宙を飛ぶ粉になったわたし
今、夜中なんですが、夢を見ていたのですが、その夢が「夢なのにあまりにも難解で」困って目が覚めました。
まあ、一口で書けないのですが、なんかこう・・・自分が粉(小麦粉なんかの)というか、あるいは粒子というのか、そういう小さな粒となって動き始めるわけですが、その夢の中で、もろに「ペアの自分(2つの宇宙の間)を行き来」している。
で、自分は粉であるはずなのに、人間としての自分(ふだんの自分の姿)もそこに見ている。しかも、途中から粉だった自分の姿はなんか古代文字みたいな象形文字みたいな形になって飛んでいる。その象形文字みたいな具体的な形は覚えているんですが、それが何かわからない。「串に団子が三つくっついているみたいなのがグチャッとしたような文字みたいなもの」でした。
▲ こんな感じの文字になってペアの宇宙を行き来していた。これはネットから適当に拾ってきたもので、実際にはもっと干支の文字っぽかったですけれど。
文字になったことはともかく、粉の時点でも夢の中で自分で混乱しているわけですよ。
「何がなんだかわかんないな、これだと」と。
向こう側が見える鏡の鏡面・・・。つまり、向こう側もこちら側も映っている鏡の表面はほんの少し歪んでいるんですが、向こうに自分の姿がある。そして、それを見ている。悩んだのは、「粉としての自分はどことどこの間を移動してるんだ?」ということでした。
その時、起きる瞬間くらいに、ちょっと前にここに書いた、記事「 DNA はテレポーテーションしている」を思い出したんです。
以前、「ペアである自分」のどの部分だか忘れましたが、そこに書いた「自分の体内の中に宇宙があるのではないか」ということと、「 DNA の自由空間移動」という概念が組み合わさって思い浮かぴました。
体内の距離はせいぜい全部バラバラにして神経とかをのばしても何十キロとか、最大でも何千キロメートルくらいで済むと思いますが、それは光速なら、ほぼ瞬間移動できる距離。その距離の中で、もし仮に「DNA がテレポーテーションできる」というなら、なるほど、確かに宇宙のどこにでも生命は存在できるわけだ、と考えました。
もう、空から生命が降ってくる必要さえなくなる。
つまり、パンスペルミア説さえ必要のない世界となり、量子論だけで、宇宙すべてに生命が満ちている説明がついてしまう。
しかし、悩んだのはこのことではなく、
「それでは、あまりにも宇宙というのは悪魔的ではないのだろうか」
というような漠然とした不安でした。
この不安には特別に具体的な意味はないのです。
最近の遺伝子工学などもそうですが、最近の「科学と物理が人間と生命存在を機械のように細分化している」ということに不安を感じています。「悪い」ということではありません。方向の問題かもしれません。
人間を機械のように細分化やパーツ化できないことは、日本語を見てもわかります。
・こころ
・むね
・あたま
それぞれの含まれた日本語、「胸がときめく、心がいたむ、頭がいっばい、胸がいっぱい、胸がはずむ、心ない人」・・・。これを「心臓が痛む」とか「肺が弾む」といったら「大丈夫か?」ということになるし、「頭が」に「脳」を当てはめることができないことも明かです。現代医学より先にあった「言葉」のレベルでは、体は機能別にバラバラとすることとは違う意味を持っていると思っています。
言葉を逸脱した行為は何となく悪魔的にも感じます。
これも具体的な理由はないですが。
悪魔のあぶり出し
昨日、「ペアである自分」をこのブログには書かないと記して、昨日の時点では単に「理解されにくいものだから」というような感じで書いたのですが、しかし、よく考えれば、そういう話ではないことに気づきました。
もともと、 In Deep は単に気になるニュースをアップしているだけのブログですが、昨年(2010年)の後半くらいからは、無作為に選んでいるはずの話題やニュースに確かにひとつの方向性があるように感じてきていました。
それは「ニュースの中に見る悪魔」です。
