▲ 「ラーの眼」(あるいはホルスの眼)と呼ばれる古代エジプトのシンボル。古代エジプトの神「ホルス」の右目は太陽を、左目は月を象徴していたとか。過去記事「2008年、なぜ世界中の海軍は海賊征伐の目的でアデン湾に向かったのか」より。
天の川銀河の星の「光」をナビとして使っていたフンコロガシ
昨日くらいに、「フンコロガシが銀河の光を道しるべにしていた」という科学報道があって、翻訳してご紹介しようと思っていたのですが、今朝になり日本語の報道でもいくつか目にしましたので、そちらのリンクを貼っておきます。
・フンコロガシ、天の川を道しるべにまっすぐ移動 研究
AFP 通信 2013.01.28
フンコロガシは天の川の光を頼りにまっすぐにふんを転がすという研究結果が、米科学誌カレント・バイオロジーに発表された。
南アフリカのウィットウォータースランド大学の生物学研究チームは、地元のプラネタリウムで夜の空を再現し、フンコロガシの行動を観察した。その結果、脳は小さく、視力は弱いフンコロガシが、天の川の星々の光を頼りにまっすぐ進み、ふんを奪い合うライバルのいる場所に円を描いて戻らないように移動していることが分かった。
というものです。
海外では、天の川銀河の写真とフンコロガシを対比させた写真などを使った記事などがいくつかありました。
▲ 米国の科学サイト Sci-News より。
どうして、このニュースに興味を持ったのかというと、これが「光の感知」に関しての話だったからです。
もっというと、個人的にはこの話は「松果体」に行き着きます。
今回のフンコロガシの話と松果体が直接関係あるということではないですけれど、「宇宙の光を追い求める地球の生物の器官」という意味でそこに行き着くというような感じです。
光の「松果体と光の関係」に興味を持ったのは、2年ほど前、米国の大学の日本人科学者が、「目を持たない魚が松果体で光を見ていることを突き止めた」という記事を書いた時でした。
しかも、曖昧に光を感知しているのではなく、この魚たちは「光を直接感じとっている」のです。つまり、「松果体で直接光を見ている」という意味のことで、かなり衝撃的な発表だったと今でも思います。
記事は、クレアの「ペアである自分(2) 宇宙の場所」に載せたものです。
少し抜粋しておきます。
Blind Fish Sees With the Pineal Gland
目を持たない魚たちは松果体で見ていた
メキシコの淡水に住む熱帯淡水魚には2つの種族に属するものがいる。
ひとつは、陸地の川に住んでいる目を持つ種類。もうひとつは、洞窟の中に住んでいるもので、こちらの種類は目を持たない。
この目のないメキシコの淡水魚は、眼原基(目の前段階のもの)自体は、胚として成長するが、その眼原基は幼生の時にウロコで覆われることにより退化してしまうために、器官としての目にはならない。
そのため、彼らは目を持っていない。
これまで、目を持たないこの魚は光を感じ取ることはできないと思われてきたが、メリーランド大学の研究者たちが2008年に「ジャーナル・オブ・エクスペリメンタル・バイオロジー」紙に発表した研究論文によれば、「別の方法で見ている」ことが明らかとなった。
この魚の目は機能していないが、脳の中央近くにある松ぼっくりの形をした内分泌腺の「松果体」で光を検出していることがわかったのだ。松果体は皮膚の奥深くにある器官であるにも関わらず、この器官で光を感知できているという。
この松果体は、いくつかの脊椎動物では「第3の目」としての器官として知られているという。
記事は、以下、実験の具体的な方法が記されている部分ですので、割愛しました。
ここに出てくる「松果体」。
人間では下の位置にあります。
▲ 松果体は、医学的な意味では、メラトニンというホルモンを作り出すことに関与していること以外の役割はほとんど不明です。
上に出てくるメキシコの目のない魚では、「想像上」ではなく、「現実としての光」を松果体で見ていることがわかったのですが、この報道で私が思ったのは、「・・・ということは、松果体を持つほぼすべての動物は本来、このメキシコの魚と同じ能力を潜在的に持っているのだろうなあ」ということでした。
なぜなら、脊椎動物というのは、大体において、「器官の役割は似たようなもの」だからです。
通常の地上に住んでいる多くの脊椎動物は、人間も含めて、目や耳や口の役割は、基本的な機能としては同じような感じだと思います。もちろん、わかっていない動物たちの機能は多くあるわけですけれど、共通している部分が多いことも事実です。
「目」に関しては、地中深くなど暗闇にすむもので、目で光を感知できない場所で生きているような動物の多くは、「目」ではなく「松果体」で光を捕らえているのだと思いますが、実はそれは「目の代用ではないかもしれない」ことも、上の実験でわかっているのです。
つまり、「目がないから、代わりに、松果体が発達したのではない」ようなのです。
というより、「光の探知に関しては目より松果体のほうが役割が大きい」ことが上のメキシコの魚の実験でわかっています。
上の実験では、実はその後、目や松果体を取り除いたりする、やや残酷な実験となっていくのですが、その結果は驚くべきものでした。
両眼を取り除かれた陸地の魚と洞窟の魚は両方が従来と同様の振舞いを示したが、松果体が取り除かれた魚では、約10パーセントの魚しか影への反応をしなかった。
つまり、目がある魚も、主に松果体を使って光を見ていた、ということがわかったわけです。
普通に考えると、「目がある」と「目がない」というのは表面的な大きな違いに見えますが、少なくとも上のメキシコの魚に関しては、光を探知する機能としては、「ほとんど違いはない」ということがわかったのです。
「太陽神の眼」は「人間の第3の眼」の象徴なのか?
