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2015年04月30日



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途方もない「大量死の時代」の進行が加速していた : 2015年最初の4ヶ月だけで270件を超える大量死報道があることを知り



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▲ 2015年04月29日の strange sounds Mass die-off 2015 より。






 



すさまじいペースで発生していた動物の大量死

昨年、

海で何が起きているのか : 5月から始まった全世界での数百万匹規模の海洋生物の大量死の理由は誰にも説明できない
 2014年06月02日

という記事で、2014年 4月から 5月にかけて、世界各地で、おびただしい海洋生物の大量死が起きていたことをご紹介したことがあります。

その期間(約2ヶ月間)の、大量死に関しての報道数は 40件ちょっとでした。

これはこれで大変な数だと思っていたのですが・・・最近見ました strange sounds というサイトに、今年1月から4月までの4ヵ月間の「大量死報道」について、すべて報道のリンクつきで、載せられていたのですが、その数・・・。

2015年1月 世界で 65 件の大量死報道
2015年2月 世界で 42 件の大量死報道
2015年3月 世界で 93 件の大量死報道
2015年4月 世界で 71 件の大量死報道


となっていまして、総計 270件を超えているのです。

単純に月平均にしますと、「 70件弱」となり、昨年の「異常な大量死報道」の3倍ほどにもなっていることがわかります。そして、これはすべて「報道されたもの」だけですので、世界の状況を見ますと、報道されていない例もかなりあると思います。

それにしても、この件数・・・。

そして、そのすべての報道のリンクを張るという、この記事の作者の執念的な労力も大変なものだと思います。

すべてをご紹介しないと、この迫力は伝わらない、とも思いましたが、271件全部を載せるのは、むしろ読まれる方にもご迷惑かとも思いますので、とりあえずは、4月の報道分はすべてご紹介する、ということにしまして、1月から3月までは、印象的なものをご紹介しておきます。

また、4月分の印象的なものについては、赤文字にして、報道先リンクを載せています。

それでは、ここからです。




Mass die-off 2015
strange sounds 2015.04.28

大量死 2015

2015年 4月

4月26日 カナダ - オンタリオ州で 8,000羽の七面鳥が鳥インフルエンザの流行によって死亡。

4月25日 米国 - フロリダ州のロングフィッシュ湖の湖岸に、大量の死んだ魚が打ち上げられる。

4月25日 ボリビア - チチカカ湖のほとりで数百羽の鳥や動物が死亡しているのが発見される。

4月25日 米国 - ノースダコタ州で 71,000の鳥が鳥インフルエンザにより死亡。

4月25日 中国 - ハルビンの川で魚の大量死。


4月24日 米国 - ミネソタ州で鳥インフルエンザにより 260万羽の鶏が死亡し、州は「非常事態」を宣言。(ロシア RT

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4月24日 米国 - 北カリフォルニアで、原因不明の死因による4頭のクジラの亡骸が打ち上げられる。

4月24日 チリ - トーレスデルパイネ国立公園の洪水の後、400匹の動物が死亡しているのが発見される。

4月23日 イギリス - カンブリアの海岸沿いに数千の死んだヒトデが見つかる。

4月22日 タイ - サラブリー県の川沿いで数千匹の魚が死んでいるのが見つかる。

4月22日 米国 - ニューヨーク州リッジブリー湖で数千匹の魚の大量死。

4月22日 米国 - ウィスコンシン州で 60,000羽の鳥が鳥インフルエンザの新たな流行により死亡。

4月22日 米国 - バーモント州のシャンプレーン湖で魚の大量死。

4月22日 中国 - 湖南省の川岸で、死亡した数百匹の魚が見つかる。


4月21日 米国 - アイオワ州で鳥インフルエンザで、530万羽の鶏が死亡。( USA トゥディ

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4月21日 スペイン - アストゥリアスの海岸沿いに4頭のイルカが死亡して打ち上げられる。

4月21日 コロンビア - マグダレーナの川と湖で魚の大量死。

4月21日 メキシコ - ボボズ川で魚の大量死。当局は「警戒すべき」と。


4月14日 ブラジル - 52トンの死んだ魚がリオ・デ・ジャネイロで発見される。(ブラジル G1 grobe

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4月20日 米国 - フロリダの湖で、数千匹の死んだ魚が打ち上げられる。

4月20日 ベリーズ - ベリーズ南部で、疾患により大量のエビが死滅した。当局は原因を調査中。

4月20日 米国 - ペンシルヴァニアの湖で、数百匹の死んだ魚が浮かぶ。

4月19日 カナダ - オックスフォードで 27,000羽の鶏が鳥インフルエンザで死亡する。


4月18日 ロシア - オムスクの港で「災害級」の魚の大量死。(ロシア Gorod55

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4月18日 カナダ - ケベック州で、アザラシやクジラなど、何百頭もの海洋哺乳類が死亡。(カナダ msn

4月18日 米国 - サウスダコタ州で、鳥インフルエンザにより 250,000羽以上の鳥が死亡。

4月18日 ベトナム - ニントゥアン省で 1,000以上の牛が「干ばつ」によって死亡している。

4月17日 カナダ - ケベック州の島で、数百匹の死んだ魚が見つかる。

4月17日 インド - バンガロールの池で、数百匹の死んだ魚が見つかる。

4月17日 フランス - 海岸で、十数匹の死んだイルカやクジラの死体が見つかる。原因は不明。

4月15日 イギリス - ノーフォーク州で、藻類の発生により数千匹の魚が死亡。

4月15日 中国 - 竜岩市の貯水池で大規模な魚の大量死。

4月15日 ベトナム - ホーチミン市の運河に沿って魚の大量死が見つかる。

4月14日 米国 - ペンシルベニア州北部全域の池で、何百匹もの死んだ魚が発見される。

4月14日 インド - テランガーナ州で 20万羽の鳥が鳥インフルエンザで死亡。

4月13日 インド - アーメダバードで雹(ひょう)の嵐で数百羽の鳥が死亡。

4月13日 米国 - ウィスコンシン州で鳥インフルエンザによって 20,000羽の鳥が死亡し、18万羽が殺処分される。

4月13日 米国 - コネチカット州の湖で数百匹の魚の大量死。

4月12日 米国 - オレゴン州ロッカウェービーチで、クラゲの大規模な大量死。


4月12日には、中国 - 広東省で数千匹の魚が突然、池に浮く(鳳凰網)。

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4月11日 日本 - 茨城県の海岸に 150匹のイルカが打ち上げられ、その大多数が後に死亡。

4月11日 米国 - 鳥インフルエンザで 120万羽の鳥が死亡。

4月10日 インドネシア - デリ・セルダン・リージェンシー川で、大規模な魚の大量死が発生。

4月9日 ニジェール - マラディの農場で鳥インフルエンザにより 2,440羽が死亡。


4月8日 韓国 - 2014年12月以来、疾病により、139,000頭の牛と、388万羽の鶏が殺処分された。( GrobalMeal

4月8日 米国 - ニューヨーク州西部の池で魚の大量死。

4月8日 米国 - マサチューセッツ州の池で、何百匹もの魚が死亡。

4月8日 ブラジル - ムリチバとバルゼドで 40,000羽の鶏が死亡。

4月7日 米国 - ノースダコタ州の湖で 600羽以上の水鳥が死んで発見される。

4月7日 カナダ - オンタリオ州で、鳥インフルエンザによって 7,500羽の七面鳥が死亡。

4月7日 タイ - ランパンで 5,000匹の死んだ魚が池に浮かんでいるのが発見される。

4月6日 台湾 - 鳥インフルエンザで 7,600羽のガチョウが死ぬ。

4月6日 インド - コレル湖で魚の大量死。

4月6日 インド - カーリーバインで数百匹の魚が死んで見つかる。

4月6日 オランダ - 北ブラバント州で、鳥インフルエンザが原因で 12,000羽の鳥が死亡。

4月6日 ポルトガル - テージョ川で数千匹の魚が死んで見つかる。

4月5日 ブラジル - サントスのマングローブ林で魚の大量死。

4月4日 メキシコ - トント川で数百匹の魚の大量死。

4月4日 イスラエル - イスラエル北部地区で 55,000羽の鳥が疾病で死亡。

4月3日 アルゼンチン - ラシエナガダムで魚の大量死。

4月3日 米国 - ペンシルベニア州ベツレヘム・タウンシップの池で死んだ魚が数百匹見つかる。この池では初めてのこと。

4月3日 中国 - ランタオ島で、数千匹の魚が浮かんでいるのが発見される。


4月2日 米国 - アラスカのスワード市沿岸で、海鳥が衰弱での大量死。(米国 Seward City News

4月2日 ベトナム - ハイズオン池で、何トンにもおよぶ魚が突然浮かび上がる。(ベトナム Lao Dong

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4月2日 カナダ - レジーナのワスカーナ湖で魚の大量死。

4月2日 米国 - サウスダコタ州で 53,000羽の七面鳥が鳥インフルエンザによって死亡。

4月2日 米国 - フロリダ州のペンサコーラビーチで、数千匹のクラゲが打ち上げられる。

4月1日 エクアドル - チンボラソで大雨の後に 75,000羽の鳥が死ぬ。

4月1日 タイ - サラブリ川の魚の養殖場で、何トンもの魚が死亡。

4月1日 アメリカ - ニュージャージー州の湖で、過去数週間にわたり、魚が打ち上げられ続けている。

4月1日 アメリカ - バージニア州のエリザベス川で、数百匹の死んだ魚が打ち上げられる。

4月1日 ジャマイカ - ポートモアの運河で、大規模な魚の大量死。





書き写すだけで、何だか疲れてきますが、4月はここまでです。

ここからは、3月から1月の中で、印象的なものをピックアップしておきます。




2015年 3月

3月31日 インドネシア - クロン・プロゴで数百羽の鶏が「突然」死亡。(インドネシア news.okezone

3月29日 中国 - 湘潭市の池で4トンの魚が池で死んでいるのが発見される( news.sina )。

3月28日 ルーマニア - ドナウデルタで 100羽のペリカンが鳥インフルエンザによって死んでいるのが発見される。( Reuter


3月21日 コロンビア - カンポアレグレのダムで 80トンもの魚の死骸が浮かぶ。( La Nacion

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3月17日 米国 - アイダホ州で 2,000羽以上の雪ガチョウが、空から死んで落ちてきた。( Yahoo! News

3月11日 ベトナムは - ハ・ティンで、何百ト​​ンものアサリが大量死。かつて、このようなことが起きたことはない。( Lao Dong

3月11日 ウルグアイ - 200トン以上の死んだ魚がモンテビデオに打ち上げられる。( El Observador

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3月9日 ミャンマー - モンユワで鳥インフルエンザが原因で 25万羽の鳥が死亡。( Myanmar Times

3月7日 アメリカ - カリフォルニア州で 1,450頭のアシカの子どもが病気で座礁するか、死亡している。推定では数万頭が死亡していると見られる。( Modesto Bee

3月6日 シンガポール - シンガポールの東にある養魚場での藻類により、600トンの魚が死亡。( Channel News Asia


3月4日 台湾 - 今年1月から 417万羽の鳥が、鳥インフルエンザによって殺処分されている。( Focus Taiwan



2015年 2月

2月28日 オーストラリア - ニューサウスウェールズ州ベリンジャー川で 100匹のカメが死亡。または瀕死で見つかる。(オーストラリア abc

2月23日 南スーダン - パリアン郡で「未知の病」により、2,500頭の牛が死亡。( Radio Tamazuj

2月19日 インド -オリッサ州で 800頭以上(おそらく数千頭)の死んだカメが打ち上げられる。(インド Odishasunt Times

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2月19日 ナイジェリア - 鳥インフルエンザが原因で 41万 7041羽の鳥が死亡。( all africa

2月14日 ニュージーランド - フェアウェル・スピットで 198頭のクジラが座礁し、そのうち 140頭が死亡。( sky news

2月4日 台湾 - 鳥インフルエンザにより 107万羽のガチョウが殺処分。これは、台湾のガチョウの数の半数以上。


2月4日 インドネシア - マニンジャウ湖で 16.5トンの魚が「突然」死亡。(インドネシア Antara News

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2月3日 イタリア - エミリア・ロマーニャで 12月と1月の間に 135匹のカメが死んでいるのが発見される。( Quotidiano



2015年 1月

1月31日 メキシコ - バハカリフォルニアのビーチで 150頭のカメが死んでいるのが発見される。( Pulso

1月26日 ブラジル - 過去2ヶ月の間に、リオ・グランデ・ド・スルの海岸に 350頭のカメが死んで打ち上げられている。( Gaucha

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1月12日 南スーダン - ジョングレイ州で 2,000頭の牛が疾患により死亡。( Radio Tamazuj




というわけで、1月に到達した頃には疲れてしまって、月を遡るごとに紹介する出来事が少なくなっていますが、最近は、あまり大量死の報道を気にしていなかったですけど、なかなか大変なことになっているようです。

特に、「カメの大量死」が多くなっているというのと、台湾の鳥インフルエンザが大変なことになっていたことを知りました。

今回は羅列で終わってしまいますけれども、今後の流れ次第では、この「大量死」ということに関しても、かなり激しい時代に突入している可能性もあります。





  

2015年04月29日



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528Hz周波数が水に描く紋様
528hz-water-sound.jpg
528 hz frequency cymatics in water






 



ささやかな激動期だったこの1ヶ月

先月、人生最初の講演会をしてから1ヶ月ほどになりますが、その講演会は、何といいますか、私自身にとって、重要な偶然や出会いのキッカケや始まりとなった日でした。

そして、それからの1ヶ月は、私にとって特別な1ヶ月だったといっていいと思います。

講演会の時のことは、

宇宙の創造…ひも理論…432Hz…528Hz…ライアー…:数々のシンクロの中で、この世の存在は「音そのもの」であるかもしれないことに確信を持てそうな春の夜
 2015年03月22日

という記事に書きましたが、講演会の日に、主催のヒカルランドの社長さんから、音の周波数とこの世のなりたちについて記されている『ウォーター・サウンド・イメージ』をいただいたり、あるいは、講演会に来ていただいていた、ライアーの演奏ユニットでらっしゃる、リラ・コスモスさんから演奏 CD をいただき、ライアーの存在と、その音色を知ることができたというのも大きいです。

それ以来、私の BGM には、ライアーの音楽の占める割合がとても多くなっていて、自然とそうなっているということは、体というか心というか、求めている部分があるのだとも思います。



薬の真実も知り

その少し後に、偶然「薬の作用の真実」を知る機会に恵まれます。

昨年以来、どうも、めまいやら胃の不調やら神経症的なものやら、たびたび体調や神経的な問題に見舞われていた際、その度に薬でごまかしていたのですが、

「こんなんでいいのだろうか」

と考えながら道を歩いていた時、ふと目にした「自律神経免疫療法」の研究をされている医師の方々が記したムックを偶然手にして、それによって、薬(西洋薬)が体に及ぼす「負のメカニズム」をはじめて知ることになりました。

その際に知ったのは「抗コリン薬」という、風邪薬を含めた多くの西洋薬について「免疫を落として病気を難事化させる可能性」についてでしたが、その後、

・ベンゾジアゼピン系(抗不安剤や抗うつ剤の一部)
・抗うつ剤
・降圧剤


なども、どれも基本的に「とても体や脳に悪い」ということも知りました。

また、それらのことは、私自身の幼少時からの体験とも合致し、経験上からも「ほぼ間違いない」といえるところにいます。

ここではそのメカニズムには詳しく触れませんが、それぞれ、過去記事の、

ブラック・フラミンゴが現れた地球。そして、数百万人の「ベンゾジアゼピン依存症」が作られている日本
 2015年04月12日

健康ブームの中でガンが増え続ける理由…
 2015年04月10日

に記しました。

皮肉なデータもいろいろと目にしました。たとえば、 1980年代くらいからは健康ブームが盛り上がり、それ以前よりも人々が健康に気を遣うようになりました。

多くの人たちがタバコをやめたり、数多くの健康食品が出現し、あるいは、不調の場合には病院にすぐに行き、すぐ薬を処方されるようになったのですが、その 1980年頃から、

「むしろ病気での死亡者数と認知症の患者の数は急速に増えている」

ということが、厚生労働省のグラフから明らかになっています。

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厚生労働省


これらには、いろいろな要因はあるにしても、その根本には「日本人の自己免疫の低下」があることは間違いないと思われます。そして、その免疫の低下に「薬」と「食品の問題」が、少なからず関係していると確信するに至っています。

特に、「毎日飲むような日常の薬」に問題がありそうです。

それほど気に留めないで飲んでいる睡眠薬や抗不安剤。
まわりもみんな飲んでいるから、と飲み続けている降圧剤。
ちょっと落ち込んだ時に処方されて、漫然と飲んでいる抗うつ剤。


こういうものが、どれだけ私たちの細胞や免疫システムにダメージを与えているかということが、このトシになってやっとわかったのでありました。

私も何も知らなければ、たとえば、医者に「血圧が高いですね。降圧剤でも飲みますか」と言われて、自覚なく、「はあ、そうですか」とか言って飲んでいたかもしれません。

降圧剤のうち、現在使われている「カルシウム拮抗剤」という種類の降圧剤では、体のすべての細胞の「カルシウムが通る穴」を閉じてしまい、免疫細胞の機能まで弱まってしまうことが問題で、それが「ガン細胞が排除されない原因となる」と、関東医療クリニックの松本光正医師は述べています。

あるいは、細胞の機能を弱めるようなものを飲み続けると、いつかは脳細胞に問題が出るのではないか、ということも含めて、脳や認知の働きにも関係するのではないかと私は思っています。

しかし、現実として、日本人の成人のうちの4に1人が降圧剤を飲んでいる
高齢者に限れば、もっと高い比率で飲んでいるかもしれません。

まあしかし、薬のことは今回は関係ないですが、この1ヶ月、

・音にまつわること
・薬にまつわること


のシンクロが次々と起こり、その中で、いろいろな本とも出会ったのですが、たとえば、その中の、

・シュタイナー(神秘思想家、医学研究者、他)
・森田正馬(森田療法を生み出した精神科の医師)
・中村天風(日本最初のヨガの行者)
・野村晴哉(整体の始祖)


あたりの人たちは、共に思想の出発点はまったく違うわけですし、何より、学問や探究の対象そのものがまったく違うものなのにも関わらず、

「ときとして、同じ思想に辿り着いたり、同じ発想の展開を見せる」

ことに、この世の興味深さを知った次第でした。

その中でも、今回は「恐怖」について、自分に向けた内容も含めた記事を書こうと思っています。




恐怖は無価値な観念だとは知ってはいるけれども

これの「恐怖との対峙」に関して、私は、2週間ほど前に、

自分が「今生」に生まれた理由がやっとわかったのは嬉しいけれども、恐怖と不安からの解放の前に立ちはだかる「西洋科学的思考」
 2015年04月17日

という記事を書きまして、私が今の「生」の中でおこなわなければならないことは、

「生まれた時から持つ根源的な恐怖と対峙して、これを消し去る」

ことだということに何となく気づいたことを書きました。

しかし、そこにも書きましたけれど、これほど難しいことはあまりないのです。

大人になってから体験の中で築かれた恐怖ならともかく、まだ何の経験もない幼い頃から、私は「意味のわからない恐怖」を持っていまして、そんな生まれて以来持つものを簡単に消し去ることなど、不可能に近いです。

私がシュタイナーの言う「輪廻転生」的な部分に、やや共鳴できるのは、そのことがありました。

つまり、

「生まれながらに得体の知れない恐怖を持ってるって変だろ」

ということです。

「恐怖遺伝子」なんてのがあるならあれですけれど、まさか胎内で親の持つ恐怖感が伝染するというわけでもないでしょうし、私の根源的な恐怖は「前代(前世)」からの引き継ぎであると考えてもいいのかなと思うこともあります。

しかも、「〇〇が怖い」という理由があったり、ガイコツやモンスターが怖いというような、誰にでもあるような観念なら問題ないのですが、私の場合は「恐怖の対象が何なのだかわからない」のです。

