関東や東北では子どもたちの不満が高まっているんだろうなと思っていました。
すなわち、多くの地域で、
・家から出ないような感じの習慣
・節電や停電でほぼ営業が停止している娯楽施設
がおこっています。
そして、震災後しばらくは NHK教育を含む多くのチャンネルは非常時放送で、子ども番組もなかなか再開されませんでした。
情報から受ける精神的なダメージもあるだろうかと思っていました。
たとえば、今の多くの子どもたちにとっては、生まれた時からあり「日本にあって当たり前」だったディズニーランドも閉鎖され、少なくともかなり当分は開くことはない。動物園なども多くが休園しているというような「ダメージの多い情報」は多いです。私は遊園地が好きではないなので、ディズニーニーランドにも他の都内の遊園地にも行ったことはないですが、好きな子どもは多いと思います。
しかし、では、街の子どもたちの様子は暗いかと、それはまったくない。
震災の二日後だったか、私がホームセンターの様子を見るために歩いていた時に、交差点の信号のところで、自転車に乗った小学生の男の子三人が大声でこんなようなことを話していました。何か特定の商品を探しているようでした。
「サミットは全滅〜ッ。ガラクタばっかり」
「加藤たちは久我山のほう回ってみるって言ってた」
「どこで落ち合うか決めた?」
「西荻と青梅街道の交差点」
「今何時よ?」
「4時」
「ちー、あと1時間か。時間ない。じゃ、宮前のほうまわろーぜ」
「ひゃっほー!」
と叫びながら自転車で走り去りました。
嬉しそうでした。
この頃はまだ、とにかく騒然としていた頃で、大人たちで「ひゃっほー!」とか言っている人はいない頃でしたが、子どもたちは「生まれて初めて見るスーパーに何もない状態」に興奮していたらしく、とても高揚していた。
生まれて初めて見る様々な光景・・・。
もっとも、今回のことは、老人たちでも「初めての体験」。
しかし、うろたえる大人を尻目に子どもたちは強いというのが実感です。
そういえば、第二次大戦中の手記などを読んでも、戦争中でも娯楽を探し続ける少年少女の姿の記述を目にします。東海林さだおさんのエッセイの中に、戦闘機のガラスは「独特の匂いがした」ために、「においガラス」と呼んで、子どもたちは先を争って戦闘機の残骸をあさっていたというような記述があったと記憶しています。
子どもというのは、「そこがどんな地獄であろうと楽しくないとイヤだ」という面というか、そういう資質はありそうです。
なので、ディズニーランドがなくなり、節電や停電などで娯楽施設や、家でのゲームなども損なわれていき、これまでの物質的な楽しみがほとんど消えても、子どもたちは「絶対に」娯楽を見つけていくはずです。
昨日また井の頭公園にひとりで行ったのですが、若い人たちの表情から、私はそこに憑きものが落ちたような気配を感じていました。一応、今はまだ非常時なわけですが、力が抜けきった、非常にリラックスした人たちの姿がありました。
まあ、そういう人たちばかりが公園に来ていたということなんでしょうが。
ところで、井の頭公園は大変混み合っていましたが、地元の西荻窪の公園は、今日のような暖かい日中ならいつもは混み合う公園でも、どこもガラガラで、やはり基本的には外出は控えているという感じになっているようです。
「そんなの、もーいいや」という人たちの集団が昨日の井の頭公園にいた人たちなのかもしれません。
アベックたちが話している内容といえば、
鯉にエサをやっているふたりは、
「エサをね、こっちに投げようとしてフェイントかけて、逆のほうに投げたのよ。そうしたら、鯉がさ、先にそっち回ってんの。鯉ってさ・・・頭いいよね。」
とか話しており、その横のふたりは、
女 「ここの池にいる鳥ってアヒル?」
男 「アヒルじゃね?」
女 「飛ぶの? アヒルって」
男 「鳥だから飛ぶんじゃね?」
女 「ここであの鳥が飛んでんの見たことある?」
男 「あー・・・そういえば、ないなあ」
と真剣な顔で話しあっていたり、「脱力にも程があるだろ」というような人々が多かったのですが、それだけに私が安心できる場所になりつつあります。
ちなみに、ガイガーカウンター(放射能測定器)を持っている知人が言っておりましたが、東京都内の放射能値は、通常に比べると、数値的にはかなり高いです。これは厳然たる事実です。
でも、「じゃあこうしよう」という行動指針が存在しないのが今の私たち東京の人たちの毎日です。
