2011年03月18日



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日本人の吉祥寺で



時間の感覚が止まったままで、何日前とかがあまりわからないのですが、たしか一昨日前の黒い雲から始まった強風のあの地獄のような天気を考えると、今日はまだ寒いけれども、穏やかな天候でした。

午後になってから、隣町まで歩いてみることにしました。
五日市街道という比較的長く続く道路沿いを歩いていると、道沿いのガソリンスタンドに、「燃料 すべて売り切れ 入荷待ち」という張り紙が貼られてあり、無人になっていました。

ところが、そこから道路脇ににえんえんと車が並んでいて、どうやら「ガソリンの入荷」を待っているようなのですが、果たして情報があって並んでいるのか、そうではないのかわからないですが、車の中では横になって寝ている若い人もいて、かなり長いこと待っているようです。

東京でこれでは、他の場所でのガソリン不足もかなりのものかもしれません。



これが大変なことはわかりますし、お察ししながらも、ある別の面ではいろいろな感じ方もあるということを被災されている方からいただいたメールで知りました。

具体的な町名はともかく、今問題となっている原発に近い場所にある町でひとりで暮らされている 74歳の女性の方からのものです。最初、メールをいただき、短いご返信をさせていただいただけなのですが、また返事をいただきました。

(ここから抜粋です)


あわてて逃げなければ、74歳一人暮らしの
平安な日常があることに気づきました。

常磐線(すぐ下が線路)も車も通らないので、
嘘のように静か。

水はわき水を汲んで、持ってきてくださる方の
好意に感謝して大事に飲んでいます。

水も食料も、普段使っている量の何分の1かで足りることが
わかりました。犬たち猫たち(雑種犬2匹、猫5匹)も同じ。
嬉しくて、おしゃべりすぎたみたいで反省しながら。




(ここまで抜粋でした)


原発の放射能の問題や、他にも、それは確かに本当にいろいろとあるはずですが、こんなに読んだ私を安心させてくれるようなメールをいただいたことに感謝しました。

私が読んで本当に安心したので、ここでご紹介させていただきました。


ガソリン不足で不自由されている方がいることは事実ですが、それで初めて知ることができた「本当はここはとても静寂な空間だった」ということや、様々に初めて知ること。

私も今の東京の中で「生まれて初めて見る光景」をたくさん見ています。


このように考え方を良いほうに変えていける能力も人類だからのことだと思います。他の動物たちは動物たちで確かに様々な才能や能力がありますが、多様性や無限の思考の変化は難しいと思うのです。


私の奥さんのお姉さんが福島の郡山という街に住んでいて、昨日やっと家の電話が通じたようで、うちの奥さんは電話で震災後6日目に初めて話せました。

たまに笑い声も聞こえるような楽しそうな会話でしたが、当然、当地は楽しいわけがなく、こちら東京では放射能がどうだこうだと言っていますが、放射能より何より「水と食べものがない」ことが問題で、もっと言えば、「何にもない」のだそうです。
電話以外のインフラは厳しいようです。

放射能より餓死しちゃう可能性のほうが高いかも」と言って笑っていたそうですが、笑い事ではないし他人事でもないことは十分にわかります。

それを笑って話せるから人間なのだと思います。
あるいは、日本人なのだと思います。



井の頭公園の光

今日は吉祥寺の武蔵野八幡宮というところに歩いて行くつもりでした。

最近は、神社に入ろうとすると、鳩などに阻止されることが多いので(苦笑)、今日も何かに妨害されたら素直に入るのをやめようとしましたが、若干の妨害(なぜかニヤニヤと笑う中年男性たちが何度も何度も道を横切る)がありつつも到着し、いつも通りに、お祈りも祈願もせず、なんとなく「いろいろと、どうもありがとう」と境内で言って戻りました。

ちなみに、一昨年くらい前からだったか、私は神社に入る時は境内で狛犬の顔を見るようになりまして、それが怖く見えたら入らないようにしています(キチ・・)。今日はダラーッと弛緩した感じでしたので、まあいいかと。

この武蔵野八幡にも人はおらず、神社はどこも寂しい感じです。


その後、しばらく吉祥寺のいろいろな場所を歩いていたのですが、ふと、「そういや、ガイジンがいない」と気付きました。

海外では各国で「日本からの退避勧告」が出ているという報道もあり、外国人が少なくなっているのは当然なのかもしれないですが、こう見ないと不思議な感じがします。


taihi-2011.jpg

Yahoo! ニュースより。これでは外国人が消えるのも当然かもしれません。



吉祥寺は、住んでいる人も観光客もどちらの外国人も多い街で、外国人を見ないということはまずありません。
人種は西洋人、インド系、中国系、その他アジア系と多岐に渡ります。


外国人たちが最も多く見られる駅から井の頭公園というところまで伸びている通りに行ってみました。この井の頭公園というのは、このあたりでは最も大きな公園で、その周辺の道には若者向けの小さなショップがたくさん並び、周辺に住んでいると思われる西洋人やインド系の人たちと、観光客と思われる台湾や韓国の人々がいつもたくさんいます。

そして、今日。

いくら歩いても外国人の姿が見えませんでした。


「おー、吉祥寺が日本人だけになっとる!


