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2011年04月14日



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どんなに愛される資格があるのかを私たちは知らない



江戸時代の話ですが、1858年に、日英何とか条約のために来日していた英国の使節団の一員で、船艦の艦長だったオズボーンという人が、日本についてこう書いています。

この町でもっとも印象的なのは、男も女も子どもも、みんな幸せで満足そうに見えるということだった。


何だか当たり前のことのように見えるこの短い一文ですが、しかし、イギリス人の彼が「みんな幸せで満足そうに見える」と書いたということは、彼の国、あるいは彼が見てきた国では、少なくとも「みんなが」幸せそうに見えたわけではなかったということなのかもしれません。

今の日本がどうかというのはわかりませんし、当時の日本だっていろいろとあったとは思いますが、少なくとも当時の英国人には日本は「そう見えた」。

その後、彼は日本から英国にいる母親に手紙を書きますが、その内容は、

日本人は私がこれまで会った中で、もっとも好感のもてる国民です。どんな地位にいようととも、私は日本なら喜んで出かけたいと思っています。


というものでした。

こういう例は多く残されていて、たとえば、「逝きし世の面影」という著作にたくさん出ているようです。こちらに内容の紹介があります。



▲ 本自体は楽天にありました。


しかし、ここで勘違いしたくないのは、「だから日本は素晴らしい」という言葉が仮に私たちの口から出てしまうと、それで、もうダメだと思うのです。


江戸時代や明治自体などに来日した外国人の感嘆は、日本人が「これはすごいこと」だと気付かないで淡々と日常的にしていたことで、そして、そのすごさに気付いていなかった日本人がすごかった。気付いてしまった今は不幸とも言える気がします。今の時代は、「だから日本はすごい」と言わなければならなくなってしまった。

本来は「無言」に戻るべきなのでしょうが、この「不幸」の中、もう少し言葉にしてみます。


たとえば、日本では比較的昔から普通のことだと思えるような、

・道にゴミや糞尿がなく、きれいだ
・玄関前に花などが置いてある
・子どもと大人が一緒に遊んでいる


こういうことは当時の西洋では「発想もつかないこと」だったようです。

西洋では古くから「子どもは小さな大人であり、邪魔な存在」という意識がかなり長く続いており、今は違うでしょうが、「道ばたで子どもも大人も遊んでいる」という光景は夢の世界のように見えたのだそうです。まあ、今の日本は治安などの問題で、そういう光景は少なくなってしまいましたが(道ばたに子どもがいない)。

また、一般的に昔の西洋では、道に糞尿を捨てるのは特別なことではなく、「道は汚いところ」という意識がかなり一般的だったと記録されています。


以前、記事に書きましたが、今、日本はどちらかというと、ふたたび鎖国の時代に戻りつつあるかもしれないということがあり、さらには、「国際社会が日本のことを忘れ去ってくれるかもしれない」ということがあります。

これはリスクの大きさを承知で書けば、日本にとってひとつのチャンスだと私は考えています。もともとの日本にあった(そして本来は今でもある)「特別ではない普通の日常」を取り戻すことができるのかの瀬戸際に今の日本はいるように思います。




一蓮托生の宇宙

私は「人類と宇宙から独立した」ということを最近書いていて、以前、「宇宙も自然もすべてが人類を尊敬しているのかもしれない」と書いたのですが、昨晩、ふと考えがさらに進みました。


すなわち、宇宙とあらゆる自然は、ただ人類を尊敬しているのではなく、人類である私たち以上に、宇宙も自然も私たち人類(すなわち、自分たちを認識してくれているもの)を愛してくれているはずです。人類が消えると宇宙も消えるということがほぼ確実となっている以上、「宇宙の最後の存在意味は人類を存在させ続けること」だと思います。


つまり、宇宙も人類も、その他のすべても「何もかも常に一心同体」であり、そこに優劣はないのだと気付いたのです。


これは「人類は尊敬されている」という考えからさらに進化していると自分で思います。なぜなら、もともと私は「尊敬」という言葉が嫌いだからです。

若い頃から「尊敬している」という人はいませんでしたし、今もいません。
あるのは「好きな人」という区分だけで、それはたくさんいます。

このブログに何度もでてくる作家の埴谷雄高さん、パンスペルミア説の生物学者フレッド・ホイル博士、パチプロの田山幸憲さん、昭和天皇、あとは、米国の元プロレスラーのストーンコールド・スティーブ・オースティンといった人たち。

こういう人たちはみんな好きです。でも、尊敬ではない。

大体、埴谷雄高さんなんて何度も何度もここに小説の引用だとか出させてもらってますけど、「死霊」そのものは読んだことないですからね。「死霊」第一巻は持っているのですよ。でも、3ページくらいで挫折して、あとは「すてきな飾り物」となっています。

ただ、埴谷さんの対談はすべて読んでいて、小説の引用もそれらの対談集などに出てくる引用で理解したものです。「死霊」は私程度の頭の人では「漢字すら読めない」ほどの男性性小説で、おもしろいものではないです。

でも、埴谷さんはカッコイイ。素敵だ。
そういうことになると思います。


宇宙と人類が一蓮托生の関係にあることについては、観念的な問題だけではなく、「私たちを取り囲む微生物の働き」などでも多分わかることのように思っています。先日書いた空間をつないでいるものの正体という記事で、私にメールを下さった方の知人の方のお話を紹介したことがあります。
そこにあった、


 > この世界には微生物が隙間なく蔓延している


という一節。

これが宇宙全体を貫いているとすると、「宇宙は繋がっている」ということが物理的にも言えることになると思うのですが、しかし、ここには以前、「ペアである自分」というものを書く原動力ともなった「壁」があります。

それは、「光速の限界」という物理の問題です。

100億光年先の「微生物」と繋がるためには、光速で100億年かかってしまう。
しかも、宇宙はもっともっと果てしなく巨大に広がっている。


「全部の宇宙が一体」であるためには、この物理の法則を打破する必要があるわけで、だからこそ、「自分の中にある宇宙」を考えてみたくなったり、あるいは「今、私たちがいる場所(たとえば地球)が最も大事な場所だ」ということになるのだと思います。

光速で瞬時に移動できる範囲で物事を拡大解釈していけば、きっと何かがそこにあるような気がします。

そして、それはその時に個人個人考えられる範囲でいいのだと思います。

たとえば今なら「東北のことを考える」でもいいし、「日本と日本人を考えてみる」でもいいと思います。そこから考えが宇宙に繋がっていく日がくると思っています。



どんなに愛される資格があるのかを私たちは知らない

1860年に、通商条約の締結のために来日した当時のプロシアという国の使節団の人は、報告書に、日本人についてこう書いています。


「どうみても彼らは健康で幸福な民族であり、外国人などいなくてもよいのかもしれない」。



実際に、 100年前とかそれ以上前に、日本にやってきたほとんどの外国人の共通の意見が上の意見に集約されています。

とはいえ、その後の 100年で日本の状況はかなり変わってしまった。最近の日本と日本人が「どうみても健康で幸福な民族」かどうかは、かなり微妙で、それだけに今の時期は考えてみるいい機会なのではないかとも思います。


今日は最後に、1876年(明治9年)と1899年の二度日本に来日して、日本が大好きだったフランスの画家のレガメという人が書いた「日本素描紀行」という著作からの抜粋です。中略と抜粋なので、このように続いて書かれているわけではありません。

 私は、午後三時から始めた貧しい人々の住む地域の散策から戻って来た。

 魚屋や八百屋の店先は、夕食のため、たいへん賑わっている。この時刻の盛んな活気は、やがて人気のない街の静けさに移っていくのだろう。

 私は、深く感動して、頭をかしげて戻る。たった今見たすべてのことに、心の奥底まで動かされ、あの誠実な人たちと、手まねでしか話せなかったことが、たいへんもどかしい。

 勇気があって機嫌よくというのが、陽気で仕事熱心なこのすばらしい人々のモットーであるらしい。女性たちは慎ましく優しく、子供たちは楽しげで、皮肉のかげりのない健康な笑い声をあげ、必要なときには注意深い。すべての人が、日中は、家の中でと同じように通りでも生活をしている。

 彼らは、私がどんなに彼らが好きであるのか、おそらく知るまい。また、自分たちに、どんなに愛される資格があるのかも知らない。


guimet.jpg

▲ レガメの書いた当時の東京の風景。これは浅草の射的屋。





  


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さきほど書いた記事で「帯状疱疹で痛いので、ちょっと休みます」と書きましたけど、お酒を飲まずにベッドに入り目をつぶると、


ジンジンジン・・・・・。


「痛いっつーの!」

というわけで、お酒も禁じられているし、そもそも眠くならないということがあって、日記でも書こうと思いました。


痛み止めにボルタレンという薬を処方されてるんですが、じつは以前これで死ぬ目にあったことがあるので、ちょっと敬遠しています。これらの痛み止めは、非ステロイド系消炎鎮痛薬、別名NSAIDs (エヌセッド)と呼ばれているもので、ロキソニン、ボルタレン、ポンタールなど、非常に広範囲に処方されている一般的な消炎と痛み止めの薬なんですが、「一般的だから安全か」というと、そういうわけではないというのが現状なんです。

もちろん、一般論としては安全ということでいいのでしょうけれど、私、これで以前、胃に「4つの穴が同時に開いた」ことがあり、ちょっと前に記事に大出血の話を書いたんですが(生きている意味: DNA に蓄積されていく人類の体験)、それはこのボルタレンが原因だったんですよ。

胃に4つも同時に穴が開くと、それはそれはひどい出血で、体の血液の何分の1が流出したようで、その血が口からドバッとシャワーのように(苦笑)。何リットル出たのかわからないですが、その直接的原因が上の鎮痛剤でした。

これらの危険性は海外でも調べられていて、たとえば、ウィキペディアの非ステロイド性抗炎症薬というページには、

NSAIDsの胃腸障害作用は用量依存性であり、多くの場合致命的となる胃穿孔や、上部消化管出血を起こす。

おおむね NSAIDsを処方された患者の10〜20%に消化器症状が現れ、アメリカでは年間に10万人以上が入院し、1万6千500人が死亡している。



要するに、上の非ステロイド性抗炎症薬を処方された患者の1割から2割が、何らかの胃の不調を訴えて、アメリカでは、大体年間で1万人から2万人が死亡しているということです。


ピロリ菌という胃潰瘍や胃がんの原因となる胃の中の菌があるのですが、日本人の、特に四十代以上はこのピロリ菌の含有率が世界の中でもずば抜けて高く、上のアメリカの場合より問題が出る可能性は多いようにも思います。

