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2012年03月19日



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「宇宙は人間そのもの」という結論を夢想するとき



andromeda.jpg

▲ 作家の埴谷雄高さんが「自分のもうひとりの存在がいる」と考え続けたアンドロメダ銀河。




文字の中で続く永遠のサイクル

先日の「「人間は最初 宇宙線だった」:埴谷雄高さんの1994年の言葉」という記事の続きみたいなものですが、昨日、お酒を飲みながら、スエデンボルグの「宇宙間の諸地球」(1785年)をパラパラと2、3ページめくって読んでいましたら、埴谷雄高さんが自分の小説「死霊」の中に書いたくだりとほとんど同じ概念の思想が出ていることに気づきました。

それは、「時間と空間はコミュニケーションと関係しない」という概念です。

私はこのことについては、宇宙の問題を考えながら自分なりに考えていたことがありましたが、「光の速さ」という物理の法則の下では、「時間と距離」は関係してしまうという限界をいつも感じていました。


埴谷さんは小説『死霊』で「そういう時間や重力の括りがない世界」を描こうとするために、物理や天文学もずいぶんと学習していたようですが、それでも死ぬまでに合理的な解決は得られなかったように思います。

そこで、スエデンボルグの書いたひとつのフレーズが目に入り、「これはそういうことを書いているんだろうな」と思ったので、後のために書いておこうと思いました。スエデンボルグの書いたことが解決になっているという意味ではなく、彼が「書いていた」というとことは、「そのことを考えていた」ということではあり、多分、他の人たも含めた多くの人たちが、この「時間と重力」からの脱却というものを目指していたことがわかります。

まず、『死霊の世界』から埴谷さんの言葉を短く引用します。

質問者に小説「死霊」の主人公(三輪与志)について訊かれての中の言葉。

(ここから)



三輪与志の革命というのは、うーんと離れたところにあるんですよ。しかも、うーんと離れて、ある意味でいうと、何百億光年か離れていても一瞬のうちにやってくると。(中略)

思索、想像力は何ものよりも強い。普通は何十万光年、光も何十億光年かかるところから、思ったらすぐやってくる。現実を無視していると。非現実の世界が書かれているわけですよ。




(ここまで)

そして、NHK の番組でも最後のほうの埴谷さんの言葉となったのが下のくだり。

かつては YouTube 上にも番組の動画あったのですが、現在はなくなってしまいましたので、文字として起こしました。

(ここから)



「埴谷雄高独白 死霊の世界」第5回より
NHK ETV特集 1995年1月13日

アンドロメダはですね、(我々の銀河から) 150万光年と言われていたわけですけど、でも今はですね、まあ、天文学もインチキでね、だんだん数値も変わってきて、今では 210万光年ぐらいだといわれているわけです。

だいたい、銀河もアンドロメダも直径は 10万光年ということになっているんですよ。遠くから見ると双子星雲で、非常に遠くから見ると同じようなものが二つ並んでいるわけです。

僕の病気が治った時に表に出てみると、アンドロメダが見えるわけです。

そうするとですね、 昔はこれは 150万光年ということで、直径 10万光年ということだったんですけど、15回繰り返していけば向こうに到着するわけですよ。今は 21回ということになったわけだけれども、それでも 21回でも、地球と月よりもこっちのほうが近いんですよ。

地球と月は、地球の直径を30何回繰り返さないと、到達できない。

だから、地球と月よりもアンドロメダと銀河のほうが近い兄弟。

ということで、僕の兄弟はアンドロメダにいる。

「X(エックス)埴谷」というのがここにいて、僕が見ている時は向こうからも見ていると。僕が見ていると向こうからも同じように見ている。「宇宙の鏡」と同じで、僕が見ているということは、向こうからも見ているわけだ。

「あっ、あそこの向こうの兄弟、あいつが考えている、いつ会えるかな」というようなことですよ。




(ここまで)

これは上と下と共に共通するのは、「自分の描いている状況と物理の法則は矛盾するけれど、でも、その矛盾も含めて必ず正しいはずだ」という埴谷さんの意志が見てとれます。


私はかつてこの解決策として、「人間の中の宇宙」ということを In Deep などで書いていたのですが、最近の薔薇十字関係の記事、

神に怒りはないこと知る日々の中で

というようなものにもそれはあらわれているような感じもしますし、あるいは、先日、メールをくれた female日記 というブログを書いている方の「地球=太陽」という概念をさらに進めて、

地球 = 太陽 = 人間

ということにまで進んで考えていくと、実は、その後に、


人間 = 宇宙


という到達点にいくことがさほど無理なことでもないことが見えます。


そして、上の埴谷さんの「200万光年離れたもうひとりの自分とリアルタイムで交流する」という想いを遂げるには、それしか、もう選択肢はない気がするのです(物理の法則では 200万光年先にいる相手とのコミュニケーションは、どんな方法でも最短で 200万年かかる)。

つまり、

「人間は宇宙そのものである」

という結論を先にここに据えた上で、「それはどのように考えていけばいいのか」ということにしたいと思います。ダメだったら前言撤回ということで(苦笑)。


「結論先にあり」ですが、埴谷さんの願いはこれによってしか叶えられませんし、私の日々見る「ペアである自分」の解決策もこれしかないようです。


さて、そういう中の解決的な考えのひとつに、実証的ではないですが、スエデンボルグが『宇宙間の諸地球』の中で書いたことばがあります。

というか、私、今でもスエデンボルグの著作はこれしか持っていないし、これしか知らないのです(2年くらい前に、時間つぶしのために古本屋を眺めていた時にタイトルに惹かれて誰だか知らずに買いました)。

『宇宙間の諸地球』が書かれたのは 1758年のようですが、持っている本の奥付を見ると、日本で最初に発行されたのは、昭和33年(1958年)のことのようです。日本で出版されたのは、オリジナルが書かれてからちょうど 200年後のことだったようです。


はっきり言って、書かれてあることは難解で、あまりわからないのですが、多分、スエデンボルグはここで「宇宙の状態はひとりの人間の内部の状態と同一」と言いたいのだと感じます。なので、距離や重力は関係ない。というか、宇宙にはそれは存在しないと。

ここから抜粋します。

(ここから)



『宇宙間の諸地球』 星天の諸々の地球
イマヌエル・スエデンボルグ 1758年

自然界の空間と距離とは、引いては進行は、その起源と第一原因においては、内部の状態の変化であって、天使たちや霊たちにあっては、それはこの変化に応じて現れ、かくて彼らはこの変化により一つの所から他の所へと、また一つの地球から他の地球へと、実に宇宙の端にある地球へすらも明らかに移されることができることを知られよ。

