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2015年07月14日



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神々への宣戦布告 / プロローグ - 美しき緑の星〜銀河までのつらなり



La-voie-lactee.jpg
・ルイス・ブニュエル『銀河』(1968年)より。






 


今回のタイトルの「神々への宣戦布告」は、最近、私は歩いている時などに常にそのフレーズが頭に浮かび続けていまして、しかし、「それがどういう意味かいまだに曖昧にしかわからない」のです。ということもあり、そのことは具体的に書ける段階ではないです。

それでも、必ずこのタイトルの記事をいつかは書くことになると思いますので、プロローグとしてタイトルに文字として入れさせていただきました。

ちなみに、ここでいう「神々」とは、絶対の存在の単数の「神」ではなく、複数形の「神々」です。
絶対の存在「以外」の神たちのことです。

それが、未来の新しい地球の創造(破壊)のターンでは不要なもの、だということなのですが、まだぼんやりとした姿しか出てきません。

しかし、このことは、私たちを「不自由」の中に縛りつけているさまざまな存在からの解放を意味するということはわかるわけで、真剣に考えなければならないことだと思います。

いろいろと考えているうちに、気づいたら、全然関係ないことなどをつらつらと書いていました。

単なる雑記となってしまいましたが、すみません。

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『美しき緑の星』から流れ着いた「神学カオス」

1996年のフランス映画『美しき緑の星』の監督は、この映画の主演もしていたコリーヌ・セローさんという女性なんですが、掲示板でかって、このコリーヌ・セロー監督の『サン・ジャックへの道』という映画が面白いと教えていただいたことがありました(なお、掲示板は現在は書き込みはできませんが、過去ログはすべて読める状態にしています。パスワードは indeep です。)

『サン・ジャックへの道』は 2005年の映画で、彼女の作品ではもっとも新しいものです。

『美しき緑の星』を監督中のコリーヌ・セローさん
Coline-Serreau1.jpg
pinterest


『サン・ジャックへの道』の日本語の解説はこちらの公式サイトにありますが、まあ、これも『美しき緑の星』と同様、「人々が愛への覚醒」を達成する映画で、人種差別主義者や不仲の兄弟、アル中男性などが、様々な事情により、聖地サンティアゴに巡礼することになり、さまざまなドタバタの中で、ひとりひとりに「真の人間性」が芽生えてくるというような映画です。

特に後半、唐突に映画は面白くなり、『美しき緑の星』を見た後と同じような、一種の「達成感」を感じる映画です。

それで、まあ、この映画は良い映画だったのですが、これを見た後、

「むかし、やっばり、聖地サンティアゴに巡礼するフランス映画を見たなあ」

と思い出していましたら、

「わかった。ルイス・ブニュエルの『銀河』だ」

と思い出しました。

ただ、この『銀河』という映画は、二十数年くらい前に1度だけビデオで見ただけで、しかも、酔っぱらって見ていたので、どんな話だか覚えていません。

それで、手に入れることにしまして、Amazon で購入したのですが(なんと DVD と間違えて VHS を購入するというのをやっちゃいました)、再度見まして、

「こんな面白い映画の内容を忘れていたのか、オレは」

と、やや後悔と反省が入り交じることになりましたけれど、逆にいうと、『美しき緑の星』→『サン・ジャックへの道』という流れで、何十年ぶりかに見ることができたのですから、幸いだったかもしれません。

私は、この世で最も好きな映画は、このルイス・ブニュエル監督の『ブルジョワジーの秘かな愉しみ』という 1972年の映画で、ビデオを含めて、20代の頃から今まで 1000回以上は見ていると思います。

そして、この『ブルジョワジーの秘かな愉しみ』というのがどんな映画かというと、本当に説明しようもない、わりと何も起きない映画です。ストーリーも説明しようがないのですが、

人の夢と夢が交錯しているうちにどれが現実かわからなくなる

というのと、

食事を始めようとすると、いろいろな理由で食事が始まらない

ということがテーマというのか何というのか、そういう映画ですが、『サン・ジャックへの道』からの連想で見直した、そのルイス・ブニュエル監督の『銀河』という映画(タイトルの由来は、サン・ジャックへの巡礼の方向が天の川銀河の回転の進行方向に沿っているため)は、これも説明が難しいストーリーですが、オール・シネマから解説をお借りしますと、


銀河(1968年)

聖地サンチャゴを目指す巡礼者二人、ピエールとジャン。かつて、ヨーロッパ北部から見てスペインに向かうその道は銀河をたどるのにも例えられた。

現代のパリからこのサンチャックの道を往く彼らを待ち受けるのは、時代を超越した異教徒の群れ、邪宗の誘惑(サド侯爵も登場)。

その上、いよいよ聖地も近い森の中で出会ったキリストは“暴力の必要性”を称える有り様。ブニュエル流の破天荒な展開が刺激的な反神論は、その俗なる激しさにおいて、どこか聖性を帯びてもいるのだ。



この解説には、ややちがうところがありまして、まず、「反神論」とありますが、この映画は、反神論とか反キリストの内容ではありません。

そうではなく、「神学」と「キリスト教」についての、ありとあらゆる概念をぶちこめているので、「神学のカオス」となっているのです。

反神論者や異端者たちもたくさん出てきますが、真摯な神父たちや、キリストの魂の救済や、マリア様との出会いに改心する反神論者たちなど、いろいろな人たちが出ます。

それと、先ほどの解説には、

> キリストは“暴力の必要性”を称える有り様

とありますが、ここもやや映画の意味を間違ってとらえられかねない部分ですので、補筆しておきますと、解説で、「暴力の必要性」とされている、映画の中でキリストが言っている部分は、聖書の一節そのものです。

新約聖書『マタイによる福音書』にある部分です。


マタイによる福音書/ 10章 34-39節

「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。

わたしは敵対させるために来たからである。人をその父に、/娘を母に、/嫁をしゅうとめに。

こうして、自分の家族の者が敵となる。

わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。

また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。

自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」



映画『銀河』で、イエス・キリストは、これを語っています。
下がそのシーンで、左から3番目がイエス・キリストです。

Matthew-10-34.jpg
・『銀河』


ちなみに、『マタイによる福音書』のこの部分の肝は、

> 自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。

にあるのだと思っています。

この部分の意味を正確に理解できれば、最近書いています「死を恐れないこと」に向かえると思っているのですが、どう理解しますかね。

ところで、なぜ、この『銀河』の上のシーンを見た瞬間に、このフレーズが聖書の言葉だとわかったかというと、実は私は、この「マタイによる福音書/ 10章 34-39節」を、聖書のことなどまったく知らなかった 20代のはじめのころから知っていたのでした。




座右の銘が「我が持ち来たれるは平和にあらずして刃なり」だった頃

当時、家にはテレビはなかったのですが、誰かのうちに行ったか何かの時に、その部屋で1人になった際に、ボーッと見ていたテレビで、ビートたけしさん主演の『イエスの方舟』という単発のドラマが始まりました。

最初はボーッと見ていたんですが、次第に、

「おもしろーい」

と感じだして、ちゃんと座って真剣に最後まで見たことを思い出します。

ついでに、録画もしまして、その後も繰り返し見ていました。

TBSチャンネル - イエスの方舟によりますと 1985年ということですので、30年前ですね。この年の文化庁芸術祭芸術作品賞というのを受賞しているようです。

これは、イエスの方舟事件の真実を描いたものでしたが、このドラマは本当にいろいろと考えさせてくれました。

人生であまりテレビドラマを多く見たわけではないですのでアレですが、自分の人生で見たテレビドラマの中で最も面白かったと思います。

この『イエスの方舟』の中で、「マタイによる福音書/ 10章 34-39節」のフレーズが出てくるのです。

Matthew-sengoku.jpg
・TBS『イエスの方舟』


このシーンが何となくよかったこともあり、私はこの部分が気に入りまして、暗記までしてしまいまして、その直後に行った舞台の脚本の中でも使ったくらいでした。

その後もこのフレーズは好きなままで、「我が持ち来たれるは平和にあらずして刃なり」と、ひとりごとを言いながら歩いていることもありました。

自分が「破壊のために生まれた」ということに気づいたのは最近ですが、その気持ちの代弁の台詞というような意味もあったような気もします。

それはともかく、このドラマを見るまで、私は「イエスの方舟事件」というと、何となくカルト的なイメージを持っていたりしたのですが、全然そうではなく、

「本当に聖書に導かれた(あるいはそう信じる)ひとりの男性」

が、

「人々の心を救済しているうちに、事件としてまつりあげられてしまった」

というのが実相でした。

「満たされない心を満たしてくれる存在」というものがこの事件の主軸だったようです。

実際、千石イエスが、ついてきた人々の心を救済していたことがうかがえるのは、イエスの方舟事件 - Wikipediaに、事件の騒動が沈静した後、

> 千石と行動を共にした信者には、一時家庭に戻ったものの、そのほとんどは千石を追って共同生活を再開した。

とあるように(テレビドラマでは 「全員」が戻ったと説明されています)、おそらくは、女性たちにとって、彼女たちの心を「救済してくれる人」は、神々でも宗教でも聖書でもなく、「人間」の千石イエスだけだったのだと思われます。

sengoku-2.jpg
・TBS『イエスの方舟』


「聖書」だけが彼女たちを救ってくれるのでしたら、聖書を読んで1人で生活していても救済はなされるはずですが、そうではなかったと。




自由の幻想

話が逸れましたが、イエス・キリストも多くの人の心や魂を救済したと思うのですが、ルイス・ブニュエルの映画『銀河』でも、イエス・キリストとマリア様が、多くの人びとの心を救済する様子が次々と描かれます。

ただ、ブニュエル監督は、イエス・キリストの愛については肯定的な感じですが、「教会」とか「宗教的制度」に対しては容赦ない攻撃を「笑い」と共に展開しています。

下のシーンは、何の宗派かわかりませんが、キリスト教系の小学校で、壇上で、その宗派の教義に反することを言う者には、「呪いあれ」と生徒たちに言わせるシーンで、そのこと自体もなかなかシュールな笑いとして成立していますが、それ以外に興味深い概念が含まれるシーンが描かれています。

ルイス・ブニュエル『銀河』(1968年)より



ここには、

《特報》「人間によって観測」されるまでは「この世の現実は存在しない」ことを、オーストラリアの量子学研究チームが実験で確認
 2015年06月06日

とか、あるいは自プちゃん(自称プレアデス人の最近の略称です)などが語る、

「現実は私たち自身の考えにより創造されている」

というような、最近のブログの記事のテーマになることもある概念の表現が含まれています。

冒頭に貼った「ローマ法王の暗殺シーン」は、巡礼者の頭の中での想像なのですが、その「想像の銃声」が、「現実にとなりの人に聞こえる」という光景が描かれています。

ブニュエル監督の、この「存在しないもの同士がつながり合っていく」という描写はいろいろな映画で見られますが、同じブニュエル監督の『自由の幻想』(1974年)という映画などは、もうやりたい放題で、この映画のストーリーを書くことは無理ですが、こちらのページの解説的なブログ記事にある、

> 価値観、道徳など規則的なことを無視して何でも自由に考えると、本当に錯乱してしまう世界が誕生してしまう事をこの映画で見事に表現している

というようなものです。

しかし、決して「芸術映画」ではないのです。
完全な「娯楽映画」なわけで、だからすごいと思います。

思えば、ブニュエル監督を知ったのは、映画『ブルジョワジーの秘かな愉しみ』ですが、これも、実家に帰省していた時に、偶然見ていたテレビ( NHK 教育)でやっていたものです。

フランス映画なんて、私は興味なかったですから、その偶然がなければ、見ていなかったと思います。

『イエスの方舟』も、埴谷雄高さんの『死霊の世界』もそうですけど、こう考えると、人生で「テレビの偶然」は多いですね。いつもテレビを見ていたなら偶然とはいえないでしょうが、私は、20代はテレビを持っていませんでしたし、 30代もほとんど見ませんでした。

30代でテレビをつけるのは、日本では、毎週月曜日の午後に放映されていたアメリカのプロレス団体 WWF (現 WWE)の RAW という番組を見る時だけでした。

ストーン・コールド・スティーブ・オースティン大師というプロレスラーに浸水していました(浸水してどうする)。心酔していました。


まあ、何だかよくわからない雑記となってしまいましたが、絶対的存在としての「神」の概念は難しいです。

しかし、「絶対」ではない神、すなわち「神々」というように、複数形のものならば、これから新しい時代に進む中で、造り替えなければならない存在だと感じています。

しかし、最初にも書きましたが、その具体的な意味も、どういうことを自分が考えようとしているのかも今はわかりません。



  

2015年07月13日



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sun-devide.gif

▲ 2015年07月07日の英国王立天文学会ニュースプレスより。






 


南と北が「非対称の磁場」である太陽

今回記事のタイトル「太陽が割れてきた」というのは、上の王立天文学会プレスリリースの「太陽磁場は、太陽の南北の分割を示している?」というものを、そのまま書いたものなんですが、よく読みますと、このタイトルは「やや大げさ」ではあります。

英国ウォーリック大学のジュゼッペ・ニスティコ博士という方と国際チームが、NASA の太陽観測衛星 STEREO のデータを使っての調査で、

太陽の磁場が、南の極と、北の極で《非対称》になっている

かもしれないことを見出したというものです。

太陽の磁場というと、具体的にはともかく、何となく下のような「中心を軸として、対照的で、均等な紋様を描く」かのようなイメージを持たれることが多いのではないでしょうか。

例としての太陽の磁場のイメージ
solar-mag-fields.jpg
・NASA


しかし、今回の研究によると、太陽は、「南と北でバラバラ」の磁場の紋様を描いているという可能性があるようです。

あるいは、

「以前はそうではなかったけれど、最近になって、そのようになってきている」

ということかもしれないです。

まあしかし、太陽はこの数年間、如実に変化していましたからね。

3年前の記事で、

奇妙な太陽のポールシフトは太陽系全体に影響を与えるか?: 国立天文台が発表した「4極化する太陽磁場」
 2012年04月21日

という「太陽の磁極が4つになる」という国立天文台などの発表をご紹介したことがあります。

下の図は、国立天文台の発表をもとに作成したもので、左の「2008年の太陽」と書かれてあるのが、それまでの普通の太陽です。北極にマイナス磁場である「S極」があり、南極にプラス磁場であるN極があるという対極したふたつの磁場があります。

20120419-solar-polar.gif


右の太陽は、国立天文台が今回発表した 2012年以降の「4つの磁極」があらわれるという状態になる太陽の磁場の予測・・・なのですが、その後、たとえば今、太陽の磁場がどのようなことになっているのかは、その後の発表や報道がありませんので、よくわかりません。

いずれにしても、「太陽」という存在は、研究が進めば進むほど「従来考えられていた存在とは何かちがうもの」のような感覚を持たせてくれる示唆が次々と出てきます。

こうなってくると、太陽というのは、もう本当に何か全然、私たちの今の科学で説明されているものとちがうものなのではないかという気さえしてきます。




太陽の役割

太陽などについて、「プレアデスの自称姐さんはどう言っているのかな」と、パッと適当に本をめくりますと、太陽に関しての記述があります。


プレアデス+地球をひらく鍵』より

太陽はあなた方の太陽系の統治者であり、あなた方が住居するこの地球を支配する知性の所在地です。

多くの文化のなかで、太陽は神のように、この世界を統治する知的なエネルギー体として崇められています。

太陽に住んでいる存在がいると聞いたら、みなさんはびっくりするでしょうか。

太陽は幻想にすぎません。非常に高度な進歩を遂げた世界は、みずからを太陽のように見せかけて、光の力によって侵略から身を守ることができるのです。

地球の科学者が言うような、ただガスが燃焼しているだけの存在ではないのです。

地球の科学は、生命についての解釈を非常につまらないものにしてしまいました。科学は楽しさ、生命力、心のときめき、神秘性といった要素を生命から奪ってしまいました。

科学のために、生命はまるで何の意味もないかのように、ありきたりで退屈なものにされてしまいました。太陽に何の意味もないなんて想像することができるでしょうか。

これについて考えてみてください。現在、太陽に対する恐怖心をかき立て、太陽を否定的なものとするキャンペーンが展開されています。

自然は安全ではないと科学が主張したことによって、人々は自然とのつながりをこれまでのように感じなくなってしまいました。

太陽、自然、地球にに対する猜疑心が、現在あなた方が直面している、危機の原因となっています。

それはつまり、あなた方が住んでいる家を尊重し、大切にするき気持ちがないということです。



この中のある部分を読みまして、「ああ、これは・・・」と思いました。

それは、

> 太陽に対する恐怖心をかき立て、太陽を否定的なものとするキャンペーンが展開

の部分です。

このブログでも、かつてさんざん太陽フレアの脅威などについて書いたことがありまして、私の「太陽を否定的なものとするキャンペーン」の一端を担った「罪」というものもあります。

それらの証拠となる数々の記事は、こちらのリンクにあります。

とはいえ、特大のスーパー太陽フレアが地球を直撃した場合、大きな影響が出ることは事実です。

1859年の規模の「超」太陽嵐がもし現代の世の中に発生したら
 2010年10月20日

などに書きましたように、地球の文明がおそらくは「復旧の目処が立たないほど」破壊されてしまうことは確かです。

特に、

・電力送電網の崩壊(永続的な停電)
・通信システムの崩壊
・放送網インターネットシステムの停止
・コンピュータシステム(軍事、医療、政治含めて)の停止
・移動手段の停止
・物流とインフラの停止
・食料供給へのダメージ


などは厳しいものとなることが考えられます。

これらが起こることは良いことではないかもしれません。

しかし、ここでふと、最近加えた「革命カテゴリー」にある記事などを思い出すのです。

たとえば、

資本主義の崩壊と、この文明の崩壊は《「破壊」は「創造」に対しての愛》という観点から私たち人間にとって「最も幸せなこと」だと確信してみる
 2015年07月09日

で、確信するに至りました「創造の母は、破壊」であり、さらにいえば、

破壊は、愛

であるということ。

そして、前回の記事のラストのほうに、「社会を子どもたちに返還する」ということに対して、

そのような劇的な変換(かつての日本への回帰)がおこなわれるためには、現在の日本のシステムか文明そのものが終焉する必要があります。

というようなことを書いています。

システムか文明の終焉。

この「必ず通過しなければならない概念」を・・・もし・・・ですけど、私たち人間自身が、地球を変えることができない場合、

それを太陽がやってくれる

ということをふと思うのです。

新しい世界の創造のために必要な破壊と、それをなしうることができるのは、太陽と小惑星と彗星くらいしかないとしか思えないのです。

小惑星たちは、注意深く地球の状態に応じながら軌道を周回し、場合によって、たまにその軌道を外れ、太陽は、フレアを放出する。

巨大フレアは、太陽活動が活発(黒点が多い状態)な時に発生しやすいという思い込みがありますが、現実は、活動状態とは関係なく、太陽はいつでも超巨大フレアを放出させることができます。

事実、過去 200年で最も強いレベルの太陽フレアは「過去 200年で太陽活動が最も弱い時」に発生しています。

それは 2012年7月23日の時でした。

この日、場合によっては「地球の文明は終わっていた」かもしれないことを報道していた アメリカの経済誌フォーブスの 2014年の記事をご紹介したことがあります。

2012年 7月 23日に地球の文明は太陽によって「終末」を迎えていたかもしれなかった
 2014年03月21日

forbes-sun-02.gif

▲ 2014年3月19日のフォーブスより。


この時の太陽フレアが仮に地球を直撃していれば、「地球は数千年前に逆戻り」していたかもしれないというようなことが書かれてあります。

それにしても、なぜ、経済誌のフォーブスがこのような記事を取り上げたかといいますと、この時の太陽フレアが地球を直撃していれば、その損害額は数百兆円規模の算定不可能なものとなっていた可能性があり、何年も文明が再興できなかった可能性があるためでした。

