2011年03月21日



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変遷を信じて



以前から私のブログを読んでいただいている方で、あるいは最近の私の書いていることの意味がよくわからないという場合はあるかと思います。

一部に関しては私自身もそうです。
そもそも、自分で書いたことの全体的な意味を自分で理解しているかどうかも危うい部分があります。
やはり、どうも書いている瞬間に関してはあんまり自分ではないです。

このことについて、少し書かせていただきます。


今日、地震後に初めて大がかりな整理というか、部屋の現状復帰をしていました(地震でメチャクチャになったというより、地震後にいろいろと引っ張り出してグチャグチャになっていました)。その際、段ボールの中から昔の公演(演劇のようなもの)のいくつかのチラシが出て来ましたて、それを見ていると、いろいろなキャッチや文章がチラシの裏に書かれていて、全部書いたのは私自身なんですが、全然覚えてないんです。

「へえ、カッコイイこと書くもんだ」と、いくつか眺めていました。


脚本自体もそうですが、昔から何かを書くときには何にも考えていない状態のほうが多かったのかもしれません。

そのチラシに書かれていた中にこんなものがあって、これは十年以上前の公演のチラシの裏に、公演とは関係のない「資料」として、提示したものです。「 15歳の殺人犯の少年が犯行前日に日記に書いたものより」とチラシにはありますが、もちろん実在などせず創作なんですが、このように書かれていました。


K君(15歳)の1963年8月7日の日記より

宇宙が生まれた瞬間に考えが至りました。ぼくにつきまとう輪廻をひとつひとつ遡っていくと、そんな大それたところに考えが至ったのです。まだ気体も鉱物の存在もあやふやな原始のその存在は、物質の胎児と呼ぶにも値しないものなのかもしれませんけれど、あるにはあったと仮定するとすれば、果たして数百億年後の今のぼくのこの世俗的な倦怠を予測していたのかどうか、ひどく気になるのです。宇宙の誕生をほんのちょっと前へ、まったくほんのわずかに歴史を後退させると、すべての存在自体はひとつのようなものだったと聞いたことがあります。

(中略)

この状況に対して、ぼくは従順であるべきか、あるいは、反逆するべきなのか。自分の推測や考えから導き出される、このとてつもない不快に従順であることは、たいへんにつらいことだと思っています。もう考えること自体にへとへとです。


こんなことを書いたことを忘れているのですが、しかし、十数年ぶりにこれを読んで私は苦笑しました。

どうしてかというと、これは、以前記事に書いた 23歳の時の「殺せるものなら殺してみやがれ」というのと、ほぼ同じ意味になっているからです。この公演は三十代になってからのものですので、20代、30代、そして、最近も「殺せるものなら殺してみやがれ」と書いてばかりで、ずっと同じだったことがわかります。

「進歩してねー」と。

今はそうでもないですが、昔は自分が書いたものを読み返したりすることはまったくなかったです。基本的に「自分が書いたものや発表したものを振り返ることが恥ずかしい」という思いが強く、消滅への希望が強く出てしまいます。


それにしても、他のチラシも見ると似たようなことばかり書いてある。

「俺たちはお前ら神の領域には踏み込まない。だから、お前ら神も絶対に来るな。俺たち人類の領域に」

とか(連続殺人者の台詞)、

「貴様がオレと同属である限り、絶対に貴様の中に完璧な地獄を作ってやる」

とか(牧師がお祈りの時に言った台詞)、そんなキャッチばかり書いてある。

ストーリー的には、ホモのロシア人聖職者の話とか、変態殺人兄弟の旅の記録とか、そんなばっかりで、別に上のような感じはないんですが、チラシにはそんなことばかり書き散らしていたようです。

だからまあ、これらの神とか人類とかは長い間の個人的なテーマではあったんでしょうね。

ここに来て、ようやく(個人的には)少し進み出しているのかもしれません。


もちろん、それは進行中の神話的ともいえる「今の日本人の方々」から気付かされたものです。被災者の方々だけではなく、それを見守る多くの日本人の方々によってもたらされてものだと確信しています。「人類」と言いたいですが、今はまだ「日本人」という言い方にしたいです。


相変わらず私は「完全に受動的」な中にいて、私自身は何ひとつ自分でも考えず、考えようともしていませんし、考える能力もありません。ひたすら何かが誰かが、それを具体的に伝えてくれているわけではないけれど、何だか結果として私はいろいろと書き殴ったりしている。


シンクロニシティというようなことなのかもしれないけれど、そうなのかどうかもよくわからないし、定義もあまり知らないですけれど、生まれて初めて、「じつは自分は(そして他の人々も)つながっている。あるいは、これまでもずっとつながっていた」ということに何となく気付いたような気がします。ありがたいと思います。


数十億の歴史

そういうこともあり、読まれている方にも、よくわからない、あるいは同意できない部分はたくさんあると思います。それらも、今の話が進行中であるということと、あるいは、「人によっての宇宙は様々である」ということなどをご理解いただけると幸いです。


今、「あらゆる今までの表記上の学問が消えつつある」ことを感じます。自分の考えというものが自分にとってすべてである時代が登場した可能性もあります。宇宙の誕生も歴史も生物の進化も物理の法則も、すべて「60億人それぞれのもの」という時代になっていく可能性さえあります。

つまり、「すべてのあなたのすべての考えは、あなたにとってすべて正しい」。
そうとしか言えない時代が来たのだと思います。



もはや、議論や討論や是非は消滅し、それぞれが自問しながら歴史の中を進んでいき、外面的に存在している「社会」の自動的な運営と共に生きていく。そして、死んだ宇宙と死んだ生命の機械的で自動的な運営を、もう一度宇宙の中で「再起動」させるために人類が関わることができるチャンスに巡り会っている可能性を感じます。

まあ、男性の絶滅とか、いくつか些細な変化は今後あるかもしれないですが、人類が進めるところまで進めるといいですね。



書きたいことはたくさんあるんですが

それにしても、いろいろと書きたいことは多いですが、時間が足りないです。そういえば、男性性について、メールで、


 > 良くわからない混沌(飽和)である女性性は、はっきりと”個”の区別、つまり名称(内臓を砂肝やレバーと名称付けて、尚かつ美味しく味わってくれる)という事をさらっとやってのけてしまう男性性を、女性性はとんでもない憧れの的として見るのかもしれない。


ということが書いてらっしゃったものがありました。
「確かにそういう面はあるかもしれないなあ」と思いました。
名前で生命の個別化を徹底して図るのは男性に多い傾向に思われます。

マニアとかコレクターとかも男性に多そう。

「これとこれのどこがどう違うんだい?」

と第三者には感じるものも、厳密に区別して、相手を尊重したい男性性(尊重していなければさすがにできない)。

植物の世界でも、日本での盆栽とか山野草とかの植物栽培での個の区別の徹底さなんかもものすごいですしね。

これらの、特に「日本人男性の個の特定への執着」ということも書きたいし、いろいろあるのですが、いくら頭の中で考えが肥大しても、物理的な時間はどうしようもないですねえ。

まあ、ただ、最終的には「言葉では表せないこと」に向かって進んでいるようにも思います。
タグ:人類の進化



  
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