人間もまたそのように、その身体は依然その同じ場所に止まりつつも、その霊は移されることができるのである。人間の霊はそのように移ることができることを感覚的な人間は理解することはできない。なぜなら、そのような人たちは空間と時間の中にいて、その運動をその空間と時間に従って測るからである。




(ここまで)


実はこの後のくだりで、スエデンボルグはとても興味深いことを書いています。

それはブルーノなども言う「たくさんの地球、たくさんの太陽」という概念のことで、そのこと自体は多くの人たちが言っていることなのですが、その言い回しが、お釈迦様(ブッダ)の言葉とほぼ同じだったのです。

スエデンボルグのそのくだりは、書き出すには長いですので、今度機会があれば書きますが、対応するお釈迦様の言葉というのは、何度か抜粋したことがあります。

下のくだりです。
フレッド・ホイル博士の著作「生命はどこからきたか」 第十五章の中に出てくるものです。

こちらの記事から転載します。

(ここから)



『生命はどこからきたか』
フレッド・ホイル 1995年

紀元前六世紀に、ブッダの世界観はすでにコペルニクス革命以後に入っていた。彼は宇宙が、各々がわれわれの惑星系と似た数十億の ”小さな宇宙” から成り立っていると記している。ブッダの対話形式になっている古い仏教の教典のなかに無限の宇宙について述べられている。

「無数の太陽、無数の月、・・・、無数のジャムブディパス、無数のアパラゴヤナス、無数のウッタラクラス、無数のブッダビデバス」

ジャムブディパスとは当時の北インドの人々が知る限りの人の住んでいる地域を表す単語である。この対話から、ブッダが生命と意識が宇宙の構造に全体として結びついていて別々にできないものと捉えていたことは充分に明らかである。




(ここまで)


この中の生命と意識が宇宙の構造に全体として結びついていてという部分。これは、上の埴谷さんの「X埴谷というのがアンドロメダにいて、僕が見ている時は向こうからも見ている」を実現できる道筋のひとつだと思います。

フレッド・ホイル博士はこういう信念で科学を進めたせいで、科学界から「焼かれ」ましたが、焼かれた「神々の死体」に感謝している私のような人はたくさんいます。



何だか長くなってしまいましたが、

「宇宙=人間」

という結論を夢想した日の記録でありました。





  

2012年03月17日



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honny-01.jpg

昨日の記事「今の太陽は自分自身も爆発を繰り返しながら何かと戦っている模様」では、最初は太陽の話を書いていたのですが、どんどんと逸脱していって、最終的には、作家の埴谷雄高さんの話へとなっていました。

あのあと何となく気になって 1995年に発行された『埴谷雄高 独白 死霊の世界』という本を適当にめくりながら読んでいたんですよ。その年に NHK 教育で5日間にわたり連続でテレビ放映された同名の番組を本にしたものです。

そうしたら、その中に「宇宙線」の話が出ていたんです。

埴谷さんがニュートリノが大好きだったのは知っているんですが、「宇宙線」という単語そのものが埴谷さんの口から出ていたというのは驚きでした。

しかも、「遺伝子には宇宙線時代もあったわけですよ」なんてことを言っている。

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テレビ番組のほうは知人にビデオで録画してもらったものを何度も見ていたのですが、その発言の記憶はなく、変だなあと思っていたんですが、本の前書きなどを読むと、「書籍のほうにはテレビで放映しなかった独白部分も収録」したのだそうです。そういや、本のほうはあんまり読んでいなかったので、それでこの 17年間気づかなかったのでした。

この本の元となったテレビ番組『埴谷雄高 独白 死霊の世界』は 1993年6月から1994年4月までの1年近くのあいだ、NHK のディレクターと取材スタッフが埴谷さんの家に赴いて撮影を続けた NHK 番組史上でも相当な執念と労力で作られた番組ですが、時代は今から20年前ですし、その頃に「宇宙線」と放映しても、見ている人にはよくわからなかったかもしれないですしね(科学番組ではなく、あくまで文学の番組だったということもありますし)。

私なんかに至っては「宇宙線」という言葉自体を知ったのが2年ほど前のことです。

そんなこともあり、埴谷さんが宇宙線について語っていた部分をメモも兼ねてその部分を抜粋しておきます。

ちなみに、ここには、「無機物から生命が発生して」という旧科学の発想がベースにありますが、これと進化論は、この世代の人として誰も逃れられなかったものなのかもしれません。また、ここで埴谷さんが言っている天文学は 1993年時点でのもので、現在では宇宙線もニュートリノも多少理論的に違うことになっているかもしれません。

han-nya.jpeg

▲ 埴谷雄高さん。多分 1993年頃のものだと思います。やっぱりトカイワインと一緒に写っている写真が埴谷さんらしいと思いましたので、これに。
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タグ:埴谷雄高



  

2012年03月14日



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今日は最初は、「1987年に発見された超新星と見られる天体がこの20年にわたって謎の変化を遂げている」というものを紹介するつもりでした。

これ自体もかなり興味深いものなのですが、その前に書いた前振りがものすごく長くなりまして、「超新星が宇宙に描き続ける奇妙なリング」は次の記事で本日中にアップします。

しかし、その様子はとにかく興味深いですので、記事の前ですが、超新星の様子を貼っておきます。 1994年から 2009年までの NASA のチャンドラー観測衛星の写真を連続で貼った動画にしてみました。1987A と名前がつけられている超新星のようです。

超新星 1987A の1994年から2009年までの変化(静止画の組み合わせ)



オリジナルの記事(英語)は、Astronomical Mystery: Tremendous Explosion And Appearance Of Odd Rings天体の謎: 巨大な爆発と奇妙な形のリング)にあります。

巨大な天体(超新星爆発を見せるものは一般的には超巨大です)で、これだけの大規模な変化が 20年程度で起きていることも驚きですが、その「形」がすごい。最後はリングの中にウルトラマンの顔みたいなのが浮き出ている感じ。


今回は別のことを書きます。
ここからです。
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2012年03月13日



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3月11日の夜中からなんだかとても調子が悪くなって、昨日はブログの更新をお休みしたんですが、今日もニュースを読むほど視力(視力というか視界がバラつく)が回復していないので、翻訳記事はご紹介できないです。

