2011年03月07日



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無限の「11」



「無数」の正確さ

昨日、ビリー・マイヤーさんの言う宇宙の歴史のことを記事にしました、そこでは 40兆にのぼる人種の数などの大きな数字が出ています。宇宙の最初には「40兆 3536億 700万」の人種が作られたと。

最初はこの数に驚いていたのですが、冷静に考えると、最近はずっと「巨大な数字の無意味さ」に気付いていた部分はあって、つまり、このように何十兆とか何千兆のような膨大な数を具体的に挙げる考え方そのものが「西洋的」なのだと感じています。まあ、ビリー・マイヤーさんは西洋人でしょうから、その意味では当然なのかもしれないですが。

「西洋的」というのは、要するに「無意味に近いことを具体的に表さないといけない」という強迫概念的な発表行為のことです。

たとえば、同じような数多くの宇宙や人種の存在の概念について、お釈迦さんが言っていた言葉があります(ビリー・マイヤーも「さん」付けにしていますので、お釈迦さんも「さん」付けにしています)。


oshakasama.jpg

故フレッド・ホイル博士の著作「生命はどこからきたか」からの抜粋です。



ブッダは宇宙が、各々がわれわれの惑星系と似た数十億の ”小さな宇宙” から成り立っていると記している。ブッダの対話形式になっている古い仏教の教典のなかに無限の宇宙について述べられている。

「無数の太陽、無数の月、・・・、無数のジャムブディパス、無数のアパラゴヤナス、無数のウッタラクラス、無数のブッダビデバス」

ジャムブディパスとは当時の北インドの人々が知る限りの人の住んでいる地域を表す単語である。この対話から、ブッダが生命と意識(彼はすべての生命に意識があると考えていた)は宇宙の構造に全体として結びついており、別々にできないものと捉えていたことは充分に明らかである。





のようにお釈迦さんは「無数」という表現を使っています。

ここに出てくるジャムブディパスとかアパラゴヤナスとかは、人がたくさんいるような場所を想定して入れ替えるとわかりやすいかもしれません。つまり、「無数の新宿、無数のムンバイ、無数の北新地」というようなほうがわかりいいかもしれません。

そして、この「無数」のほうが多い感じはするのですが、そのお釈迦さんの言葉を引用した西洋人のホイル博士自身は、やはり「数十億」という一種具体的な単位を使っています。


このように「少しでも具体性を持たせる」ことは西洋的科学のひとつの使命のようで、つい先日の 2月26日に NASA が「我々の銀河系には少なくとも 500億の惑星があり、そのうち 5億に生命が存在しうる」というような発表を行ったという報道がありました。

nasa-50billion.jpg

この記事には「科学者は従来、天の川銀河には 1000億の惑星があると考えていたが、最近、3000億に近いと考えるようになった。また、宇宙全体に銀河は 1000億あると見積もられている」とあるのですが、現実的に考えると、ここでの「 1000億ではなく 3000億」という響きにはほとんど意味がないはずなのに、そこに具体性を持たせて(しかも仮説)、それが大々的に報道されることの意味が今ひとつわかりません。


理由のひとつとして、これが「無数の」とした表記ではプレスリリースにならないという理由はあるかと思います。また、それでは報道にも向かない。現在のメディア体制が西洋主体で始まって存続している影響で、「お釈迦さんスタイル」の表現はいい報道とはされていないはずです。

たとえば、ニュースをYahoo! から適当に拾ってみますが、

学生524人行方不明=政権、トリポリで弾圧強化―リビア人権団体
時事通信 3月6日(日)2時32分配信

 【ジュネーブ時事】ジュネーブに本部を置く人権団体「リビア人権連盟」のスリマン・ブッシュウェガル事務局長(65)は4日、インタビューに応じ、カダフィ政権に反対する民衆のデモが起きた後、学生524人が行方不明になっていると証言した。



これがこのような報道だったらどう感じられるでしょうか。

誰かがたくさん行方不明とかそうじゃないとか=どこそこだかで弾圧強化―何とか団体
どこかの通信だかなんだか 3月6日(日)あたりかあるいはそうじゃない月日

 【どこかの時事】どこかの誰かの団体「何たらかんたら」の何とかさん(5歳から120歳くらいの間とかなんとか)は、過去かだか未来だかに、何か言ったとか何とか。どこかの誰かに対する何かが起きたとか起きないとかの後、たくさんだか一人だかの誰それが行方不明になっているとかいないとか、と証言したとかしないとか。



こういう報道はあまり見ないと思います。
しかし、これはふざけているというよりは、「確認されていない、わからない部分を曖昧に書いた」という、ある意味では実は正確な書き方だと思います(お釈迦さんの「無数」という言い方が正確であるように)。「ほとんど伝聞」の報道である場合、むしろ下のほうが正しいという考え方もあります。

しかし、これでは報道にならないと思いますし、報道メディアも読む方も「不正確だろうが何だろうが、具体性のあるほうを好む」という宿命があって、そのために、報道というのは前者だけになっているのかもしれません。


まあ、これは批判的なことを言いたいわけではなく、むしろ「無数」という一見曖昧に見えるような概念を正しいと認識されてくれたお釈迦さんの偉大さのほうを褒めたいというか、そうじゃないというか(こっちも曖昧かよ)。


