2011年03月18日



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本来の日本人が尊敬していた「食べ物という存在」



震災から1週間経っていることに驚きます。

お気づきの方もいらっしゃるかもしれないですが、どうやら、今、私たちにとっては「時間が止まって」います。もちろん、物理的な時間ではなく、感覚的な時間のほうで、どちらがカイノスやらクロノスやら忘れましたが、どちらかが止まっています。

以前、「時間は加速し続けており、最終的にはゼロになる」というような理論をきいたことがあります。そんなことあり得るのかなあと思っていたのですが、今、その「時間が停止した状態」を経験しているようです。時計は進んでいるものの、時間そのものが進んでいる感覚がまったくありません。


ところで、たくさんメールをいただいていて、とても嬉しく思います。震災後のものについては、どれひとつとしてまともにご返事を出せておらず、本当に申し訳ありません。

被災地の方からもいただいていて、読む度に涙が出ますが、それは書きましたように悲しみの涙とは違います。今はとにかくお礼と「がんばってください」の2つしか言えないのですが、本当にありがとうございます。

人生でこんなに人に感謝したことはありません。



そのことについても、いろいろと書きたいことはあるのですが、夜中にふと目覚めて書きたくなったことを書いておきます。今回も日本人についての話です。


海と山との隣人として

前回、お米の粒を残さず食べることを教えてきた日本人のことについて書きましたが、しかし、実は根本的な部分で、「日本人と食べもの」の関係は、世界でもほぼ唯一といっていい関係性の中にありました。

それは何か。

それは「食べる相手の個性を認識して尊重していた」という点です。


目の前に出た切り身の焼き魚を食べて、あるいは丸ごと焼かれた魚を見て、

「うまいサバだね」とか、「これはおいしそうなアジだ」と、同じような形をした多くの魚を区別して認識して食べている国民は他にほとんどいません。


魚河岸の方々や寿司職人などのプロではなくとも、誰だって、サバ、アジ、サンマ、サケ、ブリ、マグロなどは食べたり、あるいは見るだけでわかる。

切り刻まれた魚の死体の肉を見て、それが生前、誰だったかわかる。


こういうことは他の国ではあまり見られません。
中には、基本的に「魚」という区分しかしないようなところもあります。

そして、アサリやハマグリやシジミ、カキやサザエやホタテやツブ貝などの貝類さえ、日本人の多くは認識して、また子どもの頃から教えられて、その違いを覚えていく。

名称そのものが大事なわけではないですが、個別化するには便宜上、名称があるほうが便利だから名称も大事です。

そして、学術名以外での食べ物の分類の名前がこんなにある国はないはずです。


海だけではなく、山ではシメジ、シイタケなどの数多くのキノコを分類し、山菜でも、ノビルやゼンマイなど、外国の人から見れば、どこがどう違うのかわからない「草」までをも分類して認識して食べる。

そして海草も食べる。
ワカメとコンブを食べ分けて・・・というより、そもそも海苔以外の海草を食べる民族は日本人以外はほぼいない上に、海苔を含む海草そのものについて、胃で消化できる酵素を持っているのも日本人だけであることがわかっています。

これは 2010年04月08日の AFP 通信の「日本人がノリを消化できる理由を発見、仏研究」という記事からです。


日本人の腸が海草に含まれる多糖類を分解できるのは、分解酵素を作る遺伝子を腸内に住む細菌が海洋性の微生物から取り込んでいるためだとする論文が、8日の英科学誌ネイチャーに発表された。(略)このバクテリアはこれまで、日本人の排泄物からしか見つかっていない。


名称だけの問題ではなく、体質自体が違うようです。
他のあらゆる民族は消化することができないので、基本的には食べられないのです。みそ汁に毎日のように入っているワカメや、おにぎりなどで頻繁に食べる海苔。あれを私たちは消化して、栄養さえ取り入れられる。

最終的に地球に食べられるものが海草だけになっても生きることができる民族。

ゴボウ、ヤマイモ、サトイモなども食べているのは基本的には日本人だけで、古来から日本人たちは土の中や海の中の、他の人々は「食べ物として認識しなかったもの」を、本来は大事に食べていました(今は大事にしていないという意味もあります)。


もともと日本には肉食文化はなかったですが、日本の肉食文化の特異性を見るには焼き鳥屋さんに行くとわかります。動物の内臓を、レバーだハツだと名称で分類して直接食べている民族はやはりあまりないと思うのです。