ただ、2、3、興味深いことがありましたので、メモとして記しておきたいと思います。
(私は文字を打つ時はあんまり何にも見ないんです←だから誤字が多くて)

11日の夜はいったん眠ったのですが、「眠っている間」から調子が悪く、夢の中でも倒れそうになっていて、目覚めると、1月に倒れた時のような感じで視界が流れて、物をちゃんと見られなかったり、体もフラついたりし始めたんですが、この症状の大部分がパニック障害によるものだとわかっているので、いろいろとなんとかやり過ごしておりました。

パニック障害の「体感の出方」というのは人によっていろいろですので、なんともいえないですが、神経的な病気ということで、「曖昧な症状の病気」と感じる方もあるかと思いますが、そうでもないです。漠然とした不調から始まっても、あっという間に、「立てない、見えない、聞こえない」というところにまで発展することも珍しくはないです。

視界がグニャグニャと曲がったりは結構ある症状かも(ムンクの『叫び』みたいな光景が実際に見える)。それで死ぬわけではないことは本人もわかっているのに、「どうにもならない」というのがつらいところなんですけどね。

簡単にいうと、「不安の輪廻」というのが病気の根幹で、その中で「不安が急速に肥大していく」という感じのものです。ちゃんとした統計はないと思いますが、感覚的には、日本でも数百万人は潜在的なその気質を持っている人がいると思われます。


まあ、それはともかく、そんなわけで、昨日はじっとしていました。



夜空で見た「並ぶ星」の意味

昨日は夕方頃に復活して、夜、買い物に近所まで赴いた帰り道、西の空に結構明るい星がほぼ平行に隣り合って並んで光っていました。かなり明るかったので、立ち止まって見ていました。

「あれはどの星なんだろうなあ」

と、相変わらず星の知識にとぼしい私はしばらく眺めて、「ま、いいや」と帰ったのですが、今朝のスペースウェザーを見ると、金星と木星だったようです。

スペースウェザーには下みたいなきれいな写真も掲載されていました。

venus-2012-03-12.jpg


そして、その時、「金星と木星が並んでいる光景というのは何かで見たなあ」・・・と思い起こしていましたら、それはエメラルド・タブレットに描かれていたものでした。

下は薔薇十字の秘密を表すメラルド・タブレットのマークです。
ちょっとこちらで彩色し直して明るい仕立てにしましたが、基本の色とデザインはそのままです。

emerald-ts.jpg


この図の上の右のほうに上下でならんでいるマークが金星と木星です。

e-v-j-01.jpg


ちなみに、上には太陽と月があり、左側にあるのは、火星と土星。

先日の「神に怒りはないこと知る日々の中で」という記事に載せましたそれらの関係は、「薔薇十字の秘密のシンボル」という中世の本の中では下のようになっています。




ここでも、木星と金星は並んでおり、それを表す数字は「金星 5」、「木星 6」となっていました。

上の図で気づいたのは、世界そのものや、あるいは「存在そのもの」といってもいいような「7」があてられているのは「月」なのですね。中心である太陽が「4」。


この「月」と「太陽」のふたつの関係は過去記事の「[地球の内なる太陽] Vol.3 - ヘルメスのエメラルド版(エメラルド・タブレット)」によれば、

2つの手の上に、7つの惑星が描かれている。

そこには、太陽と月が彼らの生命の物質を聖杯に注いでいる光景が描かれている。太陽と月は、このように逆の性質のものを結びつける。その聖杯は、両性具有を意味する水星で支えられている。

太陽と月が水星を用いて偉大な仕事を成し遂げる錬金術のシステムだ。


とあります。



「方丈記」での世捨て人に憧れる年頃となって

ちょっと前の記事に書いたんですが、「方丈記」を読む羽目になったんですね。
夢とかで言われて。

でも、古語とか古文なんてまったく読めないので、最初の、「ゆく河の流れは絶えずして・・・」くらいで終わりにしておこうと思ったんですが、今の時代は素晴らしいもので、様々な方がネット上に現代語訳にしてアップしてくださっているのでした。

どの訳も味わい深いですが、今回は「古典に親しむ 方丈記」というものを読ませていただきました。

結論でいうと、「方丈記」はいいものだと思いました。

最初の下りは上のサイトの方の訳ではこのような感じでした。


ゆく川の流れは絶えることがなく、しかもその水は前に見たもとの水ではない。淀みに浮かぶ泡は、一方で消えたかと思うと一方で浮かび出て、いつまでも同じ形でいる例はない。


これは、何となく言い換えれば、エメラルド・タブレットの内容とそんなに違わない「世の道理」というものを伝えているような感じを抱かせてくれます。

エメラルド・タブレットのニュートンの訳(1680年)の中には、こんな下りがあります。


唯一なるものの奇跡の実現にあたっては、下なるは上なるのごとし、上なるは下なるのごとし。
そして、万物は一者の適合により一者より来る。



あと、あまり関係ないですが、むかし住んでいたニシオギの飲み屋のアル中のオヤジは下のようなことを言っていたことがありました。


「まあね。なんでもね。巡りめぐってくるものだからね。エラいとかエラくないとかね、関係ないんだよ。結局はね、同じなんだよ」(本当に関係ないな)


まあ、ニシオギのオヤジはともかく、この「無常」、つまり、「常に同じ状態のものはない」という概念は、なんとなくとらえどころがないながらも、エメラルド・タブレットでは「それはたったひとつのものから来る」と言っています。

では、そのエメラルド・タブレットの語るところの、

 > 万物は一者の適合により一者より来る。

の「一者」とは何なのか。


聖書では、この世の始まりを「ことば」としていますが、では、「ことばが一者」なのか。それとも、「小林が一茶」なのか(わかりにくいダジャレはやめろ)。

しかし、エメラルド・タブレットにはそれを感じない。ただ、「薔薇十字のシンボルの秘密」のほうには繰り返し、「ことば」という意味のラテン語が出てきます。とはいえ、そこでは「言葉が一者」という感じはないのです。

(「薔薇十字のシンボルの秘密」では根幹を「カオス」に置いていると感じます)


ところがですね、「方丈記」の冒頭を読んで、私はふとその対処を知るわけです。

それは「知らず、生れ死ぬる人、何方より来たりて、何方へか去る」という一節で、私には、意味はおろか、読むこともできないのですが、この現代語訳を様々なサイトから構築いたしますと、このようなものです。


