月頃で、それから1年2カ月くらいの間、肉を噛むことができなくなったのでした。この心理的な経緯は複雑なのですが、まあ、起きた事実としては「肉が食べられなくなった」のでした。


これなんかは「右脳と左脳のバランスが崩れた」いい例でなのかもしれません。

そして、これは昨年の12月頃に、「ふと」回復しました。

回復したのは、「焼き鳥」のおかげでした。
行った飲み屋でメニューに「チレ」があり、「そういやチレ好きだったなあ」と注文してみたのです。

チレとは動物の脾臓です。そして、食べた時に、あまりのおいしさに感動して「そういえば、昔はこうやって焼き鳥をおいしく食べていたんだ」と思い直したのでした。脾臓というのは不思議な触感で、「モチ」みたいな食感なんです。ネッチリとしている。他の内臓のどこにもない食感で、置いてある店は少ないかもしれないですが、昔はメニューにあれば、ほぼ注文していました。

「久しぶりに食べた脾臓」によって、肉をまた噛めるようになりました。

とはいえ、1年以上も肉を食べない生活が続くと、普通の生活では肉は基本的に食べないような感じにはなってしまいましたが、食べた時にはおいしく感じます。


いずれにしても、これから出現する未来が本当に「右脳と左脳が統合した世界」で、そして、もしかすると、それを開始するのが「日本」と「日本人」である可能性があるとするならば、なるほど、今日の森林の風景も理解できるかも、と思ったりしたのでした。

それは、今まで「左脳で見ていた風景を右脳でも見始めた」気がしたからです。




  

2011年03月26日



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震災から2週間経っていることを知り、少し動き始めた気もしていた自分の中の時間は実はほとんど動いていないことを知りました。

テレビも映像もすでに見ていない現在では、当初の「災害の映像から受けた圧倒」からは解放されているはずで、それでもなお時間が止まり続けている意味には別の意味が、あるいは新しい意味があるのかもしれません。


ところで、震災後、あまりにも思っただけのことをその場で書き殴っていて、ほとんどの流れが支離滅裂になっています。

この2週間の中で、おおまかには、

・生と死とは何か
・宇宙における人類の位置
・日本人の意味
・食べるという行為の意味
・女性性である地球(あるいは宇宙)の中の男性性システムの意味
・男性性の消滅と人類の進化



などのことを断片的に書いていて、それぞれが自分の頭の中では展開し続けていることでも、実際に書く作業の時間(物理的な時間)は限られているわけで、バラバラになったままです。

ある程度はそれぞれに整合性を持たせたい気もするのですが、しかし、考えてみれば、これらの結末は「多分、言葉にならないもの」であるようにも思えて、つまりは、現在のバラバラの断片のまま進んで、ある時、突然終わるというようなものなのかもしれません。

いずれにしても、「思いついたままに書く」という方向性は変わらない(変えることができない)気もしますので、この「無秩序な断片化」というものが肥大する可能性もあります。

いまだに混乱した気持ちの中にいる方も多いかもしれない中、このような混乱した内容になっていることは申し訳ない気もしますが、あるいは、この、止まった時間の中での混乱こそが現在の状況というか心境というか、それそのままなのかもしれません。

ただ、基本的には現在、気持ちは平穏であり、ある意味では前向きとも言えるかも知れません。



放射能の意味

これはずいぶんと前から感じていて、原発の放射能問題に展望が見えないうちは書いていいものかどうかわからなかったのですが、しかし、どうやら、いろいろな意味で、そう簡単に解決するようなことではないという「良いも悪いもわからない展望」が見えている(しばらくはどうにもならない)ようにも思いますので、書いてみたいと思います。

今、私のいる東京も含めて、日本のかなりの広範囲が放射能の影響下にあると思われますが、これもまた前述した「止まったままの時間」と関係しているように思います。


これまで、日本でも世界でも、どんな大きな自然災害が起きても、それが自分たちの生活環境に影響を及ぼさない場合、そのショックは続いても数日、そして、あとは時間と共に「忘れて」いくのが普通でした。今回の東北の地震は日本全土を「呆然」とさせるほどのショックに叩き込みましたが、しかし、たとえば、私のいる東京が「もし」放射能などの影響がまったくなかった場合、今のように「私たちの意識が被災地の方向に向けて、これだけ強く留まり続けていたかのだろうか」ということはあると思うのです。


以前の記事に書きましたが、東京の若い人たちは震災後、数日後にはもうデートや行楽を楽しみ始めており、精神的なサバイバルを始めていました。今では街の様子も比較的落ち着いていて、人々は元へと戻ろうとしています。

これらは、「日常へ戻ることにより正気を保とうする精神的な生存本能」だと私には感じられ、大きなショックの後には必要なことだと思います。


しかし・・・。

日常に戻ろうとする私たちの周囲に「厳然」と存在する「見えない」放射能。

これにより、私たちは日常を送りながらも「今回のことが起きた方向」への意識が途切れることはありません。言い換えれば、困った代償といはいえ、「私たちは被災者たちと放射能でつながっている」と言えそうな気さえするのです。


ともすれば、日々勝手だった私たちは、これほどのショックを伴う災害でも「忘れてしまったかもしれない」宿命にあった可能性さえあります。しかし、放射能はそれを許してくれません。今回の出来事を忘れることを許してはくれない


今の状態が何ヶ月、何年続くのかよくわからないけれど、次第に頭の中に、東北のあのあたりの一帯の地図というのか概念というのかが、完全に頭の中に焼き付けられ続けていくような気がします。


