2011年04月08日
さきほど(4月7日の午後11時30分)、多分ここ最近では最大の余震(マグニチュード 7.4)だと思われる地震がありました。
東京でも最近では最も大きな体感の揺れと長さで、「関東に来たのかな」と思い、テレビをつけると、緊急地震速報が報じる震源地は宮城沖で、「まだ東北にこんなでかいのが来るのか」と、やや絶望ぎみにテレビを眺めていました。東京でも揺れは1分近く続いて、地震速報では宮城の各地で震度6強などを観測していました。
最近、「時間がまた動き始めた」というようなことを書きましたが、それはそれとして本当ですが、「止まっていた時のこと」を忘れさせてくれるようなことも、まだまだあり得ないと思いました。
ちょうど、昨日、甚大な被害を受けられている気仙沼に住んでらっしゃる方からメールをいただいていました。その方も以前、私が住んでいる東京の中央線という沿線に住んでらしたということと、あと、私と同じように舞台関係のことをされていたそうです。
メールは気さくな感じで綴られているものの、気仙沼は現在でも、その惨状はものすごいもののようで、「吐き気」というような表現も入るほどのものでした。さきほどの余震の時にその気仙沼のことを思って、さすがに暗澹とした気分になりましたが、しかし、その方はメールで、たとえ今後、物質的に貧しくなったり、あるいはさらなる苦難があっても、「日本人として恥ずかしくない生き方をしていきたい」と書かれていました。
私も今回の震災での東北の方々の姿を見て、そして、その後の現地の支援を含めた様々なことをされている「個人」の方々の姿を見て、「日本人であるということに喜びを感じられる感覚」を取り戻しています。
これは「日本人の誇り」とか「日本人は偉い」とか、そういう面倒な話ではなく、「自分もこの東北の人たちと同じ日本人なんだ」という嬉しさかもしれません。
今まで、ともすれば「愛国的」などという言葉で語られてしまった「日本人であることを愛する」ということを、もっと自然に、ある意味では女性性的に、ポジティブに考えられるようになりました。
本来はこの「日本人であることを喜ぶ」ということに関しては、言葉で言うことではないことだと思っています。
でも、今は言葉で書いています。
神話が見せてくれた地震への最善の対処
ところで、今日の地震の時にテレビをつけた時、 NHK の仙台支局だと思うのですが、放送局内の様子が映されていたのですが、そこで見た人たちの行動。
多分、仙台も震度は6前後はあった中でしょう。
その中で、そのスタジオに映っている人たちがしていたこと・・・。
髪の長いスリムな女性はホワイトボードが倒れないように支えながら冷静に周囲や天井を見ている。
アナウンサーの方でしょうか、黒いスーツを着た女性スタッフは、揺れが収まった瞬間、動じることなく報道の準備を始める。他にも、落ちそうなパソコンを支えるスタッフ、そして、カメラを持ったカメラマンはその様子を揺れながら撮影している。
もはや、そこには「地震に対しての怖れ」など見えないのです。
起きる事象に対して、淡々と対処し、次に進む。
世界のどこを見回しても、震度6の地震の揺れの中でこれをできる人はいません。
本当にいません。
本来ならトラウマレベルのこの地震に対して、すでに「不要な恐怖心はない」とさえ映ります。
もちろん、余震とは言え、震災クラスのこの地震で、何らかの被害が出ているのは間違いないのでしょうが、「大きな地震では被害が出る」という不可抗力も含めた現実と、「それをむやみに怖れる」こととは大変に違いがあるように感じます。
このあたりにも「地球に生きる人類」が到達した究極の行動が見えてきます。
宇宙も神もすでに人類を脅せない
地震は古来から、「神の怒り」だの「大地の怒り」だの、いろいろと言われてきました。聖書にもコーランにも地震の記述は多数あり、他の様々な聖典でも、それをにおわせるようなニュアンスはさまざまに書かれているようです。
まあ、実際に地震が神の怒りでも大地の怒りでも、それはそれなら構わない。
勝手に怒りなさいといった感じですが、実際には地震は「現象」でしかないことは確かであって、いわゆる「地球は生きている」という概念や太陽などとの関連から考えると、単純な自然現象だと言ってしまうには抵抗があるにしても、それでもやはり「現象」という言い方としては間違っていないと思われます。
そして、原因がどうであれ、この「地震」というものに対しての人類の正しい態度としては、上の NHK 仙台局で映っていた人々の態度が 100パーセント正しいわけで、そして、多分、東北の多くの方のとられたであろう態度が 100パーセント正しいと思います。