生まれた人はいったいどこから来て、
死ぬ人はいったいどこへ去っていくのだろう。
そんなことは私にはわからない。



これでいいんじゃん、と刮目しましたね。

「私にはわからない」

と堂々と言うだけでいいのだと。
そんなわけで、方丈記を読んでちょっと楽しくなった私でした。


ちなみに、方丈記自体には火災、飢饉、地震などの話が数多く載っており、内容的にはわりと厳しいものです。

方丈記に出ている地震は、1185年に発生した「文治京都地震」(元暦の大地震)というもので、推定マグニチュード 7.4とされている地震ですが、京都の街がほぼ完全に壊滅した様子が描かれています。

古典に親しむより元暦の大地震の現代語訳。

そのさまは尋常ではなかった。山は崩れ、その土が河をうずめ、海が傾いて陸地に浸水した。大地は裂けて水が湧き出し、大きな岩が割れて谷に転がり落ちた。波打ち際を漕ぐ船は波の上に漂い、道行く馬は足の踏み場に惑っている。都のあたりでは、至るところ、寺のお堂や塔も、一つとして無事なものはない。あるものは崩れ、あるものは倒れている。




とりとめもなく書いてしまいましたが、明日からまた翻訳も再開させていただきます。
いろいろとご紹介したい報道はあるのです。


ところで、「方丈記」を読んだ時に、ついでに「徒然草」の現代語訳もちょっと読んでみたのですね。すると、「徒然草」のラストはおもしろい会話で終わっていることを初めて知りました。「新訳 もの狂おしくない『徒然草』」というサイトに全訳があるのですが、最後のセクションである「第243段 八つになりし年」は、『徒然草』の作者の子どもの時の思い出話で、


> 八才の時にわたしは父に「仏とはどんなものでございますか」と尋ねた。


から始まります。

そこから、「会話だけ」を取り出しました。




子 「仏とはどんなものでございますか」
父 「仏は人が悟りを開いてなるものだ」

子 「人はどのようにして悟りを開いて仏になるのでございますか」
父 「仏に教えを受けて仏になるのだ」

子 「それを教えた仏はだれが教えたのでございますか」
父 「それもまた、その先輩の仏の教えを受けて仏になったのさ」

子 「ではそもそも最初に教えた第一番目の仏はどんな仏でございますか」





ここまで会話がきたところで、吉田兼好のお父さんは、

それは空から降ってきたか、地面からわいてきたのだろうな

といって笑ったのだそうです。

テキトーな会話にこそ真実は結構含まれているものだと感じます。


それにしても、先日、昔からの知り合いと飲んでいた時にも言っていたのですが、「結局、オレは世捨て人を目指す方向で生きてきたのかなあ」という希望はないでもないです。上の『方丈記』の作者は読む限りは世捨て人だったようです。

私には子どもがいますので、その子どもの将来や方向性がつくころまで私は世は捨てられないでしょうけれど、その後は、「世捨て人」というような生き方を目指したいように思います。

まだ先でしょうけれど、できれば、数年内に。




[1年前の In Deep ]

(注)この昨年の3月12日から「震災後日記」が続きます。

2011年03月12日の記事

東京の状況

こどもたち


2011年03月13日の記事

決意の涙: 東京 DAY3



  

2012年03月11日



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今日は翻訳記事をご紹介する時間がどうしてもとれませんでした。

しかし、 3月11日ということで記事をアップしたいと思いました。2011年の3月11日からの日々は、私にとっても、今までとは(精神的な意味で)違う日々の始まりでした。あの頃の東北の人々の姿を見る中で私は変わることができたのでした。

昨年の震災後の記事の、

もはや神も大地も怒らない (2011.04.08)

に書かれてある私の心情は今でもそのままです。

今、地震や噴火などの自然災害に対しての恐怖は私にはまったくありません。
昨年、そういう感情は自然と消えました。

何か起きたら対処する。
対処できないものなら「それまで」。

交通事故とか殺人事件とか経済のこととか、今でも「こわいこと」自体はたくさんありますけど、「地球のこと」への恐怖は消えました。

そういえば、上の記事のタイトルは「もはや神も大地も怒らない」というものでしたが、先日の記事「エメラルドタブレット(2)」の内容に関して、ちょっと調べていた時に、日月神示の一節が検索されたんですが、そのフレーズがこんなものでした。

扶桑の巻の第八帖というところにあるもので、


神に怒りはないのであるぞ。
天変地異を神の怒りと取り違い致してはならん。



というものでした。

ここには「取り違い」という言葉が出てくるので、少なくとも書かれた頃の人々が「天変地異を神の怒りと思っていた」という雰囲気というのか、全体の感じがあったのだと思われます。そして、それはもしかすると、今でもそういうように思っている人はいるのかもしれないですし、私も3月11日までは何となくそのように考えていました。

しかし、もう今はまったく思っていません。そういう意味ではこの1年は「天変地異は神の怒り」だということは完全な勘違いだということを学ぶ期間だったと思います。 In Deep でご紹介してきた様々な宇宙科学、物理学、聖書やオカルトのすべてがそこに向かっていました。



人類が獲得した、宇宙も羨む「偉大な無能」

こういう言い方をしていいかどうかはわからないのですが、「地球」を「人間の体」と対応させてみれば、たとえば人は毎日のように排泄をしたりします。

時には嘔吐したりする。

そして、地球では内部から吹き出ることによる噴火があったり、内部での何らかの物理的現象による地震があったりする。

これらが同じだという意味ではなく、エメラルド・タブレットにあるように、「ひとつの現象はすべての現象に通じる」ということを信じれば、たとえば人間に起きることが(現象的なイメージとして)地球や宇宙に起きないということもないかなあということです。

エメラルド・タブレットのその部分はいろんな訳がありますが、この部分です。


万物が一者から一者の瞑想によって生まれるがごとく、
万物はこの唯一なるものから適応によって生じる。



人間は毎日のように髪の毛が抜けたり、古い皮膚は落ちる。
そして、地球では毎日噴火があり、毎日地震が起きる。

人間の中では、毎日、おびただしい数の細胞が死んでいる。
地球の上でも大小の生命が消えていく。

しかし、その細胞の中にある DNA は死なないで存在し続けている

この「死んでいくように見えて、実は永遠のサイクルの中にある」という現象が、地球とか、あるいは宇宙とかにもあるはずだという確信の話です。これは実証のしようがない単なる個人的な確信であるわけで、他の方がそう考えるようなものではありません。私はそう考えているというだけの話です。


