人生で二度目の決意
私もそこそこトシではありますし、国内も国外も含めて、これまで結構いろいろな災害の報道やニュースを見てきました。
しかし、今回ほどやたらと涙が止まらなくなることはなかったのです。
恥ずかしい話ですが、今は本当によく涙が出ます。子どもの前でも止まらなくなることがあります。
とはいえ、この涙が「悲しみの涙」ではないことは明らかです。
私はそんなに心温かい優しい人間ではありません。
理由・・・。
いろいろとあると思いますが、まずは「圧倒」があります。
あの津波の被災地の光景。
そこに人命があるとかないとかの生死の問題を越えて、その前にそこには文明があった。そして、生活の痕跡があった。
私は以前、「宇宙を憎むか憎まないか」で少し悩んだことがあります。それはもともと私がひねくれ者だからでしょうが、誰もかれも、この世に悪い者や悪いことはあるけど、「宇宙だけはいい」、「宇宙だけは絶対だ」と言う。
それがどうも気に入らなかった。
以前、ペアである自分の何回かめに書いたように、パニック障害で苦しんでいる時に、その苦しみの吐露をどこに向けていいのかわからなくなり、対象を宇宙全般にしたことがあります。
「殺せるものなら殺してみやがれ」と書いた紙を壁に貼り、そのことで「宇宙に向かって暴言を吐き続けることを確認して」生きていたことがあります、
しかし、特にそれらしき報復はなかった。
「死ねや、宇宙が!」
と呟いても、少なくともその場でバチなどは当たらなかった。
さて、その過去はともかく、今回の災害だけではないですが、もともと私は「人類の苦しみや災難が何のために存在するのか」が理解できなかったということはあります。
私が若い頃にパニック障害等で苦しんでいた中で、「宗教にでも入ろうかな」と考えて、いくつかの教会に行ったり、聖典を読んだりしたものの、やはりすぐに「この役立たずのクズ聖典どもが!」と叩きつけることになったわけで、上の「人類の苦しみや災難が何のために存在するのか」の答えは少なくとも、私が知ろうとした宗教の中からは見いだせなかった。「それなら」と、22歳だったか23歳の私は思ったわけです。
「オレはオレだけでいいじゃないか」と。
その後、この「自分教」への信奉(何もしないことが信奉ですが)はますます強くなり、今を迎えています。
今回、東北の地震の「圧倒的な光景」を目にしている中で、また、その23歳の時と同じような気持ちが涙と共に出てくるわけですよ。
「貴様ら宇宙は何でもできる。調子にのりやがって!」
と思ったあの頃の気持ちがそのままとなりつつあります。
偉大な力を尊敬し崇拝する人々がいる一方で。私のように「偉大な力を持つものが好きではない」という人々も少なからずいます。
多分、今度はあっちの勝ちで私は殺されるでしょうが、昨日の今日の決意でもないし、これはもう仕方ない面はあります。
ちなみに、たとえば、こういう現実の災害の圧倒の前には、私たちは異常に現実的になる必要があると思っています。
すなわち、あらゆる宗教、あらゆる神様、あらゆるオカルト(ここでいうオカルトとは信憑性を多方面から実証できないもの)を排除しながら進む他はないように思います。
そして、現実の中から、こんなあからさまに悲惨な状況を軽々しく作ることのできる「宇宙の存在そのもの」を否定していく方向。
宇宙がどのように生まれたのかは今はわかっていませんが、中世の神秘学などの言葉を借りると、順番としては、
・ことば
・存在
・認識
・存在
・認識
というように来たように思います。
今、私たちが「宇宙」とか「存在」と考えているものは、実は我々の「脳」が認識しているために存在しています。
これは難しい話ではないのですよ。
・見ないと見えない
・聞かないと聞こえない
・聞かないと聞こえない
というようにいくと、
・認識しないと存在しない
という流れにはなるように思います。
埴谷雄高さんが言っていた「存在の革命」という言葉を、私なりに究極的な革命として、書けば、
・認識の否定
というものがあると思います。
とても間違ったことであることはわかりますが、ただ単に「宇宙の圧倒」に我々がいつまでも引きずられているわけにはいかない。
前に書いたことがありますが、私はいろいろな意味で「23」という数字、つまり獣の数字に完全に支配されて生きてきたわけで、正確には私はオカルトの定義では人間ではありません。
なるほど、昔から宇宙も神も悪魔もどれも怖くありませんでした。
(お化けは怖い)
前置きだったのに、何だか変なことを長々と書いてしまいましたが、もうそろそろ涙も尽きると思います。
ところで、今日のタイトルにした「決意の涙」の「決意」というのは、私のこの「変な決意」のことだけではありません。
ビギニング