太陽は、「未来の地球」を創造するためなら、いつでもやってくれると思います。

2012年7月23日のフレアは、そのことを私たちに知らせてくれてイベントだったのだと確信します。




私たちの自然は本来人間の敵じゃない

それにして、自称プレアデスの人・・・うーん、この呼び方も味気ないですね。
これからは「自プちゃん」と呼びます。

自プちゃんの言う、

> 自然は安全ではないと科学が主張したことによって、人々は自然とのつながりをこれまでのように感じなくなってしまいました。

というのは、私も最近になって、そう感じるようになりました。

自然のほとんど(実際にはすべてなのでしょうけれど)は、その存在も現象も人間のためにあるというように考えると、私たちも、地球との関わり合いのありかたを少しちがって考えられるような気がするのです。

少し前に、

地球の3分の1の地下水源が枯渇しようとしている
 地球の記録 2015年07月13日

という記事を書いたのですが、これは、帯水層と呼ばれる地下の水脈源が、地球全体でどんどん枯渇していっていることをご紹介したものでした。

そのこと自体はともかく、その世界の帯水層の地図を見ると、日本には巨大な帯水層というものがないことに気づきます。

となると、日本はたえず、大雨など「空からの水」がないと、豊かな自然体系や、もちろん人間が使う水にしても、常に不足気味になるような場所であるように見えたのです。

そこで、

「なぜ日本は地理的に台風が頻繁に直撃する場所にあるのか」

という疑問もすんなり解けるのでした。

その理由は、台風があってこそ、日本は文明を存続できるからです。

帯水層の分布を見る限り、春から秋の台風がなければ、日本の多くは慢性的な水不足にさらされ、基本的に人間が住むには苦しい場所になるはずです。

台風のおかげで、日本人は文明を存在し得た。

そして、世界の地図を見ますと、台風やモンスーン、ハリケーンなどに度重なり見舞われる上に「人が多く住んでいる土地」には、巨大な帯水層がほとんどないことがわかります。

世界の主要な地下水源(アジア〜アフリカ)
Groundwater-Basins-Distress1.gif
NASA

台風も豪雨も大雪も「自然に備わった素晴らしいシステム」であり、台風やモンスーンやハリケーンの意味は、その土地に豊かな自然と、人間が文明を築くために「用意」されたものだと。

あるいは逆をいえば、日本を含めた多くのアジア地域では、

台風やモンスーンが消えた場合、人間が住めない場所になる。

ということになると思います。

台風もまた最大の「恵みの神」であることがわかるのです。

しかし、どんなことでも、現代社会は「災害」という一言で括ってしまいます。

台風も太陽フレアも全部悪者で、自然や宇宙は「危険ばかり」という観念が広く浸透してしまった。

そういう意味では、虫の大量発生や、疫病、地震などを「悪」として描いている「聖書」に最近やや疑念の思いもあるのですが、そのことは今回はふれません。

この宇宙と地球の大自然で、人間の営みのために協力しないものは存在しないということが、こんなに年をとってしまったとはいえ、最近になって、ようやくわかりかけています。

それもこれも、キッカケは、野口晴哉さんの『風邪の効用』を読んだ時に、

「風邪ウイルスは人間のために作用している」

ことを知ってからでした。

このことは、

人間にとって最も日常的で慈悲深い治療者は風邪ウイルスかもしれないこと…
 2015年04月21日

という記事に書きました。

この「風邪は自然良能である」という野口さんの知見を知り得たことは大きかったです。知ったのは、ほんの3ヶ月前のことですが、それ以来多くのものが「自然良能だ」と思えるようになっています。

(本当は「全部が自然良能」なのでしょうけれど、そう思えるまでには至っていません)

そんなわけで、英国王立天文学会の研究で示唆された「太陽の構造の非対称性」も、地球に与える影響として、何らかの意味を持っているはずです。

そういえば、この王立天文学会が、最近、「地球はミニ氷河期に入る」ことを、総会で全会一致した意見として採用したことが報じられていました。少しご紹介しておきます。


地球は15年後“ミニ氷河期”に入る」英国王立天文学会で発表
IROIRO 2015.07.13

先週、イギリスのウェールズで開催された英国王立天文学会総会で、「今後15年以内に、地球はミニ氷河期といえる時代に入る」という予測が発表された。これは太陽を専門に研究する学会員の一致した意見で、「97%確実」であるとのこと。

研究者たちを代表してこの発表を行なったのは、英国ノーザンブリア大学のヴァレンティナ・ジャルコヴァ教授。

ジャルコヴァ教授は、「太陽の活動は、2030年あたりには今と比べて60%減衰する」と言う。また、この予測は「97%」確実であるとのこと。



ということです。

ミニ氷河期の「自然としての意味」ってどんなものなんでしょうかね。
考えてみたいです。

それでは、ここから本記事です。




Does the solar magnetic field show a North-South divide?
王立天文学会 ニュース&プレス 2015.07.07

太陽磁場は、太陽の南北の分割を示しているのか?

North-South-divide.jpg


毎秒 200〜500キロメートルの間の速度で太陽のコロナを通過する噴射の研究は、太陽の磁場によるプラズマの動きの速い行列が、南半球よりも北半球ではるかに強く偏向されていることを示す。

この太陽の南と北での非対称性は、太陽の磁場を発生させる機構である「太陽ダイナモ」に対しての理解に重要な意味を持っていると思われる。

この研究結果は、2015年7月8日に、英国ウォーリック大学のジュゼッペ・ニスティコ博士( Dr Giuseppe Nisticò )によって、ランディドノーでの国立天文学会議で発表される。

ニスティコ博士と国際研究チームは、2007年3月から 2008年4月の間に発生した 79の太陽の極の噴射を研究してきた。

この研究は、NASA の太陽調査プロジェクト STEREO (太陽立体化計画 )によって観察したものだ。STEREOは、太陽の軌道に沿って地球から離れて、反対方向に周回している双子の衛星だ。


NASA の STEREO
STEREO-spacecraft.gif
STEREO


二機の衛星により運ばれる STEREO のふたつのデータが、太陽の立体観察を可能にする。ニスティコ博士と研究チームは、双子のSTEREO探査機によって同時にコロナ噴出を観察するために、極端紫外線撮像装置(EUVI)と呼ばれる撮像装置と、COR と呼ばれる機器の画像を使用した。

特定されたそれぞれの噴出のために、研究チームは、太陽の南側と北側共に、太陽表面から 70万キロメートルの距離で、噴出と太陽との角度を測定した。北と南の2つの測定場所の間には、約 10分の時間遅延がある。

sun-kakudo.jpg


ニスティコ博士は、以下のように語る。

「STEREO は、太陽の異なる層を調べることができますので、私たちは時間をかけて噴出の進行状況を見ることができるのです。 EUVI は、太陽の表面に祝言した噴出を示し、 COR1 は、太陽の大気やコロナを通じて進行状況を表示します」

「噴出が低いところから高いところに移動する時には、それらの噴出は、磁力線によって”案内”され、直線ではなく、むしろ丸く追随していきます。しかし、太陽の極に近い噴出を分析すると、この偏向量が異なるという意外な事実を示すのです。」

「私たちは太陽の南よりも北の極で、相当大きな偏向(変位)を確認しました。このことが、私たちに疑問を生じさせます。・・・この太陽の極の噴出は、『太陽の磁場が南北で対称ではない』ことを示している?・・・という疑問です。」

「初めて黄道面に周回する宇宙船から太陽の極地の機能の測定を行うことの難しさにもかかわらず、私たちは、太陽コロナの全体的な構造のトレーサーとしての冠状の噴出を研究できました。そして、南北非対称性としての太陽のそれぞれの存在の独立した指標をさらに提供しています」

「将来的には、ソーラー・プローブ・プラス( NASA の太陽コロナの観測のための探査機)と、ソーラー・オービター(欧州宇宙機関が開発中の太陽観測衛星)が、太陽に近い位置からの極の直接観測によって、太陽の南北非対称についての新たな洞察を提供するでしょう」



  

2015年07月12日



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前記事のようなもの:
「革命」(1)
資本主義の崩壊と、この文明の崩壊は《「破壊」は「創造」に対しての愛》という観点から私たち人間にとって「最も幸せなこと」だと確信してみる

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京都・三条通りの旅館に宿泊した子どもたち(1897年)
deluxe_120a.jpg
Japan, Described and Illustrated by the Japanese

参考資料:120年前の日本

『逝きし世の面影』第十章「子どもの楽園」より

エドウィン・アーノルドは 1899年(明治 22年)来日して、娘とともに麻布に家を借り、1年2ヶ月滞在したが、「街はほぼ完全に子どもたちのものだ」と感じた。

japan-father.gif「東京には馬車の往来が実質的に存在しない。(略) 従って、俥屋(くるまや)はどんな街角も安心して曲がることができるし、子どもたちは重大な事故をひき起こす心配などはこれっぽっちもなく、あらゆる街路の真っ只中ではしゃぎまわるのだ。この日本の子どもたちは、優しく控え目な振る舞いといい、品のいい広い袖とひらひらする着物といい、見るものを魅了する。手足は美しいし、黒い眼はビーズのよう。そしてその眼で物怖じも羞かみもせずにあなたをじっと見つめるのだ」

子どもたちが馬や乗り物をよけないのは、ネットーによれば「大人からだいじにされることに慣れている」からである。彼は言う。

「日本ほど子どもが、下層社会の子どもさえ、注意深く取り扱われている国は少なく、ここでは小さな、ませた、小髷をつけた子どもたちが結構家族全体の暴君になっている」。

モースは言う。「私は日本が子どもの天国であることをくりかえさざるを得ない。世界中で日本ほど、子どもが親切に取り扱われ、そして子どものために深い注意が払われる国はない。ニコニコしているところから判断すると、子どもたちは朝から晩まで幸福であるらしい」









 

冒頭にリンクさせていただきました2つの記事では、「考えること」により自分が変わることにより「世界が変わる」ということについて書いたりしていましたが、考えることとは別に「行動」でも簡単に社会を変えられることがあります。

これは理想論ではなく、かつての日本で完全に実現されていたことですので、とても簡単です。

そのことは、冒頭の、渡辺京二さんの『逝きし世の面影』の抜粋部分と関係します。




社会の最も健全な状態を百数十年前の日本に見る

先日、クレアなひとときに、

子どもの生命の取捨の選択は、それ自体が否定されるわけではなく、女性自身が賢明に考えること
 2015年07月10日

という記事で、1970年代のイギリスのセックス・ピストルズというバンドの、ジョン・ライドンという人が、ふだんはクールで、わりと冷静な彼が、「赤ちゃんの不幸や、赤ちゃんの無慈悲な死」と関係した話になると、「感情をむき出しにして怒りを露わにする」ことについて書きました。

まあ、その内容はいろいろとアレですので、興味のある方は上記の記事をお読みいただければ幸いですが、ジョン・ライドンのその傾向を考えていて、彼はきわめて健全な思想体系をしていることにふと気づいたのです。

彼の根にある思考とは、おそらく間違いなく、

「子どもと赤ちゃんの幸福と生命をこの世の最上位のものと考える」

ということです。

もっと簡単に書けば、「生活や人生の中で、何よりも子どもを愛することを最優先とする」ということで、そして、これが先に書きました、

> 「行動」でも、できること

です。

これだけです。

江戸時代の日本の庶民の生活と価値観が素晴らしいものだったことは否めないですが、それをなしえていた理由がわかったのです。

残念ながら、現代の日本の社会は、「何もかも差し置いても、子どもへの愛をすべてとする社会」には少しも見えません。

日本が変わってしまったのは、近代化だとか、唯物論的価値観とかもありますが、そういうことだけが理由ではないです。「江戸の庶民が、子どもたちへの愛情がすべて」である生活をしていたことが、『逝きし世の面影』の「子どもの楽園」という章には、非常に長く書かれていますが、これが当時の日本を輝かせていた「ほぼすべての理由」だと思います

冒頭の抜粋部分で、モースという人の言葉の、

「子どもたちは朝から晩まで幸福であるらしい」

という部分・・・。

もうずいぶんと前になるのですが、私は、東京のタレント養成所みたいなところで、小学校低学年の子どもたちのいくつかのクラスで演技指導を担当していたことがありました。その時、毎回、何らかの質問を子どもたちにして答えてもらうということをしていたのですが、ある日、

「毎日、みなさんは楽しいですか?」

と質問したら、わりと多くが、

「別に・・・」

というタイプのものだったことに、何となく残念感をおぼえたことがあります。

少なくとも、江戸時代の子どもたちの「子どもたちは朝から晩まで幸福であるらしい」というものとは差があります。

しかし、彼らの毎日の生活を聞いてみると、それも仕方なく、多くの子どもたちは、

学校 → 塾や習い事(親が車で送る) → 帰宅(車) → 勉強など → 就寝

という生活を毎日繰り返していて、中には「週に8つの習い事をしている」という狂気の生活をさせられている子どもなどもいます。親の考えもいろいろとあるのでしょうが、やはりこれは狂気の沙汰です。

確かに、この生活サイクルをずーっと何年も続けていて、

「毎日楽しいです」

と言えるほうがおかしいです。

養成所には、そういう「毎日の習い事で生活を埋め尽くされている」子どもたちが多いことに気づいて、精神的に私の方が落ち込んでしまい、それから少しして、そこをやめました。

デンマークの軍人で、幕末の日本に滞在し、明治政府から勲二等瑞宝章などを受勲した、エドゥアルド・スエンソンという人が書いた『江戸幕末滞在記』には、幕末の日本の子どもたちの様子が下のように書かれています。

「どの子もみんな健康そのもの、生命力、生きる喜びに輝いており、魅せられるほど愛らしく、日本人の成長をこの段階で止められないのが惜しまれる」

edo-taizaiki.jpg
・スエンソン。『江戸幕末滞在記』より。


ちなみに、このスエンソンという人は、日本とヨーロッパを結ぶ日本最初の海底ケーブルを敷設したという方でももあり、大変な親日家で、日本の風景と日本人が大好きだったようなんですが、そんなスエンソンが、

「日本には、悪習らしい悪習は2つしかない」

と言っていて、「日本人には(デンマーク人から見れば)悪習と感じられることが2つだけある」というんですが、それは何だと思われますか?

それは、


edo-t2.jpg

「すぐに酒に手をだすことと、あまりに女好きなことである」


でした(笑)。

これは、男性に対してということなんだと思いますが、このあたりはあまり変わらないかもしれないですね。

後者はともかく、前者は私がそのタイプで、とにかく、すぐお酒。

これは昔の日本人はさらにすごかったようですが、私などが 120年前に生きていれば、下のような生活をしていたことは間違いないと思われます。

120年前の「すぐ酒に手を出す」人たち
osaan-3.jpg
日本人自らが撮影した 120年前の日本の光景


あと、スエンソンによれば、当時の日本人は男女を問わず、超ヘビースモーカーだったようです。

まあしかし、今の若い人は、特に若い男性は、お酒はあまり呑まないですし、草食系なんて言葉もあって、スエンソンが「日本人はあまりに女好きである」と嘆いたようなこともあまりなくなってきているようです。





死ぬほど愛されて育った子どもは、将来きっと同じように子に接する

まあ、少し問題はあったようですが、それでも、かつての「楽しい日本人たち」によって保たれていた「当時の素晴らしい日本」は、どのように出現したかということがかなり明白になってきます。

それは、単に「子どもを大事にする社会だったから」ということに尽きます。

そこから派生して、あのような情緒ある民衆の社会が「誕生」したことを理解したのです。

少しご説明が必要かと思いますが、たとえば、大事なこととして、

「大人はみんな子どもだった」

ということがあります。

社会は大人によって作られても、「その大人たちも、みんな子どもだった」ということです。

そして、「将来、大人になる」当時のその子どもたちは、スエンソンの言うように、

「どの子もみんな健康そのもの、生命力、生きる喜びに輝いており」

というのなら、その数年後、十数年後には、そのような「生きる喜びに輝いている」子どもたちが「社会の中心となっていく」のです。

「生きる喜びに輝いている子どもたち」が大人になり築き上げる社会が良くなるか悪くなるか・・・というと、「悪くなる道理がない」です。

こういう社会が良くなるのは、ある意味当然であって、江戸自体の大衆の社会が素晴らしかったのは、そのためであることに疑う余地はありません。

このメカニズムから、社会を変えるには、「考えること」以外の行動でしなければならないこと、「徹底して子どもたちのための社会にする」ということだけです。

そうするためには、いかなる社会的制度も不要ですし、議論も設備も不要で、必要なのはただひたすら「大人ひとりひとりが子どもたちを愛する」という行動だけです。そして、これは形の上だとか、中途半端なものではダメで、子どもたちのためなら、あらゆることを犠牲にしても、徹底的に、無条件に、子どもたちへの愛だけを考える。

制度や議論はむしろ愛を後退させます。

江戸時代の大衆の子どもたちへの態度を見ていますと、人間社会のすべての基礎は、大人ひとりひとりが、赤ちゃんたちと子どもたちをどれだけ愛せるかにかかっていると思います。

『逝きし世の面影』から、もう少し抜粋します。

いろいろな人の名前が出てきますが、説明は省略させていただきます。
皆さん、幕末に来日したり、滞在していた外国人の方々です。


『逝きし世の面影』より

japan-father-baby1.gif
・赤ちゃんをあやす父親の様子。


「日本人が非常に愛情の深い父であり母であり、また非常におとなしくて無邪気な子どもを持っていることに、他の何よりも大いに尊敬したくなってくる」とグリフィスは述べる。

そして、モースもまた述べる。「日本の子どもほど行儀がよくて親切な子どもはいない。また、日本人の母親ほど辛抱強く愛情に富み、子どもに尽くす母親はいない」。

グリフィスは横浜に上陸して初めて日本の子どもを見たとき、「何とかわいい子ども。まるまると肥え、ばら色の肌、きらきらした眼」という感想を持った。

「子どもは大勢いるが、明るく朗らかで、色とりどりの着物を着て、まるで花束をふりまいたようだ。彼らと親しくなると、とても魅力的で、長所ばかりで欠点がほとんどないのに気づく」というのはパーマーである。

モラスエによると、日本の子どもは「世界で一等可愛い子ども」だった。



当時の日本の子どもたちが、

> 長所ばかりで欠点がほとんどない

という「スーパー人間」のように外国人に見えていたほど健全で健康だった理由は、冒頭に引用した文章で、モースという人が申す、

> 世界中で日本ほど、子どもが親切に取り扱われ、そして子どものために深い注意が払われる国はない。

という「大人たちが子どもたちを徹底して大事にした社会」ということが前提となっていたと思われます。

自分の子どもに対してだけではなく、社会全体が「子どもを宝物だと認識するシステム」が、誰から命じられたわけでもなく、「自然にできていた」ということが『逝きし世の面影』でわかるのです。

「自然にできていた」のなら、子どもを宝物だと認識することが日本人の「自然な状態」だといって差し支えないはずです。

この『逝きし世の面影』の第十章「子どもの楽園」という章は、本当に泣けます。

私たち日本人が、近代化や合理化と引き換えにして失った最大のものは「子どもたちへの絶対的な愛情」だったことがわかってしまったのです。

当時の日本の大人たちの子どもへの愛情は、それはどの外国人から見ても、「他のどんな国とも比較できないほど強いもの」と、それに応ずるかのような健全さを持った子どもたちで町は満ち溢れていた。

これで悪い国になる道理がないです。

社会を形作るのは大人で、その大人になるのは、かつての子どもなのですから。

当時の子どもたちへの徹底した愛が基盤となっている社会を復活させない限り、日本は、フルメタルジャケット風にいえば、「クソ地獄にとどまる」ことになるのだと思われます。