そして、もしかすると、いつか私たちは「新しい私たちの人生はこのあたりと共に始まった」と思うようになるのかもしれません。


tohoku-2011.gif


新しい日本の意識的な中心地となった日本の東北(最初、「聖地」という言い方で書きましたが、この宗教じみた言い方は合わないので、「意識的な中心地」ということでいいと思います。意味は聖地と同じです)。

このことには意外感もありましたが、しかし、実はよく考えると、私が一昨年あたりからずっと抜けきれないでいた「大阪ショック」の答えが、「東北の人たち。すなわち東北の日本人の人たち」の中に見出せたのかもしれないと思います。

この「大阪ショック」というのがどういうものかは説明しづらいので、当時の記事をリンクしておきます。この後、何週間にもわたり、私はこの「大阪ショック」の意味を自問し続けていたのです。当時は自分でも下らないと思っていましたが、今振り返ると、意味のあるショックだったと思います。


大阪人はいかにして最強の宇宙兵器を倒したのか (2009年10月11日)


このことと「東北の人々」との関連は書ける時があれば書きたいと思いますが、要するに、大阪人が「なすがままに状況を受け流す方法として」使った言葉である「かめへん」。しかし、東北人はその「かめへん」さえ言わなかった。つまり、「なすがまま」を無言のうちに行っていた人たちだった。最強の人類の中の最強の「無言」の強さをそこに見出したということです。

ちょっとわかりにくい展開ですみません。

いつか、もっとわかりやすく書きたいです。



この時をどう過ごす

先日、災害関係の方からメールをいただきました。
災害関係の方からというと、さぞや緊迫したものかと思ったのですが、そこにはこのようにありました。

お仕事がら「人より情報が飛び交い、危機(の状況)はわかるのですが、なんとも静かで落ち着く街を感じます」とあり、そして、


この 「なんだかわからないけどせっかくの世界」を1日でも長く静かに見ていたいです。

最後の最後にすべてがうまくいくとは思っていますが、もしうまくいかないのであれば、「最後の日」に聞こうと思う音楽だけがまだ選べていません。



これが正しいのかどうかではなく、私本人は納得して読ませていただきました。

この2週間で見てきた「これまで経験したことのない世界」。

それはこの2週間で変化しています。
最初はそれがどうなるのか見当もつかなかったけれど、「どうもすべてが悪いという」だけでは済まない現在の方向があるようにも思わないでもない。


ちなみに、私は私自身に対しては「最後の最後にうまくはいかないだろう」とは思っていますけれど、でも、「うまくいかないことが人生で悪いことだったかどうか」もまたわからないとも思っています。

「最後にうまくいかないだろう」という考え方はネガティブに響くかもしれないですが、しかし、逆に、「最後の前に人生の途中でいろんなことをやっておこう」という生きる気力にも繋がることで、「やることやったんなら、もう最後がダメだろうが、宇宙から消滅しようがしったこっちゃない」という考え方は幼い時からあったようにも思います。


・・・うまく言えていないかも。

そんなわけで、今日はこれから外出ですが、あとでまた書けるかもしれません。
際限のない「テーマのぶつ切れ」は続きそうですが、お許し下さい。


ところで、昨日の記事で、震災当日の3月11日に吹いた「氷のような風」のことに少しふれたのですが、メールをいくつかいただき、あの時のことを覚えてらっしゃる人の多さを知りました。


そして、気温は相変わらず上がりません。
今日の東京の寒さはまた格段で、これは震災の頃の3月初旬よりも寒い感じがしており、普通なら「東京の3月の後半2週間」となると、日々春を感じていくような感じがしますが、その気配はまったくありません。


この「寒い気温」も、震災の日から時間が止まっていることを実感させてくれます。

そして、この異常な寒さが、すべてが悪い方向だけに作用しているわけではないことは、誰も口にはしないですが、なんとなく多くの人たちがわかっていることのように思います。
タグ:聖地



  

2011年03月25日



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あるテーマで途中まで書いている時に、用事ができまして、いくら何でも中途半端なので、そちらのほうは後にします。
その「テーマ」には微生物のことにもふれ始めています。


昨日眠っている時だったか酔っている時だったか、「認識しての生命の再起動はいいけど、じゃあ、微生物とかどうする。天然痘とかペストなんかも、人間が感染して再起動させんのかよ」と寝ている時に自分で気付きました。


「あーあ、ついに微生物との最後の対決の時が来たか・・・」

ということを感じます。

以前のブログでは「微生物との対峙」というあたりで、混乱して終わっています。その頃、「人間と植物と微生物」という三者の関係を考えることがとても楽しかったのですが、震災以降は忘れていました。

しかし、人間がこの後の生活や人生を送る上で、あるいは社会システムや経済などの混乱があったとした場合、そこで「病気と医療」というのはかなり大きな問題となってくると思います。


微生物と人類は最終的にどのような関係でいるのが理想なのか。


そのことを書きたいと思いますが、今日は時間が足りませんでした。


phage-1.jpg

▲ 私の永遠のライバルである微生物。写真はバクテリオファージ


ところで、関係ない話ですが、気になったことがあったので書いておきます。

最近はテレビもつけず、インターネットでもニュースは Yahoo! のトップの見だしくらいしか見なく、基本的には情報を遮断している傾向にはあるのですが、いろいろと考えさせられる報道を見ました。


黄色い付着物

同様の報道は他にもたくさんあると思いますが、花粉による「黄色い雨」で気象庁に問い合わせ殺到という、つまり「黄色い物質が雨と共に大量に降ってきた」ことを「放射能じゃないか」と思っている人たちがいるという報道でした。