それにしても、私は相変わらず不勉強な人間のせいで、日月神示の全体は存じないのですが、上のフレーズに興味を持って、いくつか見てみると、なるほど、今まで勉強してきた聖書などのフレーズと通じるものがあり、ここにもまた「ひとつはすべてに通じる」という概念を見たりします。

特に、「いいフレーズだなあ」と思ったのは下の部分などです。

白銀の巻というところにある、


人間は皆、かみかかっているのであるぞ。かみかかっていないもの一人も居らんのぢゃ。かみかからんものは呼吸せんのぢゃ。



とか、黒鉄の巻というところにある、


言葉は神であるが、人間でもあるぞ。



震災以降の記事では、「何の能力もない普通の人間の存在」というものがどれだけものすごいものかということをずいぶんと書いていました。

未来を予知出来ない能力を獲得したことによって「明日を生きる楽しみ」を勝ち得た人類。人の心を読めないからこそ、毎日毎日、ワクワクドキドキしながら人生や恋愛ができるようになった人類。


私がずーっと思っていた「無能である人類が等しく持つ驚異の実相」が、上の日月神示の「人間は皆、かみかかっているのであるぞ」の「」に現れていると思います。

今ここにいる私や、そこにいるあなたのような「きわめて無能な人たち」はすべて宇宙から見れば「神がかっている」。


なお、「言葉は神であるが、人間でもあるぞ」という概念に関しては、ヨハネによる福音書の冒頭の「はじめにことばがあった」というものとの関連で今後も出てくることになると思います。

どうしてこれが大事なことか。

それは、「はじめ」と「終わり」という概念の問題に突入していくからです。

たとえば、ずっと人々が唱えてきた「終末」という問題。
地球の終わりとか人類の終わりとか、そういう言葉には「終わり」という概念が含まれます。

「終わり」の対極の意味は「はじまり」ですが、どんなものにでも対極は存在します。つまり、終末を語るには「はじまり」にも言及する必要があると思うのですが、聖書や仏典やコーランや、あるいは日月神示など、そういうものに書かれてあることが「正しい」のなら、

「はじめはことば」

であることが提示されていて、また、

「言葉は神であるが、人間でもある」

のなら、はじまりの対極にある「終わり」に存在するものは何なのか
それを知りたいように思います(推定では「終わり」という概念はこの世にないと思っています)


何だか話の方向性が無分別になってきましたので、ここまでにしておきます。

ところで、先日の記事に書いた 1785年の「薔薇十字の秘密のシンボル」関係のことを少し書いておきます。ここには興味深いイラストがたくさんあります。


薔薇十字のシンボルでの数字の意味

たとえば、その「薔薇十字の秘密のシンボル」の中には下のようなイラストがあります。
日本語はこちらで入れたものです。

89-sun.jpg


太陽に「4」の数字が当てられている、ということがわかります。前後の本文は読めないのですが、このイラストを見ても「4」の中心性というものが何となくイメージできます。

「7」に関しては、どうやらこの西洋神秘学の世界では「全部」ということになっているようにイラストでは見られます。「全部」というのは、つまり「7以上がない。7がすべてである」というような意味です。

そう考えると、「4」の意味もちょっとわかります。

つまり、1から7で完結する概念は下のようなことになると思います。

1234567


この真ん中は・・・。


1234567


となるわけで、7から作られている世界では中心が4になるということに初めて気づいたのでした。

あと、数字関係のイラストで興味を持ったのがこちら。

7-666.jpg


「7」と「666」が同居している図です。

この「666」という数字は「薔薇十字の秘密のシンボル」の中には何度もイラストで描かれますが、イラストだけの感覚でいえば、よく言われているような「悪魔的なイメージ」というものはなく、上の図にあるように「7の対極」として描かれているというように感じます。

つまり、「世界そのものである7」が存在するためには対極の「666」が存在する必要があるというような雰囲気が伝わります。実際はわかんないですけどね。

さて、これから鴨何とかさんの「方丈記」の冒頭でも読んでみます(夢指令)。
古文ほとんど読めないんですけれど。
タグ:日月神示



  

2012年03月09日



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前記事:
エメラルド・タブレット 完全版(1)


--
上の記事でエメラルド・タブレットを訳すと書いていたのですが、なかなか始まりません。まあ、私は神秘学の前提知識がないこともあり、かなり基本的なことも調べないといけないのですが、途中でどんどん横道にそれていくということが多いです。

過去記事の「[地球の内なる太陽] Vol.1 - その意味」の中に出てくる米国ウィスコンシン大学が所蔵する 1785年に発行された Geheime Figuren der Rosenkreuzer (薔薇十字の秘密のシンボル)というラテン語の古書があり、それの絵を見ていました。

そして、「どうも何だか物足りない」と思っていろいろと探してみると、ウィスコンシン大学がネットで公開しているのは、どうやら「薔薇十字団の秘密のシンボル」の内容の一部だったようで、今日、完全版を入手しました。

そこには下のような図なんかもあり、かなり興味深いものです。

al-sun.jpg


これがあるのは、ドイツ語のサイトですが、「Die geheimen Figuren der Rosenkreuzer (薔薇十字の秘密のシンボル)」というページの一番下の Weblink というところからダウンロードできます。

PDF 書類で 50MB あります。
全部で約 100ページほどのものです。

この古書はラテン語なので正確に読むのは無理ですし、あと、私は「どんな文字でも筆記体みたいな西洋文字」のが読めないのですよ。


なので、図を眺めるのとゴシック文字で推察する程度なんですが、今回、この古書をここで取り上げたことには意味があります。

それはこの「薔薇十字の秘密」の最初の図説ページが「4」のマークで始まっていたからです。



錬金術の最初の図説に出てくる「4」

この「薔薇十字の秘密のシンボル」は 1785年から 1788年にかけて配布されたもので、後に、ルドルフ・シュタイナーが「封印されてきた薔薇十字の秘密のシンボルを解き明かすものだ」と述べたと上のサイトにはあります。

さて、この古書。

最初の図説が出てくるのは6ページ目なのですが、それがこれです。

al-01.jpg


ELOHIM (エロヒム)
IEHOVAH (エホバ)


の文字で始まるこのページ、4のマークが4つの円を作っていて、そして、その「4同士が手を結んでいる」。私はこれを見て「4同士が手を・・・」と思わず絶句しました。そして、「4という数字」としての意味よりも「その形」としてのシンボルであるということがさらに興味を引いたのです。