そして、ここが大事なのですが、「死ぬほど愛されて育った人間が大人になって、自分が親になった時、子どもにどう接するだろうか」というと、絶対ではないだろうにしても、おそらくは、「自分がされたように、徹底的に子どもを愛する」方向に傾く可能性の法が強いのではないかと予想できます。

そして、その子どもまた・・・次の子もまた・・・ということで、

その社会では一代だけではなく、永続的にこの「愛情の連鎖」が未来にまで続くことなのです。

さらには、冒頭の『逝きし世の面影』にあります、

「子どもたちは、大人からだいじにされることに慣れている」

ということも大事です。

「大人から大事にされる」というのは、「人が人を大事にする」ということに他ならないわけで、こういう子どもたちが大人になった時に、「他人に対して、どのように振る舞うか」が決定されると思います。

学校だとか道徳だとかが人と人との関係を教えなくとも、

普通に「人が人を大事にする社会」がそこに現れる

と考えるのは不自然ではありません。

これは理想論ではないです。

現実、120年前までは日本はそういう社会だったのですから。




支配階級が犠牲となり、庶民だけが輝ける国

いろいろ当時の日本について書きましたけれど、江戸時代などは、このような健全な社会と人生を獲得していたのは、あくまで「庶民だけ」で、武士などの上位階級はそうではなかったようです。

江戸末期に来日し、長く滞在したオランドの外交官ドンケル・クルティウスは、1854年に以下のように書いています。

「公職についていない者はかなり自由な生活を楽しんでいますが、支配層に属する日本人はひどい拘束に耐えて暮らしています。ヨーロッパでは国の主権者は国家最高位にある公僕とみなされていますが、日本では掟の奴隷の頭とさえ呼ばれているのです」

「公職についていない者」というのは庶民のことですので、簡単に書きますと、

・庶民や労働者たちは自由に楽しく暮らしている
・武士たちはひどい拘束に耐えて暮らしている


ということで、江戸時代は、私たちの一般的な想像とはちがい、武士が時代の犠牲者として、ひたすら苦しんでいたといえそうです。

また、当時の庶民たちは、他の権威、たとえば僧侶とか宗教に対してもまったく尊敬の念を持ちませんでした。


『逝きし世の面影』より

1871年に来日したヒューブナー。「私はこの国の有力者たちに信仰を持っているかどうか幾度も尋ねてみた。するといつも判で押したように、彼らは笑いながら、そんなことは馬鹿らしいと答えるのだ」。

バードは1878(明治11)年の東北地方縦断の際、久保田(現秋田)の師範学校を見学したが、校長と教頭に対して生徒たちが宗教について教えられているかどうか尋ねると、二人は「あからさまな軽蔑を示して笑った」。

「われわれには宗教はありません。あなたがた教養のおありの方々は、宗教は偽りだとご存じのはずです」というのが教頭の答だった。

リンダウは、「宗教に関しては、日本人は私の出会った中で最も無関心な民族である」と言う。日本には数多くの寺社があるにもかかわらずそうなのである。

僧侶は「いかなる尊敬も受けていない」。仏教と神道の区別もはっきりしない。民衆は「宗派の区別なく、通りすがりに入った寺院のどこでも祈りを捧げる」。しかし彼らは信仰からそうするのではなく、神聖とされる場所への礼儀としてそうしているのである。



当時の日本人の庶民たち姿がおぼろげながらわかってきます。

それは、

・武士や僧侶などの、あらゆる権威や上位階級をほとんど気にしない。
・子どもたちへの無条件の愛を第一義的に生きている。
・庶民の中では身分による生活の楽しみの差が存在しない。


というもので、それに加えて、庶民たちは「死も恐れていなかった」という、非常に「強い人たち」であったことがわかります。「死を恐れない」ことに関しては、

日本式ファイト・クラブ:この世こそ極楽であることに感謝し、激動でも素晴らしい時代を死ぬまで生きる
 2015年06月29日

に、やはり、『逝きし世の面影』から抜粋したことがあります。


彼らにはいつでも死ぬ用意があった。侍の話ではない。ふつうの庶民がそうだったのである。

カッテンディーケは言う。「日本人の死を恐れないことは別格である。むろん日本人とて、その近親の死に対して悲しまないというようなことはないが、現世からあの世に移ることは、ごく平気に考えているようだ」。



私自身も階級とか権威とかは気にしたことがないのですが、もっと大事なことは「権威とか支配階級という存在自体を忘れてしまう」ことかもしれません。そして、江戸の庶民たちのように「死をおそれない」ようになるためのことを「考え」続けることも。

ところで、今回出てきた「日本人の特性」ですが、中国の歴史書『三国志』の中に出てくる今から大体 1700年前の日本の様子が書かれた「魏志倭人伝」を見ても何となく似ているんですよね。

みんな酒が大好きだったり、集会では父子・男女の区別がないような「平等な社会」というようなところとか、身分の高い人にもそれほど敬意を示さないとか(あと、どうやら男性は、無類の女性好きだったフシもうかがえます)。

その前の時代、たとえば、縄文時代とかもそある程度は同じようなものだったような感じもしますので、日本人というのは、明治時代くらいまでの「この数万年」はずーっと同じような価値観で生きてきて、

「戦後に強制的に価値観を変えることになった」

ということのような気がします。

数万年に対して、たった 70年ですよ。

その数万年も続いたかもしれない価値観こそが日本人に合っているならば、それを「本来の日本人の価値観ではない方向」に強制的に変えられれば、そりゃ日本人がおかしくなっても仕方ないです。

そして、明治までの価値観こそが、日本で何万年も続いた価値観なら、そちらの方が日本人には合っているという気もしますし、戻るのは意外と簡単だったりして

いや、簡単ですし、日本は戻る。

絶対に戻ります。

100円賭けてもいい(安ッ)。

それはともかく、「小さな者たちへの無条件の愛」が、革命的「行動」のすべての最上にあります。

社会を子どもたちに返還する」ということがなされる日が日本の転換点となりそうです。子どもの数は少なくなりましたが、『逝きし世の面影』のような日本に戻すことのできるチャンスはまだあるはずです。

そして、その劇的な変換(回帰)がおこなわれるためには、今の日本のシステムか文明そのものが終焉する必要があります。なので、これは「愛」の話ですが、ゆるい話ではなく、ある程度の決意が必要な厳しい話でもあります。

そして、その日はそう遠くない日にやって来ます。

なお、今回の「子どもたちへの無条件の愛」については、セックス・ビストルズの「ボディーズ」という曲の歌詞を訳していて気づいたことでした。日本の未来への道筋への啓示をくれたジョン・ライドンに感謝します。



  

2015年07月10日



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6月下旬の海で何が起きた?


デンマーク気象研究所というものがありまして、ここには、世界の海氷面積がほぼリアルタイムで表示されているページがあります。

先日、そのグラフに奇妙な記録が残されていたのです。

海氷面積が「2〜3日間で瞬間的に 150万平方キロメートル程度の海氷が消えた」ということが起きたと見るしかないような記録です。

このデータを初めて見た時のことは、

北半球の海で何が?:6月の末に瞬間的に急減した北半球の海氷面積
 地球の記録 2015.07.02

という記事に記録を残してありますが、下のように、6月の終わりに、海氷面積が「急落」しているのがおわかりかと思います。瞬間的に消滅しているようにさえ見えます。

2015年1月1日から7月1日までの世界の海氷面積
sea-ice-strange.gif
Dmi






 


まあしかし、「氷が消える」ことに関しては、 2012年のグリーンランドで起きたことについて書きました過去記事、

メルトダウンの序章?:「たった4日間でほぼすべて溶けて消えた」グリーンランドの氷床
 2012年07月26日

にありますように、「グリーンランドのほぼ全土の氷床が、たった4日間でほぼすべて溶けてしまった」というような現象も過去にはありましたし、

「ま、一瞬で膨大な面積の氷が溶けるというのもアリなんだろうなあ」

と納得していました。

下がその時のグリーンランドの氷の様子です。
白い部分が氷床です。これが4日のうちに消え去ります。

グリーンランドの2012年7月8日と7月12日の氷床
Greenland-meltdown3.jpg
・NASA


そんなわけで、「氷が突然消えることは現象としてたまにある」と思っていたので、特に気にしていなかったのですが、しかし、デンマーク気象研究所のそのデータを初めて見てから 10日ほど経った今日、ふたたび見て、私は、

「ぜんぶ戻っているがな!」

と驚いたのでした。

下のはそのグラフを拡大したもので、ちょっとわかりにくいかもしれないですが、ガッと減った海氷が、「すぐに元の面積に戻っている」のです。

sea-ice-modoshi.gif


「減るだけならともかく、100万平方キロメートル単位の面積がすぐに戻るってのは変では?」

と私は呟きました。

減って「戻った」面積は 150万平方キロメートルくらいあるように見えます。

この面積は、大ざっぱにいえば、日本列島の全面積(約 37万8000平方キロメートル)の4倍ほどに相当するもので、決して小さな現象とは言えません。

あるいは、国家面積 156万平方キロメートルのモンゴル全土に相当します。

モンゴルと周辺国の面積の比較
mongol-map.gif
Google Map


最近は自然現象に何か起きても、さほど驚くことはないのですが、この「海氷突然消失事象」は何が起きていたのか気になります。

先ほども書きましたが、「減るだけ」なら理解できなくもないのですけれど、100万平方キロメートル単位のものが「すぐに戻っている」というのがわかりません。

何が起きていたのですかねえ。

これが気象現象によるものなのかどうかもよくわからないですが、この現在の世界の「気象」。

これもまた何だか混沌としているのです。




「夏のカオス」を予感させるような世界の混沌とした気象

これに関しては、最近の気象に関しての報道を並べるだけでも、その混沌ぶりが何となくわかる気がします。

最近の世界の気象に関しての基本的なラインとしては「猛暑」というものが挙げられます。


欧州、北米…世界中で熱波 ドイツでは40度超え最高更新
産経ニュース 2015.07.10

欧州や北米を中心に、世界各地が熱波に見舞われている。ドイツでは40度を超え、パリやジュネーブでも軒並み歴史的な高温を記録。アメリカ西部は山火事のリスクが高まっている。国連専門機関の世界気象機関(WMO)は「熱波の傾向は今後も続く」と予測、健康被害を防ぐため各国に警戒を強化するよう呼び掛けた。

ドイツ南部キッツィンゲンで5日、気温が40・3度に達し、1881年に同国で観測開始以降、最高を記録した。パリでは1日、7月の気温としては1947年以降最も高い39・7度に。ジュネーブでも、観測史上最高の同じく39・7度を記録した。

インドやパキスタンでも熱波が発生、インドでは2千人以上の死者が出た。5月末には中東やロシアでも例年以上の高温を記録した。



というように、報道を見ると、何だか「どこもかしこも暑い」ようなイメージなんですが、そういう中で、たとえば、上の報道で

> アメリカ西部は(熱波で)山火事のリスクが高まっている。

と言われた後に下のような報道と出会いますと、こちらはこちらで「均衡を欠いている」感じがします。


カリフォルニアの7月の雪

hanford-snow.gif

▲ 2015年07月09日のアメリカ・ハンフォード気象局ツイッターより。


カリフォルニア州のヨセミテ国立公園で7月9日に「7月の雪」が降りました。

下のように結構積もったようで、車が渋滞しているように見えるのは、季節外れの雪のためだと思われます。

yosemite-snow.jpg
KGET News


上記報道のように、ドイツでは観測史上最高記録を更新する中、お隣のオランダでは・・・。


ドイツで40度なのに、オランダでは「霜」の予測

frost-july.gif

▲ 2015年07月09日のオランダ msn より。


このニュースの冒頭をご紹介しますと、以下のようになります。


霜が降りる可能性

7月10日のオランダ東部の気温は、日中は最高 28度まで上がり、晴れた週末が期待されるが、夜は一転して気温が下がる見込みだ。

オランダ東部の各地で、7月としては珍しい 5度から 10度程度の例外的な低い気温となり、「寒い夜」となると思われる。

これらの地域の一部では、7月としては大変に珍しいことだが、霜が降りる可能性がある。



オランダといえば、植物での発電について書きました先日の記事、

オランダの女性たちが発見した奇跡のエネルギー生成 : 生きた植物と生きた微生物と水のコラボレーションが生み出した驚異の発電法 - Plant-MFC
 2015年07月04日

に登場する企業「プラント-e ( Plant-e )社」がありますが、何だか「変な気候」となっているようです。

そして、先ほどの産経ニュースで、

> ロシアでも例年以上の高温を記録した

とあったロシアですが、まあ、ロシアは広いですから、いろいろな地域でいろいろなことになるのは当然かもしれないですが、それでもやはり珍しい「7月に雪」ということになっているのです。

ロシア・ボルクタで7月の雪

Vorkuta-july-snow.gif

▲ 2015年07月05日の bigmir.net より。


ボルクタというのは、ヴォルクタ - Wikipedia によりますと、かつて、「ヴォルクタ強制収容所」があったという歴史を持つ場所であるようですが、今は夏の雪という珍しい光景を提供してくれています。




100年、1000年単位の大干ばつサイクルは存在するのか

アジアもなかなかのもので、「平年並みの気象現象」の場所のほうが少ないですが、日本は、九州の大雨はすさまじいことになっていますが、全体としては穏やかな感じがします。

これは関東の話ですが、今のところは「涼しくて過ごしやすい7月」が続いています。いつもなら、関東の7月は、そろそろ暑さに弱い私は、湿気と暑さでげんなりする日々が多いのですが、今年はそれを感じた日がほとんどありません。

まあしかし、今だけかもしれないですしね。
東アジアは他の国は荒れています。

台湾は6月から記録的な猛暑が続いていて、各地で平均気温が観測史上最高を記録しています。


記録的な猛暑の台湾


台湾・大武、6月の平均気温29.7度で観測史上最高 台東は気象記録の宝庫
フォーカス台湾 2015.07.03

東部・台東県大武の今年6月の平均気温が29.7度に達し、同地で1987年に観測を開始して以来、過去最高を記録したことが中央気象局の調べで分かった。


しかし、台湾の北にある中国の上海は「 145年ぶりの低温」に見舞われています。

7月の上海で145年ぶりに最低平均気温記録が更新される
 地球の記録 2015年07月08日

に書きました、チャイナ・デイリーの報道からです。

記録的な「寒さ」となっている上海


China Daily

上海で過去145年間で最低の平均気温が記録されている

7月6日の上海は、最高気温が 15.9度までしか上がらなかった。これは、1876年 7月2日に記録された 15.9度以来の低いもので、過去 145年間で最も低い最高気温となった。過去の同じ日の平均気温は 18.9度だ。


気温が急落すると、株価が急落するのかどうかわからないですが、上海の気温が下がるのに合わせるように、上海証券取引所のチャートは下向きに崩壊していったのは印象的ではあります。

さらに、上海の北は、朝鮮半島があります。

こちらでは危機的な「干ばつ」に見舞われています。

韓国北部と中部で記録的な干ばつ


韓国で干ばつ深刻 一部地域では観測史上最低の降水量
Yonhap News 20015.06.16

朝鮮半島の中部と北部が雨不足に苦しんでいる。韓国の首都圏を含む中部地方の場合、梅雨入りが遅かった上に空梅雨が予想されており、農業への影響も懸念される。専門家らは気候変動を原因に挙げる。朝鮮半島の大干ばつ周期説も飛び出している。

◇江原道の一部で過去最悪の雨不足

韓国気象庁によると、中部地方のソウル、京畿道の年初から今月14日までの降水量は161.5ミリと、平年の55%程度となっている。

北部・江原道の嶺東地域は141.9ミリと平年の39%にとどまる。さらに同道の束草は139.8ミリ、江陵は144.0ミリで、気象観測が始まった1973年以降で降水量が最も少ない。

ソウル大地球環境科学部のホ・チャンフェ教授は、2012年を含む近年の雨不足の原因はまだ明らかでないとしながらも、「地球温暖化により気候が変わる過程で、不安定になっているとみられる」と話す。



上の記事には、

一方、気候変動だけでは歴史的に繰り返される雨不足を説明できないとの意見がある。このため朝鮮半島が124年周期の大干ばつ期に入ったという説も関心を集めている。

という記述があり、初めて知りましたが、朝鮮半島では 124年ほどのサイクルで繰り返す「大干ばつ期」の時が歴史上があったという説があるようです。

同じ朝鮮半島の北朝鮮でも大変な干ばつが続いていることが先月から報じられています。

北朝鮮で100年で最も激しい干ばつ


北朝鮮、過去100年で最悪の干ばつ報道 国連、飢餓を懸念
CNN 2015.06.27

nk-drought-2015.jpg国連人権高等弁務官事務所(OHCHR)のザイド国連人権高等弁務官は、北朝鮮が非常に深刻な飢餓に直面しつつあるとして国際社会に対し支援を呼び掛けた。

弁務官は集中的な救援努力が今後数週間もしくは数カ月内に起きなければ、大規模な飢餓が発生すると警告した。

北朝鮮の国営メディアは通常、住民に明るい展望を説く報道姿勢に終始しているが、ここに来て過去100年で最悪規模とする干ばつ被害などについて伝えている。韓国の国民大学校の北朝鮮問題専門の教授は「今後悪しき事態が発生する可能性を内外に伝えるシグナル」と分析。「外国に援助を求める可能性がある」とみている。



先ほどの韓国の報道で、韓国の科学者の話として、「朝鮮半島の 124年サイクルでの大干ばつ期」という概念があることを書きましたが、今の世界の感じを見ると、もしかすると、そういうものはあるのかもしれないと、ふと思います。

そして、それは朝鮮半島だとか、そういう狭い範囲のものではなく、もう少し広い範囲であるのかもしれない・・・とも。

というのも、猛暑報道が各地でなされていますが、猛暑が続くことと干ばつが関係しないということはなさそうです。6月から猛暑が続くタイでは、過去 60年で最も激烈な干ばつに襲われています。

これについては、

タイで過去60年で最も激しい干ばつが進行中
 地球の記録 2015年07月10日

に報道をご紹介していますが、タイの貯水率がかなり深刻なレベルになっていて、このままの状態が続くと、「貯水池のいくつかが完全に干上がる」ということも懸念できるほどのものとなっています。

タイの4大ダムの7月初旬の貯水率
10thai-dam-2015.jpg
NOW26

その後の報道では、貯水率はさらに減り続けていて、上で貯水率 12.1パーセントになっているダムは、現在、貯水率が 7パーセントにまで落ちたと報じられています。

タイの気象局などによれば、雨が少ない状態は8月まで続く見込みで、上の4つの貯水池のうちの3つくらいは、それまでに枯渇しそうな感じにも見えます。

猛暑の被害があったインドやパキスタンは、これからのモンスーンがきちんとやってくれば、干ばつは解消する見込みでしょうが、そのあたりは時期になってみないとわかりません。

韓国や北朝鮮の「過去 100年で最も激しい」というものや、タイの「過去 60年で最も激しい干ばつ」という、歴史的に見ても大きな単位でのものとなっていることが特徴的ですが、現在、「熱波」が伝えられているヨーロッパ各地、ロシア、アメリカの一部なども、今後の天候次第では、干ばつから逃れられない可能性もあります。