しかし、じゃあ、なぜこれらが病院で多用されているかというと、「他にない」のです。痛みを止める薬となると、これらに勝るものはないと。

なのでまあ、これらは単なる風邪などでも処方されますので、処方された場合は、

・胃の調子はふだんから良いか、悪いか
・食後の服用を必ず守る。あるいは胃薬も同時に処方してもらう


といったことを気にしてもよく、もっと言えば、

・多少の痛みは我慢して、なるべく服用しない

というのも大事だと思います。


私も様々な「痛み」の疾患を経験してきており、痛みのつらさはそこそこわかります。なので、耐えられないほどの痛みを耐える必要はないと思いますが、「処方されたから漫然と飲む」のは、この系統の薬ばかりはやめたほうがいいです。

なお、処方された薬が非ステロイド性抗炎症薬かどうかは、非ステロイド性抗炎症薬(NSAIDs)一覧というページにすべて載っていますので、調べるといいと思います。

ちなみに、大体、下のようなものが一般的です。

病院で処方される主なNSAIDs

・アスピリン
・ロキソプロフェン(ロキソニンなど)
・ジクロフェナク(ボルタレンなど)
・インドメタシン(インダシンなど)
・メフェナム酸(ポンタールなど)
・スルピリン(メチロンなど)
・アセトアミノフェン


市販薬の主なNSAIDs

・アスピリン(バファリンAなど)
・イブプロフェン(イブなど)
・エテンザミド(ノーシン,新セデスなど)
・イソプロピルアンチピリン(セデス・ハイなど)
・アセトアミノフェン(タイレノール、小児用バファリンなど多くの市販薬)



これを見ておわかりだと思いますが、「痛み止めのほとんど」なんですよ。
だからまあ・・・難しい問題です。



当面の日本人が直面する主な問題はストレスとPTSD

そういや、さきほど、知り合いの女性で医療関係に勤めている人に言われたのですが、震災後、ストレス原因の病気で来院する患者さんが数が驚くほど多くなっているとのこと。

私の帯状疱疹も、基本的にはストレス原因とされている病気のひとつですが、自分では感じていないストレスが高まっていた、あるいは溜まったまま時間が過ぎていたということはあるのかもしれません。


考えてみれば、震災後の「時間感覚を失っていた」時の1週間前後に受けたストレスというのか、精神のアンバランスが心身に何らかの影響を与えないわけないですもんねえ。なにしろ、私はパニック障害や PTSD歴があることでもおわかりかと思いますが、基本的にストレスに大変弱いです。


しかし、大した被害もない東京に住む私がこういう一種のストレス障害に属するものが出てしまっているということは、被災地に近い方になればなるほど、この問題は今後大きくなると思います。

以前にも書いたことがあるような気がしますが、PTSD とストレス障害の問題が大きくなるのは、一般的には「事件直後」ではないのです。


たとえば、インフラや生活などが多少、元に戻り、不便ながらもやや平穏な日々が戻りつつある・・・という時がもっとも厳しいと私は考えます。

厄介な話なんですが、「心の余裕が出てきた時に、はじめてストレス障害のたぐいが頭をもたげてくる」ということがあるのです(もちろん、基本的にはストレス障害にならない人の方が多いです)。必死で対応している時は、心理的な葛藤が飛び出してくる余裕がないのですが、一息つける頃にむしろ問題となりやすいように感じます。


なので、被災地の方だけではなく、今しばらくの間、多くの日本人の心配のひとつは、放射能や余震といったもの以上に、「心の中」ということがとても大事になってくると思います。

震災直後から、「精神のサバイバル」のような書き方をしていたのは、やはり、なるべく、できる範囲で、精神的に現状復帰できる人はしてほしいと思います。被災地の方々はまだまだ難しいでしょうが、被災地の人ではない人でも、もし、今、極度の不安などに見舞われている人がいるなら、「震災があったことを忘れてしまう」くらいのつもりで、精神を戻すのもいいと思うほどです。

結果的に、被災地以外の周囲の人たちから精神的に立ち直ったほうが、何だかいろいろとうまく行くような気がするのです。

それには、たとえば、確かに今、新たな地震とか放射能とか、あるいは火山のこととかいろいろと不安はあるかもしれないですけれど、何度も何度も書いていますように、それらは予知できません。

なので、不安が先行していても仕方ないことで、そこそこの準備をしたあとは、それこそ笑っていたほうがいいように思います。

あるいはどうしても不安が払拭できないのなら、移動されてもいいでしょう。

「不安と不安の積み重ね」が人々の間に新たな不安の輪廻を呼ぶと、「本来存在しなかった不吉」が台頭してくるのが世の中ですので、それはあまり建設的ではないと思います。




不安の輪廻の例

以前、闇を覗き込む性質という記事を書いた時に、「不安の輪廻」ということを書いたのですが、その記事を書いた3月の終わり頃に、この現実を私はネットで見ています。

ブログには載せなかったのですが、ずいぶん日が経ったので、載せてみます。

ニュースサイトのロイターには、毎日、トップニュースのランキングというものが掲載されます。その日に最もアクセスがあった記事をベスト 20位まで載せています。たいていは、その日から前日くらいのニュースで占められます。

たとえば、今日(4月13日)のはこんな感じでした(関係ないですが、3位のメキシコのニュースの見だしすごいですね)。

4-13.gif



次に、これは先月の3月30日のロイターのトップニュースのランキングです。
ちょうど、東京あたりの飲料水から放射能が検出されたことが報道されていた頃です。


3-30.gif


1位のニュースが「中国のボトル入り飲料水、飲ませたニワトリが死亡」。飲料水問題に揺れるその時期としてはショッキングな見だしです。記事はこちらののもので、こういうような記事です。

中国の海南省で、ボトル入り飲料水の安全性に疑念を抱いた家族が中身をニワトリに飲ませたところ、そのニワトリが1分もたたずに死んでいたことが分かった。10日付の新京報が地元紙の報道を基に伝えた。


私は上のトップニュースを見た途端、「ああ、みんな闇ばかりを探している」という事実を知りました。

なぜ、このことだけで「みんなが闇ばかりを追いかけている」と言えるのか。

ランキングの下の日付を見ていただきたいのですが、他のニュースがほとんどその日か前日のニュースなのに対して、この「中国のボトル入り飲料水、飲ませたニワトリが死亡」の日付は 2007年 09月 10日とあります。

4年前のニュースなのです。

ロイターのランキング1位になるには、かなりのアクセスが必要で、多分、誰かがこのニュースを探し出して、いろいろな媒体に貼り付けて、多くの人がクリックしたか、あるいは意図的に集中的なアクセスをした可能性もありますが、どういう理由であれ、「ほとんど何の意味もない4年前の外国のニュースが1位になった」という事実は十分に残念な話で、飲料水パニックの中とはいえ何となく、冷静さの欠如はあったのかなあと思います。


しかし、ロイターはまだ日付があるからいいです。

日付、根拠などが何もないニュースたくさんあるわけで、そういう場合、非常にはっきりしているのは、

・不安な気持ちでニュースを探して、不安な記事にたどりつけばさらに不安になる

という事実のように思います。


ある程度の大人の人たちならば、今までの人生で自分の考え方や価値観といったものがある程度は確立されているでしょうし、非常時には、むしろその「自分」を基準にして考えることのほうが大事に思います。


もし、不安な気持ちが先行しそうな時は、「他は無視する。見ない。聞かない」という方法もあるようにも思います(今の私)。


これは単に心情的な、あるいは心理的な問題ではなく、「非常事態に冷静に行動するためには、普段以上に平静である必要がある」ということは言えるのです。不安だったり怖かったりしていてはダメなんですよ。

これは、かつて米軍の特殊部隊で要人暗殺の指導をしていた元軍人の人が書いていたエピソードがあって・・・まあ、話としては脱線しすぎるので、ふれないですが、憎しみとか不安などのネガティブな感情は、何をやるにしても、もっとも不要な要素だと書いています。




通常では人は希望のほうに向く

私は、最近は何だかよくわからないことばかり書き続けていますが、もともとは異常なほどの現実主義者です。

もともと、世の中は「現実と現実が連綿と続いて、次の現実を作り出している」とだけ思っているわけで、その上で、最近になって自分なりに分かってきた「人は未来を予知できない」とい概念があります。

しかし、そのおかげで、私たちは「現実の中に夢や希望を抱ける」わけで、ここで気付くのは、

・予知や予測が生み出すものは希望ではないほうが多い

ということのようにも感じています。

どういうことかというと、先が何もわからない場合、「その時の気分が普通」なら、多分、気持ちは「希望の方向」に向きます。


たとえば、何の予定もない旅行に行って、そこで素晴らしい光景と出会う。その中で思うことは、

(まだ何も起きてはいないけれど)「すてきな女性(男性)と知り合うかもしれない。それがなくとも、地元の人たちと楽しい交流が何かあるかも。美味しいものも食べられるかも。財布も拾っちゃったりして。そこに入ってた宝くじが一等だったりして。うっひゃっひゃ」

まあ、財布は届けたほうが良さそうですが、「何もなければ」大体こういうように、漠然と希望に気持ちが向くのが人間だと思います。


特に不安も怖れもないのに、

「ああ、この旅行中に、きっとオレは病気になり、留守中に会社は倒産し、白頭山と富士山が噴火して、小惑星も衝突して、その前にオレは電車にひかれてしまって、しかし、身元もわからず、地元の砂浜に埋められて、その骨も波で洗われて、オレの存在はこの世から消えてしまうのだ」


と考える人はあまりいないのでは。

しかし、この冗談のような心理に「根拠なく」なるとしたら、それは「不安」によるものだけのように思います。

「社会性のウツ」、あるいは「情報性のウツ状態」というような感じともいえるかもしないですが、今、現実に、上の「不安の例」のような考え方の繰り返しに陥っている人もいるのではないかと思うのです。

確かに、現実、自然現象にしろ、社会的にしろ、何があっても不思議ではないとは思います。しかし、それだけに「起きた現実に対処する」という方法のほうがいいかなと。

「起きたことに対処して前に進む」ということです。

私のように、すでにストレスで発病している弱々しい人もいるわけで、やっぱり人はそれほど強いものではないです。だからこそ、私のように弱い人は不安を排除して生きないと、災害や放射能の前に、自分の精神に殺されてしまうのですよ。



山本七平さんの「私の中の日本軍」という著作に、「第二次大戦中のフィリピンのジャングルにいた前線の兵士たちが最も欲していたもの」に関しての記述があり、もちろん次々と餓死していく中では、食べものが最も欲しいものであることは確かにしても、食べものというものは手に入らないもので、それは別として、兵士たちがとにかく日々望んでいたのがありました。