これの正体がなんであれ、東京に関しては、「この黄色いものは震災前の2月ころから継続的に降り続けて」います。つまり、少なくとも「震災後に始まった」ものではないです。

もし、これが放射能関係のものだったら、東京には震災前から放射性物質が降り続けていたことになります。

なにしろ毎日のように、私が廊下やベランダを拭き掃除していました。
ずっと、それが何だかわからず、今日の報道でスギの花粉だと知りました。


2月頃から、ベランダにたまに見たことのない鳥が柵にとまっていたので、「鳥のフンかな」とか思っていたのですが、「黄色い鳥のフンってのも変だな」とは思っていたので、スギの花粉と知り、今年の花粉の飛散量の多さを知りました。
花粉症の方は今年は花粉でも大変なんでしょうね。


これは都内の路上のありとあらやるところに付着していて、多くの人はそれまでの毎日の生活でこの黄色いのを見ていたはずなんで、やはり、これまでの都会での生活は忙しすぎたということなのかもしれません。

道路に付着した黄色いものを眺めて「なんだろうなあ」と考えられる時間というのは、確かにあまりとれないのかもしれないです。私は毎日眺めて「ここにも黄色いフンか」と悩んでおり、実は夢にまで見ていたのです(笑)。

それは、ベランダに鳩が3羽止まり、それらが黄色いフンをする夢でした。


まあ、これからはこういう「自然で起きるわりと退屈な日常の風景をちゃんと見る」ということは大事なようにも思います。


地震以来、気象的に変化したと個人的に感じられるのが、


・気温
・風
・雲の形


なんですが、気温に関しては、3月11日の最初の地震発生後、確か 30分後くらいに「突然気温が下がった瞬間」がありました。

その時、空が暗くなり、氷のように冷たい風が吹き始めました。

私は空を見上げて、「なんだこりゃ・・・」と声を出して言ったことを覚えてますので、感覚的な話ではないと思います。


しかし最近、それとは別に「街や人の全体の感覚的な様子が変わってきている」ことも感じます。


今なお被災されている方々が厳しい状態の中では、その様子が良くなっているとか悪くなっているとかは書けないですが、何かが変わったことは感じるような感じを日々受けます。


それが何かはわからないのですが、まあ・・・何だろう。


正直よくわからないのですが、仮に何もかもダメになったとしても、「今の時をたくさん見ておきたい」という欲求が今は強いです。


なんかぶつ切れになってしまいましたが、今から用事です。
ごめんなさい。




  

2011年03月24日



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昨日の記事の最後あたりに、

 > 海藻と納豆と梅干しあたりには何か役割がありそうな気がする。

というようなことを書いたのですが、いくつかメールをいただき、どうも、あながちそれも否定できない部分もあるような感じもしないではないというようなことも言えるのかもしれない(どっちだよ)ということを複数教えていただきました。

具体的な生理作用等を教えていただいた方もあったのですが、私が書いても仕組みを間違えるとご迷惑がかかるだけですので、概略だけでいえば、被曝というか、放射能に対して、

・納豆
・海藻
・天然塩


それと、味噌などの発酵食品などは良い、とする意見が昔から日本にはあるというようなことです。

上のどれもが現在、入手できにくくなっている地域も多いわけではありますが、仮に上のようなことがあるとすると、基本的には「昔ながらの普通の日本食の生活がいい」という感じにはなるのかもしれません。



放射能の歴史の中の日本と、その食文化

しかし、仮に本当にそういうようなことがあるとするのだと、どう書いていいのかよくわからないのですが、人類史上で最初に、そして今のところ唯一、核兵器による被害を受けた国である日本。そして、もしかすると、史上最悪の原発事故ともいえるのかもしれない渦中にある日本。

日本はそういう、放射能に関しての特殊な歴史に行き着いてしまった宿命の下に(現在)ある国民ではあるわけで、個々の理由はともかく「何度も放射能と対峙させられた国」として、世界でも希に見る国であることはある程度は事実のように思います。


そして、そこで何となく思うことは、そういう国で生まれた納豆だとか、あるいは日本人だけが消化酵素を持っている海藻(海藻を消化できる遺伝子を唯一持っている)だとか、あるいは他の国とは違った発展を見せた味噌や醤油の文化、そして、梅干しや塩辛の「異常にしょっぱい文化」という、食文化の流れに何となく感じるものはあるのですが、それが何かは今はよくわかりません。


今は違うでしょうが、北海道生まれの私が少年くらいの時(1970年代)は、朝ご飯は、ごはんとみそ汁と納豆と、そこに漬けものというのが普通で、シャケやニシンなどの焼き魚があることもありましたが(当時の塩鮭やニシンはものすごく塩辛かった)、要するに、食事、特に朝食というものは、

ごはん + 塩(漬けものなど) + 発酵食品(納豆やみそ汁など)

が基本で、これが毎日毎日、何百日、何千日と朝に繰り返されていたのが当時の食生活でした。

これはかなり貧しい家庭でも、ある程度は達成できた朝食だったと思います。うちは親は教師だったのに、理由はわからないですが、すげー貧乏でしたが、上の朝食には「貧乏感」というものがまったくありませんでした。というか、「当然であり必然」だった。