アメリカのカリフォルニア州の干ばつなどは、昨年12月の時点ですが、「過去 1200年間で最も激しい干ばつ」であることが報告されています。

カリフォルニアの干ばつは過去1200年で最悪であることがアメリカ地球物理学連合の調査で判明
 地球の記録 2014年12月18日

アメリカの干ばつは、カリフォルニアを中心とした西部は相変わらず厳しい状態です。

us-drought-2015.gif
アメリカ農務省 Drought Monitor

アメリカでは、干ばつの程度を、

レベル1 異常な乾燥
レベル2 穏やかな干ばつ
レベル3 厳しい干ばつ
レベル4 極めて厳しい干ばつ
レベル5 例外的な大干ばつ


とわけていて、上の図を見ますと、アメリカの多くの地域では、干ばつ状況は改善してきていることがわかりますが、カリフォルニアは「例外的な干ばつ」のままです。

最近は「干ばつ」のことを忘れていましたが、思えば、世界が変化しようとしている時に、気象だけが穏やかというのは考えにくいことで、荒れた気象の中でも「干ばつ」という巨大なものも広い範囲で少しずつ広がっていたりするのでしょうかね。

最近は、農業と植物の重要性について考えることや書くことが多かったですが、考えてみれば、「農業を基本にして生きていく生活」を「完全」にするには、様々な気象に対応できる生活を考え出さなければならないことにも気づきます。

どんな時代にも不作や飢饉がありましたが、いつまでも「自然が荒れれば飢饉は当たり前」というような考え方のままでは、いつまでも不作や飢饉に怯えなければならない。

そのあたりの知見が見出されないと、「地球は人間の味方」という最大の理念を見失いかねません。

自然を利用しながら、干ばつや悪天候に対処する方法ってあるのでしょうかね・・・。

あるはずです。

そのうち誰かが何かの智恵を見出すはずです。

あるいは、その知見の発現のために自然が荒れているのなら「異常気象も自然良能」ということになるのでしょうか。



  

2015年07月09日



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前記事のようなもの:
「革命」(1)

 2015年06月22日






 


希望の年に考えるべきこと

最近、あることを毎日するようになって、少しわかったことがあります。

「あること」というのは、大したことではないのですが、日本最初のヨガ行者であった中村天風さんが、ご自身でも毎日していて、また、人々に指導していたという方法で、観念何とか…とかいう、まあ、名前は忘れましたけれど、名前はいいです。

要は「潜在意識を改革する」というような目的のもので、やってみると、思ったよりも効果的な感じですので、書いておきたいと思います。

その前に、今回書くことは、この時代、この世に生きている私たちは、今、非常に幸福な局面に差し掛かっているということについて書きたいと思っています。

たとえば、現在、株式市場や為替市場、商品市場などの金融市場が動揺しています。

短期間でどうなるものではないかもしれないですが、結果的に時間がかかったとしても、この動揺は末期的な動揺、あるいは「最後の動揺」になるはずです。

今後、国債市場も本格的に動揺し始めると、それがひとつの「幸福への転換点」となると思います。

映画『ファイト・クラブ』の主人公が命を賭けてまで達成しようとした、夢の出来事「金融という概念の消滅」への第一歩。あるいはその次への第一歩。

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・肯定的映画『ファイト・クラブ』(1999年)


今の資本主義は、かつて、大恐慌とかリーマンショックとか、いろいろと乗り切ってきましたが、今回の段階はいろいろとちがうものとなるでしょう・・・いや、あとで書きますが、こういう「〇〇でしょう」という消極的な考え方が、私たち人間社会の停滞を招いていました。

「この世は私たち自身が作っている」ということを考えますと、すべては「断定」でなければならないのだと思います。

「金融は消滅する!」

「自然と植物に囲まれた真の人間の生活の時代が来る!」

「新しい地球の時代が始まる!」


強く強く思い、考える

そして、その次に、どんなことが起きても、通常「否定的」とされることが起きても、起きるすべてのことは不幸なことなのではなく、「次の地球の時代」に向かう最も幸せな道なのだということを思い、考える

もちろん、反対に、「今の地球のままでいたい」と思うのならば、それを強く思う。どちらがいいかなんてのは、人それぞれでちがうわけですから「こう考えなさい」という方向はひとつもありません。

この世界は、あるいはこの宇宙はひとつのように見えて、まったくひとつではないのですから、いかようにも人それぞれの「確信した宇宙」を選択できるはずです。

いずれにしても、行動より何万倍も強い「思う」「考える」ということを主体にして生きる。

そして、何年何十年かかるかはわかりませんが、今のすべてのシステムの崩壊という「歓喜の時代」がやってきます。

なぜ、随所に「幸福」とか「歓喜」と入れているのかというと、たとえば私などは、この世の中で、「ひとつのこと」を勘違いして生きていたのです。

その「ひとつのこと」とは、

「破壊」は「誕生に対しての愛」と同義である

ということです。

このことを考えることを私たちは阻害されていたために、私たち人間は、新しい地球を創造できない状態に陥っているように見えます。

しかし、この「破壊が愛であること」は後で書きます。

いずれにしても、今のシステムの崩壊が連鎖的に起きていくはずです。

今のシステムといっても、まあ、いろいろとありますが、たとえば「民主主義」という言葉に代表されるシステムは「不潔」です。「民(人間)がこの世の主体なのは当然のこと」なのに、それが「主義」などと上から目線で制度化されていることは不自然なことです。

もっといえば、すべての「主義」は不潔に感じます。

人間本来の生活に「主義」という言葉は似合いません。

たとえば、朝起きて野菜を作って、昼ごはんを食べて、運動して、また野菜を作って、夜ご飯を食べて眠る・・・という人間らしく、最も進んだ文明の生活に「主義」が必要かどうかということです。

あるいは、そういう生活に株式だとか商品先物市場だとかが必要かどうか。

必要ないものだと思います。

本来の人間の生活に必要のないものが、完全に崩壊・消滅しなければ、地球は、次の高度な文明に進むことはできません。

・・・というようなことを思うことの「断定的信念」の重要性について今回書こうと思っておりますが、まずは冒頭に書きました中村天風さんの「意識の変化訓練」について少し書きます。

実際の生活に役立つと思います。




潜在意識への働きかけを日常にする

これは天風さんの本に出ていたわけではなく、ネットで偶然知ったのですが、中村天風さんは、不安や恐怖、あるいは、克服したい何らかを自分の潜在意識の中にたたき込むための方法として、

就寝する前に鏡を見て、自分に命令する

という方法を人々に教え、ご自身も毎日されていたそうです。

具体的には、まず、鏡で自分の顔の眉間のあたり(松果体のある位置)を強く見て、あるいは睨んで、たとえば、〇〇ということを恐れたくない時は、鏡の中の自分の松果体のあるあたりに向かって、

「お前は〇〇を恐れない!」

と「本気」で強く命じます。

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家康くん「天下取り」宣言


強迫観念などの強い方なら、

「お前は〇〇を気にしなくなる!」

などでもいいと思います。

ポイントは、

・1回にひとつの項目を1度だけ命じる
・命令したことが現実化するまで、同じ命令を続ける


ということで、つまり、1回に同じことを何度も言ったり、あるいは、いろいろな種類の命令を言ったりしてはダメだということのようです。あくまでも「ひとつが現実化するまでは、それだけにする」ということです。

そして、大事なのは次で、眠る前に上のように命じた後、次は、起きた直後に、昨夜の命令の「結果」を自分に「断定」するのです。

たとえば、上の「お前は〇〇を恐れない!」に対しては、

「お前は〇〇を恐れなくなった」

と、結果を断じるのです。
そうなっていなくても断じるのです。

これを、実際に「〇〇を恐れなくなる」まで続けるというものです。

天風さんは、眠る前と起きた直後にこれを行うというようにしていましたが、日々の、どの局面でも、鏡があるならやって構わない気がします。ただし、その間でも、現実化するまでは「命令はひとつだけ」を徹底した方がいいようです。

さて、ここまでは「こういう方法があります」というだけの話でしたが、この方法を知った時に、私が気づいたことは、この方法には私たちが今まで気づかなかった「2つの特徴」があることです。

それは、

自分に対して命じている

ことと、

「お願いします」口調ではない

ということです。

中村天風さんのこの方法は、

「神様、お願いします」というような他力本願では何もかなわないことを明らかにしている

一方で、

人間は、「自分に対して自分が命令できる存在」である

ことも明らかにしています。

ちなみに、このことから思ったのは、神社などで頭を下げて、「お願いいたします」というのも、単なる行事としてならともかく、本気ならやめた方がいいと思います。

私は昔から、神社でお祈りやお願いをするという意味が分からず、震災後、特にわからなくなってしまい、神社などでは祈りもお願いごともしませんが、あながち間違った行動でもないかもしれません。

そして、神社で頭を下げることは、自分自身の存在を低くするような気がします。

頭を下げている対象の高い低いはともかく、特定の場所やモノを信仰の対象にすればするほど、人間自身の霊性が下がるような気がします。

おそらくですが、宗教的な彫像や宗教的な建物(寺院や教会など)も含めて「偶像崇拝」はすべて洗脳か、あるいは誤った喧伝のように思います。

なぜなら、どの宗教でもその聖典の時点では偶像崇拝を禁じているのに、どの宗教もその教えに反した偶像崇拝になっているのはおかしい。どこかで何かのネジが逆に回された結果のように思います。




破壊は愛であるということ

この天風さんの方法で、さらに大事なことは、この方法が自分に対して「お前」という上から目線で呼ぶことが推奨されていて、まあ、女性の場合は自分に「お前」は不自然感もあるでしょうので、「あなた」とかでいいのでしょうけれど、とにかく、「自分に命じる」こと。

これは、その具体的な願望が成就しなくても、常に自分が自分の潜在意識に命じているという繰り返しをおこなうことで、「信念」が鍛えられる実感をわりとすぐに覚えると思います。

そして、その中で私は、ふと、「私自身の信念は何だったのか」に気づいたのです。

あるいは、最近書くことの多かった「肯定的態度」の終着点的なひとつに気づいたのです。

それは、

私は破壊のために生まれてきた

ことと

今の文明の崩壊はこの世の人類にとって、とてつもない「幸せの極地」だという確信

です。

「創造」というものがどのように生まれるかということを、今一度考えみていただきたいのです。

創造のために必要なもの・・・というより、創造の「母」は何か、というと、

創造の母は、破壊

であることに、疑いはないはずです。

赤ちゃんが生まれる前には、一般的には男女の生殖行為があり、そして、一般的には、その場合は男女間の「愛」が介在しています。

その「愛」が赤ちゃん、つまり「次の人間」の誕生につながります。

創造が赤ちゃんならば、破壊は「愛」に相当することがおわかりでしょうか。

破壊は、愛

だという「確信」が生まれます。

「愛」以外の言葉で、当てはまる例えも対象も思い浮かびません。

「破壊というものは悪」だと私たちは何となく思い続けてきましたけれど、これは簡単にいえば、洗脳だと思います。

なぜなら、「破壊は悪」という概念は、人生の永遠性を否定するものだからです。

具体的にいえば、輪廻転生を否定するものだからです。

私たちが最も考えるべきではない観点にあるものだからです。

輪廻転生をベースとして、人生は永遠だと考えますと、創造と現状維持だけでは、どこかで停滞するか行き詰まってしまうことは明白だと思います。

聖書『ヨハネの黙示録』21章05節に、

「見よ、わたしはすべてのものを新たにする」

という言葉がありますが、このような「すべてのものを新たに」というフレーズから私たちは「創造しか考えない」傾向があります。

しかし、冷静に考えてみれば、すべてを新しくするには、「破壊」がすべての前提となることに思い至ると思います。破壊が既存の存在を打ち消して、やっと、「創造」という赤ちゃんが生まれる

私たちはこの人生の中で、「破壊を悪と見るように教育されてきた」ということは言えると思います。破壊を賞賛する価値観を学んだのは、私の場合は、学校ではなく、十代の頃から親しんだパンクや、気のふれた映画からでした。

そして、拡大して解釈すると、

悪と善は平等である

と「考えること」さえ私たちは阻害されてきた。

「悪という悪いこと」が存在するということと「善という良いこと」が存在するという考え方も洗脳だと思います。悪と善は、植物と人間の関係と同じで、形の違いはあっても基本的に同質のものです。

なぜなら、たったひとつの宇宙の真理というのか、神様というのか、そのあたりの表現はどのようなものでもいいのですが、その「唯一」の存在は「善」そのものであるわけで、そこから考えると、本来は悪いという意味の悪はなく、それでは「どこで嫌悪するような悪が発生しているか」というと、それぞれの「自分の中」だと思います。

これは、恐怖感や不安感と一緒で、「悪」も自分の中で一生懸命作られる。

そして、ついには、

「悪魔は恐ろしい」

とかの考えに至る。

もともとなかったものが次々と人間に「創造」される。

しかし、悪と善は同じなのですから、仮に「悪」が自分の中に生まれても、それを怖がるほうがどうかしているようにも思います。それはつまり善なのですから。

悪は自分の(頭か心かはわかりませんが)中で作られている「自分だけの創造品」なのですから、むしろ悪は嬉しく愛でる対象かと思います。

過去記事の、

ローマ字「 TASUKETE (たすけて)」から偶然導かれた日月神示や神様と悪魔の関係…
 2014年07月26日

などで書きましたけれど、小説エクソシストのメリン神父は「悪と善の平等性」に気づいていた気配もありますが、神父という職業上、彼は悪魔払いを継続して、悪魔に殺されてしまう。

映画エクソシストのメリン神父の役を、中村天風さんにやってもらっていれば、映画のような深刻な悪魔払いにはならず、

「宇宙には真善美しか存在しないので、悪魔は存在できません」

といった瞬間に、リーガンの中にいる悪魔も「悪魔って何だっけ」ということになり、混乱して渋々とリーガンから出ていき、1980年にスウェーデン人女優と結婚し、二児を儲けるが、1996年に離婚することになります(難解な悪魔の人生かよ)。




自分が変われば世界が変わる(世界は自分だから)

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悪魔の複雑な人生はともかくとして、この「悪と善の平等性」を含めて、私たちが、今の人生の中の教育や喧伝の価値観の中で、もっとも封印され続けてきた知見は、

・人間の持つ力の偉大さ
・人間と植物、動物、鉱物との真の関係


などのように思います。

特に、全世界においては過去数百年、日本においては過去 100年くらいの間は「人間の持つ力の偉大さ」を、私たちに気づかれないようにした教育と喧伝が続けられてきたと思われます。

その洗脳と喧伝をおこなったのが誰かなどわかるはずもないですし、そんな存在には興味を持つべきではありません。

私たちが「現実」に気づけば、その存在自体のすること自体に意味がなくなるわけですから。どんなことでも相手が悪いのではなく、この宇宙の仕組みは「責任も義務も自分にある」ということを強く自覚することです。

自称プレアデスの人などが言うには、この地球には「所有者」(いわゆる神々というようなもの)がいて、その存在たちが、人間にフェイクの世界を見せる一方で、「人間の偉大性」の知見を阻止しているとのことですが、そんな神々のことを私たちは気にすることはないです。

もはや、そんな存在はどうでもいい。
放っておけばいい。

存在を無視すれば、その存在は消えます。

私たちが気にするべきは「たったひとつのだけの神(と呼ばれるもの。呼び方は何でもいいです)」で十分です。

自称プレアデスの人たちも、こまごまとした神々の存在を気にしすぎていて、そんな態度では、あまり肯定的な存在にはなれないよとアドバイスしたいですが、連絡の取りようもないですので、自称プレアデスの人たちも放っておくしかないです。

しかし、この自称プレアデスの人が言うことには、見習うべき点もあります。

たとえば、

「自分以外の何も信用しないこと」

と自称プレアデスの人は何度も言っていますが、これは、特に今の多くの地球の人びとにはとても大事な概念だと思います。

なぜなら、私も含めて、今の多くの人たちが「学ぶ」ばかりだからです、
完全な「自分のオリジナリティの中だけで自分とは何かを考える」時間が少ない。

自称プレアデスの人の言葉を少し抜粋してみます。

ちなみに、最近の私は、過去記事、

ついに登場した私の救世主に気づく:「学ぶのをやめて考えなさい」 - 人間自身の無限の能力を語るジェイコブ・バーネット師 TED講演 全語録
 2015年06月17日

で書きました、まさにそのバーネットさんの講演で「学ぶのをやめなさい」と師に言われて以来、あまり本を読まなくなりました。

ちょうど鬼のように本を購入していた時期ですので、購入して読み切れていない本が山積みになったままなのですが、たまに適当なところを開いて、数行読むというのがほとんどになりました。

不思議なことに、確かにバーネットさんの言うように「学ぶのをやめる」と、次々といろいろな知識を得ることができることに気づきます。

今は本に関しては、ちょっと時間がある時に、積まれている本から適当に一冊手にして、適当にパッと開いて、1ページくらい読むという感じです。

ちなみに、この時、本を開くときに「自分が適当にパッと開いたところには、絶対に、今の自分に役に立つことが書かれてある」と「確信しながら」開くと、必ず自分に有益な情報に辿りつきます。

これは、よろしければ、ぜひやってみて下さい。

本を開く前に、そこに自分に役に立つことが絶対に書かれてあると「本気で」考えるのです。多分その時に適当に開いたページに知りたい情報が書かれています。

どんなことでも、「確信」は大事だと最近思います。

ちなみに、先日の「植物が緑の理由」の記事にしても、植物が緑である理由も最初は、ふと「根拠のない確信」を思いついただけで、そこから植物について学ぶのをやめて、自分の中にあるものだけで後付けで理論を組み立てました。

葉緑素だの遺伝子だのをいくら調べて学んでみても、植物が緑である理由に辿りつくわけもないですので、このことを考えたのが、バーネットさんから教えを受けた後だったのは時期的にラッキーだったと思います。

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さて、では、自称プレアデスの人の言葉からの抜粋です。


プレアデス+地球をひらく鍵』より

地球では、神や女神を疑うのは失礼であるとされています。子供が大人のいうことを疑うのが失礼であると見なされるのと同じことですが。

「子供は見られるだけの存在で、意見を聞く必要はない」というわけです。

神々の子供として、あなた方はこれと同じ劣悪な位置づけを自分に与え、年長者は絶対に正しいという原則を採用しています。

すべてのことを疑って見ることを私たちは推薦します。

私たちが言うことをふくめての話です。

なぜなら、あなた方は疑問を持つ権利があるだけではなく、義務があるのです。あなたが主権者となり、あなた自身の身体を所有し、あなたの好きな現実を実現する鍵はこれです。




この自称プレアデスの人は「自分のことも信じるな」と言ってくれているので、ご好意に甘えて、私はこの自称プレアデス人の言うことをまったく信用しないことにしました。

ということは、このプレアデス人の言葉が書かれている本(そして、他のすべての本も)、その記述に感心したり感動したり気に入ったりする部分は、すべて自分の責任においての選択となるということになります。

つまり、いわば、このプレアデス人の言葉が書かれている本(そして、他のすべての本)は「すでに自分の書いた本と同じ意味になっている」ことがわかります。

どんな本でも、気に入った部分があるならば、それは、その人が「選択」としたものである限り、その世界は、あなたや私自身のものですので、つまりは、自分たちで記したものと同じと考えていいのだと思います。

ついでに、先ほどの自称プレアデス人(もはや信用度ゼロ)の記述の少し前にある記述もよいものですので、抜粋します。これは私が「よい」と感じたものですが、そんな私と、その意見を絶対に信用してはいけません。選択することと「疑問を持つ」権利と義務は各自にあります。

自称プレアデス人(信用度ゼロ)と私(信用度ゼロ)が書いたものではなく、読んでいるあなたが書いたものだと考えるといいのかもしれません。


『プレアデス+地球をひらく鍵』(信用度ゼロ)より

あなた方は現実を自分でつくり出しているのですから、どんな現実をつくるか注意する必要があります。また、自分がいろいろと考えるとき、いくつぐらいの次元に自分を存在させるのかも監視する必要があります。