それは「笑い」だったと言います。

つらい状況の中で、夜、兵士たち同士で冗談を言って笑うことが、たった唯一の生きている意味だったといいます。だから、人を笑わせることのできる兵士の命はものすごく大事にされたといいます。

私たちは、当時の日本軍の兵士たちのように苦しくはないにしても、私もできるだけ最期まで笑っていたいとは思っています。稀代の殺人鬼ペーター・キュルテンは、ギロチンで首を切り落とされる瞬間にも愉快そうに笑っていたそうですし(それは意味が違うだろ)。


ただ、今は帯状疱疹が痛くて笑えねえです。



  

2011年04月13日



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数日前から、右の頭皮から右目の下あたりにかけて、皮膚の表面がかなり痛かったんですが、今朝になって目の上あたりに腫れが。

「ああ、これは・・・」と、なじみの病院に行ったら、帯状疱疹でした。

顔の目の上あたりから頬あたりまでを三叉神経というのですが、このあたりの神経に沿ってのものみたいです。
で、治療を始めると共に、まあ痛いのはともかく(私は意外と痛さには強いのです)、「お酒はしばらくダメ」とか言われて、そうなると、何かを書く気力も失せてしまい、前回くらいまでの続きの内容での更新は少し開くかもしれません。


ちなみに、昨日くらいに途中まで書いていたものがあって、それは仮題が「夢は未来を予測しない」というタイトルでした。それは途中までとなっていて、書き上げましたら、アップしたいと思います。

「夢は未来を予測しない」という響きは何だか本当に夢のない話っぽくて、そう思われるのもアレですので、途中まで書いたその文章の中に最初に「結論じみた」ことを書いていますので、その部分だけ抜粋しておきます。

「人類の宇宙の記憶からの決別」はあらゆる活動と現象に及び、夢も例外ではないのかもしれません。つまり、一般的に言われるように、夢は宇宙の記憶に触れるという現象「ではない」可能性があります。

夢も「宇宙の記憶とは関係のない人類の単独の現象」だという言い方にもなるかもしれません。

なので、夢は基本的に社会全体の未来を予知しないと思われます。

夢の正体は、その人の DNA が何十億年(期間は様々)の間に蓄積され、その本人の DNA の中に保存され続けてきた「その人(その人のもつ DNA )だけの過去のあらゆる歴史」に触れていることだと思われます。なので、その個人の宇宙の中の人生で経験した、あらゆることに毎晩ふれているといってもいいのかもしれないです。

たとえば、未来のような風景に見えても、それは過去なのだと思われます。

「過去の現実の経験の記憶の中を毎晩、旅している」というような感じでしょうか。


そして、夢を見る意味は、過去の自分を知ることでのキュア(治療)であると同時に、自分が経てきた何億年、何百億年のすべての人生の学習でもあり、それを見ることで、自分の人生に「自分の価値観」を反映させることができる。

地球の人類文化の中にあるあらゆる価値体系(嗜好、趣味、音楽、文学、芸術など様々なもの)は、夢と現実を DNA の中を相互に行き来する行為の中で確認されて、そして、現実の中で芸術や、あるいは「個性」として花開くということなのかもしれません。

つまり、夢での学習がないと、人類の文化はこれほど多様に展開しなかった可能性を感じます。





と、その途中までの文章に書かれてあります。

相変わらずわかりにくいし、このことをちゃんと説明できる続きが書けるかどうかわからないですが、「夢って何なのだろう」ということは十代の頃からずっと考え続けていたことでした。ある意味、何よりも長く考えていたことかもしれません。

その夢というものに対して、正しいとか正しくないという意味ではなく、自分なりに結論的なところに行き着き始めたのは良かったと思います。


ちなみに、今日行ったお医者さんは若い時からわりと長い付き合いなんですが、「帯状疱疹は疲労かストレスがキッカケのことが多いから、気付かないうちに疲れてるんじゃないの?」と言われました。

自分としては、ストレスとかは感じてないのですけど、ここで顔が痛み出したのも、なんかの意味があるのでしょうかね。
痛みが取れるくらいまで少し休みます。
タグ:帯状疱疹



  

2011年04月11日



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先日、近所のたまに行く飲み屋に行きましたら、常連のご老人(若い人が多いこの店では珍しい)が、「私の知り合いがね、予言で、今度○○が××だというんですが、オカさんはどう思われますか?」と言います。この方は80歳近い高齢ですが、誰にでも敬語で接する方なんですが、それはともかく、私は返答につまりました。

そして、うーむ・・・と私は唸りました。

あれだけの現実の災害を前にしても、まだ予言だなんだという人がいるかと。


私は震災後、記事でたまに人類のことについて激情に駆られるままに書きました。

ほとんど書き殴ったものとはいえ、ある程度は、自分の書いたことに同意できる部分はあります。基本的に最近、自分の中でも自分がバラバラなんで、全部同意できるわけではないですが、しかし、以前書いた「人類は未来を予知できないという他の生命にはない能力を獲得したことによって、宇宙史上で最大の進化をした」ということは、今でも全くその通りだと感心しています。


予言というのは「進化する前の人間の機能」の一部であって、現在の人類はそこから脱却することによって、現行の娯楽や楽しみや、あるいは文明に到達することができたと考えています(予言で「実現不可能」とわかってしまった研究をする人はいなくなるというような意味も含めて)。

もちろん、いろいろな人がいるわけで、今でもその昔の人類の特性を持っている人はいるでしょうし、「個性」はあると思います。手で色を見ることができる人とか、人には聞こえない音を聴くことができるとか。

しかし、それらは一般人である私たちの日常生活にはあまり関係のないことです。

そのことを考えているうちに、さらに「予言」ということにについて書きたくなりました。




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2011年04月08日



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さきほど(4月7日の午後11時30分)、多分ここ最近では最大の余震(マグニチュード 7.4)だと思われる地震がありました。

東京でも最近では最も大きな体感の揺れと長さで、「関東に来たのかな」と思い、テレビをつけると、緊急地震速報が報じる震源地は宮城沖で、「まだ東北にこんなでかいのが来るのか」と、やや絶望ぎみにテレビを眺めていました。東京でも揺れは1分近く続いて、地震速報では宮城の各地で震度6強などを観測していました。

最近、「時間がまた動き始めた」というようなことを書きましたが、それはそれとして本当ですが、「止まっていた時のこと」を忘れさせてくれるようなことも、まだまだあり得ないと思いました。


ちょうど、昨日、甚大な被害を受けられている気仙沼に住んでらっしゃる方からメールをいただいていました。その方も以前、私が住んでいる東京の中央線という沿線に住んでらしたということと、あと、私と同じように舞台関係のことをされていたそうです。

メールは気さくな感じで綴られているものの、気仙沼は現在でも、その惨状はものすごいもののようで、「吐き気」というような表現も入るほどのものでした。さきほどの余震の時にその気仙沼のことを思って、さすがに暗澹とした気分になりましたが、しかし、その方はメールで、たとえ今後、物質的に貧しくなったり、あるいはさらなる苦難があっても、「日本人として恥ずかしくない生き方をしていきたい」と書かれていました。


私も今回の震災での東北の方々の姿を見て、そして、その後の現地の支援を含めた様々なことをされている「個人」の方々の姿を見て、「日本人であるということに喜びを感じられる感覚」を取り戻しています。


これは「日本人の誇り」とか「日本人は偉い」とか、そういう面倒な話ではなく、「自分もこの東北の人たちと同じ日本人なんだ」という嬉しさかもしれません。

今まで、ともすれば「愛国的」などという言葉で語られてしまった「日本人であることを愛する」ということを、もっと自然に、ある意味では女性性的に、ポジティブに考えられるようになりました。


本来はこの「日本人であることを喜ぶ」ということに関しては、言葉で言うことではないことだと思っています。

でも、今は言葉で書いています。



神話が見せてくれた地震への最善の対処

ところで、今日の地震の時にテレビをつけた時、 NHK の仙台支局だと思うのですが、放送局内の様子が映されていたのですが、そこで見た人たちの行動。

多分、仙台も震度は6前後はあった中でしょう。


その中で、そのスタジオに映っている人たちがしていたこと・・・。

髪の長いスリムな女性はホワイトボードが倒れないように支えながら冷静に周囲や天井を見ている。

アナウンサーの方でしょうか、黒いスーツを着た女性スタッフは、揺れが収まった瞬間、動じることなく報道の準備を始める。他にも、落ちそうなパソコンを支えるスタッフ、そして、カメラを持ったカメラマンはその様子を揺れながら撮影している。

もはや、そこには「地震に対しての怖れ」など見えないのです。
起きる事象に対して、淡々と対処し、次に進む。

世界のどこを見回しても、震度6の地震の揺れの中でこれをできる人はいません。
本当にいません。

本来ならトラウマレベルのこの地震に対して、すでに「不要な恐怖心はない」とさえ映ります。

もちろん、余震とは言え、震災クラスのこの地震で、何らかの被害が出ているのは間違いないのでしょうが、「大きな地震では被害が出る」という不可抗力も含めた現実と、「それをむやみに怖れる」こととは大変に違いがあるように感じます。

このあたりにも「地球に生きる人類」が到達した究極の行動が見えてきます。



宇宙も神もすでに人類を脅せない

地震は古来から、「神の怒り」だの「大地の怒り」だの、いろいろと言われてきました。聖書にもコーランにも地震の記述は多数あり、他の様々な聖典でも、それをにおわせるようなニュアンスはさまざまに書かれているようです。

まあ、実際に地震が神の怒りでも大地の怒りでも、それはそれなら構わない。

勝手に怒りなさいといった感じですが、実際には地震は「現象」でしかないことは確かであって、いわゆる「地球は生きている」という概念や太陽などとの関連から考えると、単純な自然現象だと言ってしまうには抵抗があるにしても、それでもやはり「現象」という言い方としては間違っていないと思われます。


そして、原因がどうであれ、この「地震」というものに対しての人類の正しい態度としては、上の NHK 仙台局で映っていた人々の態度が 100パーセント正しいわけで、そして、多分、東北の多くの方のとられたであろう態度が 100パーセント正しいと思います。


それは「不安を先行させずに、起きたことに淡々と対処する」という現実的な態度です。


地震が起きて、「ああ、神様、助けてください」と、住民全員で輪になり手を繋ぎ、空と大地に祈りを捧げるというような人間の姿も、世界での歴史の上ではあったかもしれませんが、それは正しい行動とは思えません。

