・ルイス・ブニュエル『銀河』(1968年)より。
今回のタイトルの「神々への宣戦布告」は、最近、私は歩いている時などに常にそのフレーズが頭に浮かび続けていまして、しかし、「それがどういう意味かいまだに曖昧にしかわからない」のです。ということもあり、そのことは具体的に書ける段階ではないです。
それでも、必ずこのタイトルの記事をいつかは書くことになると思いますので、プロローグとしてタイトルに文字として入れさせていただきました。
ちなみに、ここでいう「神々」とは、絶対の存在の単数の「神」ではなく、複数形の「神々」です。
絶対の存在「以外」の神たちのことです。
それが、未来の新しい地球の創造(破壊)のターンでは不要なもの、だということなのですが、まだぼんやりとした姿しか出てきません。
しかし、このことは、私たちを「不自由」の中に縛りつけているさまざまな存在からの解放を意味するということはわかるわけで、真剣に考えなければならないことだと思います。
いろいろと考えているうちに、気づいたら、全然関係ないことなどをつらつらと書いていました。
単なる雑記となってしまいましたが、すみません。
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『美しき緑の星』から流れ着いた「神学カオス」
1996年のフランス映画『美しき緑の星』の監督は、この映画の主演もしていたコリーヌ・セローさんという女性なんですが、掲示板でかって、このコリーヌ・セロー監督の『サン・ジャックへの道』という映画が面白いと教えていただいたことがありました(なお、掲示板は現在は書き込みはできませんが、過去ログはすべて読める状態にしています。パスワードは indeep です。)。
『サン・ジャックへの道』は 2005年の映画で、彼女の作品ではもっとも新しいものです。
『美しき緑の星』を監督中のコリーヌ・セローさん
『サン・ジャックへの道』の日本語の解説はこちらの公式サイトにありますが、まあ、これも『美しき緑の星』と同様、「人々が愛への覚醒」を達成する映画で、人種差別主義者や不仲の兄弟、アル中男性などが、様々な事情により、聖地サンティアゴに巡礼することになり、さまざまなドタバタの中で、ひとりひとりに「真の人間性」が芽生えてくるというような映画です。
特に後半、唐突に映画は面白くなり、『美しき緑の星』を見た後と同じような、一種の「達成感」を感じる映画です。
それで、まあ、この映画は良い映画だったのですが、これを見た後、
「むかし、やっばり、聖地サンティアゴに巡礼するフランス映画を見たなあ」
と思い出していましたら、
「わかった。ルイス・ブニュエルの『銀河』だ」
と思い出しました。
ただ、この『銀河』という映画は、二十数年くらい前に1度だけビデオで見ただけで、しかも、酔っぱらって見ていたので、どんな話だか覚えていません。
それで、手に入れることにしまして、Amazon で購入したのですが(なんと DVD と間違えて VHS を購入するというのをやっちゃいました)、再度見まして、
「こんな面白い映画の内容を忘れていたのか、オレは」
と、やや後悔と反省が入り交じることになりましたけれど、逆にいうと、『美しき緑の星』→『サン・ジャックへの道』という流れで、何十年ぶりかに見ることができたのですから、幸いだったかもしれません。
私は、この世で最も好きな映画は、このルイス・ブニュエル監督の『ブルジョワジーの秘かな愉しみ』という 1972年の映画で、ビデオを含めて、20代の頃から今まで 1000回以上は見ていると思います。
そして、この『ブルジョワジーの秘かな愉しみ』というのがどんな映画かというと、本当に説明しようもない、わりと何も起きない映画です。ストーリーも説明しようがないのですが、
・人の夢と夢が交錯しているうちにどれが現実かわからなくなる
というのと、
・食事を始めようとすると、いろいろな理由で食事が始まらない
ということがテーマというのか何というのか、そういう映画ですが、『サン・ジャックへの道』からの連想で見直した、そのルイス・ブニュエル監督の『銀河』という映画(タイトルの由来は、サン・ジャックへの巡礼の方向が天の川銀河の回転の進行方向に沿っているため)は、これも説明が難しいストーリーですが、オール・シネマから解説をお借りしますと、
銀河(1968年)
聖地サンチャゴを目指す巡礼者二人、ピエールとジャン。かつて、ヨーロッパ北部から見てスペインに向かうその道は銀河をたどるのにも例えられた。