ただぶらぶらして何かが起きるのを待っているふりをしている自分をどうにかしなければなりません。

さまざまな考えが次から次へとあなたの頭のなかを駆けぬけ、あらゆる情報がもたらされますが、そうしているあいだにも常に現実を創作していることに気づいていません。

あなた方は自分自身の信念を自分に隠しています。
あなたの力を自分に隠しています。

思い出してください。人間という種全体がテレビと教育体制によって、自分自身の無力さを信じるようにプログラムされているのです。

自分の現実を自分で創作するのはめずらしいことで、それ以外の場合はそんなことはできないし、ある種の状況にあっては自分ではどうにもならない、と考えたりする罠にはまり込まないでください。



私はこの中の、

> ただ、ぶらぶらして何かが起きるのを待っているふりをしている自分

という言葉に打たれたのでした。

これはまさに今までの私の姿そのものであります。

そして、バーナンキ・・・じゃないや、えーと・・・。

ジェイコブ・バーネット(1998年 - )
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…ジェイコブ・バーネット師 TED講演 全語録


このバーネットさんからの教えを得るまでは、

「行動しないと始まらない」という「洗脳」

に強く浸かっていたんですね。

しかし、この世を変えるのは、「考えること」、あるいは「強い信念を持つこと」だということに気づけば、そこからは早いです。

「必ずこの世は変わる」と確信する。

「自分が変われば世界は変わる」という信念を持つ。

あるいは信念はそんな大層なことではなくとも、何でもいいのだと思います。

「私は必ずチュリュモフ・ゲラシメンコ彗星の名前をソラで言えるようになる」

でも何でもいいんです。
確信が確信だと認識できれば。

ほら、もうソラで言えます。

チュ……(だめじゃん)。

そして、実現しなかったら、また確信して自分に命じればいいだけです。




自分の人生を強く肯定する

自称プレアデス人は、テレビと教育体制を批判していますが、テレビなんてのも本と同じで「自分がテレビをつけた瞬間には絶対に自分に有益な情報が流れている」と考えていれば、テレビも有益なツールになります。

私は若い頃からの習慣で、基本的にテレビを見ない生活をしていましたが、最近は、うちの子どもが見る番組などを一緒に見ています。

うちの子どもは、NHK教育の『すイエんサー』とか、NHK の『ためしてガッテン』とか、日テレの『ザ! 鉄腕! DASH!!』あたりが好きで、どれも大変に生活上の参考になりますし、ついでに最近は TOKIO の山口達也師のファンになったりもしていて、NHK 教育で夜7時からやっている『Rの法則』という山口師が司会の番組も毎日見ています。これも子どものお気に入りです。

この『Rの法則』のお陰で、7時のニュースなどという暗い番組を見ないで済んでいることも効果大です。7時のニュースは最後の天気予報だけ見ると、とても美しい天気予報士の方の姿を見られたりして、一挙両得であります(なんか日本語の使い方がちがうぞ)。

山口達也師の偉大さは語りきれない部分がありますが、それはともかく、「必ず〇〇となる」と確信する際に考えなければならないのは、私も含めた、皆さんそれぞれの人生を「強烈に肯定する」ことだと思っています。

まずは「過去」。これを否定的に捉えていては、未来への確信はあやふやなものになります。

ですので、

「自分の人生はここまで非常に素晴らしかった」

と「過去を確信する」。

いや、これは私自身に置き換えてみれば、最近はいろんな賢人たちの言葉などを知ったり、植物の意味を知ったりと、いろいろと嬉しいことがあるわけですけれど、ここに至る自分の人生での出来事の「すべて」が今に至る道の中で有効だったということに気づきます。

無駄な出来事や無駄な日々というものは「ひとつ」もなかった。

病気がちな子どもで生まれたことも、学校制度に馴染めなかったことも、神経症やパニック障害になっていたことも、何もかも無駄ではなかったし、中学でパンクと出会い、東京では演劇と出会ったりして、その中で出会ったバカ友たちや気の狂ったアートの数々も、すべてが今に結びつくものだと気づきます。

何年間かの間、毎日、一日中ギャンブルをして過ごしていた時期もありましたし、放浪みたないことや、女の子のいる飲み屋にハマりまくっていたことなども、すべてが今に結びつくものだと思います。

特に、飲み屋の女の子たちの言葉からは多くを学びました。
私の人生の中で、彼女たちは集合体として最大の先生のひとりだったと思います。

もうそういう所に飲みに行くこともなくなっちゃいましたけど、素晴らしい記憶として残っています。

こんな人生をまとめたような書き方をしていると「今がゴールなのか」というような感じに伝わってしまいかねないですが、「今がゴールか」というと、人生の永遠性を考えると、ゴールという概念はウソであることに気づきます。「何かにゴールがある」という概念は洗脳です。

ここまで読み返しますと、混沌とした感じですが、とにかく、

「世界を変えるには、世界に働きかけるのではなく、自分に働きかける」

という原則を「確信する」ことが大事なのだと思います。

過去記事、

過去同様の美しき日本の未来を実現することは「必ずできる」ことを野口晴哉さんの言葉で確信する
 2015年06月20日

で書きました、野口晴哉さんの言葉、


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世界が変わったのではない。自分が変わったのである。
自分が変われば世界は変わる。
自分の世界の中心はあくまでも自分であり、自分以外の誰もが動かせないものなのだ。



は象徴的な言葉ではなく、この宇宙の「物理的原則」だと思います。

この世は、野口さんのこの言葉のように創造されて運営されている、ということを「強く」確信するのです。

基本は「そう考える」だけですので、そういう意味では、自分の表面上の生活を変える必要は少しもないですし、人と意見を交わす必要も、議論する必要もないです。

あるいは、こんな私のようにベラベラと書いたり喋ったりするのも無意味ですが、私の場合、書いている時しかあんまり考えないので、書くことが「信念ボケ防止」になっているようです。

ふだんは相変わらず何も考えていません。

雨が降り続けているので、本当はもっと歩きたいです。
運動、運動、また運動。

締めに中村天風さんの言葉を記しておきたいと思います。
戦後の講演を収めた『運命を拓く』からの抜粋です。




座右箴言

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私はもはや何事をも恐れまい。それはこの世界ならびに人生には、いつも完全ということの以外に、不完全というもののないよう宇宙真理ができているからである。否、この真理を正しく信念して努力するならば、必ず何事といえども成就する。

だから今日からはいかなることがあっても、また、いかなることに対しても、かりにも消極的な否定的な言動を夢にも口にするまい、また行うまい。

そしていつも積極的で肯定的の態度を崩さぬよう努力しよう。

同時に、常に心をして思考せしむることは、”人の強さ”と”真”と”善”と”美”のみであるよう心がけよう。

たとえ身に病があっても、心まで病ますまい。たとえ運命に非なるものがあっても、心まで悩ますまい。否、一切の苦しみをも、なお、楽しみとなすの強さを心にもたせよう。宇宙霊と直接結ぶものは心である以上、その結び目は断然汚すまいことを、厳かに自分自身に約束しよう。



  

2015年07月08日



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『健康全書』 (1474年)に描かれたマンドラゴラ
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▲ 毒草であり、薬草としても用いられてきたマンドラゴラ(マンドレイク)。伝承の世界では、魔法薬、錬金術、呪術、媚薬、不老不死の薬として使われたともされています。写真の絵は、マンドレイク - Wikipedia より。






 




毒という漢字は「 生 + 母 」

前回の、

植物が「緑色」であり続ける理由がわかった! そして人間の生活システムの完成は「植物との完全な共生」にあるのかもしれないことも
 2015年07月06日

を読まれた方が、掲示板に「植物全般に毒があること」に言及されていまして、確かに植物は種類によりますが、多かれ少なかれ、毒性があります。

私は「なるほど、人間と一体のものが、人間を害する毒を持つってのもアレかねえ」などと思って、ぼんやりと「毒」という漢字を見つめていましたら、毒という漢字は、

生 + 母

という構成をもつ漢字であることがわかりました。

ちょっと調べてみますと、Google ブックスにありました『大人の漢字教室』という本では、この「生」は、語源的に見れば、「生まれる」、つまり誕生のことを意味すると書かれていまして、さらには、「生」という漢字は、

土 + doku-kanji.gif

とわけられるそうで、土は土のことで、もうひとつの「 doku-kanji.gif 」は、「芽を出した植物を象形で書いたもの」なのだそう。

つまり、「毒」の上の部分は、植物が土から芽を出して「生まれる」ことを意味して、その下に「母」という字があるという構成になっていることがわかります。

「母」というのは、母親のことだと思っていましたが、漢字の語源的には「母」という漢字は「お母さんのおっぱい」を意味するのだそう。

お母さんのおっぱいは、赤ちゃんが育つための唯一の栄養ですので、漢字の構成としては、

「毒」という漢字は、生まれたばかりの植物が育つための唯一の栄養源を意味する

ということになりそうです。

次の瞬間、

「植物の毒はおそらく自然良能だ!」

と、まだ何の根拠もないのに「そうだと断定する気持ち」が湧いてきて、そのまま私の中に定着しました。

とはいえ、根拠なく断定したことを、そのまま書くというわけにもいかず、「植物の毒と人間の関係」を少し調べてみることにしました。

すると、それは、毒の歴史 - Wikipedia の1行目の記述におおむね表されていることを知ります。

その1行とは次の文章でした。

毒の歴史では、毒に関連する歴史を記述する。今日から紀元前4500年にまで遡ることができる。


毒の歴史の年代は、まさに「現代に直接関係する人類の文明史の年代」とリンクしているといえそうです。

ここで、文明 - Wikipedia を見てみます。


文明のゆるやかな成立

新石器時代の狩猟採集から、原始的な農業を経て、村、町、都市へとゆっくりと発展して、文明が成立していくため、文明が一気に成立するわけではなく、文明に至る階段を登ることになる。

例えば、シュメール文明は最古の文明の一つだが、BC5300年頃のウバイド文明から、ウルク期のBC3200年の文字の発明まで2000年を要している。

原始的農業を経て灌漑技術を生み出し、都市を構成し、冶金技術も生まれ、神官階級が文字を生み出し、歴史時代が始まる



植物毒の歴史の年代を考えますと、どうやら「毒」は、人類の文明史と寄り添って人間と関わってきたらしい雰囲気があります。毒は古代では、ほとんどが植物から採取されています。




植物毒の歴史と人類文明史とのリンク

ここで、先ほどの「毒の歴史 - Wikipedia 」に戻ります。


毒の歴史 - 概要

毒は武器や、毒そのものの解毒、そして薬など様々な目的で用いられ、毒性学(トキシコロジー)やその他さまざまの学問において飛躍的な進化を遂げてきた。

発見されたのは太古の昔であり、原始においても文明化ののちにも獲物や敵を素早く確実に倒すための道具として使用された。



その後、使われる毒は、植物毒から化学合成された毒へと変化して現代に至っています。薬も植物から化学合成に変化しました。現代の毒は、今の社会では少し困った部分があるとはいえ、良い悪いという価値判断は別としても、人間の技術進歩を示すものではあります。

そして、植物毒の歴史の流れの中に、薬と毒の知識と技術の発達があります。良くも悪くも、植物の毒が人間の技術へ刺激を与えたといってもいいかと思います。

ちなみに、自然の毒は強いものは大変にすさまじいもので、化学的に合成した毒などでは全然かなわない部分があるようです。これについて、たとえば、日本薬科大学の船山信次教授は、以下のように述べています。


毒と薬は表裏一体。身近に存在する自然界の毒

船山 「毒」は”怖い””恐ろしい”といったイメージが強いかもしれませんが、実は非常に身近な存在です。

そもそも「毒」というのは、人間の都合で命名したに過ぎません。生体に何らかの作用を及ぼす化合物の中で、私たちに芳しくない影響を与えるものを「毒」、都合の良い働きをする場合を「薬」と呼んでいるだけです。つまり、毒と薬は表裏一体で、これを私は「薬毒同源」と唱えています。

──「毒にも薬にもなる」というような表現には、そうした由来があるのですね。毒にはどのような種類があるのですか。

船山 まず、自然界由来のものと、人工物に分けられます。植物、動物、微生物などの毒が自然界由来で、農薬や、サリンのような毒ガスなどが人工物に分類されます。そして、自然界由来の「毒」の方が、圧倒的に種類が多く、一般に、毒性も強いのです。

──それは意外ですね。ニュースなどで聞く「メタミドホス」に代表される人工的な毒の方が、「毒」の中心だと思っていました。

船山 例えば、「ボツリヌストキシン」という微生物の毒がありますが、これは1gで約5500万人もの命を危うくしてしまう程の威力があります。一方、有名な人工物の毒である青酸カリウムは、フグの毒の約1000分の1の毒性しかありません。これ以外にも、強い毒性を持った自然の毒は数多くあります。



このように、自然の力は、毒においても人間の作り出すもの超えている例が多いことがわかります。おそらく、どんなに頑張っても、人間が「ボツリヌストキシン」(ボツリヌス中毒を起こす菌)と同程度の毒性を作り出すことは無理でしょう。

しかし、自然はすごいですが、しかし、人間の自然利用のすごさはそれを上回っていまして、この超猛毒のボツリヌストキシンは、Wikipedia によりますと、

ボツリヌストキシンは、医療用医薬品としては、 2010年現在、83ヵ国で様々な疾患に用いられている。

というように、薬で使われている他、美容整形では、「ボツリヌス・トキシン注入法」というものが、プチ小顔やプチしわとり、「お顔の若返り」などで使われているというあたり、猛毒もなす術がないようです。(「ボツリヌストキシン」で画像検索すると、ほとんどが美容関係)

ところで、船山教授は「薬毒同源」という言葉を使っています。

これは多くの過去の賢人たちも言っていることで、偉大なる医師ともいわれ、また魔術師ともいわれ、後世のホメオパシーにも着想を与えたパラケルスス(1493 - 1541年)は、

「すべての物質は毒である。毒でないものは何もない。摂取量によって毒にも薬にもなる 」

と言っていたことが、経済産業省のこちらの資料に書かれてあります。

パラケルススは植物学者でもありましたが、この「すべての物質は毒」というフレーズはなかなかすごいですが、確かに、そういうものなのかもしれません。

たとえば、トリカブトは毒草として有名ですが、『毒のある植物』という本には、トリカブトに関して、古代や中世では、「猛毒を説明する」場合と、「薬としての説明」されているものがそれぞれが記載されています。

また、アイヌがトリカブトの毒を用いて生活の糧としての道具としていたり、中国では戦争に使われていたことなども知ります。


『毒のある植物』より

トリカブト矢毒

洋の東西を問わず、毒草としてこれほど世界に広く知れわたっているものはないでしょう。アイヌ民族は熊や鯨を獲る毒矢に利用しており、また古く漢代の中国では毒矢用に調整したエキスを「射罔(しゃもう)」と称して、戦争に用いています。

インドのトリカブト「ビシュ」は中世アラビアでは有名で、11世紀のアラビア医師イサ・ベン・アリは、「インドにある三種のトリカブトの一種は最悪で、この毒を体に塗るだけで肉が破れ、毒蛇の毒より速く体内に入り相手を殺すことができる。また、この毒汁は矢尻にも塗られ、それで射られたものは必ず死んでしまう」と記しています。

また一方では古代インド人や中国人たちはこの毒を積極的に薬として開発しています。矢毒になる毒を古代から薬として用いたのは、このトリカブトが唯一のものでしょう。

『神農本草経』には、新陳代謝機能のおとろえた状態を元気にする薬として、手足の関節の麻痺、疼痛の治療、代謝機能失調の回復、虚弱体質者の腹痛、下痢など、内臓器官が弱った結果おこる症状の復活などを目的として用いています。

ただ毒性がきわめて強いため、中国ではトリカブトの毒性を減じるため種々の修治(加工)が工夫されています。



こういう「猛毒を医療に転用する」ためには、大変な思考と労力と、そして、犠牲もあったでしょうけれど、これらは、人類史に「新しい技術」を生み出し、「医療」を進歩させ・・・というように、植物は毒の面でも人類をサポートしていることがわかります。




植物、戦争、文明

先日の植物発電についての記事、

オランダの女性たちが発見した奇跡のエネルギー生成 : 生きた植物と生きた微生物と水のコラボレーションが生み出した驚異の発電法 - Plant-MFC
 2015年07月04日

に私は、

植物は、自分から排出される廃棄物が発電に使えることが「人間に発見されるのを待っていた」ように思えます。

と書きましたが、トリカブトや、あらゆる「毒草」も同じように、「人間に毒(=薬)として発見される時を待っていた」ように感じます。

植物発電のこともそうですが、植物の隠された「本態」が明らかになるたびに、少し人類の文明は進む、ということを繰り返してきたよにう思います。

衣服の歴史も植物利用の歴史ですし(本来、人間の衣服には「世界と人間の結びつきを表すものとして」大変重要な意味があったことをシュタイナーは述べています)、何でも植物が関与しているように思えます。

その中で、植物毒の場合は具体的にその役割を上げますと、先ほど漢の時代の中国で「戦争にトリカブトの毒を使った」ことが書かれてありますが、毒は人間社会に対して、

・戦争
・暗殺(政治の劇的変換)


などに大いに使われていくと同時に、

・医療
・薬学
・美容


の発展にも大きく貢献したということになりそうです。

ところで、「戦争」は、否定的な側面が強調されやすいですし、実際に否定的なものかもしれないですが、「戦争が医学を発展させてきた」ことは残念ながら事実で、近現代のほとんどの戦争はそうだったと思います。

たとえば、看護師の始祖といえるナイチンゲールが後世に残る看護書を示せたのも、クリミア戦争(1853-1856年)で従軍看護師として、兵士たちの看護に当たっている中で見出していったことです。

ここに、医療のひとつのパラドックスがあって、それは、

「怪我人や病人の存在がなければ、医療は進まない」

ということです。

たとえば、クリミア戦争では、病院で夥しい兵士たちが負傷で亡くなっていく中で、ナイチンゲールは「看護の気づき」を得たのでしょうし、そのナイチンゲールの看護への姿勢は、その後、百数十年続く看護の基礎となっています。

今、私たちが緊急医療などで命を助けられている背景には、過去の膨大な負傷者、病気の人、そして膨大な死者がいます。その上に現代の快適な生活システムが存在しているということを思い出します。

また、戦争は統計学をはじめとする数々の学問を生み出し、通信技術、輸送技術をはじめとする様々なテクノロジーを飛躍的に発展させてきました。

生活に本当に必要かどうかは別として、現代社会で私たちが使っているさまざまなもの、ジェット機、レーダー、緊急医療システムなどは、戦争から生まれたものだそうです。私たちが日々使っているインターネットも、多少それと関係します。

道徳的な観点や理性の面からは、戦争は否定的で悲劇的な存在であることも事実であっても、現実は理性とは逆であることも事実のようです。

しかし、これを逆に考えれば・・・。

戦争から生まれたような技術は、本来の人間の生活には必要のないものかもしれない」

とも思いますが。

最近の私は、理想的で、最も進んだ人間の生活は、植物との直接的にふれる生活だと思っていますので、それを突きつめれば、ジェット機だとか車だとかレーダーだとかテレビだとか、あるいは、インターネットさえも必要かどうかは微妙なところではあります。

植物の話から、何だかわからないですが、戦争に及んできてしまいましたが、しかし、植物は「提供する側」ではあっても、植物は人間に「これを使って何々をしなさい」と命令するわけではなく、考えるのは人間の役割です。意志と自我は人間にあります。

気づいて、そして考える。

人間の生活に必要なものを何でも提供してくれる植物を、私たちがどのように社会で利用するのかは、私たちが考えることです。よい社会にするのも、そうでない社会にするのも、私たちの役割です。