当時は案外、金持ちや貴族階級でも朝食は似たようなものだったんじゃないでしょうか。
そのくらい「日本人の朝食としての当然感覚」はあったものです。


あと、東北の方々もそうだと思うんですが、北海道は料理に塩の量が多いんです。
今はずいぶん変わりましたが、特に年寄りなんかは、いわゆる現在の健康的な基準となっている塩の量の数倍くらいはとっていたのではないでしょうか。
何もかも「しょっぱい」。

発酵食品は他の様々な国にありますが、日本では特に「塩っ辛いもの」の食文化が突出して多様化した感があります。



他で無価値とされた生命を「宝」にしてきた人たち

どの記事だったかわからないですが、「日本人は他の国の人々が食べ物とは認識しないものをコツコツと食べてていた」というようなことを書いたことがあります

また、変遷を信じてという記事の中で、


死んだ宇宙と死んだ生命の機械的で自動的な運営を、もう一度宇宙の中で「再起動」させるために人類が関わることができるチャンスに巡り会っている可能性



ということを書いたのですが、(本当にこの通りに「宇宙はすでに死んでいて、その運営が自動的なものに過ぎない」とした場合の話ですが)、海底に一見、無意味げに漂う海藻たちが、もし、どの人間からも注目の対象にも食べ物としても見られることがなければ、「海藻たちは宇宙の存在として永遠に死んでいた」ということになるのかもしれないです。


しかし、それを「おっ、この海のゴミみたいのって食えるじゃん」と認識して、実際に食べたりすることによって、海藻たちは「存在の再起動」を果たした。

それどころか、海藻はいつの間にか日本人の毎日の食事のローテーションに組まれていたりする。

わかめ、こんぶ、もずく、めかぶ、とろろこんぶ、と、いろんな名称でスーパーに並んで(それは決してマイナーな売り場面積ではないです)、お店で刺身、あるいは、海藻サラダなんてものを頼むと、何だか名前のわからない数々の色とりどりの海藻が魚の横に並び、それは全部食べられる。


そのうち、「海のゴミ」と呼ばれていたものが「海の宝石」とか呼ばれるようになっていく

kai-saw.jpg


その「見向かれないものの宝化」が完全な日常となったのが日本の日常食の風景だと思います。
ここ数十年は様々な食文化が入ってきましたが、それは「食文化が多彩になった」ことは意味しても、これまでの食文化の根底が揺らいだという意味でもない。

今回のような非常時などの時に「納豆がすぐ売り切れる状況」を見ても、どうにもそれら「本来の食べもの」への愛情というのか執着は強いように感じます。


今では、いろいろな日本料理が世界に紹介されていますが、実は、日本食文化の根幹ともいえる、これらの海藻や納豆や梅干しや塩辛や卵かけごはんなどというのは、今でも基本的には他の国の食文化には馴染まないものです。それは「茶碗を持って、ズズズと食べる」という食事の基本スタイルと相まって、どうにもならない面はあります。

多分、日本に来たことのない多くの外国人たちは、「日本にこういう料理がある」という概念すら想像できない食べ物と食文化がたくさんあります。先日書いた、「動物の内臓に個別の名前を与えて、ただ焼いて食べる」なんてのも(焼き鳥屋のモツ焼きなど)、想定外なのではないかと思います。


しかし、それらが本当の意味で私たちが毎日接してきた文化ではあるわけで、寿司だのスキヤキだのラーメンだの、海外に行く華やかな日本食文化は、それらの外壁の中にあるひとつで(それらはもちろん大事なものだけれど)「コア(中心)」ではない。なぜなら、「ハレとケ」という概念からだと、寿司やスキヤキは「ハレ」であり、毎日毎日食べるものでは(本来は)ないからです。



そして、「海」は特に、日本人の生活と共にいました。

前にも書かせていただきましたが、今回、もっとも甚大な被害に遭われた方の多くが、以下に書かせていただく「海の食べ物との奇跡的な共存」を日本でずっとおこなわれてきた方々です。




ロタ島で見た「ゴミの宝の山」

ずいぶん昔、ロタ島という海のきれいな島に行ったことがあります。
毎日、ロッジの近くの海岸でボーッと過ごしていたのですが、十数年前のロタ島には本当に人がおらず、広い海岸に観光客が数人いて、あとは遠浅の海と白い砂浜が広がっている。

しかし、どこまでも広がるその白い砂浜に、やはりどこまでも「何か黒いもの」が点々とあり、それは沖まで延々と続いている。


最初は「なんだ、あれは? ゴミ?」と思い、近づいてそれを拾うと、それはなんと「ナマコ」でした。私が毎日行っていたロタ島の海岸には、ものすごい量のナマコがいたのです。種類がわからないので、食べられるものかどうかはわからないのですが、見た目は日本で食べるナマコと同じ。


「これが食べられる種類なら宝の山だな・・・。こんなにたくさんのナマコを立って見渡せるという経験は人生でもうないだろうなあ」



と、思ったものでした。

生きているナマコはこんな感じです。

namako.jpg

日本以外の国の人たちで、この生きたナマコに「食としての宝」を感じる人は、そんなにはいないのではないでしょうか。

これを新鮮なうちに細かく切って(かたいので)、三杯酢などで食べるのが日本の食べ方(中国では干したものを煮ます)ですが、とりあえず、これらのナマコに対して、私は「宝だ」だと認識したわけで、「ロタ島のナマコの宇宙は」少し動いたかもしれません。


まあ、食べようとした場合、そのナマコは「死んじゃう」わけで、ナマコの生と死という問題はありますが、この「食べる」という行為全般への問題は、簡単に解決するようことではないと思っています。