ちなみに、豚と鳥が混ざっていますが、動物の内臓の焼き鳥屋での分類は大体次のようになっています。

ハツ 心臓
タン 舌
マメ 腎臓
ガツ 胃
チレ 脾臓
ヒモ 小腸
アブラ 背脂
レバー 肝臓
ナンコツ 軟骨
スナギモ 砂嚢

他に、ボンジリとかアカヒモなどいろいろとありますが、では、上の区分を分けることに意味があるのかというと、実際に焼き鳥屋にはその区分があるわけで、私たちにとっては意味がある。

そして、それを味で区分できるのかというと、少なくとも上の区分くらいは私もできるわけで、そして、多くの人は「内臓を下さい」というのではなく、「レバーをください」、「スナギモをください」というように、動物の死体のひとつひとつをできるだけ認識して食べている。

これはさりげなく、驚異的なことだと思います。

この驚異的なことを日本では毎晩、飲み屋でオッサンたちがみんなやっている。

「んー、レバーもう1本とナンコツ、塩とタレで」

とか言っている。

内臓ということに関しては、魚の利用はもっと多岐で、イカの塩辛はイカの身を内臓にまぶしたものだし、ウルカ(鮎)やメフン(鮭)や酒盗(カツオ)といったような、いろいろな魚の内臓は塩辛として利用して、内臓もあまり捨てなかった。

クジラの死体の利用に至っては、「動物を殺して食べる」という上での最大限の尊敬を込めて殺させてもらっていると考えても構わないほど、クジラの死体の各部位を利用し尽くしていた。

魚にしても、頭や骨をダシにつかう。
子どもの頃は、私の親は食べた後の魚の骨もストーブの上で焼いて食べていました。


日本酒や焼酎の作り方も、その多岐に渡る種類を見ても、酒を造っていた人々が、米や麦や芋に対して最大限の尊敬を持っていたことが伺えます。


しかし、いつの間にか、大量生産と大量消費の波の中で、人々は食べ物に対しての尊敬を忘れていってしまった。すなわち、「日本人ではなくなってしまった」。

日本人から「日本性」を消すために導入されたかのような大量消費と大量流通。


そんな中で、かろうじて、食べ物と日本人とのつながりを小さく支えていたのが、食べものに対しての日本語での数多くの名称だったと思います。


今、私たちは全国規模での食べ物の逼迫という状態を味わっていて、これはつらいことですが、しかし、その中で、昔の「日本人と食べ物の関係」のことを思い出して、今までのことを反省しようと私は思っています。

私はこの数十年はさんざん食べ物を粗末に食い散らかしてきました。

その傾向が突然変わるとも思えないですが、もう少し食べ物と向かい合って、彼らを意識して摂取したいと思います。


ずっと考えていた「食べることの意味」。
その全容はまだわからないですが、少しずつわかってきたような気もします。

すなわち、食べることとは「宇宙の意識と人類をつなぐための作業かもしれない」と思います。

人類はアカシックレコードのようなものから自立しましたが、他の生き物たちはそちら、つまり宇宙のほうにいるように感じます。だから、食べるという行為を通じて、宇宙の意識と人類の存在そのものを繋いでいると考えます。

そう考えると、「食べる」ということは極めて神聖な行為だと思われます。

そして、その神聖を保つためには私たちは特別なことをせず今までとおりでいいのだと思います。

ただ、今までよりもっともっと食べ物を大事にしながら。



今、冷え込んでいます。
東京でこれでは、被災地の寒さはひどいもののように思います。

被災された地域の多くの方々は上の食べ物との関係の中では、特に「海の食べ物との関係」が強い方々だと思います。どこの人たちよりも海と尊敬を交互に持たれている方々だと思います。

うまく言えないのですが、とにかくがんばってください。
そして、やはり心の底から感謝しています。
本当にありがとうございます。


そういえば、電池がいろいろな場所で手に入らないと思うのですが、先日、メールをいただいて、車のバッテリーから電源をとる方法が紹介されているページを教えていただきました。私は車を持っていないので、試せないのですが、そのリンクを貼っておきます。

バッテリーから電源を取る方法は?


もっとも、ガソリン自体が入手しにくい状態のようで、いろいろなことが難しいですけれど、とにかくお互いがんばりましょう。