幼稚園に入る頃から「怖い対象が何もないのに、突然、恐怖にとらわれる」ことがよくありました。

道で突然、怖くて歩けなくなる。

あるいは、その後、「夜驚症」というものにもなっています。

夜驚症 - Wikipedia

夜驚症(やきょうしょう)とは、睡眠中に突然起き出し、叫び声をあげるなどの恐怖様症状を示す症状のことである。概ね数分から十数分間症状が続く。

夢とは異なり目覚めた時に本人はそのことを覚えていないのが普通である。小学校入学前から小学校低学年の児童に見られる症状であり、高学年以上では稀である。睡眠中枢が未成熟なために起こる症状であると考えられている。

上には、

> 目覚めた時に本人はそのことを覚えていない

とありますが、私は夜驚症の中のいくつかを覚えています。

というか、妙な書き方ではあるのですが、夜驚症で恐怖に苦しんで叫んで走り回っている自分の姿を「客観的に見ていた」ことを覚えています。

まあ、小さな頃のことなので、そのような思い込みだったのかもしれないですが、今でも恐怖で叫んでいる自分の姿を思い出して切なくなります。

夜驚症は、こちらによりますと、アメリカのデータで、繰り返し起こしている率は、児童全体の 5%くらいということで、特に少ないというわけでもないようです。

私の場合は、8歳くらいまでには収まっていたと記憶しています。

ただ、今でも思い出しますが、発作の前に、眠っている目の前に「針が突き出たような大地」が広がり、それがガーッと広がっていった光景を思い出します。その光景が何だかわからないのに、怖ろしくて怖ろしくてどうにもならない。

夢遊病的なものを想像される方もいらっしゃるかもしれませんが、認識はしっかりしているのです。日常の光景は普通に目に入っています。ただ、その光景が「その前にベールのようにある光景の奥に広がっている」という感じです。恐怖の光景の後ろに、心配そうな父と母の顔や、部屋の様子など日常が広がっている・・・。

まあ、夜驚症はともかく、そのように、いろいろと「恐怖」についての症状は多かったのですけれど、ちなみに、小学校の・・・何年生だか覚えていないですが、「作文」で、この「根源的な恐怖」をテーマにしたものを書いたことがあったんですが、先生からは「書き直したほうがいいのでは」と言われたことを思い出します。

教師さえも目を背けるイヤな内容だったのかもしれません(笑)。
でも、その時は「書き換えません」とお断りしました

そして、大人になってからは、不安神経症とパニック障害という「恐怖の権化」のようなものにも囚われまして、二十代の私を「ベンゾジアゼピン薬漬け」としていきました。

そういう長い付き合いのある「恐怖」ですから、そう簡単に、どうこうできるものではないのは確かなのですが、最近読んだどの人の本にも、


恐怖観念ほど無価値で無意味なものはない。


という主旨が述べられています。

シュタイナーは、恐怖心や臆病な心は「克服しなければならないこと」としています。

著作『いかにして高次の世界を認識するか』の中で、シュタイナーは、不安や恐怖を持つ人は、常に下のように考えることが重要だとしています。

「あらゆる観点から見て、私が不安を抱いても、何の役にも立たない。私は一切不安を抱いてはいけない。私は、自分は何をするべきなのか、ということだけを考えなくてはならない」

しかし、こう言われて、これだけで「はい、これで私は不安や恐怖を克服しました」と言える人は、多分、元々がすごい人であり、私のような人間には、このような言葉だけではどうにもならない面があります。

そこで、今回は、日本の賢者ふたりによる「不安と恐怖」についての文章をご紹介したいと思います。




不安や恐怖への対処

ここでは、薬を使わない強迫神経症の治療方法のひとつである森田療法の創始者である医学博士の森田正馬さんが昭和2年(1927年)に書かれた『神経質の本態と療法』からの抜粋です。

「神経質」というのは、今でいう神経症と、大体は同義だとしていいと思われます。

私は森田療法を受けたことはないですが、二十代の時に森田療法の本を読んで、ずいぶんと気が楽になった記憶があります。

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・森田正馬( 1874 - 1938年)


今回抜粋するのは、「恐怖」に限定したことではなく、様々な想念や出来事についてのことで、また、最近悩まされていた「めまい」という言葉も出ていたので、その部分を抜萃することにしました。

ちなみに、この抜萃部分は「神」という言葉から始まりますが、森田医師は基本的に、宗教的な意味での神という存在を信じません。森田医師は、神というのは「自然法則そのもの」だと考えています。



『神経質の本態と療法』 宗教的および哲学的説得 より

神、仏、真如とかいうものは、宇宙の真理、すなわち「自然の法則」であって、法そのものにほかならない。

真の宗教は、自己の欲望を充たそうとする対象ではない。神を信じるのは、病を治す手段でもなければ、安心立命を得る目的としてもいけない。神仏に帰命頂来(きみょうちょうらい)するということは、自然の法則に帰依、服従するということである。

因果応報を甘んじて受け入れ、周囲の事情、自己の境地を喜んで忍受(にんじゅ)することである。

われわれの血行も、心の中に起こる感情や観念連合も、みな法性(ほっしょう)であって、常に必ず自然の法則に支配されている。

夢も偶然の思いつきも、忘却も、執着も、みな必ずそれに相応する事情があってはじめて、そのようになるのである。頭痛、眩暈も、必ず起こるべくして起こる弥陀(みだ)の配剤であれば、煩悶、恐怖も必ずあるべくしてある自然法則の支配によるものである。

われわれはこの自然法則に勝つことはできないことを知り、不可能を不可能として、それに服従することを正信(しょうしん)といい、因果の法則を曲げて不可能を可能にしようとし、我と我が心を欺き、弥縫(びほう)し、目前の虚偽の安心によって自ら慰めるものが、すなわち迷信である。

梨を「有りの実」といって金が儲かるかと思い、消化薬を呑んで大食し、一銭の賽銭で相場を当てようとするのはみな迷信である。

迷信と宗教とは、同一の起源から発生した双子であって、迷路と悟道とに分かれ生育したものである。生老病死の畏怖に対する「自己欺瞞」が「迷信」であり、自己没却が正信(しょうしん)である。瀆神恐怖、縁起恐怖等の強迫観念は、迷信の発生をほとんど典型的に示したものである。





ここに出てくる「法性」という言葉の意味は、辞書によりますと、

すべての存在や現象の真の本性。

ということだそうで、ここに「身」がつき、「法性身」という言葉になりますと、

仏陀の肉体に対して、その悟った真如の法を本性とする色も形もない仏。

という意味になるのだそう。

森田医師は、

> 必ず起こるべくして起こる弥陀(みだ)の配剤であれば、煩悶、恐怖も必ずあるべくしてある自然法則の支配によるものである。

として、

> われわれはこの自然法則に勝つことはできないことを知り、不可能を不可能として、それに服従する

という心境に至ることが不安や恐怖の克服への道だというように説きます。

これは「苦しいことを無理矢理、楽しいと思え」ということではなく

「苦しいことを苦しいこととして受け止め、それ以外の何ものでもない」という状態を作り出す。

ということでして、まあ、つまり、森田医師は自らの患者に「悟り」に近い境地へと導いていたということにもなりそうです。

ちなみに、森田医師は別にヘンな出所の医師ではなく、現在の東京大学医学部出身の、完全なエリート精神科医で、森田療法に行き着くまでは、化学療法を含むさまざまな療法をおこなっていました。

しかし、それらのどれにも一時的な効果しかないことを体験し、その中で、森田療法に行き着いたのは、宗教的動機でも何でもなく、「医学的実験と医学的な試行の末」に行き着いた完全な「西洋医学」的なアプローチから生まれたものです。

それはともかくとして、森田医師の言う、

> 煩悶、恐怖も必ずあるべくしてある自然法則の支配によるもの

ということを理解するためには、過去記事の、

中村天風師の語る「極微粒子=気=創造主」の概念で 25年間持ち続けた「神様の正体のモヤモヤ」が少し晴れた日
 2015年04月14日

でご紹介した、日本最初のヨガの行者であった中村天風さんの、

たったひとつだけの宇宙の本源が森羅万象のすべてを生み出した

という言葉、つまり、「何もかもが、自然法則の支配の下にある」ということを、根源的に知る、あるいは「体全体で知る」ことができれば、少しは「恐怖」と対峙するための姿勢として、前に進めそうな気もするのですけれど。

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・中村天風( 1876 - 1968年)


中村天風さんの講演をまとめた『運命を拓く』から、宇宙の法則から見て、恐怖観念を持つことがいかに無意味なことかを語っている部分を抜萃します。




『運命を拓く』 恐怖への戒め より


恐怖観念、詳しくいえば、病はもちろん、人事世事一切の出来事に対して、物を怖れるという気持ちくらい、価値のない結果を人生にもたらすものはない。

ところが、今までのあなた方は、ちよっとでも体が悪いと、すぐおののき、怖れている。わずかな運命に見舞われても、それが、とてもどえらい運命になってしまうように怖れてしまう。毎日の人生一切の出来事に対して、この恐怖観念で応接しているという場合が多い。

このくらい、人生というものを哀れな状態にするものはない。なぜかというと、恐怖すればするほど、価値のない結果が人生にくるからである。

ベーコンという哲学者がいった言葉に、

「人の大いに怖るるところのものは必ず、遂に襲い来るべし」

というのがある。

これはまさに、このコンペンセーション(報償)の法則を、必然的のものであるという信念で、人生を考えている偉大な哲学者の言葉である。

何度も言っているとおり、宇宙霊という生ける大きな生命は、常に我々人間の心で思ったり、考えたりする事柄の中で、特に観念が集中し、深刻な状態の時に、その観念が、その事柄に注がれると、咄嗟にそれを現実の「すがた」に表現しようとする自然作用があるのである。

さあそこで考えてみよう。一生忘れないような深刻な記憶に出来るくらいに、瞬間的でも、観念が集中されたとすると、それが宇宙霊の力を受け入れる「鋳型」が用意されたことになる。

そのとき出来上がっている「鋳型」というものが、良かろうと、悪かろうと、極めて確実な「すがた」が出来上がったことになる。そうすると、その恐怖している事柄が、やがて事実となって現実化してくる。

否、むしろ、そうなることが当然である。

いずれにしても、感情というものは、その種類が、いかなるものであろうと、我々の肉体や、人格に影響せずにはいられないように出来ているのである。





というように、天風さんは、

「不安になるから、現実の不安がやってくる。恐怖するから、現実の恐怖がやってくる」

ということを言っています。

これは道徳的な道理に基づくのではなく、天風さんがインドの山奥で修行して行き着いた「宇宙の摂理」に基づく信念でもあります。

反対にいえば、

「不安にならなければ、現実の不安はやってこない。恐怖しなければ、現実の恐怖はやってこない」

ということにもなりそうですが、まあ、言葉としてはわかりますが、これはやはり難しいところです。

しかし、どんなことでもそうなんですが、「思考」や「思想」というのは、何だかあっけないほどの理由で気づかされることになるようなことも多いです。

そして、何より実は、私は、十代の時に「恐怖の解消」を1度経験しているのですよ。

だから、あの時の感覚はわかるのですが、年齢を重ねますと、体に染みついた恐怖の元型はさらに屈強に複雑になっている感じでして、「難治性の恐怖」ともいえるものはあります。

しかし、やはり、ここを越えなければならない、あるいは、「越えようとしたけどダメだった」という努力だけでもいいので、なにがしかを考えなければならないようです。

そして、できるだけ多くの方が、「不安と恐怖への呪縛」から解放されることが、多分、世の中的にも現実に良いことなのだと思います。



  

2015年04月27日



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dust-storm-01.gif

▲ 2015年04月20日の YA LIBNAN より。


先日、中国の内モンゴルにあるアルシャン市というところで、「赤い日」が出現したということがありました。

mongoli-red-day.gif

▲ 2015年04月16日の news.syd より。

アルシャン市の場所
Arxan-map.gif
Googla Map

新華社のニュースでは以下のような出来事でした。


中国・内モンゴル 不気味に赤く染まった空、泥雨も伴う
新華ニュース 2015.04.16

4月15日午後2時ごろ、内モンゴル阿爾山(アルシャン)市の空が、不気味に赤く染まり、黒い物質を含む小雨が降った。

2時40分、赤く染まっていた空は次第に解消され、2時50分には普通の空の色に戻った。



というもので、

・突然、空が真っ赤になった
・その後、「泥の雨」が降ってきた


という自然現象だったようです。

今回は、いままでもふれたことがありますが、ひれらの「赤い現象」について書かせていただこうと思います。

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世界の至るところに出現する「赤い日」

普通、「赤い大気」というのは、砂嵐、中国なら黄砂や公害などが原因でもたらされることが多いです。

特に今年の中国は、史上最悪の黄砂に見舞われたりしていますので、そういうものかと思いましたが、それとは関係なく、雨(しかも泥を含んだ雨)の前に空が赤くなったという現象そのものはとても珍しいと思います。

ちなみに、単なる黄砂でも、度が過ぎると、黄色を越えて「赤」になります。

下は、4月中旬に史上最悪レベルの黄砂に見舞われた北京市の様子です。

2015年4月16日の北京
baijing-dust-storm.gif
visionunion


北京に限ったことではないかもしれないですが、中国では、黄砂や公害を含めて、いろいろと大変なようで、3月28日の産経ニュースの記事には以下のようにありました。


黄砂に覆われ「最悪」超える 北京の大気汚染
産経ニュース 2015.03.28

中国北京市は28日、北部から飛来した黄砂に覆われ、天気予報サイトによると、北京市の大気汚染指数は軒並み500となり、6段階で最悪の「深刻な汚染」(指数301以上)を大幅に上回った。

北京市は大気汚染警報を発令し、住民に屋外での活動を控えて、窓を閉めるよう呼び掛けた。



記事に、

> 住民に屋外での活動を控えて、窓を閉めるよう呼び掛けた。

とあり、これは何となく問題のない呼びかけのようにきこえますが、中国の清華大学の調査によれば、室内にいても、汚染からは逃げられないばかりか、

「屋外より室内のほうが PM2.5 の影響が著しい」

ことがわかったのです。


中国・北京市 室内でのPM2.5の吸入量は室外の4倍
新華ニュース 2015.04.23

清華大学の調査研究報告書によると、PM2.5(微小粒子状物質)の室外における汚染に比べて、室内での汚染は人体に対する影響が更に著しく、室内ではPM2.5を吸い込む量が8割を占める。

2カ月半の期間内で、調査研究チームは北京市のボランティア407人の累計11万時間の室内PM2.5のデータを得た。範囲は、北京市の13の区と県の7703地点におよぶ。



つまり、「屋内にいた方が、汚染の影響を大きく受ける」と。

これなら、むしろ「 PM2.5 濃度がひどい時には、外に出た方がマシ」という、何だか、どう対処すればいいのだかわからないことになりそうで、「どうすりゃいいんじゃ」という北京の人たちの声も聞こえてそうですが、確かに PM2.5 は「微小粒子状物質」という名前の通り、屋内にいた程度で遮断できるようなものではないかもしれません。

逃げ場なしという感じとなっているようです。




数年前は珍しかった「赤い朝」が今ではありふれた現象に

ところで、私が今回の内モンゴルの「赤い日」に注目したのは、つい先日、オーストラリアのシドニーで、とんでもない量の雹(ひょう)が降ったという出来事がありまして、そのことと関係しています。

秋のオーストラリアで過去最大級の雹の嵐
 2015年04月27日

シドニーの 2015年4月25日の光景
sydney-hail.jpg
Twitter

そして、このシドニーでは、今から6年ほど前に、やはり「赤い朝」が報道されたことがあるのです。今回の内モンゴルの風景を見て、その時のことを思い出したのでした。

このことは、

オーストラリアに出現した「地球最期の日」
 2009年09月23日

という記事でご紹介したことがあります。

シドニーの 2009年9月23日の朝
red-morning.jpg
Dust Storm produces a deep red sky in Australia


この時は、いろいろなメディアが「アルマゲドン」とか「終末の夜明け」とか、そのような表現で、この出来事を報じていました。

現象そのものは、砂によって引き起こされたものだとされましたが、「日常空間が真っ赤に染まる」ということは、オーストラリアでも、あるいは他の場所でも珍しい現象だったからこそ大きく報道されていたのだと思います。

「赤い日」が実際的に終末的なのかどうかは何ともいえないのですが、イメージとしては、確かにそういう響きを持つ力はあります。

そして、その、かつては珍しいことだった「赤い風景」が世界各地で出現しているということに何となく思うところがあったのかもしれません。

これら「赤い日」の原因には不思議な点はなく、そのほとんどが、砂塵嵐(ダストストーム)によるものです。

しかし、冒頭に載せましたように、この砂塵嵐のあまりの多発ぶりに、「なぜ、突然のように最近は砂嵐が増えたのか」ということに関して、専門家たちが困惑しているということのようです。

この春の「赤い光景」の報道を少しご紹介します。


アラビア全域の砂塵嵐の多発

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▲ 2015年04月02日の Slate より。

このアラビア半島などでは、この春、たびたび激しい砂嵐が起きています。

ドバイなど観光地も航空便やインフラに被害を受けていて、その被害はたかが砂嵐ではあっても、その影響は、それなりに大きなものであるようです。


インドでの砂塵嵐と悪天候の多発

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▲ 2015年04月18日の India TV News より。


インドも極端に荒れた天候が続いているようで、上のウッタル・プラデーシュ州では、その他にも何度も何度も、砂嵐や竜巻などで犠牲者が出ています。

up-14.gif

▲ 2015年04月04日の kannadaprabha より。


他にも、様々なところで、ダストストームが頻発しているわけですが、どうしてこんなに増えているのかは、冒頭の記事によれば「わからない」ということになります。もちろん、推測はいろいろとあるのですが、確定的なことは誰にもわかっていません。

ダストストームが増えたからどうしたという具体的な理由があるわけではないですけれど、何というか、こう、「終末的な光景」という言葉のニュアンスと連動する部分を感じる部分はないでもないです。




どうも世界の光景がアポカリプス・ナウ

ちなみに、先日ほどの内モンゴルの「赤い昼」について、英国デイリーメールは、「アルマゲドン」という言葉を使った見出しの記事としていました。

armageddon-red-china.gif
Daily Mail


ふと思うのは、何だかここ最近「終末的な感じ」の光景をずいぶんよく見ていることです。

先日の、

50年ぶりに噴火した南米チリの火山の終末的な光景や、ロシアで発生した「大地の津波」ともいえる水平地崩れを見て思ういろいろ
 2015年04月24日

という記事でご紹介したチリのカルブコ山の噴火の凄さ。

噴火するカルブコ山
calbuco-5.jpg
Argentina Independent

あるいは、ロシアの「大地の津波」。

russia-earthflow-3.jpg
YouTube


ちなみに、チリのカルブコ山の噴火では、噴煙の中に「人のような姿」が浮かび上がったことが話題になったりしていますが、こういう偶然もまたいろいろと。

カルブコ山の噴煙に示された現象
Human-Like-Figure.jpg
YouTube


そして、4月27日現在の報道では、3300人が亡くなっている上に、まだ被害の全貌そのものが明らかになっていないというネパール大地震の惨事。

ネパール大地震で倒壊した仏教寺院
nepal2.jpg
The Star


何というか、いろいろと感じるものがありまして、今日あたりは何となく、シュンとした気持ちでおりまして、あまり軽快に記事を書いているという感じでもないです。




「赤の連続」の行く末は?