最近、この問題は多少考えられるようになったとはいえ(人間の食べるという行為は宇宙と人間をつなぐ神聖な行為かもしれないという仮定)、「対象の生命を奪う」ということに対して、短絡的な結論は簡単には出なそうです。


まあ、それはともかく、たとえば、ウニなんかも今では高価なものですが、やはり海で見つけて、生きたウニを見つめて「宝よ」と思うのは日本人以外ではそんなにいないように思います。

uni.jpg


このウニの姿なんかを見ていると、普通は、「こら食えないわな」という判断が働くと思うのですが、日本人の祖先はどういうわけか、次から次へとこれらを「宝」にしていき、また、海だけではなく、山の非常に多くのものを「食べものと認識して、さらには、「これは宝だ」と、その出会いを喜びながら食べていた。(食べられるものだから仕方なく食べていたということではない、ということです)


「うひゃー、フキとワラビ発見!」と山の宝の発見にも喜んだ。


ノビルにワラビにゼンマイ、タラの芽、フキにセリにジュンサイ・・・ジュンサイ(苦笑)。

ジュンサイにまでいたると、池や沼からこれを抜粋してきて食べものと認識して食べたというのは苦笑にも値する驚異であって、こういうような「見る人から見ればゴミ」のような大地の植物を「宝」として扱って、そして食べた。

Junsai.jpg

▲ ジュンサイ収穫の風景。


キノコもいろいろと食べた。

マツタケみたく変な価値体系がついた食べものもありますが、でも、本当はみんな、マツタケなんかよりナメコとかシメジのほうが好きであって、「ズル、ズルルルルルル」とか音を立てて、ジュンサイやナメコを啜る・・・。


神秘学には「第8領域」という世界が存在するようで、クモやハエといったものがそれに該当して、それらは「次の宇宙からは消えてしまう」ものなのだそうです。

だから、「宇宙からの消滅」を恐れる人たちはそれらの存在を恐れるのだそうです。

キノコもその第8領域にいるのだそうです。
これらを恐れる人たちもいる。


「キノコに宇宙からの消滅に引きずられるかもしれない」と。


しかし、日本人たちは宇宙そのものをあまり怖がっていなかったせいか、食べる食べる。探せば、日本の山にも(本当は世界中の山にも)、キノコはいくらでもあって、食べる食べる。

キノコたちも嬉しかったと思うんですよ。

「消滅する運命を持ったものを嫌悪し、無視する」という恐怖の中にいたハエやクモやキノコたち。まあ、ハエやクモは食べませんが、キノコに関しては、これまで、おびただしい量が日本人の胃の中に入り、吸収されていったはずです。

しかも、「山の宝」と褒め讃えられながら


なので、日本人が次の宇宙から消滅しても、消滅した先の「別の宇宙」では、キノコたちと暮らせるので、食生活には何の問題もないように思います。


「行こうぜ、キノコ」


と言いたいですね。

(なんだか、もう自分でもよくわからない)



食べ物の話はキリがないのでいったんやめます。

しかし、日本において、どのように、そして「なぜ」このような特異な食文化への価値体系が発生したのかはわからないですが、この、他のどんな民族も食べ物としたなかったような食べ物を「宝」にして食べ続けたというのは、本当に驚くべきことで、このあたりの秘密がわかるだけで、「日本人の由来」についての多くが解ける気さえします。


今、日本からは多くの外国人が退避し続けており、「戦後もっとも日本人率の高い」状態に今の日本はなっていると考えられます。だからどうだという話ではないですが、東日本全域に漂う放射能の中で、今いろいろなことを考えたりしたいなとも逆に思うのです。



なお、昨日の水パニック話を書いた後に、いろいろな方からメールをいただき、いろいろと励ましや援助的な言葉をいただいて嬉しかったです(今のところは大丈夫です)。

相変わらず、ご返信がとんでもなく遅くなっていて。申し訳ありません。

タグ:ナマコ



  

2011年03月23日



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普段なら、春休みなど長い休みは、子どもは奥さんの実家に長く遊びに行くのですが、まあ、こんな状態ということと、実家も実家でいろいろあるらしく、今回の休みは子どもは自宅に。

奥さんの仕事も普通どおりということで、今までは子どもが幼稚園に行っている間にやっていたことも、なかなかできず、パソコンの前にいるのもブログの文章を書くときくらいです。


今日は午後に西友に行くと、店内が妙に殺気だっており、「ミネラルウォーターおひとり様○本まで」とあり、人が並んでいる。午前中も行ったのですが、その時は何でもなかったのですよ。

「あー、なんかあったか」

と、帰ってネットのニュースを見てみると、「浄水場から放射性物質 東京23区などで乳児の摂取自粛を要請」の報道。


ここ2日、東京では雨が降り、昨日の記事に載せたように、新宿などでもかなりの高濃度の放射能物質が測定されていました。

でも、実はミネラルウォーターそのものが震災後からずっと品不足で、今日の西友の「お一人様○本」というのも、500ミリリットルのもので、2リットルのものは最近は見ていませんでした。

そこに今回の報道が決定打となったようです。
もうしばらく手に入らない感じがします。

雨の天気予報は聞いていたので、ペットボトルやバケツなどに雨の前の水道水は貯めていたのですが、子どもの分だけなら、しばらくは大丈夫でしょうが、少なくとも私と奥さんは水道の水を飲んでいます。



穴の開いた家


ところで、最近気づいたのですが、うちの子どもは、

・私(父親だけ)といる時



・奥さん(母親)といる時

は、喋っている内容が基本的にかなり違うことに最近気付きました。


うちの子は、とにかく奥さん(お母さん)が大好きで、彼女といる時は、甘えたワガママな非常に普通の「甘えっ子」なのです。そういう意味では、母親といる時がいちばんかわいい。