何しろこれだけ広範囲の都市が「放射能に囲まれながら日常生活を送る」なんてのは、世界で初めてのことですしね。
見ていなかった自然の風景
今日は、子どもが「もう外に出たーい!」と言い始めたので、小一時間ほど奥さんと子どもと三人で散歩しました。
前述したように、公園にはあまり人はおらず、住宅街そのものにも人の姿があまりありません。
歩いている時に、わりと大きな敷地の家の門のところで、やや高齢の女性が、「じゃあ、ちょっと行ってきますね」と、外出するところで、その後ろに立っていた、多分ダンナさんと思われる高齢の男性が、
「放射能、気をつけて」
と声をかけているのを見て、私は自分の奥さんに苦笑気味にこう言いました。
「なんだか、モンティバイソンの世界だよなあ。まさか生きている間に、実際の生活の中で、『放射能に気をつけて』なんて声をかけながら生活することになるとはねえ。それに、言っていたあのオジイサンもわかっていると思うんだけど、『気をつけて』って言ってもどうにもならないことはみんな知ってんだよね。でも言う。風邪がはやっているから気をつけて、泥棒に気をつけて・・・。挨拶だよね。放射能という言葉が日本の挨拶に組み込まれた日だよなあ」。
ところで、そのオジイサンの姿を見たすぐ後に、住宅街の中に、ものすごく大きな木が立っているのが住宅の屋根越しに見えました。
私は指をさして、
「なんだあのでかい木は?」
すると、奥さんは、「何言ってんのよ。いつもここ来てるじゃない」と言いました。
木のところに行ってみると、そこは小さな公園で、その公園の面積よりも広いのではないかというくらいに上部で枝が周囲に大きく広がっているケヤキの木があるのでした。
奥さんによると、「ここは、この木を残すためにわざわざ公園にしたみたい」のことでしたが、しかし、住宅街の中にあるとは考えられない大きな木でした。
このあたりは私は今まで何年もの間、歩いていた場所です。
しかし、このでかい木を知らなかった。つまり、「認識していなかった」。
これは先日の記事の「黄色い付着物」と同様に、今まで「普通にそこにずっとあった光景」だったのに、私は「見て」いなかった。見ていると自分では思っているけど、実際には見ていないのと同じ。
最近書いているように、「宇宙や自然の法則はすでに死んでいて、人類の認識によって起動する」というようなことがあるのならば、私はこのケヤキの生と存在を「殺し続けていた」ということになり、何とも無念な気持ちになりました。
その後、善福寺公園というところを歩いたのですが、見れば自然の姿のなんということか! この「なんということか」というのは「美しくて」とか、そういう形容が入るものではないのですが、「なんということか!」と、見入っていました。
1998年のアメリカの戦争映画で「シンレッドライン」というのがあるのですが、アメリカの戦争大作ではベトナム戦争の映画などが多い中では珍しい太平洋戦争を題材にしたもので、ガダルカナルでの米軍と日本軍の戦いを描いています。
結構好きで何度か見ましたが、この中で、主人公が今日の私とほとんど同じ心境に陥るシーンがあります。YouTube を見てみたら、映画の予告の最初のシーンに入っていましたので貼っておきます。
この予告の最初の10秒くらいです。
日本人と戦う米軍の主人公がガダルカナルの自然の姿に「圧倒」され続けるシーンが映画の中で何度も描かれます。
上の動画には字幕等入っていないのですが、この森林のシーンでの主人公がつぶやくイメージ(台詞ではなく感じ)と、今日の善福寺公園で感じた心境とわりと似ている感じでした。
「好きな映画のワンシーンを体験できるとは」
とちょっとご満悦でした。
ところで、先日本棚を見ていましたら、大岡昇平の「野火」がありました。
奥さんのものだと思うのですが、この「野火」は中学だか高校だかの時に読んで、極めてショックを受けた小説で、震災後の In Deep での一連の記事を書いている時に、何度かこの小説のことを思い出していたのですが、私は大人になってからは「小説」というものをはほとんど読まなかった人で(ここ20年はほぼまったく読んでません)、「野火」も手元にはないと思っていて、わざわざ買い直すのもなあと思っていたところでした。それが奥さんの本棚から見つかったのでした。