あるいは、ただ叫び嘆き悲しむだけの連続も正しくありません。

それでは、「次の地震に対処できない」からです。


仮に地震が神や大地の怒りであろうと、太陽と地球の間での磁場的な物理事象であろうと、地質学的な単純なイベントであろうと、理由は何であろうと、対処する行動のすべては、「上の東北の人たちの方法でOK」だと思います。


その理由は、「地震は現実の事象」だからです。
すべては現実。
なので、「対処の方法も現実以外は通用しない」はずです。



「起きていることに対処した後」は、「次の地震や災害への対処を始める」。

これは当たり前のことのように思えるかもしれないですが、こんな単純なことでさえ、今回の震災での東北の人たちの行動を見るまで、私は気付かなかったのですよ。

やはり、以前の私には「意味なく地震を怖れていた部分」があった。
そのままだと、次は東京だ、東海だ、西南海だと、「見えない神や大地」を怖れていたかもしれない
です。

しかし、そんな不安を持つことよりも、「淡々と対処して準備する」ということのほうが、どれだけ大事なことかと気付いたのです。

そして、当たり前ですが、「準備には恐怖心なんてまったく必要ない」ということも言えます。やや不謹慎ですが、「まだ」本格的な地震が来ていない私たちのような人たちは、ある意味では「準備を楽しむ」くらいのほうが効率的な準備が出来るようにさえ思います。


私は今回の NHK の放送局の人たち、特にまったく動じていないようにさえ見える女性たちの姿を見て何だか涙が出て来て、

「人がどんどん宇宙と並んでいく」

という感覚に陥りました。

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2011年04月06日



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私がいわゆる携帯電話というものを初めて持ったのは、多分、1998年くらいのことだったと思います。まだ PHS というものがあり、アステルという会社の PHS 携帯が自分で持った最初の携帯でした。そのアステルの PHS 携帯は今でもデザインが気に入っていて、本体は今でも持っており、子どものオモチャになっています。
こういう形のものでした。

AJ-25.jpg


これの何が気に入ったかというと、とにかく小さい、とにかく軽い。大きさも薄さも今の最も小さいタイプのものよりはるかに小さく、重さなどは比較にならないほど軽い携帯電話でした。

機能的には、電話の機能以外はほとんどありませんでした。メール機能も一応はありましたが、使用できるのは、「カタカナのみ」で、しかも、十文字だったか二十文字だったかの文字制限がありました。


キノウハドウモアリ

(昨日はどうもありがとうと書こうとして切れたところ。面倒くさいのでそのまま送ってました。笑)


こんなメール機能を使うわけもなく、携帯は「単に電話をするもの」でした。

私は今でも携帯のメール機能が苦手で、日常生活ではほとんど使いませんが、それよりも、私はふだん「物を持って外出することがほとんどない」ので小さいほうがありがたかったのです。持ち物というのはバックなどのことですが、持つことが基本的にありません。 100回外出するうちの 99回は手ぶらだと言っていいくらいなのですが、そういうこともあり、携帯も上着やジーンズのポケットに入れるので、大きいのは困るということもあります。

なので、小さい携帯は助かったのですが、この 1999年あたりというのは「携帯でのメールブーム」が一気に起きた頃で、次第に携帯のサイズは大きくなっていきました。


そして、数年前だったか、携帯のメーカーを換えた時には、「携帯にカメラ機能がつく」のが普通になっていることを知りました。

その携帯電話のサイズの大きいこと、そして、重さも重いこと。


携帯ショップで、「なんじゃ、こりゃあああああ!」と(心の中で)叫びながらも、ほとんど選択肢はない状態といってよく、結局、それからは「携帯にカメラがついている」ことは普通のこととなり、ついには動画撮影の機能まで普通に搭載されるようになった。

長い間、ひたすら「携帯にこんな機能全部いらねーよ」と思っていました。

そして、メーカーの価格競争や様々な価格設定により、若い人からお年寄りまでの非常に多くが携帯を持つようになり、そして、今現在では「ある程度の年齢のほとんどすべての日本人がカメラつきの携帯を持っている」のではないかというようなほど普及しました。

デジカメと違って、携帯はいつでも持ち歩くタイプの端末で、つまり、多くの、ごく普通の一般的な日本人の誰もがが「いつでもどこでも記録を残せる状態」という、歴史上でも稀に見る状態になっていました。


そして、そういう時に今回の震災が起こったのです。


震災後何日か経ち、携帯の基地局やインターネットが少しずつ復旧してくる中で、YouTube などにアップされ続ける「おびただしい災害の映像」。


ニュース通信社が写したものではなく、「被災者本人たちが撮影した災害の映像と画像」が何十も何百も何千も何万もインターネット上に次々とアップされる。


日本にいようが、外国にいようが、仮に震災のことを知らない人でも、 YouTube にアクセスした途端、目にせざるを得ない「信じられない自然災害の姿」。


人類の近代の歴史上でもっとも被害の大きな災害のひとつである今回の震災ですが、これはまた同時に「世界中の人が災害の現場を映像で共有した」という、歴史上、はじめて人類が体験した驚異的な出来事になったのです。


今でも、あまりニュースは見ないとはいえ、海外のニュースの見だし等を見ても、いまだに世界中で原発に対して、そして地震に対してのニュースが収まらず、むしろヒートアップしている原因のひとつが、「世界のあまりにも多くの人々が映像による決定的な同時体験をしてしまった」という、史上初めてのショックが発生したからです。


この「携帯のこと」については、震災後数日後に私は薄々とは感じていましたが、「映像の世界中の共有」は、何週間経っても、さらにどんどんとインターネット上で肥大し続けていき、それにつれて世界中のショックが拡大していく光景を見て、「携帯テクノロー児の意味」を私なりに確信したのです。

つまり、私があれだけ「携帯にカメラなんて無駄だろ!」と感じていたこと、すなわち、携帯端末の進歩と普及のうちの「映像と画像とメール機能」がどうして日本で突出して進んでいったのかがわかった気がしました。これは世界マーケットを考えると、あまり意味のないことで、そのせいで、今でも日本製の携帯端末は世界では売り上げ順位がとても低いです。


私たちの地球の歴史の中で、「必然性のない歴史は何もなかった」と考えると、全世界へ伝わった今回のショックと、日本人のカメラ付き携帯の普及率の異常ともいえる高さの関係はあると思います。

また、戦後の電気製品やカメラや映像テクノロジーの日本での特殊な発展の仕方にも敬服いたします。


以前、

日本人研究者が獲得した「暗闇での視覚」: 人類と光と植物 2011年02月28日

という記事で書かせていただきましたように、ここ数年の日本人の発見や研究は、いわゆる「覚醒レベル」の驚異的なものでした。

そこで挙げた3つのニュースはこれでした。

生命の起源が宇宙から飛来したことを裏付ける根拠を観測
国立天文台(日英豪米の共同研究グループ) 2010年04月06日発表

古代銀河ヒミコの発見
大内正己(米国カーネギー研究所) 2009年5月10日発表

植物や藻類の中で葉緑素が緑色になる反応のしくみを解明
栗栖源嗣(大阪大学・蛋白質研究所と名古屋大学・生命農学研究科などの共同研究) 2010年04月18日発表


金銭や名誉に絡みにくいので、報道は小さかったですが、何年後か何百年後かにはも必ず上の日本人研究者たちの発見は「これが世界の意識が変わるキーポイントのひとつだった」と言われることになると思います。


そして、「携帯にカメラ機能をつけ、そして、それが異常な率で日本人の間に普及した」ことも。


これまでの災害での「被害の多さ」、あるいは「人命被害の多さ」という意味では、過去にもっと悲惨な自然災害はたくさんありました。この10年だけでもかなりの数に上ります。昨年のハイチの地震も(日本の震災より規模が小さかったのにも関わらず)、現在までの死者は 31万人を数えています。


しかし、そういう「被害の大きさ」ともまた違う、それまでのどんな災害と違う「異常」が前述した日本にはすでに背景としてあったという点が他の様々な災害とは違う点だと思います。


「すでに日本人全員が歩くカメラだった」


という状況。

現状、人類は遠くのものを「見る」ことはできないし、現実的には「文字だけでの情報でのショック」には限界があります。
それだけに、視覚として瞬時に伝わる、「携帯とインターネット」の絡みという今の(じきに終わるのかもしれないけれど)文明を思います。

地上で起きるすべてのことを記録して、そして、「世界全体にすぐに広がる」。



テクノロジーの意味は、未来永劫に進化していくテクノロジーという意味とは別に、今回のように人々にショックと、そして覚醒を与えるために「その時代にだけ存在した」テクノロジーというものもあるのだと思います。

未来の生活には、こういうもの(携帯とかカメラとか、あるいはインターネットなどまでも)は多分不要になるかもしれないですけれど、「今は必要」だったと。

携帯カメラテクノロジーと、それを開発した方、そして、企業努力でそれを大勢に広めたくれた方々に感謝したいと思います。




超余談: 恋のフーガの英語バージョン

唐突なんですが、わたしは子どものころから「ザ・ピーナッツ」という存在に非常に不思議なものを感じていのだですが、そのザ・ピーナッツの1967年の大ヒット曲の「恋のフーガ」に英語バージョンがあったっていうのはご存じでした? 昨日初めて知ったんです。

この「恋のフーガ」は、小さな頃からものすごく好きな歌なんですが、昨晩、なんだかザ・ピーナッツの歌が聴きたくなって、 YouTube でいろいろと聴いていたら、「恋のフーガの英語版」というものが。字幕だけ入ってるんだよなと思って見てみたら、本当に英語で歌っとるがな・・・。




「マジかよ・・・」と思いましたが、何度聴いてもご本人たちとしか思えない声ですので、本物のようです。オリジナルの日本語版ほどの迫力はないにしても、この奇跡のハーモニーがたくさんの人々にも届くのはいいことですね。

ちなみに、映像そのものはこちらの日本語版のオリジナルプロモのものです。


ザ・ピーナッツというのは、子どもの頃から「不思議感」を強く感じさせた人で、その気持ちは今でもあまり変わりません。どんな不思議感かというと・・・難しいですが、「本当にこの世に存在している現実の人なんだろうか」というような感慨というのか、なんというか。

歌のうまさとかハーモニーとかは一種異常な領域に達していて、歌の訓練とかでどうにかなる世界ではないものだったと思います。

「宇宙人っていうのがいるとしたら、こういう人たちのことかもしれないね」などと、学校の友達と話していたことがあります。引退の時も、「帰るんだ、帰るんだ、きっと星に帰るんだ」と大騒ぎしていました(うるせー!)。