赤といえば、今は、

赤い月と黒い太陽: 2014年から 2015年まで「4回連続する皆既月食」がすべてユダヤ教の重要宗教祭事の日とシンクロ…
 2014年04月06日

の、「4回連続する赤い月(皆既月食)」の渦中です。

今月の最初の頃に書きました、

満開の桜の中の赤い月の日はラーフの怒りと共に太陽でも大爆発
 2015年04月05日

という記事では、2012年頃から「海や川が赤くなる」という現象が続いていたことにふれました。

その中でも、2012年9月にユーラシア大陸最長の川である長江が赤く染まるという出来事はかなり不思議なことだったと今になって認識します。

赤く染まった長江
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▲ 2012年09月12日の記事「赤く染まるユーラシア大陸最大の川と、カリフォルニアの周囲100キロに漂う9月11日の腐臭」より。


そして、川や海、月や夜空(オーロラなど)が赤くなることが連続していた中で、私は上の記事で以下のように書いていました。

水…… 夜空…… と来て、次は何が赤くなると考えるといいのでしょうかね。

そして、今、冒頭の砂塵嵐のように、世界各地で、「生活空間そのものが赤くなる」ということが起きているのだなあと思います。

世界がどんどん真っ赤になっていくってのは、どのように理解すればよいものなんでしょうかね。

もちろん、イメージとしてですけれど、いい傾向なのか、悪い傾向なのか。



  

2015年04月25日



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北海道で起きている「大規模な大地の隆起」

本題とは関係ないですが、今朝、下のニュースが報じられていました。

rausu.jpg
NHK

北海道の羅臼というのは、知床半島にある場所です。

知床半島といえば、森繁久彌さんが歌った 1960年の『知床旅情』で名高い場所ですが、この年は、東映サラリーマンシリーズの最高峰『サラリーマン忠臣蔵』が発表された年であり、森繁久彌にとっては公私ともに充実した時期だったといえるかもしれません(だからどうした)。

その知床の海岸で、何だか大変なことが起きているようです。下は、北海道新聞からです。


羅臼の海岸線、15メートル隆起? 長さ800メートル、幅30メートル
北海道新聞 2015.04.25

24日午後6時ごろ、根室管内羅臼町幌萌町の住民から「近所の海岸線が隆起しているようだ」との連絡が羅臼町役場に入った。

同町によると、羅臼町幌萌町の海辺が約800メートルにわたり、高さ約10〜15メートル、幅約30メートルの規模で盛り上がっているのを確認したという。



ということで、「 800メートルの範囲」と小さくはないです。

記事には、

> 近所の女性が24日早朝に訪れた際には約30センチの高さで土砂が盛り上がっていたという。

とありますので、「1日で 10〜 15メートル」海底が隆起してきたようです。

まだ起きたばかりで何がどうなるのかわかりませんが、この北海道の大規模な地盤の隆起、高さや広さが、この範囲だけで止まるのでしたらともかく、今後の動向が気になるところです。

昨日の記事でご紹介しました、ロシアの奇妙な大地の現象などもそうですが、いろんなことが起こりますね。

というわけで、今回の本題は、ニュース性があるものではないですが、最近「現代の医学の進んできた道は正しかったのだろうか」と思うことがたまにありましたが、ルドルフ・シュタイナーのいくつかの本を読んでいるうちに、

西洋医学は 500年以上も前から正しい方向ではない方へ歩んできた・・・かもしれない

ということがわかってきたような気がしたのです。



シュタイナーの守備範囲の広さ

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・ルドルフ・シュタイナー(1861 - 1925年 / 64歳没)

ここ3日ほど、シュタイナーの本が立て続けに届きました。

これらも、Amazon の「この商品を買った人はこんな商品も買っています」に、いろいろと表示されたものを購入してしまったものです。

それにしても、シュタイナーという人は、守備範囲の広い人で、届いたうちの一冊は、『音楽の本質と人間の音体験』というもので、タイトル通り音楽に関してのものです。

私は最初、「ふんふん、ま、音楽ね」と油断して読んでいると、音楽原理主義者ともいえるような、怒濤のごときシュタイナーの「音楽への熱い想い」がぶちまかされていて、圧倒されます。

音楽だけを一生涯研究し続けた音楽学者のごとき熱意が感じられるのです。

たとえば、「なぜ楽器が必要なのか」という、何だか軽くも流せそうな話題も、シュタイナーに語っていただきますと・・・。


『音楽の本質と人間の音体験』音楽教育の基礎より

人間の音楽的発展は、そもそもどのようなものでしょうか。霊的なものの体験から発するものです。音楽のなかに霊的なものが現存することから発するのです。霊的なものは失われ、人間は音の形象を保つのです。

のちに人間は音を、霊的なものの名残としての言葉と結び付け、かつてイマジネーションとして有した楽器を物質的素材から作ります。楽器はすべて霊的世界から取って来られたものです。

楽器を作るとき人間は、もはや霊的なものが見えなくなったことによって空になった場所を満たしたのです。その空の場所に楽器を据えたのです。

音楽においては、唯物論の時代への移行がどのようにおこなわれるかが、ほかの領域よりもよく見てとれます。楽器が響くところには、かつて、霊的な実在があったのです。

その霊的な実在は、古代の霊視力から消え去りました。しかし、人間が音楽的なものを客観的に持とうとするなら、外的な自然のなかにはないものを必要とします。外的な自然は人間に、音楽のための相関物を与えないので、人間は楽器を必要とするのです。



なんとなく、「ふーん、楽器ねえ」と、いい加減な気持ちで読み始めたところに、この得体の知れない情熱と迫力。

「この紋所が目に入らぬか!」

というような、水戸黄門が正体を明らかにした時のような圧倒感も感じます。

言っていることに関しては、

・楽器の音色の部分は、かつて「実際に霊的な何かが存在した」空間
・今はその霊的存在はないので、その空間を楽器(の音?)で満たしている


ということなのでしょうけれど、言っていることは、さっぱりわからないのですが、熱い部分は感じます。「熱血霊学教師」というような言葉も浮かびます。

今回は音楽の話を書くわけではないですが、このシュタイナーの音と音楽への執念というのは、

宇宙の創造…ひも理論…432Hz…528Hz…ライアー…:数々のシンクロの中で、この世の存在は「音そのもの」であるかもしれないことに確信を持てそうな春の夜
 2015年03月22日

という記事あたりから記していたこともあるような、

この世界そのものが音である

というような概念をくすぐる感じもあります。

音や「音楽の意味」については、私自身の考え方なども多少はありますので、また別の機会に書かせていただくとしまして、話をシュタイナーに戻しますと、「医学」についても生涯研究し続けていたようで、1923年にシュタイナーがイギリスでおこなった「人体と病気の過程」(『病気と治療』に収録)の中で、

「医学についてわたしは三十数年研究してきて」

と述べています。

1923年となりますと、シュタイナーの晩年にあたり、62歳くらいだと思いますが、それでも、三十数年ということは、二十代から医学を研究し続けていたことになります。

精神科学(霊学)、音楽、哲学、教育、芸術、建築… と、いろいろと幅広くやっていたシュタイナーですが、「医学も真剣かよ」と、その活動の多方面ぶりには驚かざるを得ません。



「異端」が作り出した道

そんなシュタイナーですが、その思想の根幹(霊学的な思想)にはいろいろと逆風があったようで、講演の内容の中には、「現状の科学界への不満」のような言葉が垣間見られます。

たとえば、1909年1月18日に行われた講演「実際的な思考方法」の中で、シュタイナーは、「前世の存在」について述べた後に以下のように語っています。シュタイナーが 48歳の時です。


1909年のシュタイナーの講演「実際的な思考方法」より

「人間の存在の核は、前世に由来する」と見なす時代が、いずれやってくるでしょう。「人間存在は前世の成果である」と、認識するようになるでしょう。

「生物は泥などの無生物から発生する」という昔の学者たちの意見が克服されたように、輪廻思想に対する抵抗は克服されるにちがいありません。三百年前まで、「動物は泥などの無生物から発生する」と、自然科学者は信じていたのです。

イタリアの自然科学者フランチェスコ・レディ( 1626 - 1697年)が初めて、「生物は生物から発生する」と主張したのです。そのように主張したために、彼は攻撃されました。自然科学的な宇宙観を唱えて火炙りにされたイタリアの修道士、ジョルダーノ・ブルーノ( 1548 - 1600年)のような目に遭ったのです。

今日では、もはや火炙りは行われません。今日では、「心魂 - 精神は、心魂 - 精神に由来する」という新しい真理をもたらす者は、火炙りにはされませんが、愚か者と見なされます。

しかし、「人間は一度だけ地上に生きるものだ。祖先から遺伝される特質と結び付く永続的な心魂 - 精神など存在しない」という考えが否定される時代が、やがてやってくるでしょう。



と、シュタイナーは、その 1909年当時の、前世を含めた精神科学を認めない科学界の考えをやんわりと批判しています。

ジョルダーノ・ブルーノについては、私は3年ほど前に初めてその存在を知り、その頃、「現代のジョルダーノ・ブルーノを作り出さないためにという記事を書いたことがあります。

ブルーノは、無限の宇宙を主張し続け、そして、異端として焼かれて死んでしまいました。

ところで、シュタイナーは、「生物は同種の生物からしか生まれない」という、現在では科学的な常識とされていることを証明した自然科学者フランチェスコ・レディを他の講演でも引き合いに出していまして、そして、レディを「偉大な科学者」として賞賛していますが、このことからも、シュタイナーが、真実の科学の探究の道筋を大事にしていたことがわかります。

前世とか輪廻転生とかの概念は、今の世の中では、どちらかというと、正当な科学ではなく、オカルトやスピリチュアリズムのような捉えられ方をされますが、シュタイナーの言う霊学は、自然科学と同じ土俵上の科学だというとらえ方で良いのかもしれません。

そういう意味では、現代でも、前世や輪廻転生を語る人たちは、スピリチュアリズムに偏ることなく、正しい自然科学、正しい宇宙物理学などを学ぶほうが良いような気もします。その時点での正当な科学の智恵が根幹にないままに輪廻転生を語り始めると、それもまた霊学を誤った方向に導きそうな気がします。

どうも、最近の世の中で語られる「前世」という言葉の響きの「軽さ」には、何となく、やや問題があるような気もしています。

ところで、このフランチェスコ・レディという人ですが、フランチェスコ・レディ - Wikipedia には、


フランチェスコ・レディ(1626 - 1697年)は、イタリアの医師。

一連の実験を行ったことでよく知られており、1668年に発表した「昆虫の世代についての実験」は、自然発生説と呼ばれる学説への反駁の第一歩となった。当時優勢だった自然発生説では、肉を腐敗させるとそこから自然に蛆がわくとしていた。



とありますが、この実験は、文字で読むより、イラストで見てみますと、

「あー、この実験は子どもの頃、なんかで聞いた」

と思い出します。

当時の科学は「虫はモノから自然に発生する」とされていて、例えば、蛆は「肉から自然に発生する」と考えられていたことに対して、疑問を感じていたレディは、下のように、ふたをした瓶と、ふたをしない瓶で、その発生を確かめたのでした。

redis-experiment.gif
FRANCESCO REDI'S EXPERIMENT

この実験で、「生物は異物からではなく、同種の生物からのみ発生する」ということを実証したのですが、今では当然とされるこの結論を導き出したレディは当時は「異端」とされてしまったのでした。

シュタイナーもまた当時の科学界で、レディのように「異端」されていた部分が少なからずあったのではないか、ということが、さきほどのシュタイナーの講演で少しわかる気がします。

さて、そして、シュタイナーの医療に関しての講演をまとめた『病気と治療』に、16世紀の医者であり、錬金術師であったパラケラススという人の言葉が述べられています。

それを読むと、「医学はすでに 500前には誤った方向で固定されつつあった」かもしれないことが何となくわかってくるのです。

医学の本質のズレの問題はなかかなに根深いものであるのかもしれません。




パラケラススの時代の医学

パラケルスス(1493 - 1541年)は、パラケルスス - Wikipedia によりますと、


1515年にイタリアのフェラーラ大学医学部を卒業した後、医療を施しつつ旅を重ね(略)1525年にバーゼル大学の医学部教授に就任したが、その翌年には大学から追放され、以後放浪の身となる。追放の理由は諸説あり、現在も明らかになっていない。

パラケルススは医者であるが、錬金術師としても有名である。錬金術師としては「ホムンクルス(錬金術師が作り出す人造人間)を創り出すことに成功した」「賢者の石(霊薬)を持っていた」「常に持ち歩いている剣には賢者の石が入っている」といった伝説がある。



という人ですが、このパラケラススの考え方では、人間というものは、

・身体(地上界 / 目に見える世界)
・精気(天上界 / 目に見える世界)
・魂(霊的世界 / 目に見えない世界)


というものから成り立っているとしたものだったようです。

シュタイナーは、人間は、

・肉体
・生命体(エーテル体)
・感受体(アストラル体)
・自我


の4つの要素から成り立っているとしていて、多少の違いはありますが、パラケルススもシュタイナーも「人間は単なる肉体が生きていたり死んだりするもの」という考え方はしていません。

生きて動いている自分という存在と関係している「正体」は極めて複雑で、それが人間個人を形作っているとしているわけです。

そのパラケルススが語ったとされる言葉を、シュタイナーは、そのまま講演で述べました。

Paracelsus.gif
・1625年に描かれた錬金術的構成のパラケルススの肖像。
 Portraits of Paracelsus



シュタイナーの1908年の講演『病気と治療』より「パラケルススの言葉」を述べたもの

南欧の医者たち、モンペリエ、サレルノ、パリの医者たちは栄光にあこがれ、人を軽蔑したいと思っている。それなのに、医者たち自身はなにもものを知らないし、なにもできやしない。これはおかしいんじゃないか。

医者のおしゃべりな口も、豪奢な服装も、患者をごまかす技術にすぎない。浣腸したり、下剤をかけたり。

それでも死んでしまったら、あらゆる手段を尽くしたんだから仕方ない。医者たちは偉大な解剖学に通じているという。それなのに、酒石が歯に引っ掛かっているのを見落とす始末。

医者は、なにを解剖し、なにを見ているのか。

医者は、糞尿と付き合うけれど、目が二つしかないので、目のまえの体がよく見えない。ドイツの医者は一生懸命、カッコウみたいに覗く。

そうやって、いろんなものを見るけれど、昔のほうがかえってよく見えていた。糞尿と腐肉に囲まれて窒息しそうだ。医者が患者を連れていくのは、葬儀場だ。



と、16世紀の時点で、当時の医学を徹底的に批判しています。

まあ、この「医者が患者を連れていくのは、葬儀場だ」という部分に関しましては、パラケルススから 500年経った今でも、そういうような部分もないではないと思える部分もあるような・・・ないような・・・。

今はともかくとして、当時の医師というのは、パラケルススの言葉からは、あまり慈愛のある職業ではなかったのかもしれません。

中世ヨーロッパの医者の服装の例
medival-doctor.jpg
LHS-CanterburyTales


そして、このパラケルススの言葉を引用した 100年前ほど前の講演でも、シュタイナーは基本的な意味で当時の医学を批判しています。

何だか、どうやら、500年前から 100年前に至る間には「本質的な意味」での医学の発展はなかったのかもしれないことが伺えます。そして、その後の 100年もまた・・・。

「本質的な意味」と書いたのは、進んだ部分では大変に進んだからです。

解剖学的な意味で人間の器官やパーツを把握したり、化学物質の発見が対症療法に効果を発揮する西洋薬に結び付いていったり、放射線など医療への応用ができる発見があったり、医学は部分的には大きく発展しました。

しかし、先日のパッチ・アダムス医師の記事でもふれましたように、やはり、それは医の「本質」ではない気がします。

そして、これは「愛」とか何とかいう曖昧な話ではなく、実際的な話です。

うつといわれて、すぐに抗うつ剤が処方され、ガンと診断され、ただちに抗がん剤が処方される現在。

しかし、抗うつ剤でうつが完治した人は(ほとんど)いないし、抗がん剤で生きのびた人も(ほとんど)いない現実を見ると、愛だの何だのという言葉以前に「単に手法が間違っているのでは?」ということです。

実際、うつ病もガンも「治療するより、むしろ何もしないのが最も効果的」だとさえ言えるデータも数多く存在します。もちろん、「何もしない」は極論としても、ここから考えなければならないことはたくさんあると思います。

WHO によるうつ病治療の追跡調査
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過去記事より


抗がん剤を使った場合と使わない場合の生存率
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・医学誌ランセット掲載データ。過去記事より

そして、今のようになってしまった原因の大きなものは、実は「医者」のほうだけではなく、「私たちにもある」のではないだろうかとも私は最近思い続けていました。

特に、私のように、小さな頃から体が弱かった人は「症状=薬」という条件反射ができあがっていて、何かと薬を頼りにする傾向があります。

そのようなことはあまり正しい傾向ではないということを、私たち自身が真剣に考える時なのかもしれません。

今回は、やはりシュタイナーの言葉で締めたいと思います。

今から 100年ほど前の人々も、最近までの私のように、「病気に対して真剣に考えていなかった」ことがうかがえ、それに対してのシュタイナーの言葉です。自分に対して言われている気もしましたので、その部分を抜粋します。



1908年のベルリンでのシュタイナーの講演「病気の本質」より

きょうは、精神科学の観点から、病気の本質についてお話します。一般に人間は、病気になってはじめて病気のことを気にかけるものです。

そして、病気になったとき、なによりも病気が治ることに関心を持ちます。病気が治ることが問題なのであって、「どのように」癒やされるかということはどうでもよいと思っています。現代人の多くは、そのように考えています。

今日では、宗教よりも医学の領域に、権威への信仰が見られます。医学的な権威者の有する権限は大きく、将来さらに大きくなっていくでしょう。

このような現状は、一般人に責任がないとはいえません。病気で苦しんでいないと、このようなことについて真剣に考えないからです。

医学的な権威者がさまざまなことがら、たとえば子どもの教育や学校生活について語るのを、人々は平静に聞いています。その背後にどのようなことがらが存在するのかを、気にかけていないのです。

病院がどのような法律によって作られるかというようなことを、人々は傍観しています。人々は、そのようなことに真剣なまなざしを向けようといません。

通常の唯物論的な医学では治らない人々も、なぜそうなのかを深く考えず、ただ治るかどうかを気にしています。霊的な方法によってものごとの基盤を見極めようとはしないのです。

今日のような唯物論の時代には、病気についての教義が唯物論的な思考方法の大きな影響を受けています。ある方法を特別なものだとすれば、道を誤ります。

人間は複雑な存在であり、人間に関するものはすべて、その複雑さと関係するということを、なによりも明らかにしなくてはなりません。

もし、人間がたんに肉体からなる存在であると見るなら、治療をすることは不可能になります。健康と病気は、肉体だけに関することではなく、人間の心と精神にも関係しているのです。



  

2015年04月22日



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Why antibiotics are making us all ill



風邪の記事を書いた途端に子どもが引いてしまうという因果で看病中でした

前回、風邪についての、

人間にとって最も日常的で慈悲深い治療者は風邪ウイルスかもしれない…
 2015年04月21日

という記事を書きましたら、その直後から、子どもが何ヶ月かぶりに風邪を引くという因果なことになってしまいました。

子どもはもう回復して基本的に元気ですが、思い出したことがありまして、日記程度のものですが、時間を見つけて書いています。

今回の子どもの風邪は本当に軽いもので、風邪そのものは問題ではありません。うちの子どもは風邪を引くと、それに伴い自家中毒(長時間続く猛烈な嘔吐発作)となることが多く、今回もなってしまいました。

24時間近くも、水も食べ物も一切受け付けないで苦しんでいる様子を見ているのはつらいものでしたが、この自家中毒というものに対しても、西洋医学的には何ら具体的な手立てはありません。

経過を見守るしかないのです。

ただ、最近、シュタイナーの音楽関係の本を少し読んでいましたら、「子どもと音楽」ということについて、あまりきちんと考えていなかった自分を思いました。

シュタイナーとか神秘主義などを持ち出さなくとも、自家中毒も何らかの免疫システムによる症状の病気であることは間違いないと思うのですが、何か興奮やストレス、あるいは風邪の時に発症することを見ていますと、

・交感神経(緊張時、興奮時などに優位に)
・副交感神経(リラックス時に優位)


