2011年03月19日



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人類の大きな希望 : 女性「性」の文明



北海道に住む方から、「東京などにも地震の影響が続いていることを知って驚きました」というようなメールをいただきました。札幌あたりでは、被災地以外での物不足などについては報道されていないようです。

とはいえ、東京などは多少不便であるだけで、大したことにはなっていませんので、何かのお力等は被災地そのものの方に向けていただくと嬉しく思います。


また、九州など各地の方からいただいたメールでは、物不足のようなことは、西日本などでは起きていないようで、不足が発生しているのは、関東から東北エリアに限られているようです。


私も北海道で育ちましたので、何となくわかるのですが、北海道などで地震のことがそれほど報道されていないのは仕方ないかなという気もします。

北海道は娯楽などを含めて、かなり独立したメディア体系となっていて、報道内容は北海道の話題が圧倒的ですし、午後の番組も北海道単独の地方バラエティのようなものが主で、本州にいる私たちが思っている以上に、本州の情報は流れない傾向にあります。

私は今、東京に住んでいますが、たとえば「報道が東京の話題に偏る」というようなことはないので、この「地方独自の報道が主流の地域は多い」ということを忘れやすいです。



地震後1週間目の夜の街

子どもの幼稚園が終わり、春休みになったのですが、いつも長い休みには、うちの子どもは奥さんの実家にわりと長い期間遊びに行きます。今回はこんな状況ではありますけれど、本人が行きたいというので行かせることにしました。

実家といっても東京の東村山というところで、ここから近いのですが、しかし、うちの奥さんのほうが子どもと離ればなれになるのがイヤだと、一緒に行きました。地震の時に「一気に通信網が途絶える」ことを経験して、子どもと連絡がとれなくなるのがこわいということでした。

東京は地震直後は携帯も固定電話もずいぶん長い時間使えない状態でした。


そんなわけで、地震後、はじめて夜ひとりになりましたので、夜の町を見て回ろうかと思いました。寒い夜でした。

午後8時くらいに歩いていたのですが、西友などの24時間営業スーパーも今は午後7時くらいで閉める店が多く、街はかつてないほど照明的には暗い雰囲気が漂っています。

西友は午後に行くと、買い占めか流通の問題かわからないですが、やはり食べもの関係は相変わらずあまりなく、節電という理由以上に、店を開けていても意味がないという部分もありそうです。


飲食店関係はどこもほぼ普通に店を開けているように見えます。

たまに行く飲み屋に行ってみました。

カウンターの隣にはたまにこの店で会う二十代の女の子の常連客たちがいて、しばらく話していましたが、こういう時は「あんまりひとりで部屋にいたくないんですよ」ということでした。
みんな、今は知り合いと過ごしていたいということのようです。

他の店でも飲み屋は混んでいました。

雰囲気はとても明るく、いつも以上に楽しい雰囲気で、たまに地震の話は出ますが、どちらかというと、地震とは関係のない話が多いようです。

それでも、会社や仕事のことや、何となく崩壊寸前の雰囲気が漂う市場や金融システムなどのことを考えると、みなさん楽観的ということではないはずですが、それでも、今はそれよりも人と会って、「自分はその人と知り合いだった」ということを確かめたいという意識が強いようです。

これは私もわかります。
数日前まではそういう気持ちもなかったですが、今は人と会いたいです。


しかし、一般の人々が集まる飲み屋は盛況のようですが、やはり昔の知り合いで、水商売関係の女の人に電話をしてみると、接客業の営業状態は壊滅状態のようで、お客さんが来ないらしいです。
まあ・・・これもこれでわかります。

今は「うひょひょひょ」と夜の街に遊びに行く気分ではない気はします。

ただ、「知り合いといたい。知り合いが知り合いであることを確かめたい。そのために話をしたい」という気持ちでいろいろな場所で集まっているように思います。

日本の多くの飲み屋(どんなタイプの店でもお酒を出すところ)は、単にお酒を飲むところというより、そういうように、人たちが知り合う場所として、あるいは知り合いであることを確かめる場として機能している部分もありそうです。


ちなみに、そのカウンターの横にいた女の子がいつもと違って妙にワイルドな格好をしていたのですが、聞けば、節電で街が暗くなり始めた頃から「変な男の人たちがいろんなところでウロウロしているんですよ」ということですので、停電や節電の地域の皆さんはいろいろとお気をつけ下さい。

