昨日、近所にある小さな神社の前を通りかかったら、白いセーターを着た女性が、一心不乱に小さな祠にお祈りしており、その後、見ると、その神社に置いてある「あらゆるもの」に頭を下げ、両手を合わせてお祈りしていました。
「あらゆるもの」とは、すなわち、神社の狛犬や動物の石像、小さな灯籠のようなもの、とにかく、いろいろなものにお祈りしている。
どう見ても、自分にではなく、多分、震災で亡くなった方々へのお祈りをしているのだと思いました。
ちょっと胸を打たれて、ふだんはずさんな私のお祈りも、その時は少ししっかりとお祈りしました。しかし、死者の方々にお祈りする方法を知っているわけでもなく、むしろ、頭を空白にしてお祈りし続けました。
雨の中で
部屋のすき間風の対策などしつつも、私自身は相変わらず、雨だろうが何だろうが、街を歩き回っていて、あんまり意味ないんですが、まあ、すき間風対策は家族とかへの安心材料みたいなものではありそうで、実効的な役目があるのかどうかは不明です。
昨日は雨がひどく、傘が必要でしたが、今日は霧雨でした。
文部省が毎日発表している定時降下物のモニタリングによると、東京でも昨日あたりからはとんでもない量の放射能物質が検出されているみたいなので、一般論としては雨の中は外出されないほうがいいのかもしれません。
これが20日。こちらで赤く囲んだところが東京です。

こちらが21日。

かなり増えています。東京でも数十倍。場所によっては数百倍。
左が I-131というもので、右が Cs-137 というものらしいですが、具体的に何かは知らないです。なお、こちらのページで、放射能他の数値は毎日発表されています。
まあしかし、放射能はこれから何ヶ月くらい付き合うことになるかわからないわけで、用事もありましたので、街に出てみました。人通りは別に少ないわけでもなく普通通りで、また、霧雨なので、私と同じように傘をささずに歩いている人も多いです。
現在の状況は状況として、人々には日々の生活があります。
みんなそれぞれに事情もあるでしょうし。
スーツのセールスマンが全身覆うカッパを着て訪問するわけにもいかないし、道路工事の人々もこの程度の霧雨で工事をやめられるわけでもない。まして、多分、被災地では、水と食糧のためにどんな天候だろうが、歩いたり並んだりしなければならないわけで、しばらくはいろいろと諦めながら生活しなければならない面はありそうです。
奥さんとも、「東京でこの降下物の量だと、そのうち、このあたりでも土壌やら何やらに放射能の問題とか出るんだろうね」と話していました。
精神のサバイバルのためのファイリング
最近は情報サイトやブログはあまり見ておらず、ニュースも見だしを眺める程度で、あまり情報に接していません。
テレビは震災直後は見ていたのですが、1週間くらい前には見るのをやめて、最近は揺れた時だけ、震度と震源地の確認のために見ています。数日前より、NHK教育で朝の子ども番組が始まっていて、「おかあさんといっしょ」などは子どもと一緒に見ています。
先日の吉祥寺で見た、若い人たちの「無意識の精神的サバイバル」、つまり、日常へと自分たちを戻らせようとしている風景に感心して以来、私もできるだけ日常に戻ろうと思っています。
最近、街中で「頭がおかしくなった」感じの人をずいぶんと見ていて、突然変わった環境への思考のシフトがうまくいかないと、子ども以上に大人は、「自分の中でのシステムが完成してしまっていて、既存のシステムの崩壊に弱い」という面はあるような気がします。
また、システムの突然の崩壊には特に中年の男性は弱いようです。
ヤスの備忘録の2009年3月の記事に、ソビエト連邦の崩壊の場にいたデミトリ・オルドフという人のことについてふれられていて、こうあります。
・ソビエトの崩壊時でもっとも邪魔になったのは、社会的地位の高い50代の男性である。仕事を失い、高い社会的地位を追われた彼らは、自我を傷つけられ、国家がどうの、社会がどうの、システムがどうのと悪態をついて飲んだくれ、粗大ゴミ化する。まったく役に立たないどころか、生活をなんとか維持しようと頑張っている人々の足を引っ張る。こうした人々と関わりにならない方が無難である。
・反対に、新しい環境にもっともよく順応し、食糧生産などに労を惜しまないのが主婦を中心とした女性たちである。彼女らは、かつての社会的地位が高かろうが低かろうが、さっと作業着に着替え、労働に精を出す。
最近、街で見るおかしな人たちも中年男性たちです。
タイトルにした「コルゲンコーワおじさん」は今日見ました。
薬局のウインドウの前で、「コーッコッコッコッ! コルゲンコーワ! コーワ! コーワ! ココココココーッ!」と街中で叫び続けていました。たまに、「ビューンビューン」というような別の擬態語も入れていました。
私は「これはひどい」と苦笑して、その光景を見ていました。
そのおじさんの声は雨の中、どこまでも甲高く響き渡っていました。
それはともかく、私自身は「日常に戻る」という行為と共に、「自分の人生で好きだったものを振り返り、まとめる」という作業にも入っています。実はこの作業は震災の1カ月くらい前から始めていたことなのですが、音楽、映画、映像など、自分の人生に影響を与えたものや、好きだったものなどをリスト化、ファイル化などしています。
震災で中断しましたが、また始めたいと思っています。
私の趣味は一般社会に対してはほとんど無意味なものだと思いますが、 YouTube には音楽だけのチャンネルを持っていて、日本のこの30年くらいのマイノリティ音楽を紹介していました。2、3年くらいやっていたと思います。
今となっては、これもやっていてよかったと思います。
震災後にはアップロードする気もおきなく、「日本が大変な状態に陥ってしまい、このチャンネルも休止します。皆さんもお元気で」というような意味の英語のメッセージと共に、ラストアップロードをしたのですが、その後、あらゆる国の人たちから、メールやコメントをもらっています。
「あらゆる国の人」という意味は、つまり、英語のネイティブだと思われる人以外は、「みんな間違った英語でメッセージをくれる」からです。私もどうせ間違った英語で紹介していたので、それでいいのです。
こういうような感じです。