ちなみに、昨日は記事が開いてしまったのですが、忙しいというより、以前少し書いたかもしれないですが、「自分の過去に好きだった音楽や映像などをまとめたりしている」という一種の遺書的作業(苦笑)で時間をとられているということがあります。

いろいろと面白い話はたくさんあるのですが、おいおい書きたいと思います。
タグ:アステル



  

2011年04月04日



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私の生まれ故郷である北海道は、ここ何年もの間、観光客の主流は中国や韓国からの人たちが圧倒していて、観光での経済ではそれがほとんどを占めているといっても過言ではありませんでした。


そして、2008年に大々的な北海道ロケを敢行した中国映画「狙った恋の落とし方」(原題:非誠勿擾)が中国で記録的なヒットを作り出し、中国における北海道ブームは「頂点」に達しました。

北海道のどの観光地でも、飛び交う言葉の多くは中国語(と韓国語)となりました。
昨年、札幌の大通り公園に行った時には日本語は聞かれませんでした。

そして、「中国資本による土地や不動産の大々的な購入」が続いていました。
水産資源等も含まれていたと思われます。


現状では、多分、あと数年もすれば、政治的な動向なく(戦争も侵略もなくという意味)、「北海道は経済的には中国の土地」となっていたと思います。これは多くの人が薄々と感じてはいましたが、しかし、その中国のお金がなければ、すでに北海道はほぼやっていけない状態でした。そうしなければ、生きていけないほど北海道経済は追い詰められていたはずです。

あとは「実質的な占領の日を待つだけ」という段階になっていました。


そして、今回。

放射能によりほとんどの外国人観光客と土地購入者が北海道から消えました。
中国の人も韓国の人も消えました。
そして、多分、何年も誰も来ません。

経済的に著しい問題を残す可能性と共に、侵略にも近い土地の買い占めも止まりました。

これについて、どう感じるかは人それぞれでしょうので、いいとか悪いとかはわかりません。


まあ、最近では「社内の言語を英語にする会社」などの例もあるようで、土地や文化が海外に侵略されることに対して、今の日本の人々はあまり抵抗もないのかもしれないですが(自分の国で自分の国の言語の使用を禁止するのは占領下の国以外ではあまり聞いたことがない)、私個人としては、そういうことにはあまり好感の持てるものではないです。

これは「日本だから」というのではなく、他の国でも、その国が他の国から「文化的な侵略を受けている」ことを見るのは好きではありません。



タイの姿と重なって映っていた北海道の未来

私はタイという国が大好きで、ある意味でマイペンライ(いい加減)な性質であるタイ固有のタイ人が大好きですが、しかし、現在のタイという国では、この「もともとのタイ固有のタイ人」は完全に他の国の経済支配により制圧されている状態にあります。

タイでは政治や経済や芸能界までも実質的に牛耳っているのは「中華系」であり、もともとのオリジナルの民族である色の黒いタイ人たちは、多くが肉体労働的な仕事に携わっていることがほとんどです。


タイでの政治騒動だの王室騒動だの様々な「主流のニュース」は、「それは全部、中国人の話」であることは事実で、タイの人口の多くを占める本来のタイ人は、それらの話題の蚊帳の外でした。自分たちの国なのに。

タイ人たちはそのことを知っていますが、もはやどうにもならくなっています。一昨年の暴動も、形の上ではタクシン派がどうのこうのと言っていましたが、あれはあきらかに「タイ人の覚醒」でした。

自分たちの本来のタイを中国人からを取り戻したい」と。


暴動は失敗に終わり、今もまた中華支配はそのままです。

もちろん、仮にタイから中華系の人たちがいなくなれば、実質的に、タイの政治や経済は終わります。考えられないほど貧乏な国へとなっていくでしょう。

それもタイ人はわかっているはずです。
しかし、暴動は起きた。
お金より誇りを選びたい」という書き込みを当時の YouTube のコメントで見ました。


タイは歴史の表面上では「侵略されなかった唯一のアジアの国」となっていますが、現実には経済的にも文化的にも侵略されて、現在のタイがあります。

私はこの現在のタイと同じ姿を、未来の北海道に見ていました。

住んでいるのも仕事をしているのもすべて日本人で、人々は日本語を使っているけれど、実質的に経済を牛耳っているのは中国という図式です。

これは時間の問題だったと思います。


というより、今回のことがなければ、日本は地方により分断された形で、様々な国によっての経済的、文化的な占領下にあったようにも思います。日本の大都市の不動産や大企業の実質的所有の状況というようなものを見ると、それは何となくわかる気もします。


それも今回のことですべてなくなりました。


外国人はほとんど日本から消えました。
そして、これもやはり何年も続くことだと思います。


日本はかつて鎖国ということをやっていたことのある珍しい国です。
それが今回、また事実上始まっている感じがします。

ただし、当時と違うのは、「出て行くのも自由」ということです。

当時は外国人が入ってくるのがダメだったことと同時に、日本人が外国に出て行くこともできませんでした。

でも、今は違います。

出て行きたい場合は、いつでも外国に出て行くことができます。いいも悪いもなく、現実に放射能は日本の多くの地域を覆っているわけで、この状況の中で、日本を出て行く人が責められるということはないでしょう。


なので、「人種は関係なく、日本に残りたい人たちだけが残る鎖国」というような形になっていくように思います。


考えられないような圧倒的な歴史の転換点が、こういう形で来たというのは何とも言えない部分はありますが、しかし、上に書いたように、いろいろな流れが止まった、あるいは変わったことは事実です。

これは「夜の吉祥寺」を歩いてみてもわかりました。



夜の街からも消えた外国人たち

東京の吉祥寺は一見、おしゃれなイメージがあり、それは事実なのですが、夜になると、吉祥寺のある一帯は中国人アンダーグラウンド経済の支配下にありました。


具体的には、吉祥寺駅の北口を出てすぐ右に歩き、交差点を渡り、高架横の歩道を突き当たりまで歩くと、そこに南北に伸びる道があります。この道沿いでは、深夜12時頃を過ぎると、大勢の中国人女性たちが道に立ち、また、あまり知られていないですが、いくつかのマンションが風俗営業のために「建物ごと」買い占められています。

この状態は10年くらい前から徐々に始まり、警察などから黙認されているのか、今では大っぴらに数多くの女性などが道に立ち、道行く男性たちに声をかけていました。この道の存在を知らない人には非常に奇異な光景に見えると思います。


先日、震災後に何回か深夜そのあたりを歩きましたら、その人々は「全部」消えていました


どれだけ警察が浄化という名目で乗り出しても、決して消えることがなかった中国人の人たちは、地震と放射能で消えました。この10年間くらいで、深夜でそのあたりで中国人女性の姿を見なかったのは、多分、初めてだと思います。


また、以前の記事で、「吉祥寺から消えた外国人」のことを書いたのですが、実際に最も消えたのはアジアからの観光客でした。

とてもたくさんの台湾や韓国、中国の人々が吉祥寺の観光に来てくれていました。彼らはみんなビデオやカメラを持っているのですぐにわかります。しかし、その姿を震災後はまったく見ません。先日、ハイパーインフレーションのことについて、記事でふれたことがありますが、仮にそんなことが起きれば、観光客だけではなく、住んでいる残った外国人もいなくなると思われます。


街中を歩き回っているだけで、本当に変わってしまった日本の姿を目にします。
三分間の地震によって百年分の歴史がひっくり返ったかのようです。



もちろん、住んでいる私たちにしても、不安要因はいくらでもあります。
たとえば、実際には放射能より、「連動した次の地震」というものへの懸念が今は強いのではないでしょうか。これは多くの地震学者がその懸念を持っているけれど、言えないのが現状だと思います。そして、これは「正確な予想はできない」という厳然たる事実があります。


私たち「残る人々」は、これから何が起きても(自然でも経済でも)いいように、ある程度の実際の準備と、そして、「心の準備」というようなものは必要かと思います。


地球の長い午後は終わる

ちょっと暗い話になってしまったので、歌でも(歌かよ)。

私が18歳くらいの時に、はじめて見た東京のバンドで、女性バンドのはしりだった ZELDA (ゼルダ)というバンドの曲とその歌詞です。その時、彼女たちは北海道にツアーに来ており、美唄という小さな町でのライブを見に行きました。

彼女たちの歌です。
もう30年前の歌になるんですね。

音楽サイトに載せた歌詞が一部に好評でしたので、歌詞も載せておきます。
エスケープの意味は、ここでは「新しい世界への扉」のことを歌っているように思います。


ZELDA - エスケイプ(1982年)



教会の鐘が今 旅立ちを告げるよ
長すぎた戦いに 荒れ果てたこの星

廃墟の街をさまよう
うつろな瞳の兵士
地球の長い午後は終わる

絶望の海を越え 誕生のドアを開け
幻の星に向け 心はもう彼方へ

廃墟の街をさまよう
うつろな心の天使
地球の長い午後は終わる

愛を探してさまよう
明日を探してさすらう
地球の長い午後はおわる

暗い宇宙突き抜けて 子どもたちの方舟
暗黒を切り裂いて すべてを解き放つ

愛を探してさまよう
明日を探してさすらう
地球の長い午後は終わる






  

2011年04月03日



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先日飲みにいった際、以前から知り合いのお店の女の子に、「最近やっと笑えるようになってきた。○○さん(私)と会うまで笑ったことなかった」と言われて、やや複雑に思いつつも、逆に「でもこれで彼女の人生も始まるかも」と思いました。

これを言った女性の年齢は、まだ 21歳です。

初めて会ったのが2年くらい前ですから、彼女は「20年間笑ったことがなかった」と言っていたことになります。20年間のあいだ、記憶の中から笑顔が消えていた人生


私はこの十数年、かなり夜の街で飲み続けていたことがあり、いろいろな夜のお仕事の女性や女の子と会ってきました。

すごいのは、それだけいろいろな女の子と知り合ってきたわりには、「変な関係(性的なという意味)になったことがない」ということがあり、それだけにまあ、相手からすれば安心感はあるオヤジなのだと思いますが、いろんな女の子たちの話をきいたり、相談みたいなのを受けたりすることがあり、その中でいろんな人生を知ることができました。

私が人生の中で知り得た「他人の人生」という意味では、これほど勉強になることはなかったと思います。


ちなみに、とても素朴な質問なんですが、夜働いている女の子(特に接待業)の多くが、どうして夜働かなければならないかわかりますか? 給料だけなら普通のOLさんなどよりはるかに低い場合もある夜のお仕事をしなければならない理由。それを考えてみたことはあるでしょうか?