ふだんは、いかにも女の子らしいファッションの彼女も、今、夜歩く時は「基本的にひとりで歩かないことと、後ろから見ても女性に見えない格好にしている」とのことで、分厚いコートの下に軍用のズボンのようなものを履いて、素っ気ない帽子を被っていました。

ところで、その女の子たちにも先日書いた「人類は宇宙の記憶から独立した優れた生き物だ」ということを、難しい言葉を使わないで言ったりしていたのですが、それなりに興味深く聞いてくれました。

まあ言い方は、

「カラスとか鳥とかって、なんか未来とか予知できてるっぽいじゃん。地震の前に逃げる動物とか、ネズミとかさ。あれさ、便利に見えるけどつまんないんだよ。だって、人と出会ったり恋したりする時に、最初から全部わかってたらつまんないじゃん。ドキドキしないじゃん。人間のこれってすんげえことなんだよ」

みたいな感じで、向こうも「わけがわからないことを言う、しょーがない酔っ払いオジサン」として、適度にそのお相手をしてくれていたみたいですが。


ああ、また余談が長くなってしまいました。
「女性性と日本」ということについて昨日から(お酒飲みながらですけど)考えています。



地球の正体

前回書いた「女性 " 性 " 」というものについてなのですが、最近いただいたメールの中で、一種の神話的な観点からいろいろ書いてくださったものがあるのですが、その中にこういう部分がありました。


母なる大地は遠い過去に身体を八つ裂きにされ大地に撒かれたと言います。
永遠の女性である人間の魂はやっと母の記憶を鮮明に思い出したのかも知れません。




このようなものを読むと、「女性"性"」で考え込んでいた私の疑問は、疑問そのものがおかしなことだったということになります。

つまり、「地球の存在そのものが女性だ」ということになり、つまり、人類はその存在として基本的に女性だということになります。

しかし、この意味は大変に難しく、少なくとも「女性の立場」とか「女性中心の社会」とか「女性の地位がどうのこうの」といったような現代社会で言われるような言葉そのものが「無効」であることがわかります。「リードする」とか。

存在がひとつの場合、上の「中心」とか「リード」とかいったような「比較」の表現は出てこないはずです。

つまり、人類の存在が女性だけなら「女性への比較表現」というのはあり得ない。
また、これは、いわゆる性別(SEX)の男性、女性という意味でもないです。

(うーん、難しい)


しかしまあ・・・実はこのことを突き詰めていくと、私はひとつの懸念・・・というのか、つまり、これを書いている私は男性なわけで、私は「男性"性"」をかなり認識できています(好きではないですが)。

「男性"性"」の社会とは要するに今です。
この2000年くらいの世の中の中心的なシステムの全部です。
政治とか法律とか宗教とか市場とか学校などの存在する現在のシステム全部です。

つまり、「女性"性"」のもとではそれらは存在し得ない。

キリスト教の聖書というのもいかにも男性性な感じのするものですが、以前、ヨハネの黙示録という章を読んだ時に、こういう文言が出てきます。


「見よ、わたしはすべてのものを新たにする」


これが「聖書のできた時代から新しくなる」とするなら、男性"性"から女性"性"への世界への移り変わりであることは伺えるわけですが、具体性に乏しいので、それがどういう世界か今ひとつわかりません。


それはともかく、この「男性"性"」が作り出した「現在での地球での違和感」を考えていくと、つまり・・・「そもそも地球においての男性とは何なのか」という、とんでもない問題に直面することになるのです。

「なんでオレはここにいるの ?」と。


これに関して、「生殖機能としての男女がいなければ、社会は成り立たない」というのはあまりここでは関係ないことです。人類の進化を見れば、そんなものはそぎ落とせたと考えるほうが妥当な感じがします。他の生命と違う進化(存在の誕生)をした人類なら、宇宙の歴史から独立した際に、「本来の存在」だけで、人類を構成することはできたはずです。


人類がそぎ落とした「無駄な機能」

以前の記事で、人類は「未来を予知できず、過去も見えない」という、生きることを楽しむための最大の偉大な進化能力を手にしたということを書いたのですが、人類が手にしたものはこのような能力だけではないと思われます。

すなわち、上の予知できない能力は、「宇宙の記憶の帯(アカシックレコードのようなもの)から独立した」ことによって獲得したのだと思いますが、しかし、さらにすごいのは、人類は「文明を発展させるための生命として、たくさんの機能をそぎ落としてきた」という面があるのだと最近思いました。

たとえば、地球にはこういう能力を持つ動物はたくさんいます。

・空を飛ぶ(鳥や昆虫など)
・速く走る
・土に潜る(モグラなど)
・闇夜で物を見る(コウモリなど)
・磁場で方向を見る(鳥など)
etc...