何のことだかわからない方が多いかと思われるのですが、私は昨年、日記ブログの「クレアなひととき」で、かなり長い間に渡って、「数字の4」のことについて考えていました。最初に「この世の基本数は4に違いない」という結論があって、それはどうしてかということを考える旅だったのですが、途中でわからなくなり止まったままです。

「この世の基本数は4かもしれない」というのは、昨年の秋に交差点の信号でボーッと風景を見つめていた時に突如思い至ったのですが、まあ、そのあたりのことは長くなりますので、関係リンクを記させていただくにとどめておきます。


今回の「薔薇十字の秘密のシンボル」は、その中にエメラルド・タブレットのことが書かれてあるものですが、その書の最初に「4」があるということにとても興味が湧きました。それで、上の図説の部分でわかる部分だけを日本語にして作り直してみようと思いました。

ラテン語ということもあり、「いい加減である」ということをご承知の上でご覧いただきたいです。

それが下のものです。

al-jp.jpg


最初に

エロヒム
エホバ


とあり、これは旧約聖書などでの、いわゆる「主」とか「神」とか、そういうものを表しているものの表記のように思いますが、ここでどういう意味で使われているのかはわかりません。

そして、円の中は、

天空の要素
父と母
小宇宙
動物
大地と野菜
鉱山と鉱物
硫黄、水銀、塩


などとあって、これは「天空」と書きましたが、要するに「宇宙の要素」ということだと思います。曖昧な部分もありますが、わりと意味のはっきりとした記述のように感じます。

そして、それを囲む4つ。
これの組み合わせはよくわかりません。

ただ、右側の

カオス
普遍的な聖霊
世界中の魂
精子


は、「カオスと聖霊と魂と精子が同列」として書かれてあるということで興味深いです。

精子の動きがカオスであることは以前から感じていました。下のは顕微鏡で見た人間の精子ですが、これと「魂や聖霊」を同じグループにみなしているということも言えるのかもしれません。




このカオスな精子たちの動きに「秩序が生まれる」のはどうしてかということを考えると、何となく感慨深いものがあります。太陽と卵子の形が似ている道理も少しわかります。



月の夢と白血球の役割 (クレアなひととき 2011年09月05日)より。


いずれにしても、この「4の図」が最初にあったということは、少なくとも薔薇十字での考え方としては、「この4つによる世界が根本」というものがあるのかもしれません。

薔薇十字といえば、以前、クレアでいつもとてもわかりやすく西洋神秘学についてのコメントを下さっていた方がいて、彼は薔薇十字とシュタイナーの研究を続けている人ですが、最近、久しぶりにメールをいただきまして、そこにはこのようにありました。

それによると、薔薇十字的な解釈では、現代の秘儀には三つの段階があるのだそうです。

それは、

1. 聖杯
2. エメラルドタブレット
3. 賢者の石


と呼ばれているもので、
それぞれが、

1. アストラル体の変容
2. エーテル体の変容
3. 物質体の変容


を意味するのだそう。

さらに、彼は下のように記してくれていました。
このあたりは私には解説が無理ですので、そのまま転載させていただきます。


宇宙の思考を受け入れる杯としてアストラル体を新たな認識器官にする必要があります。またそれを自分のエーテル体(記憶)に書き込む必要があります。

そして最後に二酸化炭素を排除して自らの体をダイヤモンドにする必要があります。

いずれも鍵は、呼吸&血、です。
心臓はそのための脳に代わる新しい器官です。




とありました。

今回は、「4」という数字にふたたび衝撃を受けたということで記事にしましたが、エメラルドタブレットの実際の翻訳にはもう少し時間がかかるかもしれません。



  


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(訳者注) なんだか今、いろいろなことを同時に調べているうちに次第に何が何だかわからなくなってきていたりしたり、あるいは、十年ぶりくらいにパニック障害が再発したことがハッキリしてきたり(パニック障害とは 30年ほどの付き合いですので何とかやり過ごせるとはいえ、多少厄介です)、とか、何だかいろいろとゴチャゴチャとしている感じですが、調べていることを後に回すとさらに混乱してきますので、できることから書いていきます。

今日はできれば2つの記事をアップしたいと思っています。

ひとつは、今回のオーストラリアのコウモリの話。

もうひとつは、今年最大の急減を見せた宇宙線の話です。これは3月7日あたりのXクラスの太陽フレアに起因しているとは思うのですが、一日で「10パーセント以上宇宙線の観測量が減った」というデータが出ていましたので、次の記事でご紹介できればと思います。


蜘蛛のこと

ところで、昨日のオーストラリアのクモのニュースはその光景が個人的にとても印象深いものでした。

オーストラリアで繰り広げられる「クモ」による驚異の光景
(2012.03.08)



▲ まるで川や洪水そのもののように見えるほどのオーストラリアの蜘蛛の糸。


上の写真の光景を目にして、「クモってどんなものなのだろう」と改めて考えていました。 ちなみに、クモの最大の特徴は、「私たちはなんとなく虫のように思っているけれど、昆虫ではない」ということがあります。

クモは「クモ」という生き物としか言えないというもののようで、Wikipedia 的に書けば「節足動物門六脚亜門に属する昆虫とは全く別のグループに属する」もののよう。

でまあ、生態のほうはともかくとして、Wikipedia の「クモ - 神話・伝承」というセクションを見ると、

・アラクネーの物語(ギリシア神話)
・土蜘蛛
・絡新婦


とあります。

それぞれ初耳ですが、最初の「アラクネーの物語」のアラクネーというのは、ギリシア神話の予言者であるイドモーンという人の娘で、染織業をいとなんでいた人だそう。

アラクネーさんは織物が上手だったのですが、あまりにも自惚れていたため、アテーナーという女神の怒りにふれ、「蜘蛛に転生させられてしまった」というもののよう。

ダンテの神曲には、このアラクネーさんをモチーフにしたイラストが出ていて、下の人のようです。これは蜘蛛に転生させられてしまった後なのだと思われます。

arachne.jpg

▲ ダンテ『神曲』より。神曲ではアラーニェという名前。


この神曲のアラクネーさんの姿は何かと似ていると思ったんですが、40年前のテレビドラマシリーズ『仮面ライダー』の第1話(1971年)の「怪奇蜘蛛男」に出てくるクモ男が倒れたイメージと似ています。