私は英語ネイティブではないので、これらを少しも変だと思わず、ひたすらありがたかったです。
多分、それぞれの世の中で「誰とも趣味合わねー!」と煩悶として暮らしているであろう世界のお友達たちですが、まあ・・・この世に生まれ変わりというようなものがあるのなら、この人たちと同じ世界に生まれて、今度は会ってみたいですねえ。それはものすごくダメな世界でしょうけれど。
食べものへの崇拝の証し
先日の記事で、「人類は他の存在に尊敬されていて、それらを食べて宇宙とつながっている。だからこそ、食べものへ尊敬を忘れてはいけない」というようなことに気付いたのですが、私の家では、これまで、子どもに「ちゃん食べなさい」ということはあっても、「一粒残さず食べなさい」という言い方をしたことはなかったのです。
このことに反省して、やっときゃよかったなあと思いましたが、しかし、一方、「日本人の男性」というのは多分、そんなことを教わらなくともしている。
たとえば、牛丼屋や立ち食いそば屋のご飯メニューで、「ごはん粒を残す男など基本的にいない」のです。
あるいは、いっけん荒々しい作業員の男たちが外で弁当を食っている。
そして、食べた弁当の空き箱が大雑把に捨てられている。
ゴミの捨て方は無造作だけれど、しかし、「そこにはご飯粒など残っていない」のです。
日本人は「はし」などという、ごはん粒を一粒残さず食べるにはあまりにも適していない食事道具を使いながら、この世の男たちは実は、ごはん粒を残すということなど「彼らの世界観の中にない」ようなのです。
もちろん、日本人の男性全部ではないでしょうが、ほとんどの日本人男性がそうだと思います。
「日本人」と書きたいですが、女性は多少違うようにも感じないでもないです。
昔、アジアの国をよく旅行しましたが、他のアジアの国々では「ごはんは残すのが当たり前」であり、あるいは、「残すことが美徳」という国もありました。
多分、この日本人男性の「食べる個を特定する(名前付けする)、そして、残さない」ということ。
形式といえば形式ですが、この形式でかろうじて男性、男性性は宇宙との関係を断ち切られていない感じがします。
それにしても、この男性性とか女性性の話は、毎回バラバラに展開していて申し訳ありません。事前に書くことをもう少し整理しておくといいのですが、それをやると、今度は何も書けないのです。困ったものですが。
そんなわけで、マイペースにいきます。