生き物の能力にはキリがないですが、上のような動物はそれぞれいます。
ここに微生物を含めれば、「真空で生きられる」、「高温で生きられる」、「低温で生きられる」などの能力を持つ生き物もたくさんいます。

人間にはそういう身体能力はないですが、そのお陰で、文明の発展という概念が登場する土台ができたと思われます。

すなわち、飛べない人間は飛行機やロケットを作り、速く走れない人間は車などの地上の移動手段を作り、低温や高温に耐えられない人類は住居と衣服を発展させてきた。今ある文明の多くがそうだと思います。

そして、「人類の宇宙への旅立ち」というのがその延長線上にあります。

「宇宙が何か」という問題は置いておいても、物理的な現在の宇宙への旅立ちには、飛行技術やエネルギー装置などのあらゆる文明の技術の集大成として辿り着いたものだと思います。


私は「人類が宇宙を目指して多少行くことができたり、観測できるようになった」というのは、「物理的な宇宙との決別の時期の前に必要なことだった」ように思います。

すなわち、物理的な宇宙はどこまでも広がっていて、物理的に人類が宇宙のどこまでも行ける可能性はないわけで、ある意味、無駄なことをしている。しかし、「自分の体内に宇宙がある」という考えが、もし正しければ、それがわかった時には、物理的な宇宙との接触自体の必要がなくなるのではないかと考えています。



男性性から女性性へのシフト

話がずれてきた感じもしたので、戻しますが、そんなわけで人類の進化の中では、本来の地球である「女性性だけの存在」で人類が始まっても構わなかったようにも思うのです。

しかし、性としての男性は存在し、それどころか「男性"性"」が今の世界観を支配している。


この違和感は・・・。

今書いていることの始まりはすべて、「人類は宇宙の中での最高に進化した生命だ」ということが前提となっているものですが、人類としてそれを伝えているのは、多分、女性"性" であり、それは性としても「女性」だと考えています。


では、男性"性" は何を伝えているのか?
その存在の意味は何なのか。


前回メールを紹介させていただいた被災地の 74歳の女性がまたメールをくださいまして、そこにこういうことが書かれてありました。

(ここから)


20世紀まで世界を引っ張ってきたのは男性性。
学問も、芸術も、国家も戦争も。
その毒が世界中に回ってしまった。
悪いことに、有能な女性たちがみんな男性性の価値観に侵されている。
古代、歴史以前はどうだったのでしょうか?

価値観というのは男性性
受容力というのが女性性


(ここまで)

男性性と女性性の違いを「価値観」と「受容性」と表現されていました。

それに加えて、私は最近気づいたのですが、「制御」と「無制御」ということもあるように感じています。

私はもうずーっと変な音楽、変な芸術、そういうものに囲まれて生きて、それ自身が人生だった感もあります。どうしてそんなものが好きになったのかはわからなくても、それらを貫き通す概念は「カオス(混沌)」でした。



この「カオス」と「無制御」は非常に近い場所にあると個人的には感じていますが、一見荒く見えるこの「カオス」と「無制御」という2つの概念は、実は「女性性」です。

その反対の男性性は、「制御」と「秩序」が大好きで、たとえば、「階級」というのも秩序から生まれており、金銭的なものを含む区別と差別というのも、秩序から生まれています。

そういう意味ではこの 2000年くらいの地球は「秩序」から作られていたことがわかります。

なんとなくいい響きのある「秩序で構成された世界」。
しかし、実際は今の世の中はどうだろうかという話ではあるのです。

「カオス」と「無制御」というのは、それらをすべて取り去る概念です。

階級、差別、無意味な価値観、法律、組織といったようなものはすべて「男性性」である秩序や制御から生まれていて、反対の「カオス」と「無制御」からこそ、その反対のものが生まれるものだと私は思っています。


「法律などなくても平安に過ごせる」というのが本来の人類の姿のはずですが、それがどうしてできていないのか。あるいは、いつかはそうなれるのか。



被災地に私たちが見ている「巨大な希望」

あまりにも理想的で楽観的なことを書くのもあれですが、今、被災地で被災されている方々の姿を見ていると、


「もしかしたら、私たち日本人にはいつかはそれ(法律など要らない人類の本来の生き方)ができるのではないか」


という、ものすごい希望をそこに見るのです。

これは本当にものすごい希望であり、私が現在のことを神話の1ページだ、新しい聖書の始まりだと書いているのは、気持ち的にはウソでも何でもなく、単なる激励の意味でもないのです。

