最近のは文字通り、「書き殴っている」感じで、特に宇宙だののことを書いていることに関しては、あらかじめ何も考えないで、頭に浮かんでくることをただキーボードを打って、そこに文章があるというだけとなっているようです。怒濤の書き殴りで、よくわからない記述もあるかもしれないですが、ご了承下さい。
3月14日 午後の杉並区の光景
その前に、まず、今日のさきほどの記事をアップした後の街の様子ですが、あの後、午前中に街の中を見ましたら、昨日ともさらに変わっていました。
ついに、「店に何にもなくなりだした」のです。
コンビニはたまに弁当やおにぎりが入るのですが、缶詰やカップ麺といったものはすべて売り切れ。ドラッグストアやスーパーも同じです。
他に、電池、ロウソク、携帯カイロ、ティッシュ、トイレットペーパー、ジュース類などはほとんど消えていました。また、節電営業で、電気もあまりついておらず、薄暗い店内に何の食べ物もないという、以前見たジンバブエのハイパーインフレーション下のスーパーの写真とあまり大差のない状況が出現していました。
若い人は比較的簡単に順応しているように見えましたが、ご老人たちの多くは状況がまだ把握できていない方も多いらしく、つまり、今、あらゆる物資不足が自分たちの街、東京をも襲っていることを想像していなかったようです。
スーパーに入って何もない状況に唖然とする人、店員さんに「これじゃ困るのよ」と言ったりする人は皆さんご老人でした。そして、ついに聞いたのは男性の老人が店員さんに言っていた「戦時中みたいになってきたね」という言葉。
これが午前の状況で、その時には松屋とか吉野家、オリジン弁当などはやっていたのですが、午後2時頃にはオリジン弁当は「材料不足で閉店します」の張り紙、松屋などは「お持ち帰りは中止」、また、多くの持ち帰りの食べ物屋は午後は軒並みシャッターを閉めました。
その後、ホームセンターに行ったのですが、やはりめぼしいものは何もなく、なんとなく意味のないものを買って帰る途中、ペットショップの小鳥をボーッと見ていたら、私がホームセンターの袋を持っていたからでしょうが、犬を散歩させていた上品そうなご婦人が声をかけてきました。
ご婦人 「ホームピックに行かれたんですか?」
わたし 「はい」
ご婦人 「あの・・・まだカセットコンロなどは売ってましたでしょうか」
わたし 「全部売り切れでした。昨日の時点で、懐中電灯、カイロ、電池、カセットコンロ、ボンベなどは全部売り切れてます」
ご婦人 「あらあ、そうですか・・・」
わたし 「なんか大変なことになっちゃってますよ」
ご婦人 「ほんとにそうですわねえ」
と言って去りましたが、考えれば、最近の立派な家では、オール電化なんてのもありそうですし、停電時には炊事も難しいかもしれません。
それにしても、本当に「たった2日」で物資が見事に消えました。
震災後直後はまだ買い物には動いていなかったですので、昨日と今日で壊滅的な物資不足が出現したようです。
そういえば、途中のガソリンスタンドにも「レギュラー、ハイオク売り切れ」と手書きの紙が貼られており、いろいろと不足しているようです。
生命の意味
前回書いた「宇宙と対等である人類」という概念も、さらに拡大解釈すれば、当然、あらゆる人類とあらゆる人類同士も、そして宇宙とそれを取り囲むあらゆるパラレルな宇宙も対等でなければならないということになると思います。
しかし、では、現実に、たとえば、「あなたの恋人を殺した人物」の隣に配置されて、「あなたはこの人と平等を感じて生きてください」と言われて、それができるでしょうか。
できないはずです。
私もできません。
今の地球ではそれは基本的に誰もできません。
どうしてか?