ふと、ここで、

「いつか賢明な人々が現れて、この車が全人類の利益にかなう使い方を見つけてくれる日を待っている」

というフレーズを思いました。

これは、かつてのアメリカのテレビドラマ『ローン・ガンメン』の中の台詞の中の「車」を「植物」に置き換えたものです。




いつか賢明な人々が現れて、全人類の利益にかなう使い方を見つけてくれる日

話が逸れますけれど、先日、うちの奥さんと下のような会話をしました。

奥 「ローン・ガンメンがまた見たくて、中古ビデオ買っちゃった」
私 「え? ローン・ガンメン、ビデオないじゃん」
奥 「Xファイル外伝で、2作品だけ入っているのがあるって知ったの」

「ローン・ガンメン」は、ご存じない方のほうが多いかもしれないですが、2001年にアメリカで放映されていたドラマで、もともとはXファイルの登場人物の、いわゆる「スピンオフもの」として放映されたものですが、視聴率が悪く、シーズン1(13話)で打ち切りとなり、日本では一度だけ衛星か何かで放映されただけで、基本的にビデオも DVD も出ていないという一種の幻のドラマです。

日本では Wikipedia 項目さえないです。

まあ、下の冴えない中年男性3人が主人公ですから、仕方ない面もありそうですが。

Lone-Gunmen-the-lone-gunmen.jpg
・Lone Gunmen

しかし、内容的にはどれも大変おもしろいもので、「ローン・ガンメン」という新聞を発行している上の3人(と2人の関係者)が、アメリカ政府の陰謀、石油メジャーや大企業の陰謀に立ち向かう様子をギャグ・テイストで描いているものです。全体の7割をギャグが占める一種難解な「陰謀論モノ」といえます。

ちなみに、ローン・ガンメンは、第1話の「パイロット」というストーリーが、


アメリカ政府が「民間航空機を遠隔操作して、ニューヨークの世界貿易センタービルに意図的に衝突させること」を企てている情報をローン・ガンメンのメンバーが知ることとなり、それをハッキングで阻止する。


というストーリーでした。
同時多発テロの半年前に放映された回です。

pilot-no1.jpg
・Lone Gunmen


要するに、911とまったく同じようなことがドラマで展開されていたのです。
ちがうのは、ドラマでは阻止されて、911では阻止されなかったことです。

アメリカ政府がそんなことを行う理由は、ドラマによれば、


旅客機テロを中東の反米国家や反米勢力が行ったこととしてでっち上げ、戦争を煽り、武器の売り上げを上げるため。


と説明されていました。

ドラマが放映された半年後にドラマと同じようなことがニューヨークで起きます。

現実に起きたことが、あまりにもドラマの内容と似ていたために話題になったこともありますが、それでも日本で当時 13本の吹き替え版をフルで見た人はあまりいなかったのではないかと思います。

その数少ないフルで見たひとりが私なのでした(笑)。

とっても偶然の話で、奥さんの女性の友だちが偶然、衛星で放映されていたローン・ガンメンの第1話を録画していて、見たら面白かったらしく、奥さんに「見るといいよ」と貸してくれたのです。

ふたりで見ていて、

「ああ、これは面白いね」

と結局、13話全部を見たのでした。

しかしそれ以来、十数年見られる機会もなく、「そのうち DVD でも出るでしょ」と言っていたのですが、 DVD もビデオも出ない。

そうしましたら、つい最近、先ほど書きましたようなことで、十数年ぶりに見ることがでたきのでした。

どうして、ローン・ガンメンの話などを書いているかといいますと、このビデオに入っていたうちの1本がとても私の好きな話で、そのドラマの中のナレーションがそれが先ほど書きました「いつか賢明な人々が現れて…全人類の利益にかなう使い方を見つけてくれる日を待っている」というフレーズを思わせるものだったからです。

「夢のプラン( Dream Plan )」というタイトルのその回のストーリーは、ローン・ガンメンのメンバーのひとりが、政府に情報公開を求める中で、ある資料を手に入れ、


1970年代のアメリカで、石油を使わずに、水だけを燃料として走る水力自動車が開発されていたが、水で走る自動車の登場を快く思わない石油メジャーはその車と技術を封殺しようとし、それ以来、破壊されるのを避けるために、どこかに車は隠されている。


ということを知ります。

そして、あらゆるハッキング技術を使って、その「フリーエネルギー自動車」の場所を探し出すのですが、それを作った今は亡き科学者のおこなったことは、ローン・ガンメンが考えていたこととはまったく違うことだったのです。

博士は「この夢の自動車は世に出してはいけない」と、自ら封印していたのです。
そして、娘さんに自分の意志を伝えます。

ローン・ガンメンと娘さんにこのような会話がなされます。

娘さん 「これは壊さなくてはならないのよ」
ローン 「何を言い出すんだ」
娘さん 「それが父の望みよ。父は自分では壊すことはできなかったけど、これ(夢の自動車)は存在すべきじゃない」
ローン 「どうしてだ? ガソリン要らずの無公害カーがどうして存在してはいけないんだ? 世界の経済にも寄与する」
娘さん 「ええ、すごいでしょうね。でも、その結果、開発ブームが巻き起こる。」
ローン 「ああ、それは当然だろう」
娘さん 「そして、車に乗る人が増え、車で行くところもどんどんと建てられる。そうなれば、消費だって増えるわ。もっと木が伐採され、道が作られる。道の舗装に何を使う?……石油よ」

まだ会話は続くのですが、夢の車として開発した無公害自動車が、むしろ石油の使用を増やし、さらに自然を破壊するものになるかもしれないとして、開発した博士は自らこの車を封印したのです。

そして、ストーリーでは、実は、石油メジャーこそが、この「夢の車」を探し続けていたのです。石油メジャーは「石油の使用量をさらに増やすため」と、「夢の車を収益のもうひとつの柱とするため」に、この水力自動車を大々的に売り出すことを目論んでいたのでした。

このストーリーを見て、私は、

「物事は一方向からだけ見ていてはわからないものだよなあ」

と納得した記憶があります。

まあ、最後はハッピーエンドで、

「いつか賢明な人々が現れて、この車が全人類の利益にかなう使い方を見つけてくれる日を待っている」

というナレーションが入り終わるのですが、「植物と人間と戦争」のことを書いていて、ふと、このフレーズを思い出したのでした。

下がそのシーンです。

ローン・ガンメン - ドリームプラン ラストシーン



うーん、見事に話が逸れてしまいました。

ここまで話が逸れると、ここから植物の話に戻るのは難しそうですが、今回の話の主軸は「植物の毒もまた人間と寄り添って存在している」ということでした。

そして、植物を利用する私たちは、それをどのように利用するのが正しいのかを、これから考えなければならないのだろうなあと。



  

2015年07月06日



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vividscreen






 

植物が生存のためには「非効率的な色」をしている理由

今回書こうとしていることは、「植物が緑色である理由」と関係するものですが、このことは、前回の記事、

オランダの女性たちが発見した奇跡のエネルギー生成 : 生きた植物と生きた微生物と水のコラボレーションが生み出した驚異の発電法 - Plant-MFC
 2015年07月04日

を書いている時に、ふと思ったことです。

震災の2ヶ月後くらいに、

緑の意味
 2011年05月02日

という記事を書いたことがありますが、この記事は「なぜ植物は一律に緑なのか」という疑問についての記事でしたが、4年の歳月を経て、この答えがわかったかもしれません。

なお、この「植物はどうして緑色なのか」という疑問については、ほとんど形而上的な質問でもあり、わかっているのは、「緑色に見える理由」だけで、「緑色である理由」の答えはいまだにありません。

植物が緑であることの「謎」は、植物以外のすべての生物、たとえば、哺乳類、爬虫類、両生類、魚類、昆虫やそれに類するものから、微生物や細菌などに至るまで、あらゆる生物は種により様々な「色」を持っています。

花に止まる蝶
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kingofsmile


プランクトン
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coastalcare


しかし、地上の植物は、ほんのわずかな例外を除けば、その葉は緑色です。

地球上のあらゆる生物の中で、植物ほど、どの種類もすべてが同じ色を持っているというものはいないのです。

花の色や大きさ、葉や全体の形、 育つ環境や、生育のしくみなどは、植物ひとつひとつでまったく違うのに「葉が緑である」ことから外れた植物はほとんどいない。

ここには何か地球の創造と関係するような「大きな必然性」があるはずです。
偶然でこんなことになるわけがない。

まず、最初に、この問題の最も大きな壁であるひとつの事実、

「光と水で生きている植物にとって、実は、緑色という色は最も効率が悪い」

ということを少し考えてみます。

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緑色は植物の生存には最も適さない

まずは、4年前の記事でも抜粋しました、社団法人 日本技術士会 北陸本部のウェブサイトにあります「彼らはなぜ「緑色」を選んだのだろうか・・・???」というコラムから抜粋します。

これが、植物と携わっている人が、いつかは辿りつく究極の問いです。
少し長い抜粋ですが、これ以上は削ることができませんでした。


彼らはなぜ「緑色」を選んだのだろうか・・・???

ほとんどの植物の菓っぱは緑色をしている。そんなことはあまりにも当たり前すぎて、以前はな〜んも気にならなかった。毎日空気を吸いながら、空気の存在そのものを忘れてしまっているように。私がこの世に生まれるずっとずっとず〜と以前からそうだったはずだし、私が神に召された後もやっばりず〜とそうだろうと思う。(略)

植物の葉が緑なのは、「葉が緑色の光を反射あるいは透過し、他の色の光を吸収している」という理由による。

つまり、葉は緑色の光をあまり必要としないということである。光のエネルギーを取り入れて糖を生産(光合成)するのに、緑色の波長領域のエネルギーを捨てた……ことを意味している。

ところが……である。(私の記憶に間違いが無ければ、ここが重要!!)

地球に届く太陽光の強さと波長との関係を見ると、緑色の光に強さのピークがあるらしい。最強の緑色光を使えば、例え曇天の日でも光合成が可能となるんじゃないか? その方が明らかに効率的ではないか。

光のエネルギーを利用して光合成を行う植物が、最も強い光を吸収しないで捨てる。そういうメカニズムになっている植物たちって、一体なんでやねん!?!

なんでそんな非効率的で訳のわからん選択をするのだろう?

単に、神様の御戯れかな???

数億年も前に植物が誕生してから、ずっとずっと緑で来たのだろう。だから、緑であることが何か非常に重要な合理性を持っているはず。

そして植物たちが選択して来たその合理性は、強いエネルギーの光を捨てて相対的に低いエネルギー利用を選択することの意味を納得させるだけの説得力を持っているはずである。(どなたか、知っている人がいたら是非教えて下さい!!!)

植物たちと付き合いはじめてから35年もの時間が流れてしまいました。

その間、ほとんど毎日目にしている彼らが「緑色」であることに対し、ほとんど意識をしなかった。ところがある日、ふと気になり出すと多いに気になり、その疑問を捨てられなくなってしまう。

35年も見続けて来ながら、そんな基本的なことすら解っていなかったのだなあ〜と、かなり凹んでいます。彼らが緑である理由はいまだに解りませんが、自分の無知さ加減は身にしみて解りました。

願わくば、「なあ〜るほど!!!」と納得してから神に召されたいと思います。



このコラムを書かれた方は、植物と35年も付き合ってきた方だということのようですが、それから4年経っていますから、お元気なら、植物と付き合って 40年ということになりそうです。

この方の持つ疑問とは、「太陽の光と色の関係」と「色はどうして、その色に見えるか」ということから考えてくと、わかりやすいと思います。


色の発生の原理

太陽光がその物質に当たったときに、光は、

・反射する光
・吸収された光


とにわかれます。

light-color.jpg
生物史から、自然の摂理を読み解く


上の図にありますように、「目で見える色は、反射した太陽光」ということで、実は、私たちは物質の色を見ているのではなく、

「反射した光が目に入ったものを脳で感じているだけ」

だということになります。

たとえば、植物なら、その葉が緑色に見えるということは、植物が緑の光を「吸収しないで反射している」から緑に見えていることになるという理解でいいのではないかと思われます。

ところで、「見る」ことに関して、さらに言いますと、反射した光は意識しなくともこちらに向かってくるのですから、実は、

「物体を見ているというより、反射した光(電磁波)を脳が感じているだけ」

とも言えます。

これが「見る」という行為の実相ですが、さらに言いますと、これはちょっと別の話になってしまいますが、赤とか緑とか白とか様々な「色は存在する」と私たちは何となく思っていますが、実は、色は存在しません。

「どうしてその色をその色だと人間は感じるのか」は、これもまた永遠の謎

なのです。

下の図は色の分布で、図の下に「電波」とか「マイクロ波」とかが書かれてありますが、つまり、私たちは電波とかマイクロ波とかいう「波長に色を感じている」わけです。波長に色などはついているわけもないのに、私たちはそれを「色」と認識します。

光のスペクトル
spectrum.gif
光とは


電波にもマイクロ波にも赤外線にも紫外線にもX線にも当然、色はついていません。
しかし、それらの波長を私たちは「色」と感じている。

過去記事の、

…数々のシンクロの中で、この世の存在は「音そのもの」であるかもしれないことに確信を持てそうな春の夜
 2015年03月22日

など、この春くらいから私は、「形は音(周波数)から作られているのではないか」と思い始めていることについて何度か記したことがありますが、色に関しては、上記のように、曖昧なことではなく、「本当に存在しない」のです。

単なる波長をなぜ人間が「色」として感じるのかは、永遠の謎とされています。

しかしまあ、このことは今回のこととは違う問題ですので、「この世は、色も形も存在しない」ということについては、置いておきます。

さて、「存在している色」としての緑の話に戻ります。

上の図の「色のスペクトル」を見てみると、真ん中に緑色があることがわかると思います。
つまり、緑の光は「強い光」なのです。

先ほどの「日本技術士会 北陸本部」のコラムの中に、

地球に届く太陽光の強さと波長との関係を見ると、緑色の光に強さのピークがある

という下りがありましたが、太陽光の中で最も強い緑の光を、植物は「吸収していない」ことになるのです。

ここから考えますと、光合成で生きる植物にとって、自分の体が緑色であるということは、非常にエネルギー効率の悪いことになっているのです。緑色の光は強いものですので、これを吸収するほうが良いはずです。

そして、体の色としては「黒」がベストです。

しかし、植物はそれを選ばないで、最も非効率で不適切とさえいえる緑色で生きている。





エネルギーを与えるために

ここまで書いたことは、簡単に書きますと、

光で生きる植物が効率よく生きるためには、緑色ではないい方がいいのに、現実は植物はほぼすべてが緑

ということで、これは一種の永遠の謎とされています。

ちなみに、「人間の血はどうして赤いのか」も同じように謎といえば謎です。

面白いのは、色には「反対色(補色)」という概念がありまして、互いの色を引き立て合う効果があります。

反対色は、下の色相環といわれる図で「円の反対に位置するのが反対色」で、その色同士がお互いの色を引き立て合います。

color_wheel.gif
補色 - Wikipedia

これを見ますと、「赤の反対にあるのは緑」であることがおわかりかと思います。

人間の血の色である赤は、植物の色である緑を引き立て、植物の緑は人間の血の赤を引き立てるという構図になっているのでした。

話を戻しますが、地球の植物の多くが「光で生きている」のに、その生存のために最も効率のいいはずの緑の光を「拒絶する色」である緑であることを植物は選んだということになります。

エネルギー生成の観点からは、本来は「植物の色は黒に近いほうが理想的」です。

なぜ、植物は黒にならなかったのか。

植物という存在は完全なもので、進化上の間違いなどということがその歴史の中で起きるわけがない。

効率だけ考えるのなら、植物は緑色など選ばなかったはずです。
なので、「効率」以上の理由がそこにあるはずです。

いわゆる進化論というものがあるのだとすれば(そういうものはないですが、仮にということで)、植物の多くは、黒っぽくなったはずです。

その方向で進化していけば、森や草原に行くと下のような風景の地球になっていたということですね。

植物が光合成に対して効率のいい色だった場合の世界
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きわめて味気ない風景となってしまいますが、この方が緑よりはるかに効率的に光合成がおこなえるだけではなく、曇りの日が続いても、弱い光しか入らない場所でも「黒いボディの植物」なら、効率的に体内に光を取り込めるので、植物自体の生存には優れているはずです。

しかし、そうはなりませんでした。

多くの地球の森などの色と光景は下のようになっています。

現実の植物の色
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DR.ODD


私たちの多くは、このような緑を見て「美しい」と思えますが、なぜ、このような美しい光景を保って、あるいは「自らの生存条件を弱くまでして」植物は緑色の存在として長い年月を地球で生きてきたのか。

もっとも光合成の効率の悪い色を選んでまで、植物が緑であり続ける理由は何なのか。

前回の植物での発電の記事でご紹介したものの中に下の文章があります。
実はこの部分を読んで、今回のことに気づいたのでした。


プラント- e 社は、植物が光合成をする際に、その 70パーセントが使われていないことを発見した。

根を通って排出されるその廃棄物は C6H12O6 (グルコース)の化学構造を持っており、それが微生物によって分解され、二酸化炭素(CO 2)、プロトン(H+)と電子(e - )になる。



なーんと、植物は、光合成において 70パーセントもの「無駄」を作り出していた。

ただでさえ効率の悪い「緑色」の体をしている上に、70パーセントもの無駄を出しているなんてのは、やはり植物は不完全なものだった?

しかし、植物の意志はどうであれ、これで助かる存在があります


それは人間です。


植物が無駄にした廃棄物があるからこそ、人間はそこから「エネルギー(電気)」を取り出すことができます。

電気はこの地球上で人間だけが使うものです。

その源となるエネルギーが、植物という人間の身近で自然発生している。

しかも「あえて植物が無駄な光合成の効率をとる」ことによって、初めてそこに電気というエネルギーが発生する条件が生まれている。

そして、植物が、光合成を「効率悪く」おこなえばおこなうほど、電気転換の効率は良くなる。「効率悪い光合成のため」に最も適した色は何か?

