ふと目覚めました。
1年だか2年くらい前もよくあったのですが、最近また眠っている時も考えているようで、それで目覚めます。起きていても眠っていても、考えのほうは同じように続いているようです。
時間が早朝で、多分もうすぐ停電ですので、短く書きます。
先日書いた記事の最後の方に、「日本人の意味」というものについてふれて、その具体的なことについては、その全体について文字で書きようがないことだと思うのですが、表面的にあらわれていることのひとつに「日本語」というものがあると私は思っています。
私は日本語だけで育ってきて、他にネイティブで理解できる言語がないのですが、もしふたつ以上の言語をネイティブで理解できる方なら、「日本語の異常さ」というものには気付いてらっしゃると思います。
それは、会話における主語の欠落から始まって、場合によっては、目的語も何もかも欠落する言語。
レジのないような店で買い物をする時に、
「私にそのトマトを売って下さい」
という言い方をする人はあまりいないと思われます。
「これ下さい」
というようになると思います。
まあ、これくらいまでなら他の言語でも見られることですが、これが知り合い同士や日常に拡大すると、日本語は野放図になります。
たとえば、入院か何かしていて、そこに予想していたなかったような昔の知り合いかなんかがお見舞い品をもってやってくる。
そこで、
「私はあなたに会えて嬉しいし、こんなお見舞い品をもらったことに大変に感謝しています」
と「正確に気持ちを伝えて」は、むしろ冷たい感じがしてしまいます。
まあ、言い方に決まったものなどなくても、たとえば、私らのような中年の男性なら、
「あー!、来てくれたの? これはもうなんというか、いやいやいやいや」
というような極めて曖昧な言い方になると思いますが、相手に感情は伝わっていると思います。
このような感情の伝えかたをする言語というものは決して多くはないと考えています。
昔・・・、高校生の頃ですから本当に昔ですが、山本七平という作家の戦争体験の本(「私の中の日本軍」か「ある異常体験者の偏見」かどちらか)を読んだ時に、「日本語では戦争はできない」という記述がありました。戦争では、主語、目的語、時間等がきわめて厳密に伝達される必要がありますが普通の会話の日本語ではそれをなしえないために、「軍隊語」というものが使われるようになりました。
軍隊語というとアレですが、今でいうと、街頭での演説などがそうです。
「我々は ○○のために ○○に対して ○○をするのだ!」
と言うもの。
これが軍隊語です。
主語、目的語、対象などがすべて入っている。
しかし、おわかりのように、これは日本語ですが、本来の日本語ではありません。
よく口頭での日本語に出てくる「まあ、それはアレよね」とか、「まあ、それはなんつーか、アレなんじゃないかな」という言い方では戦争の作戦はもちろん、「左脳的に展開するすべてのことはできない」らしいのです。
それだけに、これだけで意志を疎通させて、社会を成り立たせることのできる能力に私たちは驚くべきだと思うのです。
自慢をするとか誇りに思うのではなく、改めて驚いて、そして、この曖昧な言い方を楽しめばいいのだと思うのです。
主語もない、目的語もない言葉でコミュニケーションが成り立っているということは、これは「超能力」以外のなにものでもない。
テレパシーという言葉がありますが、それは何だか大変な能力のように感じますが、私たちは言葉ですでにそれを達成している。
もちろん、地球上のすべての人類は目や表情でそれをおこなっています。
なので、全人類が持つ能力ではあるのですが、日本ではなぜか、言語の中に「言外のコミュニケーション」が介入した。
すごい。
まったくすごい。
ふたりのサラリーマンが昼休みに会社のビルの屋上にいます。
男A 「あー、なんかもうアレだよなあ」
男B 「いやほんとだよな。もうなんつーか本当にねえ」
男A 「まあ・・・しかし、そうでもない部分もあるんだろうなあ」
男B 「まあそういうところだけではないからね」
男A 「いろいろだわな」
俳句を他の言語で正確に現せないのと同じように、このふたりの会話も他の言語で正確に再現することは難しいのではないかと思います。
ふと、思って、 Google翻訳に上の日本語を入れたらこうなりました。
Man A "Oh, I wish arrays Anymore"
Man B "and I'm honestly. Hey, I really like steel ー anymore "
Man A "But I think there is some I wish I would not so much"
Man B "Well, just where I'm not such a"
Man A "trap that is different"
これはこれで何だか哲学的な言い回しですが、しかし、これでは多分、通じないでしょう。
このコミュニケーション能力だけでも、日本語には突出した「異常性」がありそうです。
宇宙人が上のふたりの会話の光景を見たら、「すごい能力だ」と感嘆するかもしれません。
言葉を発してはいても、このふたりのサラリーマンはすでに「心と心での会話」となっていて、驚くことに、毎日の瞬間瞬間に、日本の何千万人もの人々がこの「心と心の会話」を繰り広げている。
クリフ・ハイはかつてのウェブボットでこのように書いています。
非対称型言語傾向分析報告書「来るべき未来の形」0 巻2号要約
2009年9月15日配信 「世界の民衆」カテゴリーより抜粋
・日本では古代の日本文化のいわばルネッサンスのようなことが起こり、お身儀などの伝統的な風習に込められた深いニュアンスや、その象徴的な意味が再認識されるようになる。これは世界に広められる。
・ 「お辞儀」というキーワードは宇宙関連のカテゴリーでも出現する。それはエイリアンとのコンタクトが行われるとき、日本文化の礼儀作法を用いてコミュニケーションが行われるようになるからである。日本文化の礼儀作法を土台に、エイリアンとの間の相互理解が可能となる。これは2011年に起こる。
・ この日本式礼儀作法とその思想は、今後100世代、2000年にわたって異なった種の間でコミュニケーションが行われるための基本的な方法となる。エイリアンの未来のガイドブックには、地球に到着すると、最初に「日本シンボル大学」で教育を受けた人々の出迎えを受けると書かれることだろう。
エイリアンがどうだこうだの問題ではなく、「お身儀などの伝統的な風習に込められた深いニュアンスや、その象徴的な意味が再認識される」ということが「起きなくても」われわれは実際に日々使い、毎日「心と心で話している」。ここには「日本シンボル大学で教育を」というような表現がありますが、教育がなくても成立している。
今、日本は大変で、日本国家自体の存続にも懸念があるかもしれません。
でも、「心と心との会話の人たち」には国家という枠組みは二次的なもののようにも思います。
前回書いた「生との死の真意」はとりあえずわからなくても、すでに、「心と心との会話が成立している超能力」の中で生活している私たちは、本来は言葉では表現できないはずの「生と死の真意」に近づけるはずだと確信しています。
さて、そろそろ停電です。