下のはバンダイかどこかから出ているフィギュアですが、蜘蛛男が仮面ライダーに踏まれている様子。

no1spidermen.jpg

ギリシャ神話のアラクネーさんはわりと似ている。

なぜ仮面ライダーのことなんかを出したかというと、この 1971年の最初の仮面ライダーシリーズは、第1回がこの「蜘蛛男」でした。そして、第2回目が・・・「恐怖蝙蝠男」。すなわち、コウモリ


というわけで、オーストラリアではクモに続き、コウモリが大発生していることが、英国 BBC で報じられていたニュースのご紹介です。現在のオーストラリアは、「クモ → コウモリ」と、仮面ライダーの物語をそのまま踏襲している様相と化しているようです。仮面ライダーではその回以降のモンスターのイメージに、さそり、食虫植物、かまきり、カメレオン、スズメバチなどが登場します。


オーストラリアのクモの糸の光景は「第8領域」への誘いなのかも

ところで、実は昨日の「クモ」のニュースで最も私が思ったことは、以前書いたこともあるのですが、西洋神秘学の一部(薔薇十字など)の世界の考え方では、

・クモは次の世界に存在しない生き物

とされていることでした。
昨年の震災2週目くらいに書いた、

歓喜する第8領域の生命たち (2011.03.24)

という記事の中でふれたことがありますが、神秘学には「第8領域」という世界の概念が存在していて、その領域にいるものたちは「数千年後から始まる次の宇宙からは消えてしまう」のだそうで、クモやハエといったものがそれに該当するのだそう。キノコなどの菌糸類もそのグループだそうです。

昨日のオーストラリアの光景が、そのクモによる示威行為だとすると、次に出てきたコウモリは何なのかなあと考えてしまいました。自然の光景はすべて何かを表していると最近考えています。


ちなみに、今回は大発生のニュースですが、コウモリ自体はむしろ全世界でその数を劇的に「減らして」います。アメリカで始まった白い鼻症候群という病気による大量死が米国でも、また他の国にも拡大しています。

[関連記事]白い鼻症候群によるコウモリの大量死が全米11州に拡大

それでは、ここから本記事です。

なお、記事中の「リッサウイルス」というのは、狂犬病と同じタイプのもののようで、国立感染症研究所の説明にはこうあります。

臨床症状からリッサウイルス感染症と狂犬病を鑑別することは不可能である。ヒトの標準的な潜伏期間は狂犬病と同様に20日から90日であり、咬傷部位や数によって期間は異なると考えられる。


このリッサウイルスも狂犬病ほどではないようですが、発症した場合の致死率はかなり高いものだと思われます。ただし、ヒトの臨床例は非常に少ないです。



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タグ:コウモリ



  

2012年03月08日



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現在オーストラリアでは大変な洪水になっていて、この様子については日本語の報道にもなっていて、「オーストラリア南東部3州で洪水 (AFP 2012.03.07)」などにあります。特に、ニューサウスウェールズ州のワガワガという地域一帯では、ひどい洪水となっていて、マランビジー川という川の水位は 1844年以来の高さに達しているのだそう。


この洪水の報道と共にオーストラリアで大きく報道されているニュースが今回ご紹介するものです。

下の写真が何の風景かおわかりになりますでしょうか。

art-wagga-20web4-420x0.jpg


広大な土地に漂う幻想的ともいえる白い絹のようなもの。

これ、全部「クモの糸」なんです。

下の本記事には動画もあります。


洪水に見舞われているニューサウスウェールズ州で、日本語ではドクグモと表記されるウルフ・スパイダーというクモが、水を避けるためにいっせいに草の高いところからバルーニングという「糸を空中になびかせる」という行為をおこなっていて、その中を通ってクモが移動しているそうです。

以前、 In Deep でオーストラリアでの「バッタ(イナゴ)の大発生」の記事を何度かご紹介したことがありますが、その時、「大発生」というのものがどこか根幹で通じた理由もあるような気がしたこともあります。オーストラリアのバッタの大発生は、「近代化された大規模農場の農作方法が主な原因」ということが研究でわかっています。


最近あまり話題になっていませんが、「ミツバチの集団失踪」というものがあります。原因は今でもハッキリとはしていないですが、ネオニコチノイド系農薬というものがクローズアップされたことがあります。

その是非はともかく、このネオニコチノイドの特性には興味深いものがあって、


・昆虫の視神経などにダメージを与えるが、クモやダニ(クモ科などの節足動物)の神経はダメージを受けない


ということがあります。

このことは藤原養蜂場という養蜂場の人が 2009年にリリースした「消えたミツバチの行方」というページで、3年くらい前に知りました。

また、こちらのページでは、

ネオニコチノイドは、昆虫ではないもの、たとえばクモ(クモ綱クモ目に属する節足動物)やダニ(クモ綱ダニ目の節足動物)などは機能を奪われないので、単に「天敵がいなくなる」となり、クモやダニにとっては天国状態となってしまう。


とあります。

このことを思い出したのは、今、クモが大発生しているオーストラリアでは、2010年に「バッタの大発生」があったのですが、その時に類似したものが大量に散布されています。

オーストラリアのバッタの過去記事は下のものなどです。

この際、オーストラリアでは国を挙げてバッタの対策を施したのですが、その方法が「フィプロニル」という殺虫剤を使った大規模な駆除でした。ソースは英語しか見当たらないですが、当時のオーストラリア ABC ニュースの記事などが残っています。

フィプロニルは Wikipedia によると、「ネオニコチノイド系殺虫剤とともに、ミツバチの蜂群崩壊症候群(CCD)の原因の仮説のひとつとなっている」とあるのですが、ハチの中にはクモの天敵となっているものもいて、仮にそれらまでも一掃されると、やはりその場所はクモやダニにとってのパラダイスになるようです。

今回のクモの大発生と関係あるかどうかはわからないですが、「大発生の因果関係」というものに興味があります。


しかし、この「農薬」という問題は決して「使わないようにすればいい」というような単純な理想的な問題でもないです。現代の農作に従事している人たちの高齢化を見ていると、農薬を使わない農業という理想だけでは大変すぎてとてもやっていけない現状が存在するように思います。

しかも、今の日本の人々は形や色が悪い野菜を通常の価格では買ってくれません。
それに加えて放射能の風評。

本当に難しいところです。
とりあえず「どんなものでも食べる」ということの大事さはあるように思いますが。

話がそれました。

ここからオーストラリアのクモの話です。



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2012年03月07日



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(訳者注) 米国の著名な理論物理学者が提唱した「私たちの知る宇宙は、様々に存在する宇宙のひとつに過ぎない」という、つまり「無限の宇宙の可能性」を提唱したことが科学界で話題となっているという記事なんですが、実は「この記事の内容がまったくわからない」のです。