それはおそらく「緑色」です。

そして、その理由が「植物は人間と共生するために存在しているから」だと思うに至ったのです。

先に結論的なことを書きますと、植物と人間の関係は、エネルギー生成の合理的な理由を含めて、

人間のいる場所の植物は緑色でなければいけないという原則がある

というもので、そして、あとは

人間は植物の緑を美しいものだと感じるという原則がある

こともそれと同じことだと確信しました。

この原理は先ほど書きました「なぜ人間が色を感じるのかはいまだにわかっていない」ことと、色の正体が「音(波長)」であることと関係していると思われますが、とりあえずは、上のふたつの「原則」が地球には存在しているという「理屈のない断定」でも構わないと思います。




植物と人間の一体性

植物の緑色という色は効率の悪い光合成のためには最適で、そして、「歴史の中で、いつかは人間がそこからエネルギーをとることができる」ことを植物か、あるいは「誰か」がその時を待っていた

先ほども書きましたが「色は基本的に単なる波長」で、そこに色はありません。しかし、私たち人間は、原初から「その波長の電磁波を、それぞれの色だと感じるように」作られている。

それらに加えて、様々な物体にある「色」で様々な感情を持つことができるようになっている。

空の色、雲の色、太陽の色、土の色、植物の色……。

私たちは植物の葉の色を緑色だと感じていますが、しかし、先ほど書きましたように、そこには何もないかもしれないのですが、そのことは別としても、ほとんどの人は「緑の植物がたくさんある光景を美しい」と思うはずです。

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magic4walls


特に、都市部などに住んでいて、緑と離れた生活をしていればいるほど、この傾向は強いような気がします。

「なぜ緑が多い光景を美しく感じるのか」というのも根源的な謎としか言いようがないですが、「これが地球の原則」だと思いこんでしまえば、それで十分なのだと思います。

結局、植物が緑である理由は、植物サイドのことだけを考えていては、その答えは出ないものだったということに気づいたわけで、

「植物と人間の関係」という括りを考える中で始めてわかる

のだと思います。

それが間違いであっても構いません。

地球のすべての生物(細菌と、非生物のウイルスを含む)や鉱物が人間の味方であることは間違いないですが、今回書いていることを考えると、植物はちがうと思うようになりました。

植物は、味方とか仲間とか、そういうものではなく、

「植物と人間は一体のもの」

だと確信できます。

水と空気と気温がある地球という大前提があれば、実は、人間は植物だけを生活の糧(食料、建物、道具、衣服、電気・・・)として生きていけることに気づきます。

もっと言えば、「植物由来以外のものは、実は人間の生活では必要ないのではないか」という気さえします。

まあ、鉱物とかはちょっと必要ですかね。
石とか金とか鉄とか。

動物や鳥や魚や爬虫類や両生類や虫や微生物などの生き物やウイルスたちは、「私たち」の環境を作ってくれているとても重要な存在です。

そして、この「私たち」というのは「植物と人間のこと」だと思います。

それに加えて、少し前に書いていた「健康関連」の記事などを思い出しますと、植物は私たち人間の「心身の健康」とも関連している気もします。食べたり薬にする方の話ではなく、植物の存在そのものの話としてです。




植物とリラックスと白血球の状態の関係

多くの人は、緑の自然を見たり、それにふれるときに、リラックスしたり、美しいと感じたりすると思います。緑を見て怒り出したり恐怖したりする人はそんなにはいないはずです。そして、植物でリラックスを感じるならば、植物とふれる時間が多ければ多いほど、そのリラックス状態は長時間に及ぶといえると思います。

これほど簡単に人の心をリラックスさせるものは(見るだけや、そこにいるだけで、のような)、他にあまりないような気がするのですが、過去記事の、

「ガン発生のメカニズムも、また人間に与えられた優れた機能」だということをほんの少しだけ書かせていただきます
 2015年05月12日

などで、新潟大学名誉教授の安保徹さんという方を取り上げたことがあります。免疫学の権威である安保さんは、白血球中の顆粒球とリンパ球のバランスが崩れることで病気が発生するという説を確立しています。ガンもです。

安保さんの主張から考えますと、基本的には、緊張や感情が高ぶるような状態ばかりだと、白血球のバランスが崩れて病気が起きやすくなる(リラックスし過ぎるのも同様です)といってもいいかもしれません。これは、交感神経と副交感神経の働きとも関係することですが、詳しくは 日本自律神経免疫治療研究会のウェブサイトなどをご参照下さい。

緊張状態が過度に進むと、心だけではなく、実際に体の病気を引き起こすといってもいいのかもしれません。

そういう意味では、簡単に確実にリラックスできる「緑の中で過ごしたり、植物にふれること」そのものが健康法だと考えることに、それほど違和感はないように思います。

そして、実は「植物の健康」も人間が改善させてあげることができるのです。

過去記事の…これは自分で書いた記事の中で、最も自分の生活に役立っているもののひとつですが、

驚異の植物の防衛力アップ法が米国の生物学者の研究により判明:その方法は「さわること」
 2012年04月23日

という記事があります。

これは、米国ライス大学の生物学者たちが、植物が人間にさわられることで、「ジャスモン酸エステル」という植物のホルモンを多く分泌することを突き止め、そして、このジャスモン酸エステルこそが、植物を「強く美しくする」のです。

つまりは、

「植物は毎日さわるだけで強くなる」

のです。

下は「右」が毎日さわり続けた植物(ペンペン草)ですが、姿形が乱れることなく、茎も曲がらず、まっすぐ育っていることがわかります。また、ジャスモン酸エステルは虫の嫌う成分ですので、「さわればさわるほど、虫がつきにくくなる」とも言えます。

さわらない植物(左)と毎日さわり続けた植物(右)
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・Rice University


左のさわっていない方は、背丈こそ伸びていますが、茎も弱そうで、虫や病気にも弱いそうです。

私はこれをこの記事を書いた3年前からまめにおこなっていますが、今年は植物にアブラムシが、ほぼまったくつかない状態で春を乗り切りました。

人間が植物にふれると心身共に健康になるのと同じように、植物のほうにも人間にふれられると「健康になる」プログラムがあるのでした。

「植物は人間にふれられるために作られた」

とも言えるかもしれません。

このあたりにも植物と人間の「一体」を感じます。

人間が地球に存在する限り、植物は存在し続けるでしょうし、逆のこともいえるでしょう。

人間のいないところでは、おそらく「緑の」植物は育たない。

このことから、古代など、まだ人間が地球上にいない時に植物が繁栄していた時があるということに、やや違和感を感じてきました。

もしかすると、すべての時代において「人間」がいたのかもしれないと思えて仕方ないです。

それはともかく、植物は、発電法を含めた「エネルギーの人間との共有」をスムーズに行う意味で、緑「でなければならなかった」ということにもなり、また、植物の緑色は、人間が食べてその体を維持するすべての栄養素が含まれている意味も含むはずです。

植物の「人間との共存の中での完全性」を示す色が緑だったのでした。
植物が緑色以外であることは考えられないことなのです。

そして、今回のことで思ったのは、人間が植物と「完全に共生・共存」できた時に、地球の人間の生活システムが完成するのだという確信でした。



  

2015年07月04日



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植物を育てる過程の中で発電をおこなうという完全な再生可能なエネルギー生成



植物というのは、この地球上にある存在の中で、最も人間の生活と生命をサポートしてくれるもののひとつだと思います。

そして、「微生物」。

これも人間の生活を非常に大きく支えているもので、アメリカの著名な微生物学者カール・ウーズ博士は、

「この地球上から、多細胞生物が消滅しても、微生物たちはほとんど影響を受けないだろうが、もし地球上から微生物の生態系が消滅すれば、多細胞生物は絶滅することは明らかだ」

と言っていたことが Daily Galaxy で紹介されていました。

植物さえも、微生物がいなければ、おそらくは生きていけないはずです。

そして、その微生物も植物も含めて、地球上のほぼすべての生命に必要なものが「水」です。
水がなければ、現在のすべてに近い地球の生命が生き残ることはないと思われます。

この世の環境や生命がどのように整ってきたのかの現在の科学的な説はともかく、

完全なバランスの上にこの地球の生命体系は保たれていて、そして、人間がそこに生きている

ということになっているのがこの地球です。

その根幹を支える、

・水
・微生物
・植物


のうちの植物が人間生活に貢献してくれていることは、食べ物としての植物、建造物や道具などに使う植物、燃料に使われる植物、観賞に使われる植物、薬として使われる植物など、さまざまありますが、植物が満を持して

「俺の歴史にまた1ページ」

と述べる感じで登場したのが、「発電」なのでした。

しかも、この発電法は、植物も微生物も「生きたまま」でおこなう、あるいは「自然の状態のまま」での発電方法でもあります。

というか、植物も微生物も生きていないと発電できないのです。




完全自給自足への道すじも見えてくるような

これを知ったのは、先日、お知り合いから下の記事を教えてもらったことがキッカケでした。

そして、「ああ、こんなことがおこなわれているのか」と、やや感嘆したのです。


オランダでは、植物から電力を生み出している!?まったく新しい自然エネルギーに注目
TABI LABO

将来的には水田を発電所と呼ぶようになるのかもしれません。

オランダの企業「Plant-e」が開発したのは、植物を植えた湿地から電力を“収穫”する技術。

まさに、天然のソーラーパワーシステムとも言えるものです。植物から街灯やWi-Fiスポットの電気をまかなったり、スマホなどの電子機器を充電できるようにもなります。

このプロジェクトは「Starry Sky」とも呼ばれ、2014年の11月にアムステルダムで始まりました。すでに300以上のLED街灯に光を灯すことに成功しています。

光合成によって生成される有機物の中には、植物の成長を促す成分が含まれています。しかし、そのほとんどは使用されずに根っこから土へと排泄されてしまうのだとか。そのため、根っこの周りには、その有機物を食べようと自然と微生物が集まりますが、そこにヒントが隠されているようです。

微生物が有機物を消費する際には、電子が放出されているのだそう。そのため、そこに電極を設置することで電子を収集、電力を生み出す仕組みです。



今回、このことについて、もう少し具体的に説明しているインドネシアのメディア記事を見つけましたので、ご紹介したいと思います。

この発電のイメージとしては下のようなものです。

plant-e6.gif
Plant-e Technology


上の記事のタイトルには「植物から電力を生み出している」とありますが、

> 微生物が有機物を消費する際には、電子が放出されている

というように、実際に電力を作っているのは微生物なのですが、その電子を放出するためには、植物が必要ということになるようです。

これのすごいところは、「植物が生育しているそのままの環境でOK」ということです。

これまでにも、微生物を使った微生物燃料というものはありましたし、あるいは、過去記事、

宇宙のバクテリアを用いての強力な発電実験に成功した英国の研究チーム
 2012年02月29日

というような、微生物を用いる発電方法は存在していましたが、その多くが「自然の環境ではない」もので、しかも発電量も強いとは言えません。

この植物を利用した方法では、こちらによれば、

ノートパソコン1台を稼働させるために 15平方メートルの栽培面積で大丈夫

とあります。

15平方メートルというのは、9畳くらいですから、9畳の部屋分の水田で、ノートパソコン1台をまかなえる電力が発電できるなら、相当実用的ではないでしょうか。

そして、100平方メートルの面積(33坪くらい)があると、オランダでの一般的な家庭の電気量をまかなえる発電量になるそうです。

下は、実際にオランダで外灯に植物発電が使われている例です。

plant-e-02.jpg
Electricity from living plants


屋内での鉢植えなどでも発電できるようです。

下は、観葉植物で日本でもよく見られるグズマニアという鉢植えで発電している様子です。

ちなみに、この女性が、プラント - e 社の、CEO (最高経営責任者)のマージョレイン・ヘルダーさんという方です。

plant-guzmania.jpg
Wageningenur

何をしているかわかりづらいかもしれないですが、電気で回る地球の模型を回しているようです。ちなみに、これは、Plant - e 社内の様子だと思われます。

plant-rt.gif
YouTube


YouTube を見ますと、社内中の観葉植物に電極をつけていますので、あらゆる植物で発電しているようです。

屋内でも、ある程度、規模を大きくすれば、室内用のランプ( LED )での照明を照らせる程度の発電にはなるようです。

plant-light.jpg
Gelderlander


今回、この植物と微生物を利用した発電について紹介している記事のひとつをご紹介しようと思いますが、必要なものや、具体的な方法や費用については、よくわかりません。

これに関しては、「この知見が広まるかどうか」ということが、このテクノロジーが広がるかどうかの鍵となるとしか言いようがないかもしれません。

日本などでも、このテクノロジーが使えるようになれば、たとえば、農業をやりながら自給自足を目指している方などの生活スタイルにも影響する可能性はあるかもしれません。

大きな土地ではなくても、LED 電気と、最低限の通信手段(携帯など)と、情報ツール(ノートパソコンやタブレットなど)程度なら、30平米程度の水田か畑(ただし水がたっぶりあるものでなければいけないようです)があれば、フルでまかなえそうです。

さきほど書きましたように、100平米以上の水田なら、現在の普通の家庭で使われる程度の電気量を作り出すことができるようです。




植物は人間が気づくのを待っていた

私は今回のことで、とても考えたことというか、感動したこととしては、まずは、

「この地球で電気を必要としているのは、おそらく人間だけ」

だということです。

どういうことかというと、植物も微生物も電力なんか要らないわけで、それなら、植物は、微生物とのコラボレーションで「発電のメカニズム」なんてものをもつ必要はないわけですよ。

そんなものは地球で、人間以外は基本的に誰も必要としていないのです。


しかし、人間はそれを必要としている。


人間だけが電気を必要としていて、そして、電気を利用できるのも人間だけだと思います。
その電気を作り出すメカニズムを植物と微生物が持っていた・・・。

ちょっと偶然とは思えないですね。

そして、すごいのは、この発電法は、

「緑を増やせば増やすほど発電量が増え、また同時に、淡水の微生物の生態系も豊富になる」

ということです。

さらに、個人的に、すごいと思ったのは、このプラント-e 社は、「植物が光合成で、70パーセントほどを使わずに根から排出させていた」ということを発見したことにより、この発明が完成したらしいのですが、

「どうして 70パーセントも捨てる?」

と思ったのです。

完ぺきな作りであるはずの植物がどうして、そんな無駄なことを?

そして、この植物たちが「あえて」根から捨てている未使用分の部分が、細菌によって分解され、それが発電の源に至っている。

・・・これはつまり、「無駄」ではないですね。植物は、自分から排出される廃棄物が発電に使えることが「人間に発見されるのを待っていた」ように思えます。

19世紀のセルビアの偉大な予言者ミタール・タラビッチの予言を思い出します。

ミタール・タラビッチの予言より

人々は畑で働くのではなく、正しい場所や間違った場所などあらゆる場所を掘削する。だが、本物のエネルギー源は自らの周囲にある。エネルギー源は「見えないの?あなたの周囲にある。私をとって」などと言うことはできない。長い年月がたってからやっと人間はこのエネルギー源の存在を思い出し、地中に多くの穴を開けたことがいかに馬鹿げていたのか後悔するようになる。(ヤスの備忘録より)


ここから、プラント-e 社の活動をご紹介した記事です。

なお、このプロジェクトを開発したプラント-e 社は、CEOが、先ほどのマージョレイン・ヘルダーさんという女性で、 1983年生まれというので、まだ 32歳ですね。CMO (最高マーケティング責任者)も、ナンダ・シュラマさんという女性で、最高上層部は女性が占めています。

ceo-cmo.jpg

▲ 左から、マージョレイン・ヘルダー CEO と、ナンダ・シュラマ CMO。Plant-e




Plant-e: Menanam Tumbuhan, Memanen Listrik


プラント-e 社:植物を育てながら、電力を収穫する


植物が酸素を作り出すことができるのは広く知られている。

では、植物は電気を作り出すことができるだろうか?

そんなことは不可能に思えるかもしれないが、オランダに本社を置くプラント- e 社によって、それができることが証明されているのだ。

プラント- e 社は、植物を傷つけることも枯らすこともなく、「生きている植物から電気を収穫する」ことに成功した。

この、電気を作り出すために、自然の微生物を利用した画期的な方法は、「植物利用型微生物燃料電池( Plant-MFC )」と呼ばれる。

植物が光合成を行うと根から様々な有機化合物を生産するが、その有機化合物が微生物により無機物に分解される。

そのときに発生する余剰電子により発電が行われることを応用したものだ。

プラント- e 社は、植物が光合成をする際に、その 70パーセントが使われていないことを発見した。

根を通って排出されるその廃棄物は C6H12O6 (グルコース)の化学構造を持っており、それが微生物によって分解され、二酸化炭素(CO 2)、プロトン(H+)と電子(e - )になる。

この自然のプロセスを利用して、プラント- e 社はこれを電気エネルギーに変換できたのだ。
この電力は実際の電子機器に使うことができる。

現在、この Plant-MFC では、1平方メートル 0.4ワットの電気を発電させることができる。この発電量は、同じサイズのバイオガス発酵プロセスから発生した電気を超えている。

今後、本プロダクトは、1平方メートルあたり 3.2ワットの電気を作ることができるようになる。

ノートパソコンを駆動させるには、わずか 15平方メートルの植物の栽培面積があればいいということになる。

100平方メートルの土地の面積を持っている場合なら、発電量は年間 2,800キロワットに達する。この量は、オランダの家庭や他のヨーロッパ諸国の基本的な電力需要を満たすことができる量だ。

現在、プラント - e 社は、泥地や濡れた地面での活用に焦点を当てている。この条件が満たされれば、都市部では、建物の屋上などで発電ができる上に、都市部での生物の多様性を増加させることにも役に立つだろう。

この発電法は、さまざまな活用が考えられる。

暖かい地域では、稲作に応用できる。また、湿原、川のデルタ地域、マングローブ林や泥炭地などの湿地帯に位置する場所でも、効率よく発電ができる。

経済的な側面については、これらのプロダクトは、将来的には石油エネルギー、太陽電池パネルや風車からの電力より安くて貴重なものとなるだろう。

これは、再生可能で持続可能なエネルギー生成というだけではなく、「すべての人が利用可能」なものだ。

また、この方法はどのような遠隔地でも利用できるので、世界に 12億人以上いると思われる電気のない生活をしている人々の助けにもなる可能性がある。





(訳者注)ここまでです。

日本でも、どなたかこのビジネスやってくれないかなあ。

自給自足指向なども高まっている日本では、ビジネスとして成功すると思いますので、お金目的で全然いいですので、どなたか、日本にも紹介してくれると嬉しいですね。



  

2015年07月03日



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wired-bird.jpg
WIRED







 


続く同種類だけの大量死の中で

今年は1月の、

動物の大量死のリンクから思う現在の「異常の真実」から改めて松果体の意味を考えている時…
 2015年01月21日

という記事や、4月の、

途方もない「大量死の時代」の進行が加速していた : 2015年最初の4ヶ月だけで270件…
 2015年04月30日

などの記事以来、何度か動物の大量死について書いたりしていました。

正確な比較をしたわけではあませんが、とにかく、今年はここ数年の中でも突出して大量死報道が多い年のように思えます。

そして、

…地球では今日も粛々と「1種類ずつの大量死」が続いている
 2015年05月28日

という記事では、「ひとつの種類の大量死が多い」ことなどにもふれています。

たとえば、魚などの大量死の場合、海が汚染されていたり、海水温の異常や何らかの海の異常があるのならば、その海域にすむ、もっと多くの種類の海洋生物が影響を受けるような気がするのですが、1種類だけの魚が大量死する。

あるいは海だけではなく、1種類の鳥、ミツバチ、コウモリ、ヒトデ、アシカ、クラゲ、カメ、クジラ、だけが大量死する。

ウイルスなどの病気であるならば、確かに1種類だけの大量死はあり得るのかもしれませんが、こちらの記事でご紹介しました、アメリカ西海岸の1種類のウミドリの大量死(原因不明の餓死)や、ハクガンだけの大量死(原因不明)、チリのミズナギドリ1種類の大量死(原因不明)など、今ひとつ理解しにくいものが多いです。



「死」とは何?

そういえば、自称宇宙人の方の言葉が書かれてあるとされている『プレアデス+地球をひらく鍵』という本の中に、以下のような下りがあったことを思い出しました。


『プレアデス+地球をひらく鍵』より

地球が変化していくにつれて、地球に住む動物の多くはこの惑星を離れていくことになるでしょう。

人が苦しみを体験していくなかで、地球上の波動はきわめて異なったものとなるでしょう。すべての人々の内部に集合的な苦しみが溜まっており、あなた方を解毒するには、これらの苦しみを表面に出さなければなりません。



これは「地球が変化していくにつれて、地球に住む動物の多くはこの惑星を離れていくことになるでしょう」という部分と前後のつながりがよくわからなく(唐突にこのフレーズが現れます)、長く抜粋しても意味がなさそうなので、短く抜粋していますが、理由はわからないながら、

> 地球が変化していくにつれて、地球に住む動物の多くはこの惑星を離れていくことになるでしょう。

と、この方は言っています。

そして、この「地球の変化」というのは、つまり「人間の変化」ということと密接に関係しているもののようですが、そうだとするのなら、今、私たち人間と地球は共に変化しているという時なのかもしれません。

だったら、地球の動物はもっともっと、どんどん大量死した方がいいということ?