ここに「冷たい日本の社会システムの正体」といったものがあります。



枠からこぼれ落ちた人間は救済されない日本の国家システム


「日本の進学率」なんていう言葉があり、それはたとえば、義務教育就学率は100%、高校への進学率も97.5%になどというニュースにもあらわれているように、非常に「無自覚」に数字が使用されます。


上のような数字は本当なのかもしれないですが、しかし、「現実とはそぐわない数字」だということもまた事実です。

たとえば、夜働いている女の子たちにとても多い学歴のひとつが「高校中退」なんです。

この「高校中退者」の潜在数は男性も含めて、ものすごいものがあるはずなのですが、それについては公共では語られない。そして、彼ら彼女たちがどういう学歴を背負わされるかというと、「中卒」、つまり中学校卒業なんです。


中卒という学歴が就職という条件について、どれだけ不利なものかおわかりでしょうか。「私は好きな仕事に就きたいの」などという絵空事が通じる世界ではないんです。「高校中退」という、あまりにも多い現実が、ちゃんと表社会で語られてこなかったために、多くの人々が「社会で何もできない状態」に置かれることになっています。


高校中退にもいろいろな理由はあるにも関わらず、これを救済するシステムは基本的にありません。「大検」という非現実的な受験制度はありましたが(今は廃止されたらしい)、この「大検」も、それ自体は卒業資格でもなんでもなく、「大学を受ける権利を得た」というだけになる何の意味もない「冷たい制度」です。

そして、この「高校中退者」がどれだけ多いことかは、陽の当たらない多くの社会を知ると、いくらでも知ることが出来ます。


日本という国家・・・・・少なくとも多くの人々が完璧な社会システムや高学歴を持つ国だと考えているこの国には、


「ザルからこぼれ落ちたものを助けるシステムはない」


という冷たい現実があります。


しかし、この冷たい現実はあくまで「日本国家が冷たい」ということで、日本人も日本人システムも冷たいわけではないことも私は知っています。

夜の街だけではないですが、多くの「救済」はいわゆる立派な人々が誇りを持って歩いている世界ではなく、「その裏側にある世界」でおこなわれていて、そこにはダメな部分も非常に多いけれど、基本的には「日本国家が標榜している実態」よりは、はるかに暖かくて居心地のいい世界があります。そして、この「裏側にある世界」は、そこにいない人からは見えません


私は、他にも様々なアンダーグラウンドな生き方をしている人々を見てきましたが、立派な人々が眉をひそめるような仕事や生き方をしている人は、「国家に見捨てられた代わりにお互いに救済」していました。

戦後に始まった日本の制度は、「ザルからこぼれ落ちた人たちは日本人ではありません」という国家体制となりましたが、ザルからこぼれ落ちるたくさんの人々たちは、すでに国家から離れて、日本国の日本人ではなく、所属のない「単なる日本人」として生活していたように思います。

もちろん、そんなことを意識していたわけではなく、自然とそうなっていったということでしょうし、そして、私も今やっと、そのことに気付いたのです。



笑った年齢

話が飛びましたが、冒頭に出てきた21歳の女性は、2年前から知り合いだったとはいっても、せいぜい何ヶ月かに一度飲みに行く程度でしたが、たまに相談を受けたりといったことはあり、彼女のその(あまりにも)複雑な人生は知っていましたが、しかし、「笑えるようになった人生をスタートできたのなら、もう大丈夫だ」と私は思いました。


私はそのことを知っています。
実は、私自身が生まれた時から長い間、「まったく笑わない子ども」だったからです。

これは最初は写真で気付きました。

ずいぶん前ですが、帰省した時に、昔のアルバムがあって、それを見ていると、私の赤ちゃんの時の写真がたくさんあったのですが「笑っている写真が一枚もない」のです。

普通、親は赤ちゃんの笑った顔を写したいもので、それを狙ってシャッターを押し続けたのでしょうが、多分、ついに笑わなかったのでしょう。そして、生まれた時から赤ちゃん、1歳、2歳、3歳と進んでも、アルバムの中には私の笑顔の写真がひとつもありませんでした。

そして、4歳、5歳となると、その頃からは記憶もあります。写真でもその頃はまだ笑っていないですが、その頃は毎日、


「なんでぼくは生まれたんだろう」


とずっと考えていました。

5歳くらいの時にはそのことばかり考えていたように思います。

小児喘息で幼稚園にはほとんと行けず、「最初の集団生活である幼稚園」で集団生活を学習するキッカケを失っていたので、基本的にその後も、今でも、「集団行動ができない」という面はありますが、いずれにしても、長男で、当時は両親共に働いていたので、ほとんどひとりで過ごしていたましが、それだけに、考える時間はたくさんありました。

元気な時には、ひとりで外をずっと散歩していて(このあたりは今と同じですが)、近所の子どもが幼稚園や小学校から帰ってくる時間になると、テレビのある子の家に行って、みんなで見ていました。

まあ、喘息は別にして、日々そんなに不満はなかった気はするのですが、それでも、「なんで生まれたのだろう」というようなことと、「なにが楽しいんだろう」ということはわからないままで過ごしたように思います。


私が心の底から笑って生きるようになったのは、いつというハッキリとした年齢はわからないですが、結構大人になってからのことです。

この「生まれた時から笑わない性質」は、実はうちの子どもにも受け継がれていました。赤ちゃんの時から笑わず、以前書いたように発語も大変に遅く(ほぼ3歳まで発語がありませんでした)、ご存じの方はご存じかと思うのですが、これは一種のいろいろな意味での心配もあることでしたが、そのことについてはふれません。

そして、ある児童心理の専門家の医者がおっしゃっていた言葉が多分、うちの子にも、そして私の時にも当てはまっていたように思いますが、それは、

「まだ世の中に生まれたことを受け入れていない」

という言葉でした。

まあしかし、うちの子は3歳くらいには笑顔を獲得し、言葉は最初の発語から、わりとあっという間にほぼ正常の年齢の言語レベルに至りました。まあ、声を出す前からすべてジェスチャーで表現していたので、「言葉を出す出さない」は彼にとって、それほど大きな問題ではなかったのかもしれません。そして、非常によく笑う元気な子となりました。それがいちばん嬉しいことです。

たった3年間でこの世に生まれたことを受け入れた彼は大したものだと思います。私はものすごく時間がかかりましたから。一度笑ってからはずっと笑って生きていますが。




太陽活動と共に人生の大きな変化を経験していた

そういえば、この「自分が変わった年齢の節目」が、面白いように「太陽活動」とリンクしていることに以前気付きました。

太陽活動というのは、11年周期くらいで変動するものですが、その11年前後をひとつのサイクルとして、太陽黒点観測が始まった時から番号づけられていて、今は観測が始まってから 24回目の太陽活動(サイクル24)の渦中にあります。

そして、「太陽活動と社会的な人の心理状態が連動している」ことは 1920年代にロシアの科学者によって、はじめて突き止められており、その後も地球の人間の活動はほとんどそれに沿った動きを見せています。

これは、そのロシアの科学者がまとめたグラフです。

sun-human.gif


黒点活動の観測が始まった1749年から1922年までのグラフで、上の細い線と下の太い線との相関関係を示すグラフです。

何の相関関係のグラフかというと、

・下の太い線のほうが太陽の黒点数

・上の細い線のほうは世界で起きた軍事と政治暴動の数


となっています。

その連動は一目瞭然で、その後もほとんど同じです。

こちらに英語ですが、オリジナルの論文があります。


近代史の中の大きな出来事はそのほとんどが「太陽活動のピークの渦中」(2年から3年の間)に起きています。フランス革命もアヘン戦争も南北戦争も日清戦争も第二次世界大戦もソ連崩壊もアメリカ同時多発テロも、すべて太陽活動のピークに起きています。


今現在は 24回目の太陽活動(サイクル24)のピークの渦中にいます。
なので、社会的に大きな変動が起きることはほぼ間違いないと思うのですが(自然災害などとは関係なく、人の心理が動き出す)、それよりも私としては、世の中がどうなるかということ以上に、「私がどうなるか」に興味があります。

今まで太陽活動のピーク時には心理的なものを含めて大きな変化を経験しているからです。

この「黒点」と「太陽活動」というものを知ったのは2年くらい前なんですが、その時、その太陽活動ピークの時と「自分にものすごい変化が起きた時」と、すべて一致していることに気付いたのでした。


例えば、今回の震災で何かご自分の中で「変わった」と感じられている方は多いように思います。
むしろ、あれだけのことを経験して、何も変わらないのなら変にも思います。


これと同じくらいの衝撃的な変化が、過去の太陽活動のピーク時に、自分の人生で起きています。

私が生まれた 1963年以降の太陽活動は、まあ大体ですが、

第20太陽活動周期(1967年前後がピーク)
第21太陽活動周期(1978年前後がピーク)
第22太陽活動周期(1988年前後がピーク)
第23太陽活動周期(1999年前後がピーク)
第24太陽活動周期(2012年前後がピーク) 


となっていて、それぞれの時に「人生が一変するほど」の環境的、精神的、価値観的な変化を体験しています。

そして、今回の震災も同じように私に変化とショックを与えているとすると、これは人生で「5回目の変化」ということになり、自分にとっての「第5世界」が始まったのかもしれないなあと思います。


そして、これは、もしかすると、私が政治や経済のことなどには何の興味もなく、また、他の国の政治などにも何の興味もなかった 1990年代まで戻れるのかもしれないという可能性を感じます。

私は二十代の頃、年代にして、1980年代の終わりから1990年代の終わりくらいまでの間、テレビも見ない、新聞も読まない、雑誌も買わないという生活が普通でした。仕事はしていましたが、雑誌などのリライトやデザインがなどをやっていて、それは家でできるものでしたし、内容もご時世とはまったく関係のない浮き世じみたものでした。

インターネットは登場していませんでした。
その時の首相さえ知らない日々が自分にとっては普通でした。


結局、私も1番上に書いた例でいえば、「日本国家のシステムのザルから落ちてしまった人」だったために、その国家システムからは相手にされないことを知っていたので、「こちらも知らないでおこう」と。それは憎しみや否定とは全然違う「相互不干渉」ということで、なので、今でも政治や日本のシステムを冷たいとは思いますが、文句も恨みもまるでありません。多分、ブログにもそういうこと(日本の政治への文句など)を書いたことはないと思います。