夜中などはちょっと母親がトイレに立つと、目をさまして、「おかーしゃん、どこ?」と泣いたりするような子なんですが、しかし、母親がいない時に、私と二人きりになると、どうも妙な会話になっていくのです。

今日もふたりでいた時、地震で結構揺れたので(今日の午前は揺れっぱなしでした)、テレビを付けると、緊急地震速報が出ていて、その後、いろいろと地震のニュースが入りました。

それをふたりで見ているとき、彼は、



子ども 「おばあちゃんの家に行く時にさ、バスで青梅街道を曲がるじゃない。あそこの道の角にある穴の開いた家、おとーしゃん、知ってる?」

わたし 「つーか、青梅街道なんて通りの名前どうして知ってんの? おばあちゃんが教えてくれたの?」

子ども 「ううん。誰にも教えてもらってない。でさ、穴の開いた家ってさ、お腹にいる頃に地震で壊れた穴なんだよ」

わたし 「お腹の中? ○○○(子どもの名前)が?」

子ども 「ううん、おかーしゃんが」

わたし 「どうして、お母さんがお腹の中にいた時のことを知ってんの?」

子ども 「でも、そーなんだよ」




まだ話は続くのですが、道路などの名前や描写にしても、どうも妙。


今は母親が帰ってきていて、彼女に甘えて、テーブルから皿を落として怒られたりしていますが、私の時と母親の時は話している内容(というより、性格など)が全然違うようです。だから、もしかすると、奥さんはうちの子どもがいろいろと言っていることを知らないかもしれません。


その「青梅街道の交差点の角に穴の開いた家」があるのかどうか、明日にでも見に行ってみようと思いますが。このあたり、これまで何回か書いていたことに関連すると、話す相手が女性性とか母性とか、そういうものとも関係することなのかもしれないですが、よくわからないです。



納豆菌・マイフレンド

今日の午後は飲料水パニックでしたが、それとは関係のないこととして、ちょっと前から懸念していた現象が起きていて、ある程度は予測していたのですが、商品棚から消えるものの傾向に少し変化が出ていて、「それほど頻繁に商品の入れ替えがあるわけではない嗜好品」がかなり消えていました。

すなわち、お酒、お茶、コーヒーのたぐいが棚から消えてきているのでした。

ビールや発泡酒関係は一切ナシ。
お酒全体としても、かなり消えていました。

お茶関係はほんの僅か。
コーヒー、ココア、紅茶は全部売り切れ。


ちなみに、震災後に私がすぐ買ったのが、少しのお茶と「たくさんの焼酎」(笑)でした。

これらは、最初は全然見向きもされないものだったんですが、これらの嗜好品は地震がなくても、もともと存在が基本的に危うい感じはあって、さらに、コーヒーや紅茶などは産地に重大な問題が起き続けているので、こう一気に売れてしまっては、今後も厳しいように思います。


お腹が空くというのは確かに大変なことなんですが、お茶にしろ、お酒などにしろ、「気持ちを落ち着かせる」ためにはやはり欲しいもので、まあ、被災地の方はお茶を手には入れるどころではないかもしれないですが、空腹を凌げるとしたら、ぜひそれらが欲しいという部分はありました。


そして、それよりも個人的なダメージが強いのが、ずっと「納豆がない」のです。
震災後数日後からはスーパーでもコンビニでも棚にあるのを見たことがありません。


私は「大事な食べ物をひとつ挙げなさい」と言われたら、即座に「納豆」と答えられる人なので、これはキツかった。というか、今もキツいです。

何らかの理由での納豆の流通不足を懸念して(そもそも、日本のマメ類はほとんど輸入に頼っている)、少し冷凍などしてあるのですが、納豆を大量に保存しておくことなどできるわけもなく、茨城など今回の被害の大きな被災地の状況を見ても、なかなか今後も難しいようです。


なので、最近は「納豆がいつでも手に入った頃」を懐かしく思い出しています。

ただ、上にも書いた「納豆が枯渇した時」のために、自分でも納豆菌を以前購入して持っており、また、2年くらい前に何度か作ったこともあります。とはいえ、あれは結構大変な作業で、今はそういう時でもなく、だいいち、大豆自体もあんまりないですからね。


ところで、その2年前に納豆を作る中で知った「納豆菌の驚異」ということがあります。

その時始めて知ったのですが、「納豆菌」って何だか強いような印象がありますが、実は納豆菌というのは、その近辺にいるあらゆる菌に対して弱く、他の雑菌と一緒だとすべて絶滅してしまい、いくら納豆菌を植え付けても増加していくことはできず、つまり、「納豆にはならない」のです。

そんな「どんな細菌よりも弱い納豆菌の唯一の武器」、それは「 100度でも死なない体質」なのです。納豆を作る最大のボイントは「煮豆が 100度のうちに納豆菌を植え付ける」というところにあります。

100度の温度の下ではほとんどの細菌は生きられませんが、納豆菌は生きられる。温度のことを考えると、普通、生き物を生かしていくためには「ひたすら適温を保っていく」というようなことになりますが、納豆菌はそれでは死んでしまいます。他の細菌が生きている環境では納豆菌は死んでしまう。