最近の様々なシンボルのようなものもそのひとつですが、自分は気づかないうちに、引っ張り出してきている。このことがこのブログの最大の使命(まあ、使命感はないですが)なのではないだろうかと。
▲ 災害現場の空に浮かび上がる欠けた五芒星より。
悪魔のあぶり出し・・・。
こんなこと普通の人だとコワくてやりにくいと思うんですよ。
概念であろうと現実であろうと、悪魔なんてのは。
関わりたくないとか。
あるいは縁起が悪そうだとか。
でも、私は多分大丈夫なんです。
それは「ペアである自分」の4に書いたと思いますが、私の代名詞である「23」と関係します。
私ほど強く 23 という数字と共に生きてきた人間は、多分、あまりいないと思います。
意味がわからないと思いますが・・・( self23 というキーワードだけ提示しておきます)。
その「23」という意味なんですが、実は私はつい最近まで知らなかったんですが、これは明らかに「最大に不吉な数字」です。23エニグマ - Wikipedia などに不完全ながら少し記載されています。
そして、この「23」こそが「獣の数字」だということも最近知りました(つい1週間ほど前に知りました)。
これは少し前に知り合いのオカルトに詳しい人に教えてもらったんですが、古来からのオカルトでは
7が一つの世界だとすればそれが3つで21で、最後の22は実質上は0。つまり、この22(あるいは0)が本当の意味で次の世界との橋渡しなる数字だったのに、そこに「23」が現れた。
ということだそうです。
この23は、「バーチャルな橋渡しで、脳神経系を持つ、人間だけの時空」で、これは『人間にみえるが獣の数字』だそうです。
どんな数字よりも。
私は20歳くらいの頃から数十年(あるいは今でも)、それを知らずにこの数字と共に生きてきたわけです。
もし、仮にこの世に悪魔という存在があり得るとした場合に(私にもよくわからないのですが)、それと対峙するのに、どういう人のほうが合っているかは何となくわかります。
それは、「悪魔に近い人」です。
これは多分、私に適合しています。
そして、私はその「23」の名前の下での活動の中で、悪魔たちに大きな役割を与える芸術活動を行っていました。
これは、私が幼稚園の頃に、私の家の裏手にあった孤児院の子どもたちと遊んでいた頃からの私の希望というか、叶えられない理想でもあるのですが、「徹底した」平等というものを希求していたことと関係があります。
「悪は悪いと最初に決めない」ということです。
それが私の芸術活動の基本スタンスでした。
あるいは「善を善と決めない」ことも含まれます。
多分、悪魔とかの正体がわかって出てきても、その「悪を悪と決めない」、あるいは「善を善と決めない」という気持ちはあまり変わらないように思うんですが、今は「その正体を知りたい」ということで、そういうニュースを見つけて、あぶり出すのがこのブログの(今の)役割なのかなと気づいた次第です。
そういう意味では「ペアである自分」というエッセイは自分探しと宇宙の解明の思索にはなっても、悪魔探しとはあまり関係のないところではあります。いつかは結びつくかもしれないですが。
空の上の漠然とした存在との「戦争」
22歳の時、あまりにもパニック障害がひどく、死ぬか生きるか決心しなきゃなあと思った際に、「宇宙に反逆して生きてやる」と考えたんです。
私は今も昔も宗教を持っていませんし、そもそも前に書いた通り、学校ではまったく学ばなかったですから、高校などで習うような基本的な宗教の知識を持っていなかったので、「神が何か」とかは考えたこともなかったですが、二十代の頃に、「漠然」と宇宙全体が怪しいと感じるようになってきていました。
Wikipedia の「ギリシャ神話」の紀元前15世紀とかのずっと昔の口承形式にあったような、
> この地上世界の至る処に神々や精霊が存在し、オリュンポスの雪なす山々や天の彼方に偉大な神格が存在する
というのに少し似ているかもしれないですが、ここから「オリュンポス」というような知らない言葉や、「偉大な神格」というのを省くわけです。
> 宇宙全体になんかいる