現代のパリからこのサンチャックの道を往く彼らを待ち受けるのは、時代を超越した異教徒の群れ、邪宗の誘惑(サド侯爵も登場)。
その上、いよいよ聖地も近い森の中で出会ったキリストは“暴力の必要性”を称える有り様。ブニュエル流の破天荒な展開が刺激的な反神論は、その俗なる激しさにおいて、どこか聖性を帯びてもいるのだ。
この解説には、ややちがうところがありまして、まず、「反神論」とありますが、この映画は、反神論とか反キリストの内容ではありません。
そうではなく、「神学」と「キリスト教」についての、ありとあらゆる概念をぶちこめているので、「神学のカオス」となっているのです。
反神論者や異端者たちもたくさん出てきますが、真摯な神父たちや、キリストの魂の救済や、マリア様との出会いに改心する反神論者たちなど、いろいろな人たちが出ます。
それと、先ほどの解説には、
> キリストは“暴力の必要性”を称える有り様
とありますが、ここもやや映画の意味を間違ってとらえられかねない部分ですので、補筆しておきますと、解説で、「暴力の必要性」とされている、映画の中でキリストが言っている部分は、聖書の一節そのものです。
新約聖書『マタイによる福音書』にある部分です。
マタイによる福音書/ 10章 34-39節
「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。
わたしは敵対させるために来たからである。人をその父に、/娘を母に、/嫁をしゅうとめに。
こうして、自分の家族の者が敵となる。
わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。
また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。
自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」
映画『銀河』で、イエス・キリストは、これを語っています。
下がそのシーンで、左から3番目がイエス・キリストです。
・『銀河』
ちなみに、『マタイによる福音書』のこの部分の肝は、
> 自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。
にあるのだと思っています。
この部分の意味を正確に理解できれば、最近書いています「死を恐れないこと」に向かえると思っているのですが、どう理解しますかね。
ところで、なぜ、この『銀河』の上のシーンを見た瞬間に、このフレーズが聖書の言葉だとわかったかというと、実は私は、この「マタイによる福音書/ 10章 34-39節」を、聖書のことなどまったく知らなかった 20代のはじめのころから知っていたのでした。
座右の銘が「我が持ち来たれるは平和にあらずして刃なり」だった頃
当時、家にはテレビはなかったのですが、誰かのうちに行ったか何かの時に、その部屋で1人になった際に、ボーッと見ていたテレビで、ビートたけしさん主演の『イエスの方舟』という単発のドラマが始まりました。
最初はボーッと見ていたんですが、次第に、
「おもしろーい」
と感じだして、ちゃんと座って真剣に最後まで見たことを思い出します。
ついでに、録画もしまして、その後も繰り返し見ていました。
TBSチャンネル - イエスの方舟によりますと 1985年ということですので、30年前ですね。この年の文化庁芸術祭芸術作品賞というのを受賞しているようです。
これは、イエスの方舟事件の真実を描いたものでしたが、このドラマは本当にいろいろと考えさせてくれました。
人生であまりテレビドラマを多く見たわけではないですのでアレですが、自分の人生で見たテレビドラマの中で最も面白かったと思います。
この『イエスの方舟』の中で、「マタイによる福音書/ 10章 34-39節」のフレーズが出てくるのです。
・TBS『イエスの方舟』
このシーンが何となくよかったこともあり、私はこの部分が気に入りまして、暗記までしてしまいまして、その直後に行った舞台の脚本の中でも使ったくらいでした。
その後もこのフレーズは好きなままで、「我が持ち来たれるは平和にあらずして刃なり」と、ひとりごとを言いながら歩いていることもありました。
自分が「破壊のために生まれた」ということに気づいたのは最近ですが、その気持ちの代弁の台詞というような意味もあったような気もします。
それはともかく、このドラマを見るまで、私は「イエスの方舟事件」というと、何となくカルト的なイメージを持っていたりしたのですが、全然そうではなく、