のバランスというものが関係している可能性を感じます。

特に、興奮やストレスは交感神経を刺激しますから、そのアンバランスを、先に「超リラックス」系で予防しておけば、あるいは軽減できるのではないなあと。

ただ、一応書いておきますと、一般論として「交感神経の優位が悪い」のではないです。

ストレス=悪
リラックス=善


という図式は、免疫システムの基本である白血球の構造からは成り立ちません。

バランスが大事で、ただただ、ひたすらリラックスしていては、それはそれで免疫が崩れ、病気になりやすいです。

交感神経が優位だと、細菌、花粉など、サイズの大きな異物を処理する白血球の中の「顆粒球」というものが増えます。

副交感神経が優位だと、ウイルスなど小さな異物やガン細胞を処理する「リンパ球」というものが、白血球の中に増えます。

なので、「興奮とストレスばかり」だと、ウイルスやガンに対抗するリンパ球の割合が低くなり、ウイルスやガンに弱くなります。

その一方で、「リラックスしてばかり」だと、顆粒球の割合が少なくなり、免疫は強くても、花粉やホコリなどに反応しやすく、アレルギーや炎症が多くなりやすいです。

これは、たとえば、のどかにゆったりとだけ暮らしている人たちに病気がないかというと、そうとも言えないのではないでしょうか。

「ストレスが悪い」という方向だけ言われることがありますが、すべてはバランスで、リラックスだけの生き方だと、ストレスが多すぎる状態と同じに白血球の免疫バランスは崩れます。

何だか話が逸れましたが、「宇宙の創造…ひも理論…432Hz…528Hz…ライアー…」などに書きました楽器ライアーなどのような音色などは、交感神経への刺激に弱い子どもには特にいいかもしれないなあと思います。

実際、ライアーとは違いますが、528Hz の音叉を寝る前に子どもに、ほんの数十秒くらいですが、聞かせたりして以来、発作は劇的に減っていますので、 528Hz の効果ともども、「音」の効果に改めて感じ入っている次第です。

看病している時、ふと、子どもが赤ちゃんの頃に熱を出した時に、それを看病している自分の姿がフラッシュバックしてきました。そして、その時に起きていたことを思い出していました。

それは、前回の風邪の記事を書いた後だからこそ思い出したのですが、うちの子どもは、発語(意味のある言葉を言い始める)がとても遅く、普通の子より最大で2年は遅れていました。

そのあたりのことについては、

3歳までことばを持たなかった私の子どものこと
 2012年05月08日

という記事に書いたことがあります

言葉を口にし始めたのは3歳になってからですが、それからの2年間くらいの間に起きていたことを思い出したのです。

それはその頃に必ず起きていた、

「高い熱を出すたびに、どんどんと新たな言葉でしゃべり出す」

という経験でした。

過去記事を検索してみますと、

かれの「神しゃま」は消えたのか、それともまだ消えていないのか
 2012年09月26日

にも書いていることに気づきましたが、うちの子どもは、1年に何度か、原因のわからない激痛と、原因のわからない高熱に見舞われることがありました。

そのたびに、語彙が増え、会話の内容も上達していくのでした。

それは曖昧な感じではなく、私も奥さんも「昨日までとは違う子どもと話しているような感覚」を感じるほど発達していることがわかるほどなのでした。言葉だけの話ではなく、認識力そのものがアップしているような感じだったでしょうか。

熱を出して、熱が引いた翌日には「はっきりとわかるほど成長している」のです。

子どもが「熱のたびに言葉が増えていく」ことを目の当たりにして、奥さんと「不思議な熱だねえ」などと言っていたにも関わらず、その時は、「熱の意味」を考えたことがありませんでした。

それに、熱を出している時も、うなされて「それまで口にしたことのない」ようなことを言ったりすることもありました。4年前の「子どものかみさま」という記事に、5歳だった子どもが、40度の熱で寝ている時に、ふと上半身だけ起こし、私たちに以下のように言い、また眠ったことを書いたことがあります。


幼稚園の先生は、神さまは空の雲の上にいるっていうけどね・・・それはちがうんだよ。神さまは透明で、どこにでもいるの。あそこにもそこにもいるの。

雲の上にもいるけど、他にもどこにでもいるの。木にセミみたいに止まっていることもあるの。でも、透明だから誰にも見えない。でも、透明でもそこにいるの。全部の空も砂も木も全部すべて神さまなの。



そんなことを子どもが普段口にしたこともないし、私と奥さんはきょとんとするばかりでしたが、次の日、熱が下がった時には、子どもはそんなことを言ったことを覚えていませんでした。

あの熱と認識の作用はわからないままですが、高熱が子どもに変化を与えていたことは確かで、もし、うちの子どもが当時まったく熱を出さなかったとしたら、成長もまた違ったのかもしれません。





どうすれば的確に人に伝えられるのですかね

それにしても、最近の In Deep の記事は健康に関するものが多かったですが、その健康法…。

・薬を飲まない
・笑う
・風邪を引く


これは普通の人には安易には言えない。

たとえば、仮に、知人か誰かから「ガンになって治療中なんです」と暗い顔で言われた時に、


「降圧剤も抗うつ剤も抗がん剤も薬はすべてやめましょう。もっと笑いましょう。風邪を引いて高熱を出しましょう」


・・・・だめだ、言えない(苦笑)。

現代の常識だとされている医療知識は強固に人々の中に浸透していまして、病気の人に真面目な顔で上のようなことをいえば、「ふざけるな」と怒られてしまう可能性が強いです。

とはいえ、上の3つは、病気に対しての処方としては、間違っているわけではないことも言えると思います。

・薬を飲まない → 免疫細胞の働きを正常に戻す
・笑う → ナチュラルキラー細胞が活性化する(過去記事
・風邪を引く → 先日の記事をご参照ください


結局、今の医療と、何より、私たちの病気に対しての考え方の問題として、

不快な症状は悪いものなので無理矢理止める

という観念のまま進んできたことにあるような気がします。

熱が出れば薬で下げる、痛みがあれば薬で下げる、血圧が高ければ薬で下げる。

野口晴哉さんの以下の言葉は、「そういう考えは間違いだ」ということを気づかせてくれます。


野口晴哉『風邪の効用』より

病気が治るのも自然良能であり、病気になるのも自然良能です。

新陳代謝して生きている人間に建設と破壊が行われるのは当然ですから、建設作業だけを自然良能視しようとするというのは、破壊を恐れ、毀(こぼ)れた体のまま無事を保とうと考える臆病な人間です。

生命を保つためには自然のはたらきを活かすことの方が、人智をつくすより以上のことであるということを考えてみるべきでしょう。



これを私も忘れていた。

新陳代謝。毎日、おびただしい細胞が生まれますが、同時に、おびただしい細胞が死んでいる。

体というのは「破壊と再生の繰り返しの場」で、死ぬまで、それが延々と繰り返されます。なので、あらゆる体の現象には「再生」と同時に「破壊」も起こるということを忘れていたのですね。

ちなみに、私は、

基本的に「すべての薬」は人間に良くないという理由の理論的なメカニズムがわかったのです
 2015年04月02日

という記事を書いた日から薬を飲んでいません。

それまで、かなり神経的に厳しい状態の時に、ベンゾジアゼピン系の弱い抗不安薬を飲むこともあったのですが、それはやめました。

何となく大量保有していた、めまいの薬も捨てました。

もちろん、私は救急処置的な意味での薬の服用は、自分に対しても否定していませんが、特別何もないのなら、今のままで薬を一切飲まない生活をしていければとは思います。

薬にはいろいろとやられた人生でしたけれど、それらのことがあったから、「薬に頼りすぎるのは、あまり良くない」と自然と体感できた部分はありますし、何より、私は薬に命も助けられています(小児ぜんそく)ので、薬の存在を否定するどころか、今でもとても感謝しています。

薬の存在が悪いのではなく、それを投与するのも、服用するのも「人間」ですから、そこが少し変化すればいいなとは思います。

そんなわけで、子どもの看病の後に、やや日記的に書かせていただきました。



  

2015年04月21日



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書籍連鎖地獄の中でホイル博士への解答を見出し

昨日、子どもがポストに入っている郵便物を持ってきてくれて、「これ、おとうさんに」と渡してくれて、開けましたら、書籍でした。

その時ふと、

「何だか・・・毎日、本届いてないか?」

ということに改めて気づきました。

まあ、「毎日」というのは大げさですが、かなりそれに近い程度にネットで本を購入する日々が続いています。

特に Amazon はこの連鎖に入りやすいですね。 Amazon で本を買いますと、下に、「この商品を買った人はこんな商品も買っています」というコーナーが表示されます。

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ここを見出すとまずい。

気になるものをクリックして、レビューを読んだりしているうちに、ポチッと買ってしまったり、あるいは、価格が高いものは、ヤフオクなどで同じのを探すと、もっと安く売っていたりするんですが、

「これはそんな欲しいわけではないけど、安いから買わないと損だ」

というヘンな理論のもとに結局買ってしまったりします。

そして、毎日毎日、本が届くという状態なのに、また、「この商品を買った人はこんな商品も買っています」を見てしまう毎日。

というわけで、毎日読書に時間を取られていたりするのですが、昨日届いたのは、野口晴哉さんという人の『風邪の効用』という本でした。

この野口晴哉さんという人が誰だか知らずに買ったんですが、野口晴哉 - Wikipedia によりますと、何と、日本の「整体の始祖」の方なんですね。

そもそも「整体」という言葉を最初に使ったのが、この野口さんという人だったそうで、野口晴哉公式サイトのプロフィールを見てみますと、どうも、一種の「天性」を持っていた人らしく、


古今東西の健康法や療術などを独自に探求し、十五歳で入谷に道場を開き、療術団体『自然健康保持会』を設立。

十七歳で「健康に生くることが自然順応の姿である」などとする『全生訓』を発表し、以後、一貫して「活き活きと生を全うする」ことを指針に据えた活動に入る。



17歳で「健康に生きることが自然順応の姿である」の境地に達するとか、どれだけ頭脳が早熟かいね、とも思いますが、やはり、この世にはいろいろな人がいるものです。

野口晴哉( 1911 - 1976年)
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野口晴哉公式サイト

この『風邪の効用』という本が書かれたのは昭和 37年( 1962年)ということで、私が生まれる以前に書かれた本なのですが、なーんと、この本の中に、「フレッド・ホイル博士の説とほぼ同じ」ことが書かれている上に、

ホイル博士の考えに対して「その理由」を与える解答が書かれていた。

のでありました。

もちろん、日本人の整体師の野口さんと、イギリス人の天文学者のホイル博士の間に関係があるわけもなく、おそらくはお互いにその存在さえ知らなかったと思います。

どんなことに関してのものか。
それは、

「人間はなぜウイルスに感染して発症するのか」

ということに対してのものです。

しかも、前回書きました、パッチ・アダムス医師の記事も含めて、最近書かせていただきました「健康」に関しての記事、例えば、

健康ブームの中でガンが増え続ける理由 : 世界でもダントツの「薬」消費国である日本は「薬に人間の自己治癒能力を奪われながら」滅ぼされつつあるのかもしれない
 2015年04月10日

とか、

基本的に「すべての薬」は人間に良くないという理由の理論的なメカニズム…
 2015年04月02日

などに対しての「回答」ともなっている部分があるのです。

まず、この『風邪の効用』という本のテーマは、次の一文に集約されていると思われます。

私は風邪は病気というよりも、風邪自体が治療行為ではなかろうかと考えている。

これは、野口さんが若い時から数多くの整体治療を行ってきた中で、人間の体というものは、それは筋肉にしても血管にしても、大事なのは「弾力」ということらしいのですが、

「風邪を引いている時に、その人の全身の弾力が戻っている」

ことに気づいて以来、研究し続け、その結論として、

風邪は自然の健康法そのものであり、風邪を引くことで自分の体のさらなる悪化を防いでいる。

という確信に行き着いたというものと言っていいと思います。

この本には「ウイルス」とか、そういうような言葉は出てきません。

風邪ウイルスが発見され始めるのは 1950年代からで、病原ウイルス研究の方法の歴史についてというサイトによりますと、風邪のウイルス学説が確立したのは、1960年代のことでした。

風邪ウイルスの発見により、「風邪はウイルスのヒトへの感染によって起きる」という学説が確定して、つまり「ウイルスがヒトの細胞に侵入し風邪に感染する」というような感じで、風邪の概念は現在に至っていると思われます。

風邪は「悪者以外の何物でもない」というのが現在の定説です。

ところが、この『風邪の効用』を読むことで、少なくとも私は、その観念が覆されたのです。




風邪は自分を治癒させるためにかかっている

私は、風邪にしてもインフルエンザにしても、ウイルスがヒトに「侵入」することで、風邪を引くのなら、風邪は基本的に「全員がかかっても不思議ではない」のに、どうしてそうならないのか、ということは子どもの頃から疑問でした。

後で書きますが、私は人一倍風邪を引きやすい子どもでした。

過去記事の、

21世紀のパンデミック: ウイルスが人を選ぶのか? 人がウイルスを選ぶのか?
 2013年04月08日

の中で、フレッド・ホイル博士の『生命(DNA)は宇宙を流れる』の中で、ホイル博士が述べている、

「ヒトがウイルスを選んで体内に取り入れている」

という主張をご紹介しました。

これは従来の考え方である「ウイルスがヒトを選んで感染している」というのではなく、ヒトが「自分に」感染するウイルスを選んで感染しているという、それまでにはまったくなかった主張です。


フレッド・ホイル著『 DNA は宇宙を流れる』進化のメカニズムより

ウイルスが宿主を選ぶという前提が間違っているのだ。

われわれは、宿主のほうがウイルスを選んでいるのだと考えている。

地球にはじめて落ちてくるウイルスが、あらかじめどんな宿主に遭遇するか知るよしもないことは当然だ。けれども、宿主たるわれわれは、もともと宇宙からやってきたバクテリアから進化した存在であり、このような事態に備えた機構を持っているはずなのだ。

それが免疫機構なのだとわれわれは考えている。



この、ウイルスについての従来の見方を根本からくつがえすといってもいい考え方は、私たちの今までの常識から考えると、突飛に響きますが、しかし、そもそも、「極めて高度なヒト DNA と、極めて単純なウイルスの DNA の構造」を考えますと、

ヒトがウイルスに負けると考えるのは不合理な話

なのです。

ホイル博士は、風邪ウイルスと比べて、比較にならないほど優れた構造を持つヒトの DNA 分子が、「風邪ウイルスに騙される」という考え方自体が合理的ではないとして、以下のように記しています。


通常、ウイルスと免疫との関係と言えば、ウイルスがわれわれの細胞を騙して侵入し、それに気づいた免疫機構がウイルスを排除しようとして戦う、という説明がなされている。

けれども、まっすぐに伸ばすと全長 1.5メートルにもなり、 10万個もの遺伝子を持つヒトの DNA 分子が、全長わずか数ミクロンで、数個の遺伝子しか持たないウイルスの DNA 分子に「騙される」などということが、本当にありうるだろうか?

また、ウイルスが侵入してからの免疫システムの素晴らしい活躍ぶりを見ると、どうして、もっと早いうちに完全にブロックしておかないのだろうと疑問に思わないだろうか?



ウイルスという存在は、多くの場合、人間に重篤な症状を引き起こすとは思えないほど「単純」な構造です。ウイルスの構造と増殖過程というページから抜粋しますと、


ウイルスの構造を簡単に言ってしまえば、「膜の中に遺伝情報が入っているだけ」の構造となっています。

なお、ここでの遺伝情報とは、DNAまたはRNAのことです。ウイルスはその種類によってDNAをもっていたりRNAをもっていたりと様々です。




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ウイルスの構造と増殖過程

しかも、ウイルスは、自分で生きていく構造を持っていませんので、「他の生物の細胞に寄生しないと増殖できない」というもので、上のページの説明をお借りしますと、

ウイルスは自分自身の力だけで増殖することはできません。増殖には私達の細胞に寄生する必要があります。

ヒトとウイルスの差を数として比較してみますと、下のようになります。

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DDBJ 遺伝子とゲノム

このような単純で自主性のないウイルスという存在が人間の強大な敵というのは何だか奇妙です。

最近になって「人間の体は、その免疫システムを含めて、完ぺきなもの」ということを思うようになると、私はさらに、

人間がウイルスのような単純なものに負けていると考えるのはおかしい」

と強く考えるようになりました。

もともと、上のホイル博士の記述で、「ヒトがウイルスを選んでいる」ということについては確信を持っていたのですけれど、ただ、「なぜ、ヒトはウイルスを自分に取り込む必要がある?」かがわかりませんでした。

風邪を引けば、熱が出たり、いろいろと面倒な症状が出るばかりなのに、どうして?

ホイル博士は、「ヒトという種の進化のため」だという立場を持ち、


ちっぽけなウイルスが大きな生物を騙すのではなく、生物が自らの利益のために ----- 進化するために ----- 進んでウイルスを招き入れるのだ。

われわれは、免疫機構に対する考えを改めなければならない。免疫機構は、常に新参者を探しているが、それはわれわれの遺伝システムがそれを取り込むことが進化論的立場から価値があると認められるような新参のウイルスを探すためなのだ。



と書いています。

そういう部分は確かにあるのでしょうけれど、「新参のウイルス」はともかくとして、風邪のように、いつでもどこでも日常の中にありふれているウイルスについて「ヒトが感染を選ぶ」という理由がどうもわからなかったのです。

そのことが『風邪の効用』には、わかりやすい形で書かれています。

風邪は自分の体を「治すため」にかかるということが。




風邪の熱や症状を治めようとしてはいけないという理論

前回のパッチ・アダムス医師の記事で抜粋しました『人間の四つの気質―日常生活のなかの精神科学』の中にある 1908年の講演で、シュタイナーは「熱を下げてはいけない」として、


生体はその損傷に反抗し、防御力を用います。この反抗が通常、熱なのです。熱は、人間のなかの治癒力の呼び声なのです。熱は病気ではありません。損傷を直すために、人間が自分の生体全体から力を呼び集めているのです。

病気において、熱は最も慈善的で、最も治療的です。損傷を受けた個々の部分は、みずから治癒できず、他の側から力を得なくてはなりません。それが熱として表現されるのです。



と、シュタイナーは、「熱」というものは、ヒトが自らの体を守るために発しているもので、「熱そのものが治療者」であるという立場を示していますが、野口晴哉さんの風邪に対しての考えと、まったく同じです。

そして、シュタイナーと野口さんの考えは「薬」に対しても同じです。

シュタイナーは 1908年の講演において、その頃、世に出てきた解熱鎮痛剤(フェナセチン)に、「科学が精神とともに真面目さも失ったこと」として、絶望していましたが、野口さんも、専門用語は使いませんが、

「症状を急激に治めるようなことは良くない」

と繰り返し書いています。

身体に起きることには自然の道理があるのだから、その自然の経過に逆らうことは良くないと。

シュタイナーと同じことを言っている部分を抜粋します。
「イルガピリン」とは、かつての日本で、神経痛やリウマチの痛みに処方されていた薬です。


『風邪の効用』 自然の経過を見出すもの より

刀によって、一気にバサッと斬ってしまうようなことは本当ではない。(今は)神経痛の痛みを止めることだけでも、いろいろな薬を使って一気にバサッと止めようとします。

京都でイルガピリンを使いすぎて死んでしまった人がおりましたが、死ねば確かに神経痛はなくなるでしょうが、少し困りますね。バサッと一気にやろうとすることは、殺すにはよいが生かすには向かない。

生きる動きには順序があり、自然の経過がある。パッと良くするということにはどこかでインチキがあり、やっている人も、受けている人も気づかないでいることが多いが、体には硬直やら、歪みやらが残っている。

闘って病を征服するのではない。ただ体の交通整理をして、体のもっている力をスムーズに流れるようにする。早く回復することがよいのではない。自然に流れ、体のもっている力をスムーズに発揮すればそれがよいのである。

人間の体の動きは要求によるのでありますから、痛むから止める、足らぬから補う、困っているから助けるというように、外部から調節することだけを行っていると、体のうちの回復要求を鈍らせてしまう。

余分な養生が人を弱くし、余分な治療の工夫が回復のはたらきを鈍くしてしまっていることは少なくない。

早く治ろうとする努力が逆の結果に導くことが多いのは、病気の時に限らず、晴れの舞台でも、習字のお清書でも、簡単な受験でも、努力はしばしば逆の力を育てます。一気呵成に病気を治そうと考えるその考えが、体の調子を乱す。強行すれば、そのための行為が体を乱す。



野口さんという人は、おそらくは楽しい人だったのかもしれないと思うのは、結構キツいギャグが文中の多くの場所に垣間見られることなどでも思います。上の中の、

> 死ねば確かに神経痛はなくなるでしょうが、少し困りますね。

というような、ちょっとシュールなモンティ・パイソン風のギャグ表現が、あちこちに見られます。

ところで、風邪とは関係がないですが、野口さんの書かれている文章から、今から 50年以上前でも、「臓器の切除」というのが多く行われていたということを知ります。

以下のような記述があります。


最近のように臓器を除られている人が多いと、私のように体の自然なはたらきというものを利用して健康を保っていこうとするものには、とても不便なのです。

まあ心臓がないという人はありませんが、腎臓がなかったり、子宮がなかったり、卵巣がなかったりという人はザラで、そういう人を円満に治そうなどと考えても不可能である。

だからいちいち、どこか切ったところはありませんかと訊かなくてはならない。ひどい人は「胃癌になるといけないから胃袋を除りました」と言う。胃袋さえなければ胃癌にならないと・・・それなら首を切っておけば万病にならない。



この短い下りには、

> まあ心臓がないという人はありませんが

> それなら首を切っておけば万病にならない

と、モンティ・パイソン・ポイントが2箇所ありますが、こういうような感じの本ですので、整体の専門用語が飛び交う部分は別にすれば、読みやすいです。

それにしても、

「胃癌になるといけないから胃袋を除りました」

これはひどい。

そう考える本人もですが、そう言われて、本当に胃をとってしまう医者の方もなかなかのもので、50年以上前の日本もいろいろだったんですね。

なお、つい先日の記事、

日本人「総薬づけ計画」やら抗がん剤やら混沌の中に入り込んだサイクル24の渦中に
 2015年04月15日

という記事の中で、ガンは治療せずに放置しなさいという主張をする医師の意見に、私は、

この近藤医師という方は、「ガンは治療しないで放置しなさい」という意見の方のようですが、全面的にその意見に賛成する気にはなれません。

手術でとってしまえば、何らかの機能の障害は残っても、そのまま一生何でもなく過ごせるガンはたくさん存在すると思うので、極端化するのはどうかと思います。

と書いたのですが、野村晴哉さんは「体の部位を切除することは良くない」として、


やはり天然のまま傷つけず、むしろそれを鈍らせず、萎縮させず、自然のままの体であるようにするのでなければ、本当の意味の治療とはいえないのではあるまいか。


と書いていました。

まあ、それでも、私は、現在の外科的治療の中には、「あって良かった」ものもあると思っています。

東京・青山で自律神経免疫治療というものをおこなっている、まだらめクリニックのQ&Aにある下の答えが、私の考えと近いです。


Q 西洋医学があるのに、なぜ他の治療法をするのですか?