納豆菌を生存させるためには「ひたすら加熱する」といい方向になるのです(納豆菌の限界温度は 120度)。

「それだけの武器」で納豆菌は生存してきました。

古来、まだ細菌学などがない頃、「納豆を発明した」行為はものすごいと思います。
「納豆を作った神様」を想像します。


この「周囲の死の中でこそ生きられる」という納豆菌の孤独感というか、反逆的な生き方が、結構気に入り、それまでも好きだった納豆がさらに好きになったことがあります。


そして、納豆はその外観も匂いも他の国の人々からはあまり好かれることもなく、「日本でしか生きられない」というあたりもまあまあ、好きです。

そして、ズルズルと音を立てて、糸を引きながら食べて、場合によっては「ズロロロロ」と音を立てて、しかも、茶碗を持って食べることが前提の食べものである納豆。箸でなければうまく食べられない食べもの。

西洋食事マナーのすべてに対しての反逆グループ(他にもたくさんありますが)の代表的な感じもあります。



・・・・・つーか、今は、納豆の思い出に耽っている場合じゃねーだろ! と思い直したので、ここまでにしておきます。

でも、日本に再建というようなことがあるのだとしたら、「納豆」も重要な役割を担いそうな気がする。
海藻と納豆と梅干しあたりには何か役割がありそうな気がする。




  

2011年03月22日



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昨日、近所にある小さな神社の前を通りかかったら、白いセーターを着た女性が、一心不乱に小さな祠にお祈りしており、その後、見ると、その神社に置いてある「あらゆるもの」に頭を下げ、両手を合わせてお祈りしていました。

「あらゆるもの」とは、すなわち、神社の狛犬や動物の石像、小さな灯籠のようなもの、とにかく、いろいろなものにお祈りしている。

どう見ても、自分にではなく、多分、震災で亡くなった方々へのお祈りをしているのだと思いました。

ちょっと胸を打たれて、ふだんはずさんな私のお祈りも、その時は少ししっかりとお祈りしました。しかし、死者の方々にお祈りする方法を知っているわけでもなく、むしろ、頭を空白にしてお祈りし続けました。


雨の中で

部屋のすき間風の対策などしつつも、私自身は相変わらず、雨だろうが何だろうが、街を歩き回っていて、あんまり意味ないんですが、まあ、すき間風対策は家族とかへの安心材料みたいなものではありそうで、実効的な役目があるのかどうかは不明です。

昨日は雨がひどく、傘が必要でしたが、今日は霧雨でした。

文部省が毎日発表している定時降下物のモニタリングによると、東京でも昨日あたりからはとんでもない量の放射能物質が検出されているみたいなので、一般論としては雨の中は外出されないほうがいいのかもしれません。

これが20日。こちらで赤く囲んだところが東京です。

cs-20.gif


こちらが21日。

cs-21.gif


かなり増えています。東京でも数十倍。場所によっては数百倍。

左が I-131というもので、右が Cs-137 というものらしいですが、具体的に何かは知らないです。なお、こちらのページで、放射能他の数値は毎日発表されています。

まあしかし、放射能はこれから何ヶ月くらい付き合うことになるかわからないわけで、用事もありましたので、街に出てみました。人通りは別に少ないわけでもなく普通通りで、また、霧雨なので、私と同じように傘をささずに歩いている人も多いです。

現在の状況は状況として、人々には日々の生活があります。
みんなそれぞれに事情もあるでしょうし。

スーツのセールスマンが全身覆うカッパを着て訪問するわけにもいかないし、道路工事の人々もこの程度の霧雨で工事をやめられるわけでもない。まして、多分、被災地では、水と食糧のためにどんな天候だろうが、歩いたり並んだりしなければならないわけで、しばらくはいろいろと諦めながら生活しなければならない面はありそうです。

奥さんとも、「東京でこの降下物の量だと、そのうち、このあたりでも土壌やら何やらに放射能の問題とか出るんだろうね」と話していました。



精神のサバイバルのためのファイリング

最近は情報サイトやブログはあまり見ておらず、ニュースも見だしを眺める程度で、あまり情報に接していません。

テレビは震災直後は見ていたのですが、1週間くらい前には見るのをやめて、最近は揺れた時だけ、震度と震源地の確認のために見ています。数日前より、NHK教育で朝の子ども番組が始まっていて、「おかあさんといっしょ」などは子どもと一緒に見ています。


先日の吉祥寺で見た、若い人たちの「無意識の精神的サバイバル」、つまり、日常へと自分たちを戻らせようとしている風景に感心して以来、私もできるだけ日常に戻ろうと思っています。

最近、街中で「頭がおかしくなった」感じの人をずいぶんと見ていて、突然変わった環境への思考のシフトがうまくいかないと、子ども以上に大人は、「自分の中でのシステムが完成してしまっていて、既存のシステムの崩壊に弱い」という面はあるような気がします。

また、システムの突然の崩壊には特に中年の男性は弱いようです。

ヤスの備忘録の2009年3月の記事に、ソビエト連邦の崩壊の場にいたデミトリ・オルドフという人のことについてふれられていて、こうあります。


・ソビエトの崩壊時でもっとも邪魔になったのは、社会的地位の高い50代の男性である。仕事を失い、高い社会的地位を追われた彼らは、自我を傷つけられ、国家がどうの、社会がどうの、システムがどうのと悪態をついて飲んだくれ、粗大ゴミ化する。まったく役に立たないどころか、生活をなんとか維持しようと頑張っている人々の足を引っ張る。こうした人々と関わりにならない方が無難である。

・反対に、新しい環境にもっともよく順応し、食糧生産などに労を惜しまないのが主婦を中心とした女性たちである。彼女らは、かつての社会的地位が高かろうが低かろうが、さっと作業着に着替え、労働に精を出す。