「個人と国家はお互いに干渉しない領域だ」と本気で思っていました。


今は当時よりさらに強く思います。
早く「現在の政党も首相も知らないような生活」に戻りたいし、自分の国籍も忘れてしまいたいです。

国籍は関係なく、私は「ごはん粒を残さず食べる日本人」というだけで、まあ嬉しいのです。日本国が好きなのではなく、日本人であることが好きなのです。


もちろん、一般的にはこのような考えはされない方がいいと思います。
国家と決別して生きることは気楽ではあるけれど、大変な面もありますから。


ただ最近思うのは、以前からウェブボットに出ていた「飛び地の文明(中央集権的な政治と離れた生活システム)」という概念がありますが、これは案外、日本から始まるような気もしないでもないです。

現在の被災地の救済や、それを取り囲む状態の中にはすでに「日本国家」という概念は見えないように感じます。

そこには懸命に頑張ってらっしゃる多くの「個人」の方々の姿だけが印象に残ります。

前に書いたいわゆる「今回の神話」では、「世の中は人と人である」いう、実に単純な構造が社会のすべての始まりであることを示しているような気がします。



今しばらくのことについて

震災前まで、翻訳で記事を紹介させてもらったり、宇宙関係などの記事などいろいろと書くことができて、また同時に私もたくさんの知識を得ることができました。
いろいろな情報などを下さった方々にも本当に感謝しています。

そして、長い目で見ればわからないですが、今しばらくは、それまでのような記事のご紹介や翻訳はしないというか、できないようにも思います。

そもそも、最近また「英語がわからなく」なりました。
昨年突然のようにわかり始めた英語力も、また突然元に戻ったようです。
昨年たくさん単語を覚えたので、単語の羅列では読めそうですが、それ以上のことはもはやできそうにありません。


そんなわけで、今でもすでにそうですが、このブログは今後「情報サイトとしてはあまり役に立たないもの」になっていくと思います。

今でも、他の様々なサイトやブログでは多くの役立つ情報や見識があると思いますので、そのような良サイトや良ブログをご参照いただければと思います。
タグ:太陽黒点



  

2011年04月02日



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復興という概念につきものの懸念

ニュースで「復興」とか「財源」とかいうような文字を目にする度に、今回のすさまじい規模の破壊にあてるそれらの調達の方法の様々を考えると、どうしても「ハイパーインフレーション」(急速に物価が上昇していくこと)というような言葉が頭をよぎります。

確かに今後、いろいろな避けがたい困った状況というものは様々な分野で生まれやすい可能性というのはあるようで、それは仕方ないようにも思います。

そして、その「実際」を予測して対処するのは難しいようにも思います。なので、仮にハイパーインフレというようなものが発生した場合、どのような過程を経るのかを予測することはできないでしょうが、以前、 ハイパーインフレーションの2つの資料という記事を書いた時に、 2007年から始まったジンバブエでのハイパーインフレーションの様子が、マゾエというジュースの価格で示されています。

これは国家の発表ではなく、店頭での表示価格ですので、もっとも実際に近い価格を示しています。

その物価上昇をわかりやすく大体の日本円にして、半年ぐらいごとの値段の価格として掲載してみますと、こうなりました。


2006年 10月 130円
2007年 03月 2万円
2007年 10月 90万円
2008年 02月 1,900万円
2008年 04月 2億1,000万円
2008年 05月 4億2,000万円



1本100円くらいの値段だったジュース。それが1年半で店頭表示価格が 4億円を突破したというような感じかと思います。冗談みたいですが、これは現実ですし、最悪の形のハイパーインフレーションのひとつの形です。


mazoe-2.jpg

▲ そのマゾエというアフリカのジュース。ジンバブエでは最終的に価格は 400万倍に上昇。


しかも、これでハイパーインフレが止まったというわけではなく、この 2008年5月以降は、「ジンバブエドルでの販売は停止」され、米ドルだけでの販売となったので、事実上、「自国の通貨では買えなくなった」という感じでしょうか。

1946年にハンガリーで発生したハイパーインフレはこのジンバブエの時よりさらに悪いもので、物価上昇率が最高で 1京3,600兆パーセントに達したそうです。これは上のジンバブエのジュースの例でいうと、 130円のジュースが 9000兆円持っていっても買えないものになったということかもしれません。


それでも、その時に、それぞれの国で人々は生きていたわけで、今後、日本の紙幣価値というようなものが「仮に」なくなったとしても、あるいは、あらゆる金融資産的な価値が大きく変わったとしても、現実の準備というより、「心の準備」というのか、今、震災の後、やっと時間は動き出し始めた感じはするものの、現実的にこれから対峙する問題はものすごく大きいはずで、その激動の中で「精神的に正気を保ち続ける」ということは大事に思います。


ちなみに、福島にいる奥さんのお姉さんも、千葉にいる私の妹の家族の家も、どちらも比較的最近になってから買ったばかりの家で、そのあたりでも途方に暮れている面はあるようです。

そういういろんなことはあると思います。


そういうこと(先がまったくわからないこと)もあり、いろいろと急いで書いているというような部分はあるかもしれません。突然書けなくなる可能性はいつでもあります。


ここで書いていることは先に考えて書いているというわけではないし、毎日適当に思い浮かんでいるだけという部分もあるし、思いついた時には書きたいとは思いますが、いつまでこうやっていられるかどうか・・・。

正直よくわかんないですね。


まあ、それでもやっと自分の中の時間が少し動き始めて、また飲みに行ったりもすることもたまにできるようになっています。

先日、初めて入った飲み屋さんがあったのですが、そこのメニューに「ナマコ酢」があり、最近ではこれを置いてある店は少ないので、思わず注文したところ、うまいうまい。

久しぶりに食べたナマコはよく噛むと、ホヤを彷彿とさせる部分もあります。「同じ仲間なのかもしれないなあ」と、しみじみ思いました。今回、被害に遭われた宮城の三陸はホヤの主産地だったと記憶しています。
ホヤも日本人の食べものとしては語るところはたくさんあるものだと思っています。

ここから最近のテーマにうつります。




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2011年04月01日



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三週間

何日とか何週間とかいう感覚がようやく日常的に感じられるようになり、しかし、逆にそう考えると、今日が震災から3週間目というのは早いのか遅いのかがまるでわからなく、あの日は何だか遠い昔のような気もするし、あるいは現実のような気さえしなくなってくるような、いろいろとわからなくなってくる感じもします。

震災後の「時間が止まっていたあいだの時間の流れ」が、少なくとも私自身の中では人生では経験したことのない「異常な時の流れ」だったのだと感じます。


今日も用事も兼ねて、街を歩いていたのですが、1週間くらい前まではたくさんいたマスクをかけて歩く人の姿はめっきりと減って、若い人の多い吉祥寺ではさらに極端に少なくなります。今の時期はそもそも放射能より「花粉症」が問題の季節で、そういう意味では、例年よりもマスクの人が少ない気さえします。


しかし、放射能という問題ではなく、たとえば、ウイルスや様々な有害物質を本当に遮断しようとした場合、あの耳にかけるタイプのマスクでどれほど効果があるのかは疑問にも思わないでもないです。2年くらい前だったか、鳥インフルエンザのパンデミックを恐れて、CDC (アメリカ疾病予防管理センター)が推奨しているタイプのマスクを購入したことがあります。
これはその現物ではないですが、形としては大体こんな感じのものです。

mask.jpg

ひもは耳にかけるのではなく、頭から通して、首と頭で固定して、鼻のところに金具がついているのも特徴で、ここで鼻の形に合わせて密閉します。こういうタイプの遮断率は 95%〜 99.99%くらいまであるようですが、さらにマスクと皮膚の間をクリームなどですき間を埋めると密閉できます。


でまあ、こういう遮断率の高いタイプで完全に口と鼻を密閉すると、どうなるかというと、ただただ「苦しい」んですよ(苦笑)。部屋でじっとしているならともかく、街を歩いたり、あるいは何かするというのは大変で、結局今では、これらのマスクは薬箱の奥に眠っています。

まあ、結局は苦しいくらいでないと、大気中の有毒物質への対処のものとしては使い物にならないのかもしれません。


「息が苦しい」ということで、2つのことを思い出しました。

ひとつは、私は生まれてすぐに小児喘息になって、小学生になるまで続いたのですが、ぜんそくというのは、つまり「発作の時に息ができなくなる」と考えてもいいもので、それだけに「息が出来ない」というニュアンスは何だか切ないものがあります。

あともうひとつは、何年か前に、「息が止まった経験」をしていて、そのことを考えていましたら、「自分は、あるいは人間はどうして生きているのか」ということに対して、非常に素朴な結論・・・というか、考えに至りました
本当に素朴なものですが。



自分の行動を認識しながら死ぬ時に

あれは子どもが1歳になったばかりの頃だったと思いますので、5年くらい前だと思いますが、どういうものかというのはともかく、「突然の大量の出血」で、深夜に救急車で搬送されたことがあります。


救急車でただちに、新宿にある国際医療センターという緊急医療病院に搬送され、輸血、人工呼吸器の装着と共に、深夜から手術が開始されました。この国際医療センターは総理大臣だった橋本龍太郎さんが亡くなった病院だと思います。

意識は半分以上亡くなっていましたが、意識のある時には頭の中では通常とそれほど変わらない考え方をしていたと記憶しています。


どんどん意識は失われていくのですが、その過程で、「呼吸が止まる瞬間」というのを何度か経験しました。人工呼吸器をつけているので、実際には酸素の摂取は行われているのですが、「自力では息ができなくなる瞬間」があるのです。

息を吐いても吸うことができない、あるいはその逆かどちらかの状態になり、朦朧とはしつつも、「ああ、これが息が止まるって状態なんだ。へええ」と、初めて望む臨死体験みたいなものに、いろいろと考えながらいたのですが、少し意識が戻っては、また意識が飛ぶ。


その繰り返しの中で、たまに「あ、次に意識失った時に死ぬな、これは」と予測しているんですよ。


そして、「へえ、死ぬ時ってこんな感じなのかあ」と、やっぱり考えている。

巷で言われているような臨死体験の光景は見なかったですが、意識を失うと、毎回、緑色の草原をトロッコに乗って走っていました。意識が戻った瞬間、「また次の死に臨む」という繰り返しでした。結局、死ななかったんですが、生きるか死ぬかは五分五分くらいの確率だったようです。