A 西洋医学は立派な医学ですが、それだけでは解決できないことも多いのです。

西洋医学は急性期医療に優れ、手術が必要な病態には力を発揮します。しかし、慢性疾患には不十分なのです。

いわゆる生活習慣病には効果があまり期待できません。特に癌の再発・転移の予防にはほとんど無力といっても過言ではないでしょう。

西洋医学だけが医学ではありません。江戸時代には漢方医学や針灸医学が日本人の健康に貢献してきました。それを利用するのが当クリニックの立場です。

単純に古い医療を利用するだけではなく、現代医学の生理学や免疫学を利用してそれらの効果判定も出来る時代になっています。



というように、緊急的な治療と、予防医学(天然痘などが撲滅されたようなこと)に関して、西洋医学は、多くの命を救ってきたと思います。

ただ、上にも「癌の再発・転移の予防にはほとんど無力といっても過言ではないでしょう」とありますように、現在の世界で最も大きな問題となっている、ガン、認知症、精神疾患などに対応できていないことは確かです。

そして、何となく今の「薬を出しておけばいい」という医療には、「あるべきはずの何かが抜け落ちているかもしれない」という感じもあります。昨日のパッチ・アダムス医師を知り思う、「医者と患者の心と心のこと」などもそうです。

日本には「医は仁術なり」という言葉があります。
これは、広辞苑の定義によりますと、

「医は、人命を救う博愛の道である」

ということを意味するのだそう。

要するに、日本では、「医」とは「学」でも「術」でもなく、本来は「道」だったんですね。

求道の道です。
神道の道。
そして、北海道の道(そら違うわ)。

道といえば、

「この道を行けばどうなるものか、危ぶむなかれ。危ぶめば道はなし。踏み出せばその一足が道となる。迷わず行けよ。行けばわかるさ」

というアントニオ猪木師の格言が有名ですが、医療において、「迷わず行けよ。行けばわかるさ」では、少し困りますね(野村晴哉さん風)。

いずれにしても、この『風邪の効用』という本と、ホイル博士のウイルス論によって、長い間疑問だった「なぜ風邪にかかる人とかからない人がいるのか」ということが少しわかった気がします。

うまく説明はできていないですが、この『風邪の効用』という本を読みますと、

「人間は、自分の治癒のために、風邪ウイルスを細胞に取り込んでいる」

ということが、何となくですが、理解できるような気がします。

とはいえ、「ウイルスがヒトに侵入しているのではなく、ヒトがウイルスを取り込んでいる」などということを医学的に証明することは不可能ですので(不可能とまでは言い切れないかもしれないですが)、医学的には「戯れ言」だと思います。しかし、私個人は納得がいったので、知ってとても良かったです。

数多くの免疫システムを人間は持ちますが、「風邪を引く」というのも免疫システムのひとつだったということを知ったという感じでしょうか。

なので、「風邪の症状を薬で抑えることは基本的には良くない」のかもしれません。
シュタイナーの言うように、「熱」を薬で抑えるというのも良くないようです。

よく風邪の引き始めに市販の風邪薬などを飲んだ後、長引く人をよく見かけますが、野口さんの主張からすれば、症状を抑えることで、本来の風邪の働きが遮断されてしまうのですから、「風邪薬を症状の初期から早くに飲めば飲むほど治りは遅くなるかもしれない」という逆説的なことになってしまうものなのかもしれません。

ただ、この『風邪の効用』は「何もしないのがいい」と言っているのではありません。

風邪を引いている間の「経過」をどのように過ごすかということが書かれています。

その過ごし方は、「風邪を治す」のではなく、「風邪の働きを邪魔しない」ということについて書かれています。風邪は体を適正に戻そうとしているのだから、その働きを妨害しないこと。

その「風邪の経過中の要点」をタイトルだけ書いておきます。

1. 体を弛めること
2. 冷やさぬこと(熱が出ても冷やしてはいけない)
3. 体を温めること
4. 発汗は引っ込めない
5. 平熱に下がったら寝ていないこと
6. 水分を大目にとること


この中の「熱が出ても冷やしてはいけない」については、言いたいことはわかるにしても、でも、小さな子どもなどが高熱を出してしまうと、やはり心配なものです。

うちの子どが小さな頃、たまに高熱を出した時はやっぱり「下げる努力」はしていました。ただ、「子どもへの解熱剤の投与は恐ろしい」という感覚はありましたので、解熱剤を飲ませたことはありませんでした。

ひたすら、動脈を冷たいタオルなどで冷やして熱を下げていました。

野口さんやシュタイナーから見れば、こういうのも良くないということになりそう。
しかし、高熱の子どもの熱を「下げない」というのもなかなか勇気のいることで、難しいところです。




幼少時、小児ぜんそくで薬漬けだったわたし

ところで、『風邪の効用』で「風邪は体を正すために引いている」という概念を知る中で、ふと、自分の昔を思い出しました。

私は二十代くらいまで本当に風邪を引きやすい人でした。
小中高を通じて、1ヶ月に1週間熱で休むなど普通でした。

それだけに、小さな頃から「どうして風邪にかかりやすい人とかかりにくい人がいるのか」を考えていたのだと思います。

「いくら何でもオレだけ風邪引きすぎ」

というように。

でも、これは今回の記事、あるいは、最近の薬の記事などを書いていて、何となく理解してきました。

私は幼稚園に入るより以前から小児ぜんそくで、それ以外にも、赤ちゃんの頃から多くの病気を繰り返していた幼児でした。

50年くらい前とはいえ、病院での治療は今と同じでした。

つまり「薬漬け」。

小学校の中学年くらいまでには、ぜんそくは治ったのですが、その頃すでに私は、

「薬漬けの子ども」

となっていたのでした。

昔、「私の体はワインでできているの」とおっしゃった女優さんがいましたが、

「ぼくの体は薬で作られている」

というほど、生まれてからその頃まで数多くの薬を飲み続けていたのです。

今の薬だけではなく、昔の薬も人の免疫を下げていたはずです。
まして、当時の、ぜんそくの発作の薬というのは、特に「とても強い薬効」を持つものでした。

そんなものをまだ小さなうちから何年も飲んでいた・・・。
もちろん、それがなければ、生きていなかったわけですから、薬に文句があるわけではないです。

しかし、その長年の薬漬けの生活で、幼い私の体の免疫能力は「限界」に近いほどまで低下していたのだと思います。免疫力という神秘というページには、

病気は大きく分けて、(1)免疫力の低下、(2)免疫力の異常(アレルギーと自己免疫疾患)というふたつの現象に起因します。

とあり、つまり、病気というのはいろいろな原因があるとはいえ、その主因は、「免疫が下がること」であることがわかります。

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免疫力と言う神秘


この免疫システムが「崩壊」していたかもしれない私のその後

風邪は毎月引いていて、1ヶ月の間に何度も引くこともありました。

風邪以外にも、私の免疫の弱さは、その後の長期間にわたり、各所に出ました。

まず、「できもの」関係。

ものもらいは中学生になるくらいまで「毎月できていた」といっても過言ではありません。眼帯は家の必需備品でした。

そして、小学生高学年くらいから、背中の上部に「常に吹き出物のようなもの」ができ続けました。そして、寝ている時に掻いていたのか何なのか、背中の上部全体の皮膚がムチャクチャに荒れました。

この背中の跡は 50歳を過ぎた今でも消えていません。
背中の上部全体が変色したままになっています。

ただ、幸いだったのは「背中はふだんは見えない部位」ですので、傍から見れば、とんでもない量のできものが体にできていることは、外からはわからないことでした。

こんな感じで、その他にも鼻やら耳やら、普通はそんなに簡単にならない病気になり続けていて、ちょっとした免疫不全症候群みたいな状態で、いろいろな場所に、いろいろなものがすぐできて、いろいろな病気になる。

そして、なかなか治らない。

その間にも、また風邪を引く。

この頃を思い出して、当時は「どうしてオレはこんなによく風邪を引くんだろう」と思っていて、風邪は単に忌まわしい存在だったのですが、今、野口さんの「風邪は優秀な治療者」という概念を知り、風邪は忌まわしい存在どころか、

「あれらのウイルスは、オレの体を治癒するために、一生懸命、オレに風邪を引かせ続けていたんだ」

と、知るに至りました。

そして、

「自分自身の細胞がウイルスを積極的に取り込んでいたんだ」

ということも。

ものもらいや、できものにも意味があったのでしょう。

「体内の毒が外部に噴出する」というイメージを描きますと、「皮膚の外に出ようとするデキモノの存在」が思い浮かばれます。

多分、当時の私の体の中では「免疫戦争」が起きていたのだと思います。

自分が生き残るために、細胞たちは次々と病原菌やウイルスを自分の中に招き入れる。

そして、風邪なりできものなり、症状が出る。

そのたびに、体の中の何かがリセットされ、改善されていく。

あの時、風邪を引き続けなければ、私は何らかの大きな病気にかかったり、あるいは、本当に免疫が落ちるところまで落ちて、生きていなかったかもしれません。

風邪にかかりやすい体質は、30代になるくらいまで続きました。

その後、次第に風邪を引くことはなくなり、そうして、気づいて見ると、ほとんど風邪にもインフルエンザにもかからない体になっていました。

たまに「不明熱」を出したり、めまい持ちだったりしますけれど、それらにも意味があるというより、「そうなる必要があるからなっている」ということなんでしょうね。

私のこのような体験もありますし、お子さんのいらっしゃる方は、薬の投与には慎重になっていただきたいと思います。もちろん、命にかかわるようなものは別として、軽い風邪や病気なら自然に任せた方がいいです。

しかし、そうなりますと、鳥インフルエンザとか、エボラウイルスなどの致死率の高いウイルスも「人間が選んで細胞に招き入れている」と?

取り入れたら自分が死に至るかもしれないウイルスをヒトが体内にとり入れる理由は一体?



  

2015年04月19日



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ブラジルを訪問し、病気の子どもたちと遊ぶ本物のアダムス医師

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自殺未遂を繰り返していたひとりの青年が導いた来世のヘブン


昨日、ものすごく感動する映画を見ました。

震えるほど感動した、といっても構わないです。


この感動は、最近、私が興味を持ついくつかのことのうち、


真実の医療とは何なのだろう


ということと、輪廻転生という観念から見た際の、


死ぬ時点で獲得すべき人間の意識や感覚


というふたつのことと、映画の内容が一致していたためということもあるのかもしれないですが、深夜にひとりお酒を飲みながら泣きながらその映画を見続けていたのでした。


そして、この映画は、とにかく、何がなんでも「医師や医療関係者、あるいは、これから医学を目指す人たちすべてに見てもらいたい」と思います。


映画は、昨年亡くなったロビン・ウィリアムズさん主演の『パッチ・アダムス』という 1998年の映画で、アメリカの実在の医師であるパッチ・アダムスの伝記映画です。


このパッチ・アダムスという人は、私はこの映画を見るまで知りませんでした。 パッチ・アダムス - Wikipedia という項目もありますが、この伝記映画の内容を箇条書きにした方がわかりやすそうです。


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・映画『パッチ・アダムス』





『パッチ・アダムス』


・若い時に何度も自殺未遂を繰り返し、任意で精神病院の閉鎖病棟に入院する


・精神病院で患者が薬漬けにされ、医者や看護師たちに威圧的に扱われる現実を患者として味わう


・精神病院の入院患者たちを笑わせている時に、彼らの心が開き、状態がよくなることに気づく


・精神病院の中で「人を笑わせて治癒する医者になる」ことを決意


・米国ヴァージニア医科大学に入学。映画は、実質的には、この医学部での3年間ほどを描いたもの。


・大学付属の病院を研修中に、病棟の人たちに笑顔がないことを知り、(本当は1年生は病棟に勝手に訪問してはいけないのに)病室を回り、日々、患者たちを笑わせる


・医学部での成績は常にトップだったが、アダムスの行為を快く思わない医学部の医学部長から病棟訪問の禁止の勧告を受けながらも、それでも、患者たちを笑わせる行動をやめない。


・実際に「笑う」ことにより、病棟の患者たちへの薬の投与量はどんどんと減り、症状が改善する人たちも増えていくうちに、最初は怪訝だった病棟のナースや、一部の医者たちもアダムスの支持者となっていく


・自分の目指す「笑わせる医療」ができて、さらに完全無料の医療サービスを提供する病院「ゲズントハイト・インスティテュート」を設立(この時点では学生なので、無免許医)


・学部長はついにアダムスに大学の退学の命令を出すが、アダムスは、ヴァージニア州医師会に判断を要請し、公聴会での判断に委ね、退学命令は却下される。





文字では、その感動がうまく伝えられないですが、医療関係の方でなくとも、たとえば、「真実の医療とは何だろう」というようなことを考えていらっしゃる方には、ぜひとも観ていただきたいです。


レンタル店にあるかもしれないですし、なくても、ヤフオクや楽天などでいくらでも売られていると思います。私は、ヤフオクで 700円くらいで買いました。


何だか、「笑いで患者の元気を出す」というような話のイメージからは「愛と優しさの物語の映画」というような感じでとらえられそうですが、本人が映画の通りなら、この人は極めて過激な人です。


行うことのすべてが過激で極端です。


末期のガンで、ナースたちに怒鳴りまくり手に負えない男性患者の病室に、アダムスは「天使」の格好で訪問し、その男性に「死ぬ」ということを意味する単語を何度も繰り返すシーンがあります。


正確に台詞を書きますと、「将来の予告編を見せよう」と言い、「死」「死ぬ」「息が絶える」「果てる」「くたばる」・・・など、他にもいくつも、「死ぬことを意味する単語」を延々とその男性に対して語り続けます。


最初は怒りを示していたその患者は、しかし、次第に何事かを考えだし、自分でも「死ぬこと」に関連する言葉をつぶやき、それから、アダムスと「死を意味する言葉の掛け合い」を始めて、ついに患者は笑いだします。


「なるほど、自分はもうすぐ確実に死ぬ」ということを自分で始めて受け入れ、患者は、そこではじめて治療者に心を許したのでした。


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・映画『パッチ・アダムス』


この患者は、最期の時もアダムスに立ち会ってもらい、死の瞬間まで、アダムスはその男性患者にキツい冗談を言い続け、男性は「冗談を言われている中」で安らかに息を引き取ります。


これがなければ、彼は「人に怒鳴り散らしたまま」死んでいったはずです。

次の世に「怒り」を運んでいっていたわけです。





最高の終末医療とは


医学生アダムスの行うことは基本的に常軌を逸していて、それは(自身が精神病院に入っていた時の記憶も含めて)大学医学部と医療システムという「権威の場所」との「戦争」であるかのようにも見えました。


当然、医学部の学部長はアダムスのことを快く思わないのですが、学部長らが最も許せなかったのは、アダムスが「患者と同等の目線で接するから」でした。


学部長や多くの医師たちは、


「医師は患者より上の立場でいるべきで、同じ目線でいてはいけない」


という考えに立脚していたのです(これは日本も同じ部分があるかもしれません)。


その点、パッチ・アダムスは「医者と患者は同等」として、徹底的に患者の心に入り込もうとします。これが、医学部の立場からは許せなかったもののようです。この部分については、アダムスは絶対に意見を曲げませんでした。


しかし、実際のパッチ・アダムスは、映画以上に過激な人であるのかもしれないと思う面もあります。


冒頭の写真は、本物のアダムス医師で、治療中には、いつもこのような格好をしているということなんですが、ふだんの格好も「どこでそんなシャツ売ってんだ?」というような派手なのをいつも着られているようで、そんな写真ばかりです。


テレビに出演した際の本物のアダムス医師

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ところで、どうも、私は映画から、このパッチ・アダムスは「無意味な延命治療をするべきではない」と考えているのではないかと思う部分がありました。


下は映画での公聴会のシーンですが、かなりはっきりと「医者は死を遠ざけることが努めではない」と言っています。


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・映画『パッチ・アダムス』


「パッチ・アダムスの本はないのかな」と探してみると、『パッチ・アダムスと夢の病院』という本があったのです。さっそく注文はしまして、まだ内容はわからないですが、 Amazon のレビューに、以下のようなものがありました。



現実のパッチは、映画の中よりも厳しいかもしれない。ユーモアが人の心や病気を癒す、と言う一方で、「すべての人に楽しい死を」と高らかに謳うのだ。

人は生まれ落ちた瞬間から死へと突き進む。100年先か、50年先かは分からない。

だから生きていける。限りある命だから今を精一杯生きよう。楽しみを見つけよう。痛みや苦しみを抱えていても、没頭できる何かに夢中の間、忘れることはできなくても、痛みが和らぐかもしれない。そんな瞬間をつないでいけば人生は楽しい。

でも、身近な者の死期を医者に宣告されたら? 残された時間はわずか。不安になるといつもこの本を読み返していた。

明日をも知れぬ身と言われた父は、それから2カ月を生きた。会えば少しでも笑って欲しかった。安心した顔が見たかった。赤い付け鼻は無かったけれど、「それでいい。がんばれ」とパッチに励まされているような気がした。


「ああ、やっぱり」と思いました。


アダムス医師は、治療と共に「最高の終末医療」を目指しているのだと思います。自身が精神病院の中で確信した「笑いは人を治して癒やす」ということの信念を、現在に至るまで曲げずにいるということのようです。


現代の医療は、


「とにかく少しでも長く生きていればいい」


という観点からのものが多く、その「状態」がどうであるとかには、あまり気をかけない面があることは否定できません。


しかし、アダムス医師は、同じ死を迎えるにしても、


「死ぬ人すべてに短くても楽しい生を」


と考えている。


これですよ、これ。


これが現実世界の話だけではなく、シュタイナーなどの輪廻転生の概念などと合わせてみても、「楽しい気持ちで迎える最期」が次の世にどれだけ素晴らしいものをもたらすかということも思います。