見出しに惹かれてご紹介しようと思ったのですが、原文をいくら読んでも理解できなくて、とても訳せるわけなさそうなのでやめようと思ったのです。しかし、しばらくしてから読み直して、「ここまでわからないなら何か意味もあるのかも」と思って、とりあえずご紹介します。

わかる部分だけを訳しましたら短い記事になってしまいましたが(苦笑)、それでもこの部分でも間違っている部分は多いと思います。


ちなみに、この「宇宙は無限」という響きは素敵なのですが、しかし、読んでいると、それでも、何か物理学者たちは「形や始まり」を決めたがっていると感じます。

たとえば、文中に、

> 私たちの宇宙が、巨大で無数の「無限から生まれた」という考え方だ。


というように、「生まれた」( born )という言葉が使われていることでわかるにように、どうあっても宇宙は「生まれた」という考え方に持っていきたいという基本概念が根底にあります。この考えが根底にある限り、ビッグバン理論が消えても、「他のビッグバン理論」が組まれるだけという感じもしないでもないです。

まあ確かに、宇宙が「生まれた」のか「生まれていないのか」はわからないことですけど、私は「生まれていない」と思っているので。

宇宙は「単なる瞬間」だというのが私の考え方です。
時間軸は存在しない。

無数の「瞬間」の交錯が宇宙だと最近は思います。

まあそれはいいや。

では、ここから記事です。



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2012年03月06日



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(訳者注) 今まで放射能のことはあまり書かなかったんです。どちらの考え方にしても、本人たちの思いこみが強い場合が多くて、場合によっては人を傷つけてしまう。そういうことも昨年経験しました。

私自身は震災後、いくつかのデータを眺めていて、放射能の害というのがどうしてもわからず、それ以来、個人的にはまったく恐怖に思ったことも脅威に思ったこともなく、最初、半信半疑だった奥さんにも説明して、うちは昨年4月頃からは飲み物も食べ物も行く場所もまったく気にしたことはないです。何でも食べますしどこでも行きます。

科学データというのは(ちゃんと読めば)わりと正直なんですが、周囲の状況はそうでもなく、ニュースや口コミなどの不安情報を信じる傾向も強く、私は次第にそのことについて話さなくなりました。私は気にしなくても、他の人が気にすることに介入することもないかなと。あるいは、時間と共に落ち着くだろうとも考えていました。

しかし、もはやそうも言っていられないのかもしれないと思いました。

というのも、「福島から避難の子供、保育園入園拒否される」という新聞記事を昨日知ったのです。

これを見てさすがに暗澹とした気分になりました。

もう「それぞれの考えでいい」とも言っていられないと。
子どもが無知の犠牲になるのはやはりよくない。

それと同時に、上のニュースを読んで何かこう急に、日本人という存在に対して冷めてしまいました。「なんで、オレは日本人がどうだこうだ言ってたんだろう?」と急に過去に熱く日本人を語っていた自分が馬鹿馬鹿しくなりました。

上のような日本人がいるということは、日本人に意味があると考えていた私はどうやら間違っていたようです。

しかし、私のことはともかく、実際に上のように、東北の子どもたちとか、あるいはそこから移転していく子どもたちはこれからもいるわけで、その子たちがまた何か言われるのはたまったものではないですので、それに関してのひとつのデータなどを載せておきます。


これはチェルノブイリ原発事故20年後に WHO (世界保健機構)が、ベラルーシでガンに関して疫学調査をした際のデータです。この関係と期間のデータは少なく、かなり貴重なものといえるかもしれません。

全文英語ですが、調査書そのものは PDF 書類で、

Cancer consequences of the Chernobyl accident: 20 years on
 チェルノブイリ事故から20年:ガンの経緯

にあります

データでは因果関係がわからないものが多いですが、「はっきりしているデータ」もあり、その中のひとつが、

セシウム 137と子ども甲状腺ガンの発生には関係が「ない」

というものです。

先にグラフをおいておきますが、これです。

s137.png


日本語は私が入れたものです。

ベラルーシでの小児の甲状腺ガンは事故4年後の 1989年頃から増加していますが、1995年くらいにピークとなった後は下がり続けて、事故の 16年後に事故以前の水準か、あるいはそれ以下の水準に戻っています。

Wikipedia によれば、セシウム 137の半減期(物質の影響がなくなる期間)は 30年となっています。

半減期から考えて、上のグラフでの小児ガン発生のグラフと、セシウムに相関関係はないことがわかります。

なので、上のデータから言えることは、


・事故の頃に生まれた赤ちゃんは甲状腺ガンについて安心して下さい。

・14歳までの子どもは甲状腺ガンについて安心して下さい。



という2点です。
データからはまったくセシウムとの関連の問題点は見当たりません。

このデータでは、14歳以上では増加の様子が見てとれるので、14歳以上の大人のことは知りませんし、他の病気のことも知りません。

とにかく、これは、赤ちゃんとか幼稚園児とかの14歳以下の子どもは甲状腺ガンについて、何の問題もないというデータです。

なお、 WHO の論文を読む限り、チェルノブイリ事故後の短期間の間に甲状腺ガンが増えた理由は、事故直後のヨウ素によるものではないかと思われます。ヨウ素の半減期は 8日です。


あと、これを取り上げた理由として、私は読んでいないですが、雑誌で福島の子どもの甲状腺ガンの話が取り上げられていたそうで、もし、その記事がセシウム等の放射能との関連で書かれているのなら、それは間違いかもしれないからです。

そしてそのことで、上の移転した福島の子どもの例のように「幼稚園に来るな」とか、「公園で遊ぶな」とかの、人々の単なる無知から来る害を子どもたちが受けるのはかわいそうだからです。

なお、繰り返しになりますが、上のデータは「セシウムと子どもの甲状腺ガン」だけに関してのもので、「35歳以上の人」とか、あるいは「他の病気」等との因果は表していません。


というか、本当は仮に「放射能というものに害があっても」、上みたいなこと(幼稚園に来るな、とか、公園に来るな、とか)を言うことは頭がおかしいと思います。


あーあ、日本人かあ・・・。

超ガッカリした昨日今日でしたが、逆にいえば、今後、日本人としてではなく単なる人類としてモノを考えるキッカケになったということで、いい経験だったと思います。

それでは、下はその調査資料の序文の翻訳です。

(ここから)
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