と驚きにも似た感覚があり、そのまま井の頭公園に入ってみました。


そこには、もはや現在の大災害とはまるで関係のないような日常がありました。


数多くのアベックたちがデートをして、女子高生の集団がいろいろなところで笑いながら話しており、そして、今日はどこかの大学の卒業式だったのか、艶やかな卒業衣装の女性たちが随所にいます。

公園の池の水面は太陽の逆光で光り、その池ではたくさんの人たちがボートに乗って笑っている。


「・・・・・」


一瞬現実ではないような風景に見えましたが、現実なのです。

被災地の方には不謹慎かと思いますが、彼女たち彼らはすでに「楽しみはじめて」いたのです。


私は前回までいろいろギャーギャーと人類がどうだこうだと書いていましたが、結局、人類が地球の他の生き物と最大に違う点とというのは、

「楽しむことに突き進む」

という一点に集約されるのではないかと思うのです。

命をかけて楽しんで生きようとする。
そのためにはいいことも悪いことも起きる。


「楽しむ」という感覚は、少なくとも人類ほどそれを持っている生命は多分あまりないと思います。あるいは「人間以外に存在しない」かもしれない。

楽しむという「語感」は不謹慎にも思える時が確かにあるでしょうが、たとえば、今の被災者の人や、日本人全体にこそ必要なものだと思います。


それにしても、若い人はすごいなあと思います。

私などは何となく、今は心から楽しんだりしてはいけないのではないかと思ってしまいますが、井の頭公園で見た若い人たちは、特に女の子たちは、本当に笑って楽しんでいるように見える。そうやって「精神のサバイバル」を早くもしている。

それがまた異常に美しく見える。

パッと見れば、井の頭公園にいる女性誰もかれもが異常に美しい。


「女神・・・・・女の人の神様か・・・この言葉はアリだよなあ」


などと考えて、ついでに売店で缶チューハイを買って(また酒かよ)、井の頭公園の池の中央にある動物園の入り口の向かいのベンチに座って、いろいろな光景を眺めていました。

すぐ隣では、何かのリハーサルなのか、これが本番なのかはわからないですが、女の子二人組が、ひとりがアコースティックギターを弾き、ひとりが絵本を広げて、大きな声でそれを読んでいる。

その後ろでは赤ちゃんをつれた家族連れがごはんを食べている。

アベックがふたりで寄り添ってひっきりなしに歩いて行く。
みんな笑って歩いて行く。

女性はみんな死ぬほど美しい。
男はみんなひどい


立ち上がって池を見ると、池から太陽の逆光がスパークして移動していく(何の物理現象だ?)。


ああ、来てよかった。


そう思っていた時に、ここで初めて外国人の姿を目にしたのです。
ベンチに座って鳥を双眼鏡で見ている白人のふたりの中年男性でした。

鳥を見ているとはいえ、このふたりがいわゆる上品な人たちではないことは言葉ですぐわかりました。多分、彼らは周囲の人が英語は全然わからないと思って言っているのでしょうが、

「ファッキンは結構みんな知ってるぞ」

と言ってやろうかと思いました。
つまり、会話に「 Fuckin' 」をたくさん使っていた人たちでした。

テレビで見た災害の様子を言ったのでしょぅが、「Fucking mess !」と大声で言ったりしていました。これは適切な日本語だと、「クソひでー状態だぜ」というような感じでしょうか。

まあしかし、何となく「アメリカの私」というような感じもしないでもなく、「こういうような外国人たちは残るわけか」と感慨深く、その「ガイジン」を見ていました。


いずれにしても、初めて見た「日本人だけのこの街」というものを、いろいろな意味で興味深く思って、後にしました。


ところで、今日の美しい女性の風景を見て改めて感じたのですが、日本文化というか、「日本」そのものと「女性" 性 " 」というものは非常に関係があるように感じています。この「性」というのは性別の性ではなく、「属性」などの言葉に使う意味での「性」なんですが、うまく書けません。「女性的」という意味ではないです。


たとえば、「お米を一粒も残さないで食べなさい!」と叱るのは大抵はおっかさんで、お父っつぁんではなかったと思います。

「お米粒を一粒も残してはいけない」という宇宙の責任を担う人類としての言葉を伝えていたのは女性が主だったし、他にもことばの曖昧な言い回しなどを含めて、非常にそのことは感じるのですが、今は表現できる言葉を持ちません。

日本神話とか知っていれば、なんか出てきそうですけどね。
よく知らないのですよ、日本神話とか、古事記とか。まあ、このことは、書けることがわかる時があれば書ければいいなと思います。

この「日本的精神性」というのは、少なくとも、後々の歴史に出てくる「大和魂」というような概念とは最もかけ離れたものだったと感じます。そういう大和魂というような猛々しいものとは「まったく反対」のものだと確信しています。


さて、本当は、ごはん粒を残さない話の続きを書くつもりだったんですが、今から少し用事が出来まして、外出しなければなりません。


今日、外を歩いていると、マスクをしている人が多く、花粉症の季節というだけでは済まない比率でしたので、放射能を意識している方も多いのかも知れません。

私は子どものころからマスクが嫌いで、今でもつけられませんので何もしていませんが、留意される方は、屋内に留まりつつ、口に気持ち程度でも何か当てて、肌との空間を(できればテープなどで)塞ぐというような方法もあるかと思います。

とはいえ、福島のにいる私の奥さんのお姉さんによると、「水を汲むのもトイレも全部外出しなければならないし、両手も塞がるし、マスクなんてないし、毎回濡れタオルで口を塞げるわけないじゃない」ということでした。

タグ:井の頭公園