極端にいえば、「楽しい死を迎えることができた人が増えれば増えるほど、来世に控える無数の地球は少しずつ良くなっていく」ともいえるのではないでしょうか。


また、亡くなる方ではなく、見送る方にしても、亡くなった方が「最期まで笑顔でいられた」というのと、そうでないのとでは、残った方に与える影響も違いそうです。


ちなみに、映画の予告編に字幕をつけてアップされていた方がいました。

貼っておきます。


『パッチ・アダムス』(1998年) 予告編




ちなみに、このパッチ・アダムスという人は、想像を絶するほど、いわゆる頭のいい人だったようです。映画にも出てきますが、医学部で「まったく勉強しないのに、常に成績はトップ」であったことが描かれます。医学部なんてのは学業的に優秀な人の集まりなわけで、その中でまったく勉強せずにトップというのは、何か「異常な頭脳」を感じます。





悪から善が生まれる


それにしても、こんな人がいたんだなあ、と改めて思います。


イエスとかお釈迦様とか、この世には、たまに本当にすごい人間が生まれ出てくるわけですけれど、多くの人たちは「何らかのキッカケ」で、人生の力強い変転を迎えるわけで、例えば、日本最初のヨガ行者、中村天風なら、そのキッカケは「重い結核」にかかったことですし、パッチ・アダムスなら、「自殺未遂を繰り返して精神病院に入ったこと」です。


天風の悪性結核、アダムス医師の精神病院入院、と、これらは、どれもネガティブなことばかりです。しかし、


そのネガティブな出来事がなければ、彼らは後世に何かを残すような考えに辿りつかなかったし、そのような人間にもなれなかった。

ということがわかります。


すなわち、それらはネガティブなことでありながら、まったくネガティブな要因ではなく、それどころか、彼らの人生に絶対必要だったことでことで、つまり、これらのことは「良い出来事よりはるかに重要なことだった」ことがわかります。


ここに、


この世の中に否定的な出来事は存在しない。

という真理を見ます。


あるいは、私自身の人生もそうです。


私も、病気を中心として、いろいろとネガティブなことを体験してきていますが、それこそが、その後の私のいろいろなことにつながっている。そういう意味では、それらはネガティブなことではあっても、必要なことでもあったと。


それに、私は何度か死にかけたことがありますけれど、気づいたのは、天風さんの


「死んでないだろ」


という言葉です。


死ぬ時は人間は死ぬのです。

しかし、私は過去の「死にかけた出来事」のどれでも死んでいない。


これは説明が難しいですが、とにかく死ぬ時は死ぬのです。

怖れるとか怖れないとかではなく、その時は来るのです。


この「死んでないだろ」を真に理解することが「悟る」ということなのだと思います。

私はもちろん理解していないですけれど。


そういう意味では、パッチ・アダムスは、精神病院の中で悟りを得たように見えます。


結局、人間は、様々な「悪い経験」で、少しずつ目を覚まさせられるという部分がありそうで、あまり悪いことが何もないまま過ぎていく人生は、その人を成長させないかもしれません。


そういう意味では、


悪こそ善

という、エクソシストのメリン神父の言葉も理解できるような気もします。


これは、



 2014年07月26日


という記事に、長編小説『エクソシスト』の中の登場人物、メリン神父の言葉を載せました。


少女リーガンに取り憑いた悪魔について、



このような悪からでさえ、善が生じてくる。なんらかの方法でだ。われわれには理解できず、見ることもできない何らかの方法でだ。……おそらく、悪こそ、善を生み出す『るつぼ』であるからだろうな。


と語っています。


> 悪こそ、善を生み出す『るつぼ』であるからだろうな


という意味が、今は少しわかります。


それにしても、パッチ・アダムスのような人の映画が作られてよかったなあ、と心から思います。これがなければ、私はこのような人の存在を知り得なかったです。


どんな人の存在も活動も、何らかの形で記録に残らないと私たちは知ることができません。


イエス・キリストの活動が 2000年も残り続けているのは記録があるからですし、あるいは、さまざまな宗教家や思想家の考えを私たちが知ることができるのも、記録があるからです。


このアダムス医師のことも、映画があったからこそ知ることができました。


ちなみに、この映画のことを知ったのは、天風に師事していた松本光正医師の『高血圧はほっとくのが一番』の中で、「笑いの重要性」について書かれていたセクションに記されていたものでした。


ちなみに、「笑い」はかなりストレートに体に作用することが、日本の医学実験で確かめられていることが書かれています。





笑いの現実的な治癒効果は実はかなり高い


最初に、笑いが医療に応用されるキッカケとなったのは、1970年代のアメリカだったようです。松本医師の本から抜粋します。



笑いが医療に取り入れられるようになったのは、1976年、ある医学雑誌に掲載された一人の患者の手記に端を発する。強直性脊髄炎という難病におかされた、アメリカの雑誌編集者、ノーマン・カズンズ氏が、笑いを取り入れた治療で病を克服するまでの記録である。

カズンズ氏は、ユーモア小説を読んだり喜劇を観たりして大笑いすると、痛みが和らいでぐっすり眠れるようになったという。難病を克服したカズンズ氏は、その後、カリフォルニア大学医学部教授に転じ、笑いの治癒力を説いた。


さらに、実験について記載されていますので、抜粋します。



松本光正『高血圧はほっとくのが一番』より

日本でも笑いの効用を科学的に解き明かそうとする研究が始まった。

中でも有名なのは、1991年に、大阪ミナミの演芸場で行われた実験だろう。

ガン患者 19人に吉本新喜劇を3時間見て大笑いしてもらい、その前後でガン細胞を直接攻撃するナチュラルキラー細胞(NK細胞)の活性度を調べたものだ。

その結果、最初から低かった人、基準内だった人のいずれもが、活性度が上昇した。つまり、笑いはガンに対する抵抗力を高めることが判明したのだ。

その後の研究により、NK細胞はたった5分笑うことで活性化することが分かった。NK細胞は、注射で活性化させようとすると3日はかかる。

それだけ、笑いは体に大きな影響を与えるのだ。


その実験のグラフがネット上にありました。


お笑いを見る前と後のNK細胞の変化

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全員が上がっているわけではないですが、程度の差はあれ、笑っている間は、ナチュラルキラー細胞が活性化され続けるので、ガンの人は「とにかく笑っているのがいい」ということになりそうで、極論で言えば、「笑い続けることで、ガンが抑えられたり、ガンが治癒される可能性もあるかもしれない」ということも言えそうです。


ガンだけではなく、他に、笑うことにより、


血糖値をとても下げる(2003年の国際科学振興財団の実験)

脳の働きが活性化(笑うと脳の海馬の容量が増えるため)

血行の促進や血圧の安定(笑うことが深呼吸と同じ状態のため)

自律神経のバランスが整う(笑うと副交感神経が優位になるため)

幸福感と鎮痛作用(脳内にエンドルフィンが分泌されるため)


などの作用があることがわかっているそうです。


しかし、これだけ効果があることはわかってはいても、たとえば、実際に、ガンや糖尿病の患者さんが、病院で医師から、


「今日から笑うようにして下さい」


と言われることがほとんどないというのが現実です。


それに、上に書きました「笑いが免疫を高める医学実験」も、その後は継続的におこなわれている感じがしないというのも・・・。


理由はいろいろでしょうけれど「医療の現場で笑いは不謹慎」という部分もあるのかもしれないですね。


たとえば、末期ガンの患者と共に「ウヒャヒャヒャヒャ」と笑うのは、現代の意識での図式では不謹慎に見えるということかもしれません。


私は以前、一度入院したことがあります。


東京新宿にある国際医療センターという大きな病院で、1週間ほど入院していましたが、入院病棟という場所は本当に「笑いのない場所」でした。


私の向かいのベッドの男性は、クローン病、隣のベッドのご老人は末期の膵臓ガンで、見舞いに来た人ごとに「もうダメらしい」と話していました。部屋の隅にいたご老人は、私がいた1週間の間ずっと寝たままで、体中にいろいろな器具やチューブがつけられていました。何の病気かはわかりません。


そんな雰囲気で笑いが出ないのは当然かもしれないとも思いますけれど、しかし、今だからこそ思うと、むしろ、「あれではダメ」なのです。


笑いがあれば、自己免疫力も上がるし、何より、もう治らない患者さんでも、パッチ・アダムスの意志である「すべての人に楽しい死を」という観点からは、末期の膵臓ガンの人にいかに笑ってもらえるかを考えることが、本当は重要なのだと今は思います。


いつか笑いと治癒の関係が科学的に証明されたり、あるいは、病院に「笑い指導員」とかが常駐するような時代になればいいな、とか。


笑い指導員といえば、2011年の記事ですが、



 2011年11月22日


で、「ケロッグ博士」(原題: The Road to Wellville)という、20世紀のはじめに、アメリカで富裕層向けの診療所(バトルクリーク診療所)を開設していたケロッグ博士という実在の人物を描いた映画の話を書いたことがありましたが、その診療所に「笑い治療」が出てきます。


このバトルクリーク診療所では、1918年に世界中で流行した、非常に致死率が高かったスペインかぜ(鳥インフルエンザのパンデミック)で死者を出さなかったのですが、この際、ケロッグ博士は「医薬品を一切使わない治療法」で、患者の死亡ゼロという奇跡的な成果をあげています。


そのケロッグ博士の診療所では、「笑う治療」というものがおこなわれていて、リズムに合わせて「集団で無理矢理笑う」という治療法なのですが、この治療法の良いところは、無理矢理笑っているうちに、「馬鹿馬鹿しくなって本当に笑い出す」という集団心理につながるところです。


これは映画でも描かれていて、わりと有名なシーンとなっています。

下の30秒ほどのシーンです。


ケロッグ博士(1996年)




ケロッグ博士は、古い時代の医療者ですが、笑いの効能を見抜いていたのかもしれません。


そういえば、最近、「薬が喜びの感情を抑える」というニュースがありました。「笑いの効能」という意味では、これも薬による別の弊害なのかもしれないなあと思います。


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米オハイオ州立大学の研究チームは16日までに、市販の多くの鎮痛剤に含まれるアセトアミノフェンに、痛みだけでなく喜びの感情を抑える効果があることがわかったと発表した。

論文によると、アセトアミノフェンに心理的な苦痛を和らげる効果があることは以前から知られていたが、今回の研究で、喜びの感情を弱めるなど、感情の幅を狭める効果があることがわかったという。





シュタイナーが解熱鎮痛剤の出現に絶望したとき


上のニュースにある「アセトアミノフェン」というものは、市販されている多くの風邪薬や解熱鎮痛剤に入っているものですが、人間の感情を抑えるという「副作用」を持っていたようです。


この解熱鎮痛剤というものについては、その出現の時に、シュタイナーは以下のように述べていました。



1908年のシュタイナーの講演「人体リズム」より

医学において私たちは、今日まだ手探りをしています。病理学と治療の堅固な度台は、太古に遡るものです。解熱鎮痛剤フェナセチンの試験がなされたとき、私は知性と感情の殉教を体験しました。

道しるべもなく実験するのは、科学が精神とともに真面目さも失ったことを示しています。


と嘆いていましたが、このフェナセチンは、日本でも 1999年まで使われていて、非常に多く処方されていた解熱鎮痛剤です。


また、解熱鎮痛剤は、痛みを弱めると共に熱を下げる薬ですが、シュタイナーは「熱を下げてはいけない」として、以下のように述べています。



生体はその損傷に反抗し、防御力を用います。この反抗が通常、熱なのです。熱は、人間のなかの治癒力の呼び声なのです。熱は病気ではありません。損傷を直すために、人間が自分の生体全体から力を呼び集めているのです。損傷に対する生体全体の反抗は、一般的に熱として表現されます。

病気において、熱は最も慈善的で、最も治療的です。損傷を受けた個々の部分は、みずから治癒できず、他の側から力を得なくてはなりません。それが熱として表現されるのです。


として、「熱はすぐれた治療者だ」としているのです。

「熱」という存在がなければ、身体は回復できないとしています。


続けて、


「熱が抑えられるとき、生命は危険な状態になります」


とまで言っています。


松本医師の言う「人体の働きに無駄なものは一切ない」という言葉を思い出します。


この「熱」もまた人体の重要な作用であることになりそうで、その重要な作用を強制的に抑えてしまう解熱鎮痛剤の登場に、シュタイナーは「知性と感情の殉教を体験しました」というほどの絶望を受けたようです。


私も数年に一度、「不明熱」に襲われることがあります。

昨年もありました。

その時は 40度を越えたと思います。


そこまで熱が上がると、病院に行くわけですが、昨年も熱の原因はわかりませんでした。しかし、原因はわからなくとも、当然のように解熱鎮痛剤を投与されて、飲んで熱を下げる、ということになるわけですが、良くなかったのかもしれません。


私の中で、「体温を 40度以上にしなければならない何かが起きていた」と考えるのが妥当なようです。とはいえ、大人で 40度を越えてくると、さすがに不安感はありますが。


いずれにしても、医学は少しずつ変化してきているのだと思います。あとは、私たちが「どの治療法を選ぶか」ということだけのような気がします。


今日は「笑いと治癒」の話でしたけれど、あるいは、私はあまりテレビは見ませんけれど、テレビにお笑いが蔓延しているのも、一種の社会の自己治癒作用的な部分もあるのかもしれないですね。「病気を治癒するために熱が出る」ように、「今の人々を治癒するために笑いがある」というような。


何か夢中で書き続けていたら、エライ長くなっている気がします。

どうもすみません。




  

2015年04月17日



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▲ 2015年04月06日の CNN より。なぜ、このニュースを冒頭に貼ったのかは後半で書かせていただきます。






 



現代の人に蔓延する「不安」と「恐怖」の心

前回の記事、

シュタイナーが「子どもへの詰め込み教育は絶望的な社会を作る」といった100年後に、完全なるその社会ができあがった日本…
 2015年04月16日

は、何だか「不安」を感じさせるような書き方をしているところが多かったです。

読み返してみて、確かに懸念を感じているのは事実としても、「方法を模索する」ならともかく、「不安」とか「絶望」の気持ちを伝播させるようなことは良くないと反省しました。

その記事のタイトルにもあるシュタイナー本人が、『いかにして高次の世界を認識するか』の中で、生きる上で重要なこととして、


あらゆる観点から見て、私が不安を抱いても、何の役にも立たない。私は一切不安を抱いてはいけない。私は、自分は何をするべきなのか、ということだけを考えなくてはならない。


と考えることの必要性を説いていました。

不安、あるいは恐怖や絶望といったものは、最も忌むべき感情(あるいは「感覚」)であるということは、様々な方々が様々に述べているので、ある程度の真理はそこにあるのかもしれません。

これに関しては、最近たまに引き合いに出させていただく中村天風が「なぜ、現代の生活は不安や恐怖が多くなるのか」ということについて、

「現代の人々は、科学教育の弊害として、疑いから考えるようになり、それが多くの人間を、消極的な考えが基本の小さな存在にしてしまっている」

というようなことを言っています。

「現代の人びと」といっても、天風さんが亡くなったのは約 50年前のことで(享年 92歳)、その時代に生きた方の「現代」ですから、今からみれば結構昔ですが、どうして科学教育がそのような傾向を人に持たせるのかというと、以下のように述べています。


科学は証明を必要とする学問であるから、証拠がないと是認しない。証拠がなければ、承諾しない、というのが科学の研究者の態度だ。すなわち、1+1=2というやり方。

ところが、この世の中の事柄が、すべて1+1=2でわからなければ承諾しないという態度で応接すると、むしろわからないものの方が多いという事実を発見するのである。

科学は万能の学問ではない。それは、何事も科学的態度で応接し、1+1=2でなければ承諾しないという考え方で、人生を活きていると、知らない間に、わからない事柄の多い人生の中に、自分のいる姿を発見してしまう。

そうすると、ますます不可解に混乱して、人生が少しも安心出来ない世界になる。ただ不安と恐怖のみが、その人の人生を襲うことになり、それ以外には何物も人生になくなってしまう。

これはつまり人生に対する信念が乏しいために他ならない。



「信念」とありますが、これは、何に対しての「信念」かといいますと、中村天風の宇宙観が、

「この宇宙にはすべてを完全にあらしめたいという力が働いている。宇宙真理は不完全なものはない。そして、人間には、その完全である資格が与えられている」

ということで、

・そもそも宇宙は完全なもの
・その宇宙が人間に与えたものも完全なもの


なのだから、とにかく、その作用は「完全」であると。
なので、どんなことでも疑う方向ではなく、「信念」の方向から考える、と。

最近、この中村天風さんの言葉を抜粋することが多いですが、その理由は、確かに私はこの人の本を読んで、気づくことがあったのです。




来世のために私がしなければならないこと

「よくない感覚」の中でも「恐怖」というものの問題。

最近、これについて気づいたことがありました。

クレアの「自分が今生に生まれた理由 - 根源的な恐怖とのバトルの始まりの日に」という日記的な記事に書いたのですけど、私には「幼少からの根源的な恐怖」があります。

これを言葉で説明することは大変に難しいですが、神経症やパニック障害などだけの問題ではなく、人生の上で「厳しかった多くのこと」の基本的な原因はそこにあると思っています。

しかし、なぜ3歳とか4歳とか、そんな小さな時から自分はこの世に対しての根源的な恐怖を持っていたのだろうと考えると、その理由はわからないです。

ただ、今後どれくらいあるかわからない自分の人生の主たる目的が、天風さんの本を読んだ後に翻然と頭の中に出てきたのです。

その「私の目的、あるいは私が生まれた意味」とは、

「この根源的な恐怖と対峙して、これを消し去る」

ことです。

さきほどのクレアの記事のタイトルに「今生」とあります。

つまり、私の今後の人生の「責任」は、

「今生の中、つまり今生きている時代の中で自分の根源的な恐怖を消し去る」

ことだと認識し始めたのです。

この世に「輪廻転生」という概念が仮にあって、そして、それは次の世(来世)に「同じ気質」として伝わっていくのだとすれば、私が今のまま根源的な恐怖を解消しないままで死んでしまうと、

「来世に同じ苦しみを残すことになる」

と気づいたからです。

私はずっとこの「根源的な恐怖」から目をそらしていました。

例えば、不安ならどれだけ極度なものでも、ベンゾジアゼピン系の抗不安剤やお酒をたくさん飲めば、まずは回避できます。

その「消極的な対策」が今まで、どれだけ自分の肉体や脳を破壊し続けていたかは、「ブラック・フラミンゴが現れた地球。そして、数百万人の「ベンゾジアゼピン依存症」が作られている日本」という記事でも記しました。

何しろ、私が持っている不安と恐怖は、大人になってからのものではなく、「記憶があるころから始まっている」という強固なものです。それ以前からあった可能性があります。「生まれた時」から、あるいは、「母親の中で生命として芽生えた瞬間」から、すでに私は根源的な恐怖を持っていた可能性があるのです。

この状態を来世にまで引き延ばすことがどれだけ罪なことかを、最近少し実感したのです。

「もし来世というものがあった場合」ですが、私は、とんでもない大きな傷を次の世に受け継がせていく、ろくでもない存在となります。

いや、実は、来世だの輪廻転生があるかないかなども関係ないかもしれません。
今生を良くするということだけにでも意味はあるとは思います。

不安や恐怖や臆病な心といったものが「悪い」ことは、シュタイナーが『いかにして高次の世界を認識するか』で繰り返し述べていて、つまり、以前から知識としては知っていました。しかし、その時は、「そうなんだろうなあ」と思ってはいたのですが、シュタイナーの本にあるのは、

「翻訳の言葉」

であるのに対し、中村天風さんの言葉は、

「日本語の実録」

でして、それだけストレートに心の中に入ってきたのかもしれません。



恐怖と不安からの解放

ちなみに、『いかにして高次の世界を認識するか』について、

人工 DNA から生命が作られる物質科学の時代に考え直したい 100年前にシュタイナーが唱えた「人類が高次へ移行する方法」
 2014年05月12日

の中でご紹介したことがありますが、「神秘学の学徒になるための条件」として、シュタイナーは以下のように述べています。


私たちが克服しなければならない性質には、怒りや不機嫌のほかに、臆病な心、迷信、偏見を好む心、虚栄心、名誉欲、好奇心、必要のないことを何でも人に話したがる気持ち、人間を外見的な地位や性別や血縁関係をもとに差別する態度、などがあります。