「本当に聖書に導かれた(あるいはそう信じる)ひとりの男性」
が、
「人々の心を救済しているうちに、事件としてまつりあげられてしまった」
というのが実相でした。
「満たされない心を満たしてくれる存在」というものがこの事件の主軸だったようです。
実際、千石イエスが、ついてきた人々の心を救済していたことがうかがえるのは、イエスの方舟事件 - Wikipediaに、事件の騒動が沈静した後、
> 千石と行動を共にした信者には、一時家庭に戻ったものの、そのほとんどは千石を追って共同生活を再開した。
とあるように(テレビドラマでは 「全員」が戻ったと説明されています)、おそらくは、女性たちにとって、彼女たちの心を「救済してくれる人」は、神々でも宗教でも聖書でもなく、「人間」の千石イエスだけだったのだと思われます。
・TBS『イエスの方舟』
「聖書」だけが彼女たちを救ってくれるのでしたら、聖書を読んで1人で生活していても救済はなされるはずですが、そうではなかったと。
自由の幻想
話が逸れましたが、イエス・キリストも多くの人の心や魂を救済したと思うのですが、ルイス・ブニュエルの映画『銀河』でも、イエス・キリストとマリア様が、多くの人びとの心を救済する様子が次々と描かれます。
ただ、ブニュエル監督は、イエス・キリストの愛については肯定的な感じですが、「教会」とか「宗教的制度」に対しては容赦ない攻撃を「笑い」と共に展開しています。
下のシーンは、何の宗派かわかりませんが、キリスト教系の小学校で、壇上で、その宗派の教義に反することを言う者には、「呪いあれ」と生徒たちに言わせるシーンで、そのこと自体もなかなかシュールな笑いとして成立していますが、それ以外に興味深い概念が含まれるシーンが描かれています。
ルイス・ブニュエル『銀河』(1968年)より
ここには、
・《特報》「人間によって観測」されるまでは「この世の現実は存在しない」ことを、オーストラリアの量子学研究チームが実験で確認
2015年06月06日
とか、あるいは自プちゃん(自称プレアデス人の最近の略称です)などが語る、
「現実は私たち自身の考えにより創造されている」
というような、最近のブログの記事のテーマになることもある概念の表現が含まれています。
冒頭に貼った「ローマ法王の暗殺シーン」は、巡礼者の頭の中での想像なのですが、その「想像の銃声」が、「現実にとなりの人に聞こえる」という光景が描かれています。
ブニュエル監督の、この「存在しないもの同士がつながり合っていく」という描写はいろいろな映画で見られますが、同じブニュエル監督の『自由の幻想』(1974年)という映画などは、もうやりたい放題で、この映画のストーリーを書くことは無理ですが、こちらのページの解説的なブログ記事にある、
> 価値観、道徳など規則的なことを無視して何でも自由に考えると、本当に錯乱してしまう世界が誕生してしまう事をこの映画で見事に表現している
というようなものです。
しかし、決して「芸術映画」ではないのです。
完全な「娯楽映画」なわけで、だからすごいと思います。
思えば、ブニュエル監督を知ったのは、映画『ブルジョワジーの秘かな愉しみ』ですが、これも、実家に帰省していた時に、偶然見ていたテレビ( NHK 教育)でやっていたものです。
フランス映画なんて、私は興味なかったですから、その偶然がなければ、見ていなかったと思います。
『イエスの方舟』も、埴谷雄高さんの『死霊の世界』もそうですけど、こう考えると、人生で「テレビの偶然」は多いですね。いつもテレビを見ていたなら偶然とはいえないでしょうが、私は、20代はテレビを持っていませんでしたし、 30代もほとんど見ませんでした。
30代でテレビをつけるのは、日本では、毎週月曜日の午後に放映されていたアメリカのプロレス団体 WWF (現 WWE)の RAW という番組を見る時だけでした。
ストーン・コールド・スティーブ・オースティン大師というプロレスラーに浸水していました(浸水してどうする)。心酔していました。
まあ、何だかよくわからない雑記となってしまいましたが、絶対的存在としての「神」の概念は難しいです。
しかし、「絶対」ではない神、すなわち「神々」というように、複数形のものならば、これから新しい時代に進む中で、造り替えなければならない存在だと感じています。
しかし、最初にも書きましたが、その具体的な意味も、どういうことを自分が考えようとしているのかも今はわかりません。