その「光を見る」松果体の構造。上にその場所の簡単な位置の図を載せましたが、さらに、詳細な図としては以下のようになります。
▲ 松果体 - Wikipedia より。
さて、今回の記事は「フンコロガシ」で始まる記事だったのに、冒頭には下の「ラーの眼(ホルスの眼)」と言われている図を載せましたが、その理由がこのあたりから始まります。
米国の BBS 記事に下の図が掲載されていました。
脳は模型です。
日本語はこちらで入れていて、名称には間違いがあるかもしれないですが、大体のところです。
さらに、下の図も。
こちらは脳全体との対比となっています。
記事そのものは、報道ではなく、松果体に関しての一般的な「神秘的意味」というものをまとめたもので、特にご紹介はしませんが、下のリンクです。
・Secrets Of The Third Eye, The Eye Of Horus, Beyond The Illuminati
(第三の眼の秘密、ホルスの眼、イルミナティを超えて)
このタイトルにある「イルミナティを超えて」というのは何のことかよくわからなく、また本文のほうでも特にふれられていないのですが、画像検索などをしていると、どうも、この「ホルスの眼」のイメージは、イルミナティなどと絡んで、「悪い象徴」として語る派というものが存在するようです。
何かこう、下のような図案の概念と同一視しているのかもしれません。
▲ 陰謀論の引き合いとして出されることが多い「眼」のマーク。これはドル紙幣の裏。
しかし、まあ・・・それを言い出すと、眼のマークは全部、陰謀というようなことになりかねなくて、つげ義春の「ねじ式」なんかもヤバくなりそう。
▲ 漫画家、つげ義春の代表作『ねじ式』(1968年)より。クラゲに腕を刺されて病院を探すけれど、その町には眼科しかない。
まあ、「なんでもかんでもやっちまえ!」のフレーズというのはこの世の常でありまして、この「眼」の話も、昨年の過去記事の「殺され続ける詩人シナ」でふれました、シェークスピアの舞台劇『シーザー』の中のも、「どうだっていい、名前が同じだ・・・やっちまえ、やっちまえ」というフレーズを思い出します。
まあ、それはともかく、Wikipedia の「松果体」には、「松果体の哲学や象徴としての意味」についての記述もあります。
それを抜粋しておきます。
松果体 - 哲学との関連
デカルトは、この世界には物質と精神という根本的に異なる二つの実体があるとし、その両者が松果体を通じて相互作用するとした。デカルトは松果体の研究に時間を費やし、そこを「魂のありか」と呼んだ。
松果体は眠っている器官であり、目覚めるとテレパシーが使えるようになると信じる人もいる。
「松果体の目」という観念は、フランスの作家ジョルジュ・バタイユの哲学でも重要なものである。批評家ドゥニ・オリエは、バタイユは「松果体の目」の概念を西洋の合理性における盲点への参照として使っていると論じている。
上のジョルジュ・バタイユというフランスの作家なんですけれど、私は読んだこと自体がないのですが、私が若かった頃には、日本のパンクスたちの間で絶大な人気を誇っていました。
バタイユの文学作品のタイトルをバンド名としているものもたくさんありました(当時のパンクスには、文学が好きな少年少女が多かったようです)。
日本だけでもバンド名として使われたバタイユの作品タイトルとしては、
『太陽肛門』
『マダム・エドワルダ』
『ラスコー』
などがあります。
▲ 晩年のジョルジュ・バタイユ。
バタイユにとっての松果体
また、今回調べていてはじめて知ったのですが、太陽の誘惑というサイトによりますと、ジョルジュ・バタイユには、『松果体の眼』という松果体そのものの名前が使われるような未完の作品があるらしいです。
ここでは「松果線」と訳されていますが、松果体のことです。
その内容は上のページから抜粋しますと、
『松果腺の眼』。未完に終わったこの幻想的テキストは、この時期のバタイユの探求の痕をいちばんよく見せているように思われる。