羅列しますと、

・怒り
・不機嫌
・臆病な心
・迷信
・偏見や差別する心
・虚栄心
・名誉欲
・好奇心
・無駄なことをしゃべる


などは「いけないこと」とあり、実は、これは天風さんの言っていることと、ほとんど同じです。

さらに、シュタイナーの本の中に「十二弁の蓮華の育成のための六つの条件」という部分があります。十二弁の蓮華というのは私からの説明は難しいですので、リンクを示しておくにとどめますが、その条件は

(1)自分自身の思考の流れを支配すること
(2)思考の場合とまったく同じような首尾一貫性を行為においても保持する
(3)粘り強さの育成
(4)人間や、ほかの存在や、さまざまな事実に対する寛大な態度(寛容さ)
(5)人生のさまざまな現象に対するとらわれない態度
(6)ある種の人生の均衡状態(平静さ)を捕獲すること

となっていて、この中の(1)と(5)は、不安や恐怖の心と直結することなんですね。

(1)は、自分自身の思考の流れを支配「できていない」から、不安になったり恐怖する。

(5)は、人生のさまざまな現象に対する「とらわれがある」から不安になったり恐怖する。

つまり、自分の思考の流れを「完全に」支配できている人(1ができている人)は、頭の中にある何らかの不安や恐怖をコントロールできるので、どんな時にも「不安も恐怖の心も抱かない」という人間だと言えると思います。

そして、たとえば、災害、犯罪、天変地異などに直面した時でも、「そういう現象にとらわれない」心がある人(5ができている人)は、恐ろしいと考えられているどんなことも「恐ろしくはない」という人間だということになります。

もちろん、これは非常に難しいことです。

そういう境地で生きている人はものすごく少ないでしょうが、「まったくいないわけではない」とも思います。

そして、私が「今生の責務」として目指さなければいけないのはそこなんです。

これが大変に難しいことはわかります。

私自身の感覚では、自分がそこに行くのは、9割がた無理だと思っています。
いや、可能性はもっともっと低いと思います。

ただし、これからあと何年生きるのかわからないですが、あと 20年とか生きる機会があるのであるとすれば、時間はまだ結構あるのかもしれないですけれど。

生きる時間が長ければ長いほど、「不安や恐怖と直面することが増える」かもしれません。

そして、それがいいのです。

私が、神経症からパニック障害になった意味は、「私に、自分の中にある根源的な恐怖の存在を知らしめるためだった」と今は思います。

そういう意味では、神経症を発症して本当に良かったと思います。

そして、最近の薬のことなどいろいろな知識や考えに行き着いた背景には、最近、繰り返し起きていた「激しいめまい」が関係しています。

これがなければ、薬のことも西洋医学のことも考えもしなかったし、何より、一連のめまいがなければ、私は中村天風さんの存在さえ知らずに生き続けたと思います。

そういう意味で、本当に良いタイミングで、めまいに襲われたのだと思います。
ありがたいことだと思います。

ところで、「めまい」に悩まれている方は、Amazon などで、横浜市立みなと赤十字病院の耳鼻咽喉科部長である新井基洋さんが書かれた本を読まれてみるとよろしいかと思います。

新井さんは、たくさんの本や冊子を出されているので、どの本がいいとかはわからないですが、上のリンクの中のレビューなどを参考にして選ばれるといいかと思います。

めまいの原因は様々でも、「方向感覚を統括しているのは小脳」ですので、その小脳を「めまいに慣らしていく」という方法しか根本的な方法はないことがわかります。

どうするかというと、運動(リハビリ体操)しかないと悟りました。

めまいに薬はほとんど効きません。

そして、めまいが怖いからと長く安静にしていては、悪化していくだけです。
ある程度は自分(の小脳を)をいじめるしかないです。


話が逸れましたが、いずれにしても、私は人生 50年ちょっとにして、やっと「生まれてきた意味がわかった」のでした。

それは先ほども書きましたが、

今の人生の中で、自分の根源的な恐怖を消し去り、次の来世に生まれる人に、私より楽に幸せに生きてもらいたい。

ということです。

もちろん、その意味と責任を達成できる可能性は極めて低いと思います。

多分できないと思います。

そもそも、シュタイナーの言う、

「自分自身の思考の流れを支配すること」

を達成するだけで、何十年かかるものだか。

さらに「人生のさまざまな現象に対するとらわれない」ことについては絶望的な感じがします。

何が起きても平気でいられるなんて。

道を知人と雑談をしながら歩いている時に、知人が突然射殺される。

外で食事をしている時、震度7の地震が起きる。

そういう時でも、「とらわれない」。

難しいと思います。


そして、最も難しいことは、これらには「手っ取り早い方法は存在しない」し、そもそも、「基本的に、方法論というものが存在しない」のです。

いかなるインスタントな方法も存在しないと思います。
手探りしかない。

自分自身で、そのように思って生きるしかない。
だから、時間がかかるのですね。

黙って待っていれば訪れるものではないです。
考えられない苦痛が伴うことが目に見えています。

10年20年で行き着けるものでもないかもしれません。

そして、それは他人が一切介入できるものではなく、いつの時代でも、どんな状況でも、自分1人だけしか、問題の解消はなし得ないものだと思います。

ただ、その難しさはともかくとしても、やっと「生きている意味」がわかったのですから、そのことについては喜ぶべきことだと思っています。

長々と自分のことを書いてしまいました。

ところで、冒頭に「人間の頭部移植 2年以内にも実施? イタリアの医師が計画」という CNN の記事を載せましたのは、今の人々に「不安」や「恐怖」を大きくさせている原因は、「現代の西洋的科学思考」なのではないかと思ったのです。




私たちは「西洋科学的思考」から少し離れた方がいいのでは

天風さんの言葉によれば、人生を「1+1=2(完全に証明できるもの)」としてとらえてしまうのが今の世の中ですが、人生は「1+1=2」の理論だけではとらえきれないことが多く、そのため、天風さんは、


そうすると、ますます不可解に混乱して、人生が少しも安心出来ない世界になる。ただ不安と恐怖のみが、その人の人生を襲うことになり、それ以外には何物も人生になくなってしまう。


という言葉にもありますように、また、最近になって書かせていただくことが多くなっている、「薬(西洋薬)」や、西洋医学的手法にしても、

「何かが違っている」

ということが最近になって、理解されてきました。

「間違っている」とは言わないですけど、「何となく違っている」でもいいかもしれません。

たとえば、一般的に、頭痛には痛み止めは効きますし、下痢には下痢止めは効きます。
それは「間違っては」いません。

しかし、その西洋医学の方向そのものが「何かが違っていた」のではないかということも、最近の薬に関しての研究でわかり始めているような気がします。

西洋の医学や科学は、人間を機械として、その部分部部を「部品」のように考え続けてきました。

シュタイナーの言っていたような、人間というものが、

・肉体
・生命体
・感受体
・自我


からなっていて、それが人間であるという考え方とは違うものです。

あるいは、谷口雅春が、以下のようにストレートに西洋医学を批判していたことも思い出します。


医学がますます発達し、いろいろの健康法が数えきれぬほど案出され、それによって癒やされる、あるいは癒やされるように見える病気もたくさんあるにもかかわらず、病者の数がずんずんふえてゆきますのは、医学というものが一方では病気を治しながら、他方では人間の霊的自覚を奪ってゆき物質のまえに人間を無力にしてしまいますから、差し引き計算してみると病気を治す数よりも、病気の起こりやすい精神状態を伝播する範囲の方が広いからです。

(『生命の実相』)



しかし、つい最近まで、「西洋医学的アプローチ」に対しての合理的な反証はなかったこともあり、「違和感」だけで進んできたものが、ここに来て「西洋医学的アプローチのおかしさ」が露呈してきている感があります。

昔の多くの人びとが言っていたことが今になり、現実だとわかる。

現代になって、薬治療は「脳の作用を阻害する」ことが多いため、霊的という言葉は使わなくとも、「多くの薬は、人の認知と思考を衰えさせ続ける」ことがはっきりしてきています。

特に、脳の中でも松果体は血流が多いですので、大きな影響を受けると思います。

そして、冒頭の「頭部の移植手術」などというのは「人間を部品として考えている行為の最たるもの」だと思ったのです。

CNN の記事によりますと、この頭部の手術は、

首から下がまひした患者の頭部を切り離し、脳死と判定された他人の体に移植する――。イタリアの医師が、そんなSFのような移植手術の構想を描いている。米国で6月に開かれる学会で講演して協力者を募る考えだ。

とあり、

・首から下が麻痺した患者の頭部を切り離す
・脳死と判定された他人の体に移植する


ということをしようとしているのですが、何か違和感がある。

そもそも、頭部の神経組織を繋ぐほどの技術があるなら、麻痺そのものを治せるのでは、とか(頭部のすげ替えは動物でも成功したことがありません ← 過去に何度もサルでおこなわれています)。

考え方がもう本来の「医学」とは違う方向に進んでいる。現代の医学は、頭部のすげ替えなんてことができるレベルには到達していないのに、それでもやろうとする。

この状態は、「医学が人々に希望を与える」というより、むしろ「不安と恐怖を与えている」気がするのです。

人間という存在と、まして、その人生や健康は「1+1=2」では語ることはできないという視点が西洋科学的思考にはない・・・あるいは、「失ってしまった」気がするのです。

なお、「科学」、あるいは「哲学」を基本にするのは、相変わらず大事なことです。
科学を基盤にしなければ、何も進まないです。

でも、今の西洋科学思想は、医学も宇宙学も含めて、科学ではなく、むしろオカルトであることが、冒頭の頭部の手術のニュースでもわかるわけで、世界中で大量に使われている抗がん剤が「オカルト」(延命効果がないのに、延命治療として使う)であることも、すでに周知だと思われます。

いわゆるオカルトと科学の立場が逆転している気がします。

風邪を引いて風邪薬を飲むという滑稽さは、確実なオカルトなのに(風邪薬は風邪を治さず、むしろ根本治癒を長引かせます)、でも、みんなそれが「科学のように」思ってきた。

そういう意味から、あくまで、私自身の問題として、「恐怖を取り除く最初の関門は、この西洋的思考から抜け出すこと」だと思った次第です。

そして、真実の科学や医学の感覚を取り戻すこと。

ここで書いたことは、個人的なこととはいえ、日本全体も、そろそろこのあたりに移行してもいい時なのかもしれないなとは少し思います。



  

2015年04月16日



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・覆面画家バンクシーの作品 No Future






 



詰め込まれる子どもたち

最近、健康に関して書くことが多いですが、その大きな理由は、

「今の日本人があまりにも心も体も病んでいる」

ことを最近になって知ったからです。

成人の疾病の多くのグラフが爆発的な上昇を示しています。

また、子どもの弱さも目立っています。

児童生徒のぜんそく罹患率と先天性異常発生の推移
zen-01.gif
文部科学省


私は昔、東京の大手タレント養成学校で、小役さんのオーディションとか、 CM 出演のための小さな子どもに演技指導をしていたことがあります。

私が担当していたのは、小学1年生から小学3年生くらいまでの3クラスで、全部で 40人くらいでしたかね。

その時はうちの子どもはまだ赤ちゃんでしたので、最近の小学生がどのような生活を送っているのかを知らなかったんですが、その学校で、生徒さんたちと話しているうちに、

「こんなことになっていたのか」

と驚いたことがありました。

それは、その学校に来ているのが、比較的、経済的に余裕のあるご家庭の人たちが多かったせいもあるのでしょうけれど、子どもたちの、

ほぼ全員が塾に通っている

ということと、

8割以上が塾以外に、習い事をしている

のでした。

小学1年生とか2年生ですよ。

私には、小学生の低学年が塾に通うという概念がまったくなかったので驚いたのと、「そんなに習い事させて何にしたいんだ?」という強烈な価値観の違和感でした。

その中には、小学2年生の男の子で、「1週間に8つ習い事している」と言っていた子もいました。

 「1週間に8つ?」
 「土曜にふたつ行くから」
 「今日、土曜だけど、この後また何か行くの?」
 「英会話」
 「小学2年が英語習ってんの?」
 「うん」
 「どの習い事が楽しい?」
 「楽しいのなんてあるわけないじゃん!」


吐き捨てるように言った後に、苦笑していました。

ちなみに、この学校では、先生や講師たちへのしゃべり方は「敬語で丁寧に」と厳しく決められていましたが、私は子どもに敬語で話しかけられるのが苦手だったので、普通に話してもらっていました。

聞けば、他の子も塾を含めて、3つや4つ習い事をしている子は普通でした。

私はそんな子どもたちの状況を知って切なくなり、それに、この学校もまた「習い事」であって、何だか「習い事ラッシュ」に荷担しているような気がして、その後、学校の講師は辞めました。

しかし、「小学生低学年が塾に行く」というのは、私の子どもの頃は、狂気か冗談のような話でしたけれど、今ではそれほど珍しいものではないようです。

どのくらいの子どもが塾に通っているのかを調べてみると、下のようになっていました。

小学生と中学生の通塾率の推移
juk.gif
Biz STYLE

推移としましては、1970年代から 1980年代くらいまでは、ほとんどの小学生は塾には行っていなかったことがわかります。

1980年
小学生 10%
中学生 40%


それが、理由は知らないですけど、1995年頃から急激に上昇して、2000年代になりますと、

2002年
小学生 40%
中学生 70%


となっていまして、現在は中学生においては、塾に通う方が多数を占めるということになります。

このデータも 10年以上前のものですので、その後どうなっているのかはわからないですが、多分、減ってはいないような気がします。

「こりゃ、日本の学力も低下するよな」

と、その学校で、子どもたちから話を聞いた時に思いました

私は、自分の経験からも、

「詰め込まれた知識や、嫌々おこなう勉強は絶対に身につかない」

と強く思っています。

ちなみに、別に関連はないですけど、上の、塾に通う子どもたちが急速に増えた 1996年くらいから、日本の国際競争力は急速に落ちています。

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社会経済状況の変化

私は国際競争力なんてのはどうでもいいのですけれど、日本の子どもたちがどんどんと「学習することを嫌いになっていく」ことが恐ろしいです。ここでいう「学習」とは学校の科目の勉強のことではなく、広範囲な意味においての「学習」です。

子どもは、自分の好きなことは一生懸命やりますから、遊んでいれば、自然と興味のある対象ができて、そして、そのことについて学習します。ですので、基本的には、特に小さな時には「学習に対しての自由」(小さな時には、どんなことでも学習であるという意味で)が最も大事で、そのためには遊ぶことです。

子どもは(少なくとも自分の子どもの時は)強制されたり、そこに自由がないことに気づくと、すぐ、それが嫌いになります。

私は小さな頃は本が大好きでしたが、小学校で「読書感想文」というものを書かされるようになってから嫌いになり、小学校の高学年からは、ほとんど本を読まなくなりました。

読書感想文は全然自由ではなかったですからね。
「定型」の中に入っていなければ、点数はもらえません。

たとえば、「野口英世」を読んだとして、


アフリカはあついので、野口英世もアイスが食べたいとおもったとおもいます。アイスはアフリカで食べてもおいしいとおもいます。うちはアイスはあまり買えないです。でも、お父さんがスイカを畑で作って、トマトも作ってておいしいです。


では、たとえ書いたのが小学生でも、感想文として多分「ダメ」ということになると思います。

しかし、実際に「野口英世」を読んでいる時にそのように思っていたのなら、これは「素直で正直な感想文」ということになるのですが、それではダメというのなら、「感想文ってウソを書くものなのか」という「現実」がわかってしまい、興味など一瞬にして消えます。

個人的にみれば、この感想文は、アフリカの気候的特徴をよくとらえ、そこで苦労した野口英世の苦難を思わせ、そして、そこに感情移入までした後に、自分の父親への感謝も添えるという、大変な労作だと思うのですが、学校側の評価は、多分、あまり良いものとはならないはずです。

私自身、小学校時代、作文にしろ読書感想文にしろ、「書きかえなさい」という旨のことを何度か言われたことがあります。絵などでもダメを出されたことがありますし(天国の様子を書いただけです)、ダメだしは多かったですね。

まあ、私のことはいいです。




詰め込みは現実の成績も含め、あらゆる方向に悪い作用を及ぼす

とにかく、どんなものでも、「知識を詰め込まれて喜ぶ子どもはいない」です。

いや、これは理想論ではないです。

たとえば、「塾に通わせること」に関しては、下のふたつの比較図が、塾と学力上昇とはほとんど関係ないばかりか、むしろ「塾に行くと成績さえも悪くなる」ことを示すのではないかと思います。

各都道府県の中学生通塾率(2014年)
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中学生通塾率

塾へ通う生徒の率が最も「低い」のは秋田県です。
では、その秋田県の生徒たちの成績は悪いのでしょうか。


各都道府県の全国学力テスト順位(2014年)
seiseki-zenkoku2.gif
全国学力テスト

これを見ますと、秋田県が成績で日本一です。
秋田県は、塾へ行く子の率が最も「低い」ところです。

東北は、青森などを含めて、「塾へ通う率が低く、成績が高い」傾向が見られます。

それでは、逆に、塾に通う生徒が多い県を見てみます。

特に多いのが、

・神奈川
・奈良
・和歌山


などとなっています。

しかし、学力テストの成績は、その3つの県はどれも全国から見ると成績下位で、つまり「塾に行く率が高い県ほど成績が悪い」という傾向を示していることがわかります。

特に、和歌山県の成績は全国で最も低いレベルとなっています(データ上の説明で悪意はありません。気分を害された方がいらっしゃいましたら、すみません)。

他の多くの県でも、「通塾率」と「学力テストの成績」を比較していただくと、多くが「逆の関係」にあることがわかります。

これを見る限りでは、手っ取り早く子どもの成績を上げたいのでしたら「塾に行かない」という方法が簡単だと思います。

人間はロボットではないですので、自分から、心の底から学びたいと思わないと何も学ばないと思っています。詰め込めば、詰め込むほど、その子どもは学習は身に入らないし、「学習を憎む」ようにさえなっていくように思います。

しかし、成績などはどうでもいいことで、

「詰め込み教育は、さらに深刻な影響をもたらす可能性がある

ことを最近知りました。

下は、約 100年前に、ルドルフ・シュタイナーが人智学協会の会員向けに行った講演の一部です。

シュタイナーの『人間の四つの気質―日常生活のなかの精神科学』というものに収録されています。



シュタイナーの 1912年の神智学協会会員に向けての講演より


大学には多くの学部があり、教授たちが思考と研究以外のことに、一年中かなり駆り立てられています。学生が試験のために知らなくてはならないことを、二、三週間で習得させます。つまり、最も必要なものを詰め込むのです。そのような詰め込みが最悪なのです。

小学校でも詰め込み教育が行われるようになると、その害は想像を絶するものになるでしょう。詰め込み教育の本質は、心魂つまり存在の最奥の核と、詰め込まれるものとの結びつきが、まったくないことです。心魂は詰め込まれる内容に、関心を持てないからです。

習得したものをしっかりと自分のものにしたい、という気持ちがないのです。人間の心魂と自分が習得するものとのあいだに、興味の絆がわずかしかないのです。

その結果、活動的に公的生活に関わることができなくなります。詰め込まれたものが、自分の職業の課題と内的に結びつかないからです。心魂が、頭の活動から遠く離れているのです。

人間にとって、頭の活動と心魂が遠く離れていること以上に悪いことは、他にありません。



戦後の日本の教育は、上の 100年前の講演でシュタイナーが述べていた、

> 小学校でも詰め込み教育が行われるようになると

を具現化したものですが、

> その害は想像を絶するものになるでしょう

とシュタイナーは言っていて、今の日本は、学校だけでも詰め込みなのに、そこに加えて、小学生の 40%が塾に通い、中学生の 70%が塾に通う。

シュタイナーは上のことを述べた後、エーテル体などの単語を使った言葉を述べますが、難しい言葉はともかく、シュタイナーが言うには、詰め込みは、ただ知識が身に入らないだけではなく、