手術は数時間くらいに及び、それから2日間の輸血と、1週間の入院をしました。

ちなみに、私は実は本格的な入院というのはそれが初めてのことでした。

国際医療センターには大きな入院病棟があり、おびただしい入院患者が入院しています。
当たり前なのですが、病気の人ばかりがいます。
「病と死」に覆われている場所。

少しその話を書きます。



死に囲まれて

手術の日の最初の一日くらいは緊急治療室みたいなところでひとりだったのですが、単なる大量出血ですので、「その時、死ななかったのなら、あとはもう大丈夫」ということで、すぐ6人部屋に移りました。少し日が経った頃から周囲の入院患者さんとも少し話をするようになりましたが、話すまではその人たちが何の病気かはわからないんですね。


隣のベッドの人は60代くらいに見える立派な感じの男性で、入れ替わり立ち替わり、部下らしい人が来ていたので、ある程度の何かの立場を持っている人のようでした。

その人は末期の膵臓ガンでした。
どのくらいの病状なのかはわからなかったんですが、

「あと1カ月くらいみたいでね」
「え?」
「もって1カ月くらいらしい」
「・・・・・」


その後どうなったかわからないですが、1カ月後くらいには亡くなっていたかもしれないというその人は、特にりきむでも絶望するふうでもなく、見舞いに来た客と淡々と話し、相撲などを見て過ごしていました。


私の向かいのベッドにいた人は、五十代くらいのとても話し好きで、爽やかな感じのする男性でした。ある朝、その人が服を着替えていました。

私 「退院されるんですか」
男性「ええ。・・・まあ、この繰り返しなんですよ」
私 「というと?」
男性「クローン病ってご存じですか?」
私 「クローン病・・・聞いたことはあるような気がしますが」
男性「そういう病気があるんですよ。若い時からなんです。だから、この十何年は入院と退院の繰り返しで」


その男性のベッドの横には段ボール箱が5、6個積まれていました。

私 「それはお持ち帰りになる私物ですか?」
男性「ああ、この箱ですか。これ全部、薬なんですよ」
私 「え?」
男性「もう普通の食事はほとんどできないんです。薬を食べて生きているようなもんで。困ったものです。ハハハ」
私 「・・・・・」


退院後にインターネットで調べて、クローン病というのが原因も治療法もない難病だということを知りました。彼は笑っていましたが、その生活の壮絶さを想像すると何とも考えるものがありました。ちなみに、その人には奥さんも子どもいて、仕事も自分で何か持っているそうです。

部屋の入り口に近いベッドで横になっている老人は、私が入院していた1週間の間、ついに一度も起き上がりませんでした。目を開けている姿も見たことがありません。寝ているというだけの状態。その老人のベッドの横にはいろいろな機械やら装置やらがついていて、デジタルの数字が常に何かの数値を表示し続けていました。

「何かの装置で生命を維持しているように見える人たち」は、他にもたくさんいるようで、「停電とかあったら、あれだよなあ・・・」と思いましたが、今回の地震の時にもこの時のことが思い浮かびました。


私なんぞは「搬送時にだけ死ぬか生きるか」だったですけど、助かった後は放っておけばそれでいいようなものでしたが、多くの入院患者は違いました。「その後が」死ぬか生きるかという人たちをたくさん見ました。


ところで、入院時に、看護婦さんともずいぶん話をしました。担当の女医さんともよく話たんですけど、救急医療をやっている病院のスタッフたちの毎日は本当に地獄のようです。特に看護婦さんたちは、給料的なことから考えると、あまりにも苛酷な勤務態勢で、医療システムというのも・・・なんだか根本的に何かこうおかしい。「こんなシステムがいつまでも続くわけないじゃん」と思いました。

ぼくとデートもできやしないですね、そんな出勤シフトじゃ」と、ひとりの看護婦さんに言ったら妙にウケたようで、深夜の病室でその看護婦さんはずっと笑っていました。まあ、それはまだ私が緊急治療室にいる時で、緊急治療室でくだらない冗談を看護婦さんに言う人はあんまりいないのかもしれません。私は意識が朦朧とした中でも冗談を結構言ってました(笑)。


横道に逸れた上に長くなりましたが、この「息が止まって死にそうになる瞬間」の体験と、「死に囲まれた日常」ということは、自分にとっては記憶に残るものとなっています。



経験の蓄積の中で

その後、普通の生活に戻ったわけですが、わりと頻繁に「あの時、どうして死ななかったのだろう」と考えることはありました。

まあ、自分の生死に意味を見出したいというのは誰にでもあることで、私も他の人の生や死なら大した考えなかったでしょうが、「生死が五分五分の確率」の中で、どうして死ななかったのかなあと。

その時ですでに 40歳を越えているわけで、人生的に考えれば、劇団のようなものを含めて、その時点ではもう「自分の人生でやることは終わっていた」と自分では考えていたわけで、そういう流れだと、死んでいて不思議ではなかったわけですが、そうではなかったことをよく疑問に思っていました。

子どもが生まれてはいたので、それに関しては生き残ったことは良かったかもしれないですが、それとはまた別の自分の人生の問題としてはどうなのだろうかと。


そして、最近(というか今日ですが)、ふと気付いたんですが、それは「その時の生と死自体に意味などなかったんだ」ということでした。「どうして死ななかったんだろう」という質問は存在せずに、あるのは単に、「死ななかった」という現実だけで、あの時に死ななかった場合と死んでいた場合の違いというのは、「その後の人生の経験があったかなかった」というだけだと。


私は最近、DNA が人類に科していることのひとつとしてあることが、「経験を蓄積していく」ことだと考えています。


「考えています」などと書くと、ずっとそういう考えを持っていたようですが、今日、吉祥寺を散歩していて気付いたんですよ(笑)

駅前の道で、(最近は頻繁にあることですが)ものすごい美しい女の子とすれ違った時に、


「今の人とすれ違うことはもうないかもしれないし、さっきの瞬間にさっきの人とすれ違ったという体験はさっき世界でオレひとりが体験しているわけなのだなあ」


と考えていると、つまり、今の体験そのものが「宇宙で(その瞬間としては)自分だけが持つ体験だった」ことに気付くわけです。

そうなると、「日常」というものは、世界中の人たちがこの「宇宙で唯一の体験」を繰り返しているわけで、そして、それは少なくとも、人たちの「意識」の中には残っていく。


さて、その「意識」というものはどこにあるのか


そういう様々なことの役割を持っているのは、一般的には「脳」だとされていますが、しかし、脳は「機能を持つ器官のひとつに過ぎない」と私は思っています。

人間のあるゆる臓器や器官は、様々な人種間であっても見分けがあまりつかないほど似通っている。なので、「脳」というものも基本的には、その機能にはそれほど差はないと思うのです。もちろん、「足が速い」とか「たくさん食べられる」というように、脳の働きに個性や特性はあるわけですが、少なくとも脳は個人の意識の格納場所ではない。

そのもっとも大きな理由は、「脳は人が死んだら腐敗してこの世から消滅してしまう」からです。

死んだら消滅する場所が人間の「意識」や「個性」の格納場所だとすると、あらゆる神秘やオカルトは否定されてしまう。たとえば、前世や無意識といったものまでもが否定されてしまいます。


しかし、人間には未来永劫に消滅も腐敗もしない機能がひとつだけあります。
それは DNA です。

多分、人間のほとんどの意識と個性と記憶と体験と感情はそこに収められて、そして、人の死後にそれは地球や宇宙に拡散していくと思います。それが、「宇宙の歴史を作る」という現象そのものであり、そこから考えると、人間の日々の生活は、それそのものが「宇宙の歴史を作ることに荷担している」ということになるようにも思います。



このことは以前から「そうじゃないかなあ」とは曖昧には思っていましたけど、今日確信したのです。それも、上の吉祥寺の美しい女性を見ることができたおかげでした。その美しい人は脚も綺麗で(いろいろ見てんのかよ)、それを目にして、「こういう記憶が永遠に残らないのはおかしい」と、つくづく思いまして、そして、この強い記憶が格納される場所は、「人間の生と共に消滅していく脳ではない」と私は強く思いました。


「あの美しい人の光景は DNA の中に永遠に刻まれて、そして、それは宇宙に永遠に残るのだ。うっひゃっひゃっ」


と考え、そして、それからクックックッと笑って歩いていました(あーあー・・・もうもう)。



DNA の残された領域は「個性として起動」する

ところで、この DNA には現在の医学や科学などでの、「ジャンク DNA 」というような概念があり、つまり、「DNA の大半(97%と言われている)はガラクタで、機能していない」と。

私は以前、記事で、「人類は宇宙の歴史の中でもっとも優れた生命として存在しているはずだ」というようなことを書いたのですが、その「優れた生命」が持つ DNA がほとんどゴミだ・・・ということはないと思っているばかりか、「人類の持つ機能や器官や構成物質に無駄なものはまったくない」と思っています。

これは、人類の機能が本来は「完璧なもの」という意味でもあります。


脳もほとんど使われていないとか、脾臓も盲腸も松果体も退化した器官だとか、あるいは今の宇宙理論では、宇宙の構成要素も97%近くわかっていない(暗黒物質)とされて、いろいろと分かっていないのが現状です。DNA の場合は 97%の機能について「機能がわからないからガラクタだろう」ということで、現在の学問は進んできたようです。


しかし、幸いなことに、何度かふれていますが、私たちは今、既成の学問の崩壊の入り口にいます。新しい学問が生まれるのかどうかはわからないですが、新しい学問が生まれなくても、古い学問システムの崩壊の中では、少なくとも自由に考えられる領域は増える。 DNA が 100%機能していたとしても、そのすべての機能を知ることなどできないでしょうし、知る必要もあるかどうかわかりませんが、「想像はできる」。


すべての人のすべての考えが真実でいいという時代なら、 DNA の機能も、「それは統一した機能ではないかもしれない」ということはあるわけで、あるいは、この 97%のわからない領域が「人の個性」と結びついている可能性だってあるかもしれません。

ひとりひとり機能が違うから、その個々の役割は永遠にわからないという可能性。あるいは、「そもそも DNA は統一した機能を持たない」という可能性。

または、これからその 97%の領域が起動する時代に入る(個性の時代)というようなことだってあるのかもしれない。


そんなわけで、少なくとも「私にとっての5年前の生と死の意味」。
それは生と死に意味があるのではなく、生きたことにより、体験は続き、それは日々、DNA に蓄積されている。


次に今度は本当に死ぬ時に、 DNA は次のいつかの時代へと伝承され、そして、記憶が次に繋がれていくと。
この「伝承方法」については、これまでの科学での発見で説明できるものですが、これら DNA のことはまた書いてみたいと思います。
まったく宇宙は現実的な存在だと思います。


さて、また、きれいな女性を見ましたら報告したいと思います(メインはそっちかよ)。