題名からすると、『大陽肛門』での火山の主題を展開しようとして発想されたようだが、火山のイメージはこの著作では背景に後退し、関心は松果腺の眼というやはり奇怪な幻想へと移ってゆく。
松果腺の眼とは何か。
人間の頭蓋の上部には一個の分泌腺があって、松果腺と呼ばれているが、この分泌腺の作用はよく解明されていず、ある生理学者たちは、〈眼球となるはずだったが、発展しなかった〉ものと考えている、とバタイユは書く。この未発達に終わった眼は、肛門に発端を持っている、と彼は考える。
前述のように猿はエネルギーを集約し発散させる突出した肛門を持っているが、この肛門のありように変化が起こるのだ。猿は森から出て、後足で歩行を始め、直立の度合いを高める。するとこの肛門は両足の間に引き込まれてゆく。こうして人間が成立するとき、肛門は尻の奥に隠されてしまう。
肛門のこの隠蔽は太陽との直結性の隠蔽であり、この隠蔽によって人間は自律的な存在となるのだ。
しかしながら、肛門のこの隠蔽は、それで平穏に完了するのではない。
内部に貯め込まれたエネルギーは、新たな出口を求める。それは直立に向かう人間の動きに従って、上方に向けて集中され、まさに太陽との直接的な関係を回復しようとして、頭頂に開口部を求める。
こうして頭蓋に大陽に向かう眼球が生じようとする。
それは、水平方向に働き、対象を捉え、有用な世界を組織してゆく眼ではなく、垂直方向にのみ作用し、大陽を見るためだけの眼である。
それが松果腺の眼だ。
太陽から火山を経て肛門へ受け渡されたエネルギーは、異様な眼を作り出すことで再び太陽へ回帰しようとする、とバタイユは論じる。
もう・・・何が何だか私には理解できないですが(苦笑)、多分、ラストの部分から考えると、バタイユは、
「松果体の役割は、太陽から火山を経て肛門へ受け渡されたエネルギーを、松果体を通して再び太陽へ回帰させること」
と考えたように読めなくもないです。
なるほど、「松果体は光を見る機能」を持つことが上のメキシコの魚の実験などでわかっているわけで、太陽を探し出す機能としては一理あります。
ちなみに、上の他のページの他の部分によれば、バタイユがこの『松果体の眼』という小説を思いついたのは、「動物園でサルのお尻が赤くなっているのを見たとき」だったとか(笑)。
しかし、上のページを読んでいると、若者たちがバタイユに憧れた理由もわかるような「ソソる文言」が並んでいます。上のページでバタイユの著作に出てくるフレーズ・・・たとえば・・・、
・「死にゆく私」と「死にゆく神」の間
・人間の自己としての存在を意識することを超えてしまう「完全な超越性」
・残酷と汚辱のなかで、神でも虚無でもなく破局となって最後に現れるのはただ物体である世界
のようなフレーズ。
どうもソソる感じですね。
若い時の私はこういう難しいことにまったく興味がなかったですが、今ならちょっと興味あるかもしれません。
さて、フンコロガシから始まって、なんだかわからない展開となってしまいましたが、「未来の人類の進化」のひとつには、この「松果体の働きの再活性化」というものがあるのではないか、とは昔から言われていることのようではあります。
そういえば、今回の話はフンコロガシと共に、「ホルスの眼」から始まりましたが、バタイユの最初の作品といえる『眼球譚』(1928年)の表紙には下のようなものもありました。
▲ 1967年出版の『眼球譚』の表紙。
さて・・・こんなに長くなっていますが、実は今回のこの部分は「余談」として書き始めたことなのでした。フンコロガシの記事が日本語の記事となっていましたので、今回は、別の記事をご紹介するつもりで書き始めたら、もう何が何だかわからない展開となってしまいました。
その話題は松果体などとはまったく関係のない「飢え」と「カニバリズム」に関係する話で、最近の報道からいろいろと思うことがありました。
次回で書きたいと思います。