「人間の生命エネルギーを弱くする」

と言っています。

それが問題なのです。
シュタイナーの言っていることが、あまりにも今の日本の「健康的状況」とリンクするからです。




人間の生命エネルギーが弱くなっているかもしれない現在

先ほど、「塾に行くと成績さえも悪くなる」と「さえも」と書きましたが、成績が悪くなることなどはどうでもいいのです。小学生の時の成績など将来の何に関係があるものかと思います。

そんなことより、この「生命エネルギーが弱くなっていく」ことがコワイのです。

生命エネルギーという言い方ではなく、単に「生命力」でもいいですが、確かに、私たち日本人は年々、弱くなっています。

どうしてそうなってしまったのかはわからなくとも、弱くなっています。

身体そのものも弱くなっているでしょうが、「精神系の疾患」の増え方が著しいです。

精神疾患別増加数
Japan-mental-2008.jpg
現代日本でなぜ精神疾患が増えているのか

理由はともかく、ものすごい増加であることは確かです。

ただ、上のグラフで、赤い部分は「うつ病」ですが、これがに関しては、過去記事「ふと思い出す世界を支配する医薬品ビジネス」の後半の方に書きましたが、うつ病が増加した理由は「うつ病啓発キャンペーン」と、抗うつ剤投与を無理矢理上昇させた、ということが大きく、ビジネス的な理由によるものだと思われます。

なので、うつ病は除外しましても、多くが 1999年との比較で、何倍という単位で増えています。

たった 10年ほどの間にどうしてこんなに増えたのか。
さまざまな理由が考えられて、実際のところはよくわからないですが、とにかく、

「日本人は心も体も弱くなっている」

ということは言えるかと思います。

それに加えて、少子化が止まる気配はありません。
その少ない子どもたちも、詰め込みで勉強を「心から憎む」ようになり、そして、時間的余裕もない。
心も弱る。体も弱る。

冷静に考えてみれば、子どもに対して最も大事なことは、

・その子の身体の健康
・その子の心の健全
・生きている上での安心感


くらいでいいわけで、何より、詰め込みが「現実的に成績さえも悪くする」ことは、上のほうの通塾率の分布でもわりと示されていて、詰め込みを続けていると、実際に「知能的にも日本人はどんどん劣ってきてしまう」と思います。

日本の学力低下は著しいですが、詰め込みと塾の増加が続けば、これはさらに徹底的なまでに進むはずです。なので、現実の社会的にも損失の部分が大変に大きいように感じるのです。

そして何より、今以上、日本人の心と体が弱くなった場合、それはもはや日本という国の死活問題になると思うほど、現状の「病気の増加」ぶりはひどいです。




どこかで何かかが歯止めをかけないともう止まらない

さきほど挙げました「精神疾患系の患者数の増加」や「ガンの患者数の増加」などのグラフを見て、お気づきの点がありますでしょうか。

それは、

上昇曲線に高止まりする気配がない

ということです。

グラフは、それ以上に上まで行かなくなりそうな時は、高いところで横ばいのような状態となりますが、上昇の曲線が「上を向いたまま」のものが多いです。

普通にチャート的な考えからですと、それらの疾病は「今後まだまだ増える」ことを示唆します。

こういうことも、少し前までは「化学物質」などが主要な原因かとも思っていましたけれど、しかし、考えてみると、私たちの子どもの時などは今より公害も排気ガスも食品添加物の問題もひどかったはずです。

なので、単純に化学汚染や環境の悪化というだけなら、最近になってこんなに急激に病気の数が増加してくるというのは、「原因の複雑さ」を思います。

理由は単純ではないでしょうけれど、ただ、最近の記事、

健康ブームの中でガンが増え続ける理由…

とか、

数百万人の「ベンゾジアゼピン依存症」が作られている日本

で書いていますように「薬の過度な服用」の影響は少なからずあると思います。

そして、出生してくる子どもたち自体が、

日本の未来 : 子どもに関しての、そして、高齢者に関しての統計データから受けた衝撃
 2015年01月28日

などで書きましたことを含めて、あまりにも急速な変化を見せていて、いよいよ、「普通ではない」ということになっている感じはしませんでしょうか。

その理由も原因も明確なところはわからないとはいえ、どうすれば「良い方」に向かうことができますかね。

もうすでに状況は、崖っぷちにいるのではなく、「崖っぷちを越えている」と認識していますが、崖そのものが完全崩壊するまで進まない手は何かあるのかどうかを知りたいです。



  

2015年04月15日



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▲ 2015年04月13日の Spaceweather より。






 



巨大黒点群がやって来る


最近の太陽の黒点数は、先月の 24日くらいをピークにして徐々に減っていく傾向にあったんです。

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NICT

「このままどんどん減っていって、そろそろ太陽活動がどんどん小さくなっていくのかな」

と思っていたら、数日前から一気に黒点が増えてきました。

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4月13日には、冒頭のような巨大黒点群が出現。

この黒点群 2321 は NOAA の分析官が、太陽フレアを発生させやすいと主張する、ベータ・カンマ・デルタ( beta-gamma-delta )という構造の磁場を持つそうで、今後しばらくは太陽フレア発生の可能性が高くなっています。

しかも、昨日 4月14日になって、何だか太陽の裏側からデカそうな黒点群が次々と地球側へ回り込んできている様子がうかがえるのです。

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▲ 2015年04月14日の Spaceweather より。


そして、同じ日には 70万キロメートルに及ぶ巨大な磁気フィラメントの爆発が発生しています。

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Spaceweather


こういう光景を見ていますと、昨年、「1日だけ黒点数が0の日」となった後に書きました記事、

崩壊したかもしれない太陽活動 : 周期の「法則」はどこへ?
 2014年07月30日

という記事に載せました、2014年7月17日からの約2週間の黒点の推移を思い出します。

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Spaceweather

たった 10日間ほどで、まさに「急激に」黒点数が増加したのでした。

そして、今年になってもまだ、大きく黒点が増加していく様子などを見ていますと、

「いつまで活発な太陽活動が続くんだい?」

とは思います。




興奮や怒りや憎しみは人間をダメにする

その頃書きました、

太陽から突然黒点が消えた日」: 過去1年半の中で太陽黒点数が最低数を記録
 2014年07月17日

という記事の中の「今の時代は早めに黒点が消えていったほうがいいのかも」というセクションに書いたことがありますが、歴史的には、

「黒点の増加と暴力は直結している」

というようなことがあり、ISIS やボコ・ハラムなどの活動などを含めまして、最近の混沌とした社会の紛争の状況を見ていますと、「もう、このまま黒点が急速に消えていってくれたほうがいい」と思う面もあります。

黒点の増加時には、「暴力」と「興奮」が伴いやすいという性質がありまして、「大きな戦争」だけでも、太陽活動最大期と時期を合わせるようにして始まった戦争はたくさんあります。というか、大きな戦争は、ほとんど太陽活動の最大期とリンクするように始まっています。例外は第一次世界大戦くらいです。

そして、戦争や流血が続けば、そこには当然、怒りや憎しみというようなものが伴ってくるものですが、こういう怒りや憎しみといった感情は

「人間、あるいは人間の霊性をダメにする」

もののようなのです。

ルドルフ・シュタイナーは、真実の意識に目覚めたいと思う人の思考や行動の中で「最も不要なもの」として、

・怒り
・差別意識
・憎しみ
・興奮
・ヒステリックな心
・迷信
・オカルト


を挙げています。

戦争や暴力に伴う「怒り」や「憎しみ」「興奮」などの感情は、人間の霊性や自意識を「低くする」ものです。

このシュタイナーの言っていたことは、興味深いことに、昨日の記事、

中村天風師の語る「極微粒子=気=創造主」の概念で 25年間持ち続けた「神様の正体のモヤモヤ」が少し晴れた日
 2015年04月14日

の中村天風も、ほぼ同じことを言っています。

怒り、差別、憎しみなどのネガティブな気持ちや、興奮などの安定しない心、それと、占いを含む迷信を糾弾しています。

その中でも、「恐怖心」について、最も戒めなければならないことだとして、これはクレアの記事でも抜粋したものですが、中村天風は次のように記しています。


中村天風『運命を拓く』より

第一に必要なことは心の安定を失ってはならないことである。

心の安定を失うことの中で、一番戒むべきものは恐怖観念である。そもこの恐怖なるものこそは、価値なき消極的の考え方で描いているシミだらけな醜い一つの絵のようなものだ。



シュタイナーと中村天風では、何だか畑の違う人のようにも見えますが、それぞれが違うアプローチからでも「行き着く理想が似ている」のは面白いと思います。

ところで、シュタイナーというのは、「学問的」に彼の主張(人智学)に行き着いたような人だと思っていましたが、『神秘学カタログ』(荒俣宏・鎌田東二共著)という本には、

> 人智学の創始者であるルドルフ・シュタイナーという人物は、天与の超感覚的知覚に恵まれていた。

と記されていて、もともとが特別な知覚を持って生まれた人のようです。
上の本では、キリストを含めた多くの宗教教祖と並べて語られていました。

シュタイナー自身が述べていたところによれば、

「霊界で体験できることは、私にとってつねに自明の事柄だった。感覚界を知覚するには、これ以上もない困難が常に伴っていた」

ということで、「感覚界」というのは、今のこの普通の私たちのいる世の中のことですから、シュタイナーは、「霊界よりも、この現実世界を認識することが大変だった」という人だったようです。

こっちの世界というより、どちらかというと、「あっち側の世界の人」だったようです。

それに比べると、中村天風は、若い時の暴れん坊青年時代から帝国陸軍の諜報員、その後、病気となった後、インドでヨガの修行を受け悟るということで、元は普通の人ではあります(経歴を見ていると普通の人ではなさそうですが)。

ところで、中村天風は、インドの山奥で修行をしたのですが、私は「インドの山奥で」と聞きますと、40年くらい前のレインボーマンというヒーローもののオープニング曲の歌詞、

インドの山奥で 修行して
ダイバダッタの 魂やどし
空にかけたる 虹の夢

を、みんなで替え歌にして歌っていた小学生時代を思い出します。




偶然行き着いた日本人総狂人化計画

それは、ただ、♪インドの山奥出っ歯のハゲ頭・・・♪というのをみんなで延々と歌っているだけなのですが、何が楽しかったんだろう? あれは。

しかし、レインボーマンでは覚えているのが歌だけで、あまり内容を覚えていないですので、レインボーマン - Wikipedia を見てみましたら、


レインボーマンに変身するヤマトタケシと、死ね死ね団の戦いが描かれたテレビドラマ。

単純な勧善懲悪ものではなく、川内康範(原作者)の東南アジアにおける旧日本兵の遺骨収集の体験が反映された、数々の特徴をもっている。

すなわち、かつて日本に虐待されたと自称する外国人が組織立って日本人に復讐しようとするという敵の設定、祖国が外国から迫害を受けている現実を目の当たりにしながらも、共に戦う仲間を得ることもなく、日本を守るために孤独な戦いを続けるレインボーマンの…(略)



こんな大層な話だったんかい。

当時、私は 10歳くらいだったと思いますが、覚えているエピソードのひとつに、「死ね死ね団が、何らかの方法で日本の経済と金融を麻痺させようとする」のがあったような記憶があります。

もう少し詳細を思い出したくて、検索していましたら、愛の戦士レインボーマンというページに、各回のストーリーと、敵の「死ね死ね団」の戦略が短く載せられていましたが、何だかすごい。

キャッツアイ作戦
日本人皆殺し作戦第1弾 人間を狂わせる薬、この薬を日本人に飲ませすべて狂人化させて殺してしまおうとする恐ろしい作戦だ。

M作戦
おたふく様を信じればお守りに現金を授けられるという、おたふく会を使って大量の偽札をばらまき日本経済をインフレで混乱させてしまおうという、経済的ダメージを与える作戦だ。

などが書かれていましたが、この「M作戦」ってやつですね。

覚えてる、覚えてる。

死ね死ね団が、日本経済をインフレで混乱させるために、いたるところで、紙幣をばらまく。すると、おじさんおばさんたちが、ワーッとばかりにお金に群がるんです。

うちには確かまだカラーテレビはなかったので、友だちの家かなんかで再放送か何かを見ていたのだと思いますが、私ら子どもたちはそれを見ながら、

「死ね死ね団より、お金に群がっている人たちが何だか見苦しいねえ」

というような話をしていた記憶があります。

そして、そのうち、「話の内容が子どもには重い」と、見るのをやめて、♪インドの山奥出っ歯の・・・♪と歌いだすのでした。どこまで行っても、原作者の崇高な意志より、替え歌だけが後世に受け継がれてしまった悲劇のヒーローものとも言えるかもしれません。


・・・えーと・・・なんでこんな話になってる?


もう話が逸れすぎて、どうしてこんなところまで逸れてしまったのかを突き止める気にもなりません。




薬による日本人全滅作戦はあるいはその通りかも

しかし、レインボーマンの「キャッツアイ作戦」は今思うとすごい。

この「人間を狂わせる薬を日本人に飲ませて狂人化させて殺してしまおうとする作戦」は、レインボーマンの 40年後の今、ちょっと当たってるんじゃないですかね。

狂人化ではないけれども、最近の、

ブラック・フラミンゴが現れた地球。そして、数百万人の「ベンゾジアゼピン依存症」が作られている日本
 2015年04月12日

という記事では、日本が「超長期連用で実質的な意味で脳を破壊する可能性がある」ベンゾジアゼピン系という薬の販売ターゲットになっていることなどを記しました。

Benzo-Consume2.gif
ベンゾジアゼピン薬物乱用 - Wikipedia

その前の、

健康ブームの中でガンが増え続ける理由 : 世界でもダントツの「薬」消費国である日本は…
 2015年04月10日

という記事では、日本の異常ともいえる「薬に頼った医療」が、日々、日本人の免疫力を落としている可能性についてふれました。

その記事では、ガンのことについて多く書きましたが、私は、ベンゾジアゼピン系や抗うつ剤だけではなく、普通の薬の多くも、ガン細胞を殺せなくなる免疫の問題と共に、認知症の増加と関係している可能性があると思っています。

認知症に関しましては、

私たちを含む多くの人類の松果体はフッ素による石灰化により、すでに「永遠の機能停止」に陥っているかもしれない
 2015年02月03日

という記事で、フッ素が脳の松果体を石灰化させて、それが認知症やアルツハイマーと関係がある「可能性」について書きました。もちろん、あくまで可能性で、確定した何かではないです。

そういう様々な面から見て、薬消費大国である日本の姿を見ていますと、死ね死ね団による「人間を狂わせる薬を飲ませる作戦」は今でも進んでいるのかもしれません。




抗がん剤のこと

ガンといえば、三大療法の罠:「抗がん剤」「手術」「放射線」は発がんリスクを高めるという記事に、近藤誠医師の『「がん」ほどつき合いやすい病気はない』という著作に掲載されている医学誌ランセットからの比較グラフがありました。

ここには、末期の肺ガン患者に対しての、

・抗がん剤を4種類使用しての治療
・抗がん剤を1種類使用しての治療
・治療しない


という3つのグループの臨床例が載せられていて、結果は下の通りでした。

cancer-lancet.gif


これを見ますと、あらゆる段階において、最も生存率が高かったのは「治療をしないグループ」で、抗がん剤を4種類使っているグループは、最も生存率が低かったことがわかります。

特に、500日目の差は刮目する部分もあるような感じです。

抗がん剤については今はいろいろと言われていますが、何より、ちょっと思ったのは、上の『「がん」ほどつき合いやすい病気はない』という本が発売されたのは、Amazon によれば、1995年のことなんです。

今から 20年前です。

この近藤医師という方は、「ガンは治療しないで放置しなさい」という意見の方のようですが、全面的にその意見に賛成する気にはなれません。

手術でとってしまえば、何らかの機能の障害は残っても、そのまま一生何でもなく過ごせるガンはたくさん存在すると思うので、極端化するのはどうかと思います。

ただ、そうではないガン、つまり、切除して治らないガンや、切除しても仕方のない末期ガン、あるいは、高齢の方のガンの治療などに関しては、抗がん剤治療はどうなのだろうなとは思います。

もちろん、考え方はいろいろですが、上のグラフを見る限り、「抗がん剤の効果」としては 20年以上前の上のようなグラフが何かを示していそうです。




実はお医者さんは薬では儲からない

ところで、これは非常に大事なことだと思うので、書いておきますけれど、なぜ、日本の医療は、やたらと薬を出すのかという理由で、中には、

「お医者さんか儲かるから」

と思われている方もいらっしゃるかもしれないですが、現在のシステムでは、病院でいくら薬を出しても、お医者さんは「まったく」儲かりません。現行システムは、薬の公定価格(売り値)と、問屋からの納入価格がほぼ同じですので、薬による利益は出ない構造なんです。

これは、ネットなどで調べられますし、あるいは、医者ご本人の言葉としては、中村天風さんに師事していた松本医師が『高血圧は放っておくのが一番』に記していた記述をご紹介しておきます。


「医者はお金儲けのために、たくさん薬を出すのだ」「薬を出せば出すほど、医者は儲かる」と思っている人もいるのではないだろうか。

これは 1980年代初め頃まではそうだったが、その頃から変わっていった。今は、薬を多く出しても、医者は潤わない。薬の仕入れ値と売り値がほぼ一緒だからである。薬の販売価格は国で定められているため、儲けようと思っても無理なのだ。(略)

今は、私も含め、町医者はどこも火の車だ。子どもに同じ苦労をさせたくないと、自分の代で病院を閉めてしまう医者仲間も多い。



つまり、「儲かるから薬を出しているわけではない」のです。

それなのに、必要以上と思われることもあるほどのたくさん薬を出す・・・というのはどういうことなのだろうと思っているのです。

もちろん、「この薬でこの症状を治せる」とお医者さんが思って出す場合が多いのでしょうけど、もうひとつの問題は、これは昔の自分を思い出して書きますけれど、

「患者が薬を出されないと納得しない」

という面も関係していると思います。

多分、「薬をもらうため」に病院に行くという方は多いのではないでしょうか。

私を含めて、あまりに長い間、「調子が悪くなったら薬」という対応になれすぎていたため、すぐ薬をもらいに行く。そして、薬をもらえないと、「むしろ困る」という気持ちになる。

なので、日本が今のような薬漬け状態になっているのは、お医者さんの方の問題もあるかもしれないですけれど、「すぐに薬を欲する私たち」というほうも考えていかないといけないかなあとも思います。

特に、この間のベンゾジアゼピン系の記事にありますような、メンタル系の病気で精神科や心療内科に行って「何も薬を処方されない」場合、その人は必ず、「薬を処方して下さい!」と訴えるはずです。

日本の薬の出し過ぎに関しては、かなり深刻な状態になっている部分もありますので、患者もお医者さんも、どちらも考える時に来ているような感じはあります。


・・・さて。


・・・最初は何の話でしたっけ・・・。

太陽ですね。

どこで、どう方向性がおかしなことになってしまったか、もはやわからないレベルの逸脱を見せてしまいましたが、とにかく、今後数日から1週間くらいは、太陽活動が大きくなる可能性が強く、フレアや CME が発生するかもしれません。

また、人々の「興奮」も強くなるかもしれません。

そして、数々の科学・医学の研究は、太陽黒点数の増加と、人間の精神活動の異常の増加に相関があることを示します。

エコノミストの嶋中雄二さんの名著『太陽活動と景気』には、太陽活動や地磁気撹乱がヒトの精神活動を乱すことについて、様々な太陽活動と精神活動の関連についての過去の研究が記されています。

(参考記事:21世紀も「太陽が暗くなる時」を経験するのか?

ただでさえ何となく社会が荒れやすい昨今、しばらくはまたいろいろと混沌とするようなことが連続することもあるかもしれません。

いやいや、考えてみれば、今回のこの記事の迷走とカオスぶりこそが「黒点の増加とはこういうことに結びつくのだ」ということを示しているのかもしれません。

そして、大事なことは、「社会で何かあっても」それにつられて、「怒り」や「憎しみ」などの感情が自分の中から表へと引きずり出されないように自分を管理することだと思います。