いや、これはふざけて書いているわけでもなく、大量死というのは文字通り大量の「死」のわけですが、「死とは何か」ということについて、人生の中できちんと考えずに生きてきたことにふと気づいたのです。

このことが私たちが江戸の日本人のようになれない最大のポイントだとも思うのですが、それはともかく、これまで思考のローテーションとして、

「大量死は悲劇」という側面しか見てこなかった自分

に気づきます。

この「大量死は悲劇」という考え方は、「自分で考え出したもの」というより、小さな頃からの教育などの価値観の中で育ったもので、あくまで与えられた価値観であり、自分で考えて考えて出した結論ではないはずです。

大量死が良いとか悪いとかいう以前に、「大量死の価値観について、自分でちゃんと考えたことがなかった」ということが自分の問題であることに気づいたといってもいいです。

こういうような「自分で考えたこともないのに、その価値観を当然だと思っている」ことは、私などの場合、他にもたくさんありそうです。

ところで、先ほどの自称宇宙人の文章の続きには、「人間の死」について書かれてあります。

そこを抜粋します。

自称プレアデス人は、死に悪い観念を持っていないようです。


『プレアデス+地球をひらく鍵』より

地球の変化は、死と同じことであると考えられています。地球に住むあなた方は死についてほとんど何も知りません。これから訪れるさまざまな転換は、死について学ぶ素晴らしい機会を提供してくれるでしょう。

人が死ぬと、何かよくないことが起きたと考える人もいます。何かが失敗したとか、何か間違ったことが起きてしまったように見えるわけです。

私たちには、これとはまったく正反対に見えます。

地球を離れていく人たちが、これまでもっていなかった、新しいものの見方を身につけて去っていくのがわかるからです。

彼らがそのような贈り物をもって地球を去ることで、はっきりした目的意識を放射することによって、あなた方の多くが心を開き、あなたが何の目的でこの地球にきているのかを悟らせているのです。



本ではさらに長く「死」について語っています。

この「死に対して特別の悪感情を抱かない」というあたりは、やや意味は違うかもしれないですが、

日本式ファイト・クラブ:この世こそ極楽であることに感謝し…
 2015年06月29日

などでも抜粋しました、江戸・明治期の日本人の死生観の形成の根幹にも通じる可能性のあるものなのかもしれません。

おそらくは、江戸・明治までの日本人は現在ほど唯物論的(宇宙のすべての存在と現象の根源を「物質で説明する」世界観)ではなかったのだと思います。

「死の概念」を肯定的に受け入れるには、唯物論的な考え方をしている限り、何千年経っても、それを獲得することはできないでしょうけれど、「生命の本質(おそらく物資として存在しない)」だとか、「物質の正体(おそらく物質は存在しない)」だとかを考えに考える先に、やっと、「死の概念」さえも肯定的に受け入れることができるのかもしれません。

まあ、実際よくわからないことですけれども。

私自身、「この世には何も存在しない」ということを現実的に、あるいは客観的に理解することはできませんが、しかし、そちらが真理であることは、ほとんど明白であろうという確信があります。

中村天風さんの言葉の、


tenpu-face-s1.jpg

人間の生命の本体というものは、形ある肉体ではない。ちょっと考えると、形のある肉体であるかのごとく見えるが、実は形の見えない気の中にあるのである。


などを読み返しましても、天風さんのおっしゃるように「形の見えない気の中に生命がある」のだとしたら、「形の見えない」ものが死ぬことはあり得ない

一方で、肉体は確かに死を迎えるかもしれないですが、物質不滅の法則(質量保存の法則)から考えると、肉体も永遠に循環していると想像できます。

こう考えると、「終わり」としてのイメージが強い「死」という概念には、実はどこにも「終わり」という言葉をつける部分がない気もしてきます。

死は何を終わりに導くものなのか。

あるいは、終わりとは関係ないのか。

このあたりがわかれば、「死の概念」に対して、否定的な側面ばかりではない観念を持つことができるのかもしれません。

まあ、先ほどの自称宇宙人の方は、「これから訪れるさまざまな転換は、死について学ぶ素晴らしい機会を提供してくれるでしょう」と言ってくださっているわけで、これから、そういう機会にどんどん恵まれてくるのかもしれません。

それに伴って周囲では大量死がさらに増えるのかもしれないですが、粛々とその意味を考えるのも悪くない気がします。

今日は、アメリカのアイダホ州で起きた鳥の大量死について書こうと思っていたのですが、少し話がそれてしまいました。



鳥が消える日

米国アイダホ州の南西部で、道路に沿って死亡した鳥が延々と広がっている光景が、YouTube にアップされていました。

idaho-birds-01.jpg
Strange! Dozens of Dead Birds in Southwest Idaho, 6-27-15


あまり気持ちのいいものではないかもしれませんが、下はその動画を短くしたものです。




アメリカでは、 2010年の大晦日から 2011年の新年にかけても、アーカンソー州で「空から雨あられと鳥が落ちてきた」という出来事がありました。

こちらの記事に、クリスチャン・サイエンス・モニターの報道を訳したものを載せたことがあります。


2011年1月4日の米国クリスチャン・サイエンス・モニターより

アーカンソーの新年は不気味な喧噪と共に始まった。

3,000羽にも及ぶブラックバード、ムクドリモドキ、ムクドリなどが、まるでヒッチコックの映画のように空から降り注いできたのだ。

アーカンソー州の鳥類学者カレン・ロー氏は以下のように述べる。

「今回の事件は地元の人々のトラウマになってしまっていいます。こんなことが大晦日に起きたこと、そして、あまりにも多くの人々が、鳥たちが空から落ちてくる光景を目撃してしまったんです。ショックを受けている人が多いです」。



こういう出来事があり、「 2011年はどういう年になるのだろう」などと思っていましたが、この 2011年は、アメリカよりも日本が大変なことになる年となってしまいました。

この 2010年から 2011年という年も、今年ほどではないですが、大量死報道の多い時でした。特に「鳥」関係が多かったです。

多くが原因不明でしたが、それらを多少まとめました、

鳥と魚の大量死をめぐる報道より(3) 世界に拡大する大量死と磁場変動説
 2011年01月06日

という記事の中で「各地で鳥が落下しているのは、磁場の異変が原因ではないか」というものをご紹介したことがありました。

その記事によりますと、鳥というのは、生きる上(移動する上)では、顔のいわゆる「目」はそれほど重要ではないようで、鳥は、

・くちばしの細胞で磁場を感知する
・光受容体細胞の中にあるたんぱく質(クリプトクロム)で磁場を「見て」いる


という二つの機能で、磁場と密接な関係を持っているのだそうです。

そして、鳥の移動はほぼ完全に磁場によってなされていると考えられます。

つまり、地球の磁場が正常な状態でなければ、鳥は地球上で移動しにくくなる(移動できなければ、鳥はおそらく生きていけません)ということが言えるのかもしれません。

さきほどのアイダホの鳥の大量死の原因はわからないですが、その現場では、「まだ生きてはいるけれど、飛び立つことも歩くこともができない鳥たち」が、多く見られます。

idaho-bird-002.jpg


鳥の命は「移動」と同義なのかもしれません。

磁場に生存をゆだねているのは鳥だけではなく、 WIRED の「鳥は量子もつれで磁場を見る」という記事には、

鳥類に限らず、一部の哺乳類や魚類、爬虫類、さらには甲殻類や昆虫も含む多くの生物は、地球の磁場の方向を感知して移動の手がかりとしている。

とありまして、地球上の多くの生き物たちが磁場を移動の目印としていることがわかります。

磁場に大きな変化があれば、あるいは「磁場が消えれば」(地球の磁極が反転する時にはその可能性があるそうです)、多くの動物たちは地球で生きることは難しくなるのかもしれません。

過去記事の、

急速に消えていく地球の磁場 : 地球の「磁場の反転」は今すぐにでも起きる可能性を示唆する欧州宇宙機関( ESA )の科学者の言葉
 2014年07月15日

など、たびたび書いたことがありますが、この数年、非常に急激な磁場の変化が起きていることが確認されています。

そして、下の図でわかるように、特に、南北アメリカ大陸の磁場が異常に弱くなっていることがわかります。

欧州宇宙機関のSWARM衛星が観測した2014年6月までの半年間の磁場の変化
magnetic-2014-jun3.gif
Livescience


また、地球の磁場そのものが、観測が開始されてからの130年間くらい、ずっと弱くなり続けています。

1880年から2000年までの地球の地磁気の強度の変化
mag-1880-2000b.gif


5月に、英国のガーディアンで、「ヨーロッパで、鳥類の3分の1が絶滅の脅威にさらされている」という内容の報道がありました。

europe-birds-threat.gif

▲ 2015年5月15日の英国ガーディアンより。


このガーディアンの記事によると、この調査は、ヨーロッパの都市部ではなく、地方、つまり「自然の多く残っている場所」でおこなわれたもので、その結果として、ヨーロッパでは、

・鳩は、1980年代から 90パーセントの減少
・ひばりとホオジロの数は、ほぼ半減
・10分の 1の野生ミツバチが絶滅
・鳥類の生息地の 77パーセントの環境が悪化
・ヨーロッパの鳥類の半分に危機
・ヨーロッパの動物の4分の3が危機


というようなことになっていて、これが自然が多く残る田舎での話ですので、都市部を含めて考えますと、なかなか厳しいことになっているのかもしれません。

同じような調査として、「日本のスズメの数が 50年で 10分の 1に激減」というものがありました。
過去記事にあります。

suzume-decline-2010.jpg
東京新聞


スズメの減少に関しては、ヨーロッパでも同じで、6年前のクレアなひとときの「スズメのこと。ナラが消滅していること」という記事で、2006年のインディペンデントの報道をご紹介したことがあり、それによれば、イギリスでも、過去 15年間でスズメの数が 90%減っているそうです。

そのインディペンデントの記事は約 10年前のものですから、今はどうなっているのか。

いろいろな動物が消滅していってはいますが、何となく、「鳥は目立って減っている」というようなことも言えるのかもしれません。

鳥がいなくなる世界・・・なんてのは寂しいですが、「地球の変化」という言葉と共に、この現象をもう少し眺め続けたいと思っています。

しかし、自分の周囲だけに関していえば、今年は鳥が多いです。

私の家の周囲は単なる住宅街ですが、なぜか鳥がとても多く、私の部屋も窓を開けると、一日中、鳥の声が聞こえます。

今年は特にツバメが多くて、周辺の建物でも、たくさんの巣でツバメの子どもたちが育っています。もうじき、電線の上でツバメの子どもたちが飛ぶ練習を始める姿を見られると思います。

そういう環境に住んでいますので、以前よりは鳥に思い入れはあるのですけどね。
仕方ないことは仕方ないのでしょうかね。



  

2015年07月02日



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ISの現在の領土形成状況と周辺国のリスク度MAP
isis-territory-map.gif

isis-territory-color.gif
Daily Mail






 


本題と全然関係ないですが、インドで大規模な範囲で「魚の雨」が降ったことが報じられていました。

6月末にインド・アーンドラ・プラデーシュ州クリシュナで空から降ってきた大量の魚



これがまた結構大きな魚であることに驚きますが、さすがはインド人で、降ってきた魚は「すべて市場で売り出された」そうです。今年は、4月にも、タイですさまじい量の魚が空から降ってきましたが、こちらの場合は市場には並ばなかったようです。

2015年4月のタイの魚の雨
thai-fish-rain.jpg
nairaland


こういう現象をファフロツキーズというらしいですが、不思議に感じるのは、インドの場合もタイの場合も、どちらも1種類の魚だけが降ってきているように見えることです。

とはいえ、不思議でも何でも現実に降ってきたものは納得するしかないという感じですかね。

そんなわけで、いろいろと降り続ける世界です。




ギリシャの「位置」

ギリシャ情勢が何となく緊迫しているような、していないような感じですが、ロイターの記事などを読むと、現地の緊迫した様子が伝わってきます。


ギリシャ国民に高まる「ドラクマ回帰」の機運
ロイター 2015.06.25

ギリシャの首都アテネにある昔ながらのカフェで、ミュージシャンのステリオス・マラガキスさん(55)は、大詰めを迎えている自国債務危機の解決策について、通貨ユーロを捨てることだと語った。

「ドラクマに戻るべきだ。ドラクマしかギリシャを救う道はない」と、グラスから酒を飲みながら話した。



> グラスから酒を飲みながら話した。

本当に緊迫しているのかどうか怪しい部分もありますが、まあ、楽しく生きて、あまり働かなくて、お酒をたくさん飲むギリシャ人気質・・・と、ギリシャに長く滞在した人などの多くは、そのように言いますので、ギリシャの多くの人が上のような気質であるのかもしれませんが、統計上はギリシャ人って結構働いているんですよ。

世界の労働時間 国別ランキング・推移(2012年)
greek-working-2012.gif
GLOBAL NOTE


日本人より働いている時間が長いです。

ちなみに、調査した国で最も労働時間が短いのは 41位のオランダで、1381時間と、1位のアラブ首長国連邦の半分以下でありました。

しかし、ギリシャがこの統計通りで、よく働いている人たちだとして、それでも、ギリシャに行った人は「あまり働かないギリシャの人々」の様子を目の当たりにしているということは、働いている人と、あまり働かない人との差がすごいのですかね。

まあ、いずれにしても、そのギリシャは、未来はどうなるかはわからないにしても、今はいろいろと厳しい状況にはあるようです。

それで思うのは、仮にですけれど、デフォルトや他の状況などで、ギリシャの国家運営に一時的であれ支障が出た場合、たとえば「国境警備」だとかを含めて、機能しない瞬間が出た場合など、冒頭の IS の勢力地図で

「ギリシャの位置」

というものを再確認しますと、ギリシャは、イスラム社会とヨーロッパ諸国を結ぶ「門」のような位置にあることがわかります。

そして、この図を見ますと、IS の勢力はまったく衰えていないことも知らされます。

冒頭の地図を文字で起こしますと、

ISISが領土を有する領域 シリア、イラク

同盟を形成して拡大 アフガニスタン、パキスタン、イラン、トルコ、サウジアラビア、イエメン、エジプト、リビア、アルジェリア、モロッコ、チュニジア、マリ

などとなっています。

また、トルコ、イラン、エジプト、サウジアラビア、イエメン、アフガニスタン、パキスタンなどで IS の攻撃が差し迫っているとされている場所があり、ヨーロッパでも、イギリス、イタリア、スペイン、フランスなどに IS の攻撃が差し迫っているとされている場所があるようです。

ギリシャが、アフリカからの難民の最大の受け口になっていることは、昨年の、

「死の海」と化している地中海に大量死の時代を思いながら…
 2014年09月16日

という記事で書いたことがあります。

islamic-greek-states2.gif

▲ 2014年8月23日のギリシャ defence net より。


こういうことに対応・管理するのが、各国の沿岸警備隊や、それに準ずる軍や警察だと思われるのですが、「国が破綻した直後」に、それらが機能するのかどうか。

もし、短い間でも、それらが機能しなくなった場合、ギリシャに怒濤のごとく難民が押し寄せると共に、「難民じゃない人たちもいろいろと混じって入国してくる可能性」はありそうです。

そうなると、何となく物騒にはなるかもしれないですね。

あと、 IS の勢力拡大で気になりますのは、事実上、IS の領土の一部があるイラクとシリアは、どちらも北緯33度線を有する国で、線を引きますと、

IS は 33度線に絡みつくように勢力を拡大しているように見える

ということです。

33-is.jpg


この「 33度線」という概念は、

フリーメイソンと高知に導かれて Google Earth 上で北緯 33度の旅をする
 2012年08月29日

という記事以来、たびたび取り上げることがありますが、北緯33度線上には(正確ではないですが)ケネディ大統領が暗殺されたダラス(米国)、アラブの春が始まったトリポリ(リビア)があったり、いろいろなことが起き続けているバクダッド(イラク)やダマスカス(シリア)があり、インドのカシミールや日本の長崎があったり、イスラエルのガリラヤ湖があったりする場所です。

近現代史で血なまぐさい事件や歴史が繰り返されているといえなくもない場所が、ズラリと並んでいるのが 33度線ともいえます。

33度線について取り上げた記事の一覧は、こちらのリンクにあります。




ヨーロッパ対……

それにしても、冒頭の地図の色分けを改めて見ますと、「ヨーロッパ vs 他の何らかの勢力」という図式が見えてくるようです。

最近は予言のたぐいから離れていましたが、思い出せば、


イスラム教徒はヨーロッパでまだ生き残っている人々にたいして化学兵器で戦争を仕掛ける。ヨーロッパはイスラム教徒によって支配される。


なんていうブルガリアの預言者ババ・バンガ( Baba Vanga / 1911年-1996年)のフレーズがあったり、自称宇宙人からのコンタクトを受けていると主張するビリー・マイヤーのエノック予言というものにも、


イスラムの狂信者が決起してヨーロッパの国々を戦争で蹂躙し、それによって一切が激しく揺り動かされるであろう。

西側ではすべてが破壊され、英国は打ち破られて、最も悲惨な状況に投げ込まれるであろう。イスラム狂信主義者とイスラム戦士は、長い年月にわたってその権力を維持するであろう。



というようなものもありました(ヤスの備忘録より)。

「戦争」というのも大変といえば大変ですが、たとえば、中村天風さんなどは、戦争であっても「恐いものなどではない」と何度も言っています。

恐いと思うから恐いと。

まあ確かに、どんなことでも最初から無条件に「恐い」と思うよりも、たとえば、イエス・キリストが道端の犬の死体を見て、「なんて美しい歯だろう」と述べたように、ネガティブ面からではないほうで考えるのもいいかもしれないですね。

この「恐いと思うから恐い」ということに関しては、私も努力中ですが、「自分の中から、恐怖の対象となるものをどんどんそぎ落としていく」という生活態度を少しでも獲得したいなあとは日々思っています。

最終的に「自分の死も恐くない」というようになれば、実は世の中がどうなっても、ネガティブなことはあまりなくなると思うのですよ。

死を恐怖しないということは、「自分は存在していない」という概念を獲得することに他ならないことですので、大変に難しいことでもあり、死ぬまでにそれが間に合うかどうか微妙ではあります。

それでも、「私たちは日本人なのだから」できないことではないと思っています。

少し前の、

日本式ファイト・クラブ:この世こそ極楽であることに感謝し、激動でも素晴らしい時代を死ぬまで生きる
 2015年06月29日

の最後に、『逝きし世の面影』の中にある、1850年代に、日本で教鞭を取ったオランダ人のカッテンディーケという海軍軍人が述べた、

日本人の死を恐れないことは別格である。
現世からあの世に移ることは、ごく平気に考えているようだ。


というのは、ほんの百数十年前の日本人の姿です。
できないわけがないです。

「自分が変われば世界が変わる」と言っていた野口晴哉さんの言葉を今一度思い出したいところです。

話が逸れましたが、そういえば、33度線といえば、最近、印象的な写真を見ました。




ガザに出現した「地獄の黙示録」

パレスチナ自治区のガザは、 33度線と近接している場所なんですが、先日、反イスラエルの活動家たち 20人がスウェーデンの船でガザの封鎖を突破しようと海を進んだところを、イスラエル海軍のヘリコプターに阻止されました。

その時の写真が下の光景でした。

活動家の船を阻止するイスラエル海軍のヘリ
apocalypse-now-iarael.jpg
Daily Mail

これを見た誰もが、

「地獄の黙示録やん」

と呟くところではないでしょうか。

映画『地獄の黙示録』の DVD パッケージ
apocalypse-now-dvd.jpg


1979年の映画『地獄の黙示録』は、1899年に発表された小説『闇の奥』をベースにして作られた映画で、ベトナム戦争の戦場をカオス的に描いたものです。

私は若い頃、落ち込んだ時や心が重い時によくビデオで観ていた映画です。

戦場でサーフィンがしたいがためにナパーム弾での村の焼き払いを要求する中佐、ワーグナーの「ワルキューレの騎行」をヘリコプターから大音量で流しながらの村への攻撃、戦場でのプレイガールによるショー・・・あまりにも混沌とした内容に、なぜか、むしろ観た後に心がすっきりとするのでした。

上のガザの光景は、これからの(地球を貫く) 33度線の様相が「地獄の黙示録」的光景となっていくことを示唆しているような気もしたりしなかったり。

そして、そこに関連した未来も否定的になるわけがないとも思います。