ちなみに、この「数字」の観念については子どもに気付かされた部分が多く、先日、子どもの話を少し書いたので、また少しだけ書いて見ます。タイトルにつけた「無限の11」というのはこちらの話と関係いたします。



数は「1と2と5だけから成り立っている」

今ではそうでもないのですが、1年くらい前までは、うちの子どもにとって、数というのは3種類の表現で間に合うものでした。

すなわち、



そして、その1がふたつある状態の



そして、

それ以上

の3種類です。

最初、子どもが数を認識したのは、「じゃんけんのチョキと数の2が同じことを示している」ことを気付いた時で、そして、「パーも数を示すことのできるもの」だと気付いた時でした。


janken1.png


チョキは「2」のことであって、これはわかりやすいのですが、半年くらい前までは、「2を数える単位はすべてチョキ」で表現していました。

すなわち、「ふたつ」は「チョキ個」、「ふたり」は「チョキ人」、「2回」は「チョキ回」となるわけです。

極端に書きますと、「昨日、おかあさんとチョキ人でお店に言って、パンをチョキ個食べた」と(笑)。
家ではともかく、外でどこまで通じていたのかはわからないですが、動作の「チョキ」が伴うとわかるので、問題はなかったようです。


「2がチョキ」はわかりやすいことでしたが、しかし「パーの意味」は違いました。

バーは指が5本なので、「5」を指しているかというと、そうでなく、「2では表しきれない単位はすべてパー」でした。

なので、まあ大体、「3以上がパー」だと。
これは現実的に単位として計ることができないものにも使っていました。

すなわち、「昨日、公園でたくさん遊んで、すごく楽しかった」ということの場合、

昨日、公園でパー遊んで、パー楽しかった」というようなニュアンスになっていました。
上記のお釈迦さんでの「無数」に当たります。

彼が 5歳になる前くらいまでの数の単位は上記ですべて足りました。

1 と 2 それ以上。

そして、最近は上の言い方はしなくなり、また、数の認識も増えているのですが、以前も書いたように私は数や文字を自分からは教えませんので、いろいろと自分で数えたり研究したりしているようなんですが、やはり独力で数えることの基本となるのは「手の指」ということになるようで、つまり、右手と左手の指を合わせた数までが「彼の有限」だというようなことのようです。

つまり、以前の「1と2」とそれ以上という範囲が少し変わって、

・1

・2

・それ以上で5まで

・それ以上で10まで

・それ以上


という区分のようです。

なので、今の彼にとって「11以上は無限」ということになりそうですし、「ゼロ」というのも、ゼロは概念の外ですので「それ以上」に入ると思われます。数学的にそれでいいのかどうかはよくわからないですが。


また、実際には、体感できる数値というのは大人でもこんなものだと思います。

たとえば、目の前に人が立っている。

ひとりひとりを数えないで「パッ」と正確な数を認識できるのは何人くらいか。

1人と2人は数えなくても一瞬でわかると思います。
3人、4人だと少し間が開くかもしれないですが、まあ、大丈夫。

しかし、これが8人だとすると、多分、「数える」という行為になっていくのではないでしょうか。
さらにこれが 18人とか35人とかが目の前に立っていても、瞬時には数を判別するのは普通の人だと無理だと思います。

人間の数の現実での認識はそのくらいのもののようで、ということは、「その程度の認識でいい」のだと思われます。
それでも私たち人類は生きて生活していますから。

1〜5くらいまでがあって、あとは無限」で実は問題がないような感じさえいたしますが、しかし、それだと現実生活だとそれでは大変ですが。

お会計は無限です」とか、「うちの会社には無限の人がいます」とか言われても困りますしね。


そういう意味では数の具体性というのは「生活上でのツール」という意味もあるのかもしれません。



アルゴン星の物価

数字の巨大さが極端になると、「それ自体がお笑いになる」ことは、英国のお笑い集団モンティパイソンが 1972年のコント「アルゴン1」で示しています。
数をたくさん掲げること自体が笑いになるということに彼らは気付いていました。

射手座の銀河にあるアルゴン星という星の「物価高」を実況中継しているコントです。


algon1-1.jpg


algon1-2.jpg


algon1-3.jpg

▲ 下のは、やかんの金額。


手元に字幕入りのがありますので、アップしてみます。




ちなみに、私が初めてモンティパイソンを見たのは、レンタルビデオというものが一般化した頃のことで、1980年代の終わり頃で、すでにモンティバイソンの初回オリジナル放映から 20年近く経っていたのですが、初めて見た時の衝撃は大きく、その後、全部見て、今ではパソコン上でスケッチごとに分類して、保存しています。どんなに気分が落ち込んだ時でも、モンティパイソンを見れば大丈夫でした。

いろいろな意味で(あくまで個人的に)モンティパイソン・フライングサーカスは文明史の宝物だとは思います。


何だか、また話が飛びましたが、これからは、具体的な数字が重視されるのはいいとしてもその一方で、「無数」や「無限」というほうも同じ程度に重視する考え方が大事にされるというのもいいのかもしれないなあと思った次第でした。「右脳数字」と「左脳数字」みたいな感覚の話かもしれないです。

古代ギリシャの時間の観念には、クロノスとカイノスと2つあったそうで、このことはつい最近まで私は知らなかったんですけど、いい概念だと思います。
数の単位全体に広げてもいけそうに感じます。

タグ:ブッダ