「野火」は第二次大戦中に、フィリピンの戦場での殺人経験と人肉食いの光景(主人公は人肉を食べなかった)の中で発狂していく「私」の姿を描いた日本の戦争小説の代表作のひとつです。教科書などにも取り上げられていそうなものですが、後半は「あまりに狂った心象描写」が続くので、あるいは教科書にも載せづらいかもしれません。
後半の章である「狂人日記」や「人類」といった名前のつけられた章あたりからの展開は異常であり、若かった私にはむしろ「パンクな小説だねえ」とかっこよく思えたものでした。
たとえば、これは戦場でひとり戦場を彷徨う主人公が次第に「あらゆる草木が自分に語りかけてくることが始まる」シーンです。
(30章 「野のゆり」 より)
万物が私を見ていた。
草の間から一本の花が身をもたげた。直立した花梗の上に、硬く身をすぼめた花冠が、音楽のように、ゆるやかに開こうとしていた。その名も知らぬ熱帯の花は芍薬に似て、淡紅色の花弁の畳まれた奥は、色褪せ湿っていた。匂いはなかった。
「あたし、食べていいわよ」
と、突然その花がいった。私は飢えを意識した。その時、再び私の右手と左手が別々に動いた。
手だけではなく、右半身と左半身の全体が、別もののように感じられた。飢えているのは、確かに私の右手を含む右半身であった。
私の左半身は理解した。私はこれまで反省なく、草や木や動物を食べていたが、それ等は実は、死んだ人間よりも食べてはいけなかったのである。生きているからである。
空からも花が降って来た。同じ形、同じ大きさの花が、後から後から、空の奥から湧くように夥しく現われて、光りながら落ちて来た。そして末は、その地上の一本の花に収斂された。
その空間は広がって来た。花は燦々として私の上にも、落ちてきた。しかし私はそれが私の体に届かないのを知っていた。
この垂れ下がった神の中に、私は含まれ得なかった。その巨大な体躯を大地の間で、私の体は軋んだ。
私は祈ろうとしたが、祈りは口を突いて出なかった。私の体が二つの半身に別れていたからである。
私の身が変わらなければならなかった。
その後、主人公の体は、「生命などの有機物を食べる」ということに対して、「右半身」と「左半身」がバラバラとなっていき、狂人と化したまま、捕虜となり、日本へ帰還した後もそれは続くというようなことになります。
興味深いのは、今から 70年前に書かれた小説に「右脳と左脳」という概念とほぼ同じような概念が描かれていることです。小説では、主人公は、「右脳と左脳の整合性が崩れることによって」発狂しました。
ヤスの備忘録のこちらの記事にコルマン博士の 2009年の論文の翻訳がありますが、コルマン博士は一貫して、新しい時代は右脳と左脳が統合することによって、人類に新しい価値観が生まれることを書いています。
大阪ショックを越えて
今はほぼ回復しましたが、「食べることの悩み」に関しては、ちょっと前に私も経験したことがあります。
それは、前回の記事でふれた、「大阪ショック」の翌日から肉が食べられなくなったのでした。あの記事を書いたのが、2009年の9月頃で、それから1年2カ月くらいの間、肉を噛むことができなくなったのでした。この心理的な経緯は複雑なのですが、まあ、起きた事実としては「肉が食べられなくなった」のでした。
これなんかは「右脳と左脳のバランスが崩れた」いい例でなのかもしれません。
そして、これは昨年の12月頃に、「ふと」回復しました。
回復したのは、「焼き鳥」のおかげでした。
行った飲み屋でメニューに「チレ」があり、「そういやチレ好きだったなあ」と注文してみたのです。
チレとは動物の脾臓です。そして、食べた時に、あまりのおいしさに感動して「そういえば、昔はこうやって焼き鳥をおいしく食べていたんだ」と思い直したのでした。脾臓というのは不思議な触感で、「モチ」みたいな食感なんです。ネッチリとしている。他の内臓のどこにもない食感で、置いてある店は少ないかもしれないですが、昔はメニューにあれば、ほぼ注文していました。
「久しぶりに食べた脾臓」によって、肉をまた噛めるようになりました。
とはいえ、1年以上も肉を食べない生活が続くと、普通の生活では肉は基本的に食べないような感じにはなってしまいましたが、食べた時にはおいしく感じます。
いずれにしても、これから出現する未来が本当に「右脳と左脳が統合した世界」で、そして、もしかすると、それを開始するのが「日本」と「日本人」である可能性があるとするならば、なるほど、今日の森林の風景も理解できるかも、と思ったりしたのでした。
それは、今まで「左脳で見ていた風景を右脳でも見始めた」気がしたからです。