それは「生命の意味の解釈」という大変に重いテーマに突きあたる問題です。
今回の地震の言葉にならない悲惨。
人命があれだけ無造作に消えていく無常。
このあからさまな悲劇を「悲劇と感じなくするような方法」というのはこの宇宙に存在するのか? ということがあります。
たとえば、今回のような壮絶な光景(消滅した文明という意味の)を伴っての大量の犠牲の痛ましさの向こうに、たとえば、毎年数万人が自殺している悲劇や、殺人や事故で亡くなっていく悲劇があります。
それは、すべてがわれわれの目や耳に情報として入るわけではないので、私たちは知らないことが多いですが、では、それは悲劇ではないのだろうか?
「恋人が自殺してしまった」
「子どもが殺されてしまった」
少なくとも当事者の個人には、これらの悲劇は世界のどんな悲劇とも、どんな事象とも比較できない最悪のできごとであるはずです。
しかし、起きている。
毎日毎日、しかも、この数千年に限っては、多分ずっと起き続けている。
他にも様々な「悲劇」はありますが、これら「人の命」という悲劇が最大に重いもの(に感じる)ことは確かであり、そして、今のままの私たち人類の生命の解釈では、今後も何百年も何千年も、いや、人類がいる限り、未来永劫にその「悲劇」が続いていくことになってしまう。
そして、人類が存在している限り、それ(死ぬこと)は必ず起きる。
「悲劇」という概念(もちろん他の様々な概念も)が、宇宙が人類に与えたものだとすると、私たち人類が宇宙との対等に近づくためには、その「真意」、その真意とは、つまり私たちは「生命の生きることと死ぬことの真意」を知らなければならないのだと思うのです。
「人が死ぬことが悲劇ではなくなる」という響きは、一見、むしろ冷たく聞こえるかもしれないでしょうが、それは、私も含めて、その「真意」がわかっていないからなのではないかと考えるようになりました。真意というのは、「肉体の生と死は本来(宇宙の最初)はどういう意味だったのか」という真意です。
私が先日書いた宇宙に向かっての「殺せるものなら殺してみやがれ」という言葉の意味のひとつには、その真意を知りたいという表現が幼く表れたというような部分はあるかもしれません。
人はどうして死ぬのか? ということが言われることがありますが、それは生命の仕組みを見ると当たり前のことで、あらゆる多細胞生物はいつかは死にます。
しかし、たとえば、他の生き物では「死は不幸と結びついているのか」ということを思うのです。死の意味はそれとは違うところにあるのかもしれないと。
もし、私たち人類が、この「宇宙が人類に突きつけた生と死の真意」を知ること、あるいは気付くことができれば、この世の多くに覆い被さる「悲劇」というもののクリアに一歩近づく気もするのです。
まあ・・・実際ですね。
もうイヤなのです。
人が死んで悲しいというのは。
私は結構弱い人間なんで、人一倍、死のニュースにはメソメソするんですよ。
今日も、道を歩きながら、あまり意味はないんですが、途中で涙が止まらなくなって、うつむいて、あくびをするふりなどしていたのですが、最近はこういうことも多く、もう「そろそろ何とかならないのか」と思うこともあるのです。
今回の地震についても、こう書くだけでもう涙が止まらないのです。
昨日も書きましたが、それは悲しいということではないのです。
もうイヤなのですよ。
この宇宙が示す「生と死の真意」が私の時代や世代でわかるということが無理なのは仕方ない。
しかし、たとえば、私の子どもの世代。
それは下手をすると、今よりもさらに人の死を見て生きていく可能性がないと、どうして言えましょうか。
死体だらけの中から生き延びた子どもたちによる未来の再生の可能性だってある。
今の人類感情のままだと、それは幸せな精神的な未来世界にはならない気がするのです。
「生と死の真意」。
宇宙は知っている(知っているというか、そこに存在するものだから)のかもしれないですが、私たち人類はあくまで対等に近づくために、誰にも教えられずに、少なくとも自分の宇宙の仕組みくらいは自分で気付かなければならないのかもしれません。
とはいえ、どうしたらいいものやら・・・。
殴られた私は今はボーッとそれを考えるだけです。