本当に希望なのです。

それでも、いくら日本語をしゃべって、日本文化を持つ日本でも、今の男性"性" の文明のままでは上の希望を達成するのは難しいとは思います。


日本のこれまでの社会秩序が崩壊するかもしれないという今の時期に、私たちはもっともっと「女性性」というものを考えてもいいのだと思っています。

母なる大地の概念から言えば、地球と人類は存在そのものが女性なのですから。


とはいえ、やはり本当に難しい問題だと思います。
数千年続いた男性性システムの心理的支配はとても強いと感じます。

ちなみに、これらの日本人への賞賛的な記述は「愛国的」という概念とはまったく関係ないし、相容れません。なぜなら、この「愛国的」とか、そもそも「国家」という枠組みそのものが「男性"性"」のもので、本来の人類とは違う性質のものだからです。



コルマンインデックスの第5サイクル

コルマンインデックスというものがあります。私がきちんと説明できるようなものでもなく、ヤスの備忘録のこちらの記事などで詳しく解説されていますが、マヤカレンダーの研究者でもある人類学者のコルマン博士が提唱したマヤカレンダーの解釈です。


このことについて、ずっと以前に記事にして挫折した記述があります。

9つのサイクルと自分 - 164億年前から8億4000万年前まで (2009年08月26日)

という記事です。
2年くらい前のこの時は、まだ生命が宇宙から運ばれてきているということを知らなかったですし、また、ダーウィン的な進化論を普通に信じていたので、いろいろと違和感はありますが、記事は当時のままです。

何しろ、「人類の正体」に気付いたのが、先日の地震のあった後ですし、さらに今は感覚的な時間は地震から止まっていて、つまり「気付いたばかり」なのです。


それにしても、まだ時間は止まっている感じがしますね。


このコルマンインデックスというものでは、今の宇宙の歴史をいくつかのサイクルにわけていて、それぞれにテーマがあります。
その中の第5サイクルと第6サイクルはこうなっています。


第5サイクル
10万200年前から5116年前(9万5084年間) 文化の誕生

第6サイクル
5116年前から西暦1755年(4862年間) 国家の誕生



という部分があります。

すなわち、コルマン博士の言うところでは、国家の誕生を 5116年前としており、人類の男性性の社会の枠組みの一種の「完成」のようなところはこのあたりにあった可能性も考えられます。

加えて、何ともいえないのですが、私は、「文字」という存在そのものが男性性ではないかと考えることもあり、「男性性社会は文字の出現と共に現れた」という可能性も考えます。文字の出現は各国である程度は時期を推測できます。日本での文字の出現はかなり遅いです。


しかし、これら過去を考えることには限界があり、文字の出現前の日本がどんな社会だったかということがわかるわけもないですので(私たち人類は過去も未来もわからない特性を持っているので)、仮に、これから、私たちが、この「第5サイクル以前」に、つまり、国家の枠組みより前の時代に戻ることができたのなら、それは「女性 "性" の社会の復活」の一歩ではありそうです。



あと、「女性の美しさの変化」ということについて書きたいと思っていたのですが、さすがに長くなりましたので、後にします。

今まで(なんだか恥ずかしくて)一度も書いたことはないのですが、私は 2009年の11月頃から、突然、「女性の見え方」が変わったのです。それは、以前と「比較にならないほど美しく見える」ようになってきたのです。

最初の何ヶ月は感覚的なものだと思っていたのですが、昨年あたりからそうとも言っていられなくなり、ちょっと異常な状態です。

そして、昨日の記事に書いた吉祥寺の光景。
吉祥寺の公園の風景を見ていた私はそれがさらに進んだことを知りました。
昨日の井の頭公園で、私は天使だか天女だか女神だか表現はわからないですが、そういうものに囲まれている感覚がありました。

理由はわからないのですが、考えたいとずっと思っているのです。
もちろん悪い気分のわけはないのですが、不思議さは残るのですよ。
だから理由を知りたいと思っています。

どんな理由でもいいのです。
単に女好きが進んだというのならそれでいいのです(その可能性も高いです)。
でも、違うのかもしれないですし。



なんだか・・・読み返すと、異常に長いですね。
これはこれで申し訳ないです。
タグ:母なる地球