私は今日(日曜日)、地元のいくつかのコンビニと、大手家電、100円ショップ、ホームセンター、そして、隣町の吉祥寺の大手家電、大手スーパーなどを回って歩きました。
実際に欲しいものもあったからだったのですが、最初に結論的なことを書いておきますと、以下のものはすべて売り切れており、「入荷未定」となっていました。
・単一電池
・単二電池
・災害用ラジオなど(ラジカセはまだありました)
・懐中電灯
・その他、安価な携帯用の照明のほとんど
・カセットコンロ、ボンベ
これらは一切なかったです。
電池は大手家電では単三が多少あったので買えましたが、コンビニや100円ショップでは電池がほぼない状態でした。
吉祥寺のヨドバシカメラで買い物をした時に、店員さんに聞いたのですが、「ラジオは昨日からものすごい売れて、今日はほとんど売り切れなんです」とのこと。これがまだ午前中の話でしたので、その後はさらにいろいろと棚から消えたのではないかと思います(日曜は午後から買い物に行く家族が多いでしょうから)。
食糧も、相変わらず枯渇気味の店が多く、カップラーメン以外がほぼない店も多かったです。
そして、ホームセンター。
ここはもう「戦争前夜」でした。
いつもそんなに混んでいるわけではない店なのですが、長蛇の列となっていて、みんないろいろと淡々と買っている。
店で携帯で話していた中年の女性の人が、「お父さん? ガスマスクはないって」と話していて、想定している状況も壮絶な人たちもいるようですが、まあ、原発などの報道からの連想なんでしょう。
大きな災害が起きると、かわいそうだとか、その人たちを助けようとか、そういうことや気持ちが起きるのは当然なのでしょうが、それに加えて、「次は自分たちだ」という意識が非常に見えます。
もはや、自然災害はどれひとつとっても他人事ではないという「決意」。
それでも、パッと見た光景は普通の買い物光景であり、淡々と買い物をしている。
ただし、いつもとは買うものが違う。
たった3日間ですが、「3日前とは違う世の中になった」という感じがうかがえます。
変わったのです。
準備する日本人
これらの一連の風景を見た時、以前のウェブボットのくだりを思い出しました。
2010年3月のもので、ここにはすでに過ぎた日付や「2012年」などの単語が出てきますが、それらを無視して読まれて下さい。
非対称型言語傾向分析報告書「来るべき未来の形」0 巻4号
2010年3月12日配信 「古代の復活 (日本に関して)」より抜粋
・ 日本における「革命」は、自分の国にプライドをもちたいという日本人の意識を背景に、経済的な混乱と将来への不安、そして食料価格の高騰と食糧不足、さらに2012年の情報のリークが重なって起こってくることだ。これらの重なりは、「革命」への絶好の機運を形成する。
・ また、2010年8月の終わりには、多くの日本人が2012年を恐怖し、突然と準備を開始する。2012年への準備は日本における「革命」の伏線を形成する。
「突然と準備を開始する」。
そのキッカケがあれだけひどい災害だというのは苦しいですが、しかし、私もそうですし、日本人だけの話ではないでしょうが、私たちは「殴られなければわからない状況」になっていたようにも思います。
今、私たちは「殴られた」のかもしれません。
私も含めて、多くの人々は先行き、どのくらい生き残っていけるのか不確かではありますし、私本人などは、そもそも生き残ろうという意志すら昨年あたりからはあまりありません。
しかし、私は最近、「日本人が地球に存在した意味」が(自分なりに)少しわかってきた気がしています。
さらりと書ける話でもないですので、書かないかもしれないですが(それにどうしても「日本人賛歌」的な匂いは漂いそうで、それは自分でもイヤですので)、地質的に巨大プレートの込み入ったすぐ横の、「通常なら文明など築いてはいけないような立地(文明が芽生えても地質的にすぐ滅びる宿命)」に国家が立ち上がり、それなりに存続し、それなりに(悪い面でも、良い面でも)周囲にそれなりの影響を与えてきた「日本」。
外国人たちから見れば、奇妙な習慣、奇妙な意志表示、奇妙な挨拶、そして、奇妙な食生活(キノコと海草を毎日のように食べる人々)に奇妙な言語(文法が基本的に孤立化している)に綾取られた日本人。
どうして、私たち日本人が、地球のこんな歴史に登場しなければならなかったのか。
これは今まで書いたこともあるような「人類の意味」ではなく、「日本人」とその文明の意味です。
今はそれがほんの少しわかるような気がします。
(間違っているのでしょうけれど)
これは、言葉として表現すること自体が違うような気もしますので、書かないで済むなら書かないで終わりたいです。