最近、街で見るおかしな人たちも中年男性たちです。

タイトルにした「コルゲンコーワおじさん」は今日見ました。

薬局のウインドウの前で、「コーッコッコッコッ! コルゲンコーワ! コーワ! コーワ! ココココココーッ!」と街中で叫び続けていました。たまに、「ビューンビューン」というような別の擬態語も入れていました。

私は「これはひどい」と苦笑して、その光景を見ていました。
そのおじさんの声は雨の中、どこまでも甲高く響き渡っていました。


それはともかく、私自身は「日常に戻る」という行為と共に、「自分の人生で好きだったものを振り返り、まとめる」という作業にも入っています。実はこの作業は震災の1カ月くらい前から始めていたことなのですが、音楽、映画、映像など、自分の人生に影響を与えたものや、好きだったものなどをリスト化、ファイル化などしています。

震災で中断しましたが、また始めたいと思っています。

私の趣味は一般社会に対してはほとんど無意味なものだと思いますが、 YouTube には音楽だけのチャンネルを持っていて、日本のこの30年くらいのマイノリティ音楽を紹介していました。2、3年くらいやっていたと思います。

今となっては、これもやっていてよかったと思います。

震災後にはアップロードする気もおきなく、「日本が大変な状態に陥ってしまい、このチャンネルも休止します。皆さんもお元気で」というような意味の英語のメッセージと共に、ラストアップロードをしたのですが、その後、あらゆる国の人たちから、メールやコメントをもらっています。

「あらゆる国の人」という意味は、つまり、英語のネイティブだと思われる人以外は、「みんな間違った英語でメッセージをくれる」からです。私もどうせ間違った英語で紹介していたので、それでいいのです。

こういうような感じです。

world-freiends.gif


私は英語ネイティブではないので、これらを少しも変だと思わず、ひたすらありがたかったです。

多分、それぞれの世の中で「誰とも趣味合わねー!」と煩悶として暮らしているであろう世界のお友達たちですが、まあ・・・この世に生まれ変わりというようなものがあるのなら、この人たちと同じ世界に生まれて、今度は会ってみたいですねえ。それはものすごくダメな世界でしょうけれど。



食べものへの崇拝の証し

先日の記事で、「人類は他の存在に尊敬されていて、それらを食べて宇宙とつながっている。だからこそ、食べものへ尊敬を忘れてはいけない」というようなことに気付いたのですが、私の家では、これまで、子どもに「ちゃん食べなさい」ということはあっても、「一粒残さず食べなさい」という言い方をしたことはなかったのです。

このことに反省して、やっときゃよかったなあと思いましたが、しかし、一方、「日本人の男性」というのは多分、そんなことを教わらなくともしている。

たとえば、牛丼屋や立ち食いそば屋のご飯メニューで、「ごはん粒を残す男など基本的にいない」のです。


あるいは、いっけん荒々しい作業員の男たちが外で弁当を食っている。

そして、食べた弁当の空き箱が大雑把に捨てられている。

ゴミの捨て方は無造作だけれど、しかし、「そこにはご飯粒など残っていない」のです。

日本人は「はし」などという、ごはん粒を一粒残さず食べるにはあまりにも適していない食事道具を使いながら、この世の男たちは実は、ごはん粒を残すということなど「彼らの世界観の中にない」ようなのです。


もちろん、日本人の男性全部ではないでしょうが、ほとんどの日本人男性がそうだと思います。
「日本人」と書きたいですが、女性は多少違うようにも感じないでもないです。

昔、アジアの国をよく旅行しましたが、他のアジアの国々では「ごはんは残すのが当たり前」であり、あるいは、「残すことが美徳」という国もありました。

多分、この日本人男性の「食べる個を特定する(名前付けする)、そして、残さない」ということ。

形式といえば形式ですが、この形式でかろうじて男性、男性性は宇宙との関係を断ち切られていない感じがします。


それにしても、この男性性とか女性性の話は、毎回バラバラに展開していて申し訳ありません。事前に書くことをもう少し整理しておくといいのですが、それをやると、今度は何も書けないのです。困ったものですが。

そんなわけで、マイペースにいきます。
タグ:お祈り



  


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昨日は、部屋の整理と共に、換気扇などを塞ぐなどの作業もしました。
前にこちらの記事も書きましたが、本州の東日本に位置する原発なら、福島でなくとも、どこの原発に事故が起きても、結局は偏西風で日本に戻ってきて、それは放射能が拡散するか減衰するまで何度も循環は続くのだと思います。

これはその時の記事に記した地図です。
毎日コースは違いますが、大まかでこのように偏西風は世界を回ります。




なので、偏西風上に住んでいる限り、ある程度の影響は仕方ないということにはなりそうです。
また、世界を巡る風の循環は偏西風だけではなく、海流とも似ていて、世界のいろいろな場所を巡るようです。

放射能そのものは、室内では影響はかなり弱くなりますが、まあ、隙間風があまり入らないようにするとか、不要な換気扇や郵便受けなどを封鎖するということも気休め程度にやるのもいいのかもしれません。


狂った話ですが、私自身は、昨年、核攻撃の場合のために部屋の隙間風対策は、それなりに行っていました。隣町の吉祥寺は核攻撃のターゲットとして選ばれやすいと考えていたからですが、核攻撃の場合は攻撃が確定してから、すき間を閉めても間に合わないので、先にやっていました。

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タグ:放射線 3.11