という感じが近いと思っていました。
そして、私をパニック障害で苦しめているのはそいつらに違いないと確信して、「宇宙が死ぬかオレが死ぬか」の闘争を(まあもちろん自分で思っただけですが)開始したのが、その22歳の頃でした。
アパートの壁に紙を貼り、
「殺せるものなら殺してみやがれ」
と書き殴って、そこにナイフを壁に突き刺し、その日々は始まりました。
まあ、そうしたら次の日から楽しかったんですね(笑)。
そんなわけで、数十年、宇宙との闘争を続けていたわけですが、その中のひとつとして、思えば、自分のやっていた「宇宙への恨み」を綴り続けた芸術活動があったのだと思います。
ずいぶん前の漫画ですが、「気分はもう戦争」という、全世界が戦争に巻き込まれていく様子を描いた傑作長編がありますが、そこで、死の商人をやっている日本人ディーラーがマンハッタンのバーで娼婦の女性と知り合い、ひとときの恋の気分を味わうシーンがあります。
そこで、娼婦の娘さんが、「きっと神様が何とかしてくれる」みたいなことを言うわけですが(ちゃんと覚えてないですが)、それに対して、日本人は、
「神様はなんにも言わないよ。言わなくなって何年にもなる」
とつぶやきます。
この漫画を読んだのは高校生くらいの時ですから、30年くらい前かもしれないですが、この台詞はずっとそのまま感じていたことでした。
▲ その娼婦の人。ここに書いてある台詞は「この街が砂漠なのよ」。
そんなわけで、知らず知らずのうちに「獣の数字」をつけながらずっと活動していたわけで、そのうち、最近になって、ついに「悪魔」が目の前にチラつきだしたと。
結局長くなってしまいましたが、In Deep の役割を見失いそうになっていた時に、今回の気づきは助かりました。やはり、ニュースを探し出すことには意味がある「かも」しれないと少しだけ思います。
もうひとつ考えたことが「孤立化をもっと徹底させよう」ということです。独善的に陥る可能性は感じながらも、これは避けがたい感じもいたします。そんなわけで、連絡用として記載していたメールアドレスですが、現在滞っているご返信が済みましたら、メールアドレスの記載はやめようと思います。
In Deep
そういえば、タイトルの「 In Deep 」なんですが、これも好きな漫画のタイトルを思い出してつけたものです。しりあがり寿という漫画家がいて、その人の「弥次喜多 In Deep」という、「全宇宙と生命存在の滅亡と再生」を描いた形而上的なギャグ漫画からのものです。これまで発表された日本の漫画の中で、もっとも神がかった作品だと個人的には思います。
同じしりあがり寿さんの作品に「真夜中の弥次さん喜多さん」というのがありますが、それとは登場人物は同じでも、まったく別の作品です。この「弥次喜多 In Deep」という長編で描かれる内容は、たとえば、ホピ族などのいう「第四世界の終わりから第五世界の始まりまで」を描いた壮大なものです。
▲ 「弥次喜多 In Deep 7巻」の表紙より。この表紙のイメージ通りに、漫画のストーリー後半では、弥次さんも喜多さんもどちらも「リアルな存在」を失っていく。「死から霊、そして、霊から無存在」となり、新しい世界(多分、第五世界のようなもの)では彼らは存在しなくなる。弥次喜多の存在は新しい江戸では「宇宙の創造主そのもの」として扱われ、「リアルとは何か」を物語の中で江戸の人々は延々と話し合う。
最終的には、ここでの宇宙という存在自体が「弥次さんと喜多さんの中の宇宙存在であった」というような話でした。埴谷雄高さんの小説でいうところの「亡霊宇宙」というものの概念がギャグでわかりやすく書かれています。
もちろん、これは弥次さんと喜多さんが主演の漫画での「宇宙」の話で、私たちは私たちで別の「オレたち私たちの In Deep」というようなストーリーがあるのだと思います。
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(※)「ペアである自分」は、休眠中のブログ クレアなひととき に仮配置してあります。