それは「不安を先行させずに、起きたことに淡々と対処する」という現実的な態度です。
地震が起きて、「ああ、神様、助けてください」と、住民全員で輪になり手を繋ぎ、空と大地に祈りを捧げるというような人間の姿も、世界での歴史の上ではあったかもしれませんが、それは正しい行動とは思えません。
あるいは、ただ叫び嘆き悲しむだけの連続も正しくありません。
それでは、「次の地震に対処できない」からです。
仮に地震が神や大地の怒りであろうと、太陽と地球の間での磁場的な物理事象であろうと、地質学的な単純なイベントであろうと、理由は何であろうと、対処する行動のすべては、「上の東北の人たちの方法でOK」だと思います。
その理由は、「地震は現実の事象」だからです。
すべては現実。
なので、「対処の方法も現実以外は通用しない」はずです。
「起きていることに対処した後」は、「次の地震や災害への対処を始める」。
これは当たり前のことのように思えるかもしれないですが、こんな単純なことでさえ、今回の震災での東北の人たちの行動を見るまで、私は気付かなかったのですよ。
やはり、以前の私には「意味なく地震を怖れていた部分」があった。
そのままだと、次は東京だ、東海だ、西南海だと、「見えない神や大地」を怖れていたかもしれないです。
しかし、そんな不安を持つことよりも、「淡々と対処して準備する」ということのほうが、どれだけ大事なことかと気付いたのです。
そして、当たり前ですが、「準備には恐怖心なんてまったく必要ない」ということも言えます。やや不謹慎ですが、「まだ」本格的な地震が来ていない私たちのような人たちは、ある意味では「準備を楽しむ」くらいのほうが効率的な準備が出来るようにさえ思います。
私は今回の NHK の放送局の人たち、特にまったく動じていないようにさえ見える女性たちの姿を見て何だか涙が出て来て、
「人がどんどん宇宙と並んでいく」
という感覚に陥りました。
宇宙全体と共有したいこの現実感覚
変な話ですが、この「自然災害に対しての歴史上でも比類のない現実的な姿」は、実際には、すべての宇宙の人々への参考にはなるはずなのですよ。
どういうことかというと、宇宙の観測が進めば進むほど、「宇宙は全域が大体同じようなもん」というのはわかってきていて、つまり、地球でいえば太陽系のようなものが銀河系の中に無数にある。そして、その銀河自体も無数にあると思われる。
私たちの太陽系と極めて似た場所には、確実に極めて似た環境と、極めて似た人々や他の生物が生きていて、そして、それらの惑星ができた過程は多分、地球とほぼ同じだと思うのです。
つまり、「いろんな意味で地球と同じ」惑星はこの宇宙に無数にある。
惑星の作られ方と歴史が地球と同じなら、起きる自然災害も同じようなものであるわけで、地震は必ずある。そして、中には日本のようにプレートや断層が数多くある地域の上に文明ができたという場所も無数にあるでしょう。
なので、宇宙には「無数の立地的な日本の兄弟地域」があるわけで、そこではやはり地震に悩まされていると思うのです。どれだけ文明が進んでも、地震の発生を止めることはできないし、また「地震を誘発する」ことも地震の規模のエネルギーを考えると、やはり難しい。
なので、どこのどんな場所の人たちも「地震がいつ来るかはわからない」と。
そういう場合、「おお、神よ大地よ、怒りを静めたまえ」と言っても地震は来るのですよ。太陽にお願いしてもダメです。
宇宙が人類に科した「地震と対峙する態度」というのは、上の東北の人たちの態度が最善だと思うのです。
以前書いたことがありますが、3月11日の地震の天文学的な規模を考えると、今後、日本のどこかで、あるいはプレート関連では世界のどこで大きな地震が起きても、それは不思議ではないはずです。でも、それがいつかは正確にはわからない。
そして、地震の予測というのは、予言も含めて何から何までピッタリと当たる予測以外はほとんど意味がなく、そうでないなら、「いつどこに地震が来てもいいように考えて備える」というのが、もっとも合理的な気がするのです。
もちろん、どんなに準備しても、地震には被害が出ます。
建物、人命。
大きな地震ではそれを避けることは難しいです。
しかし、それをむやみに怖れて、意味なく脅えることは、地震という現象に「神や大地の怒り」の概念が登場する背景になりかねない。
地球最大の生命体である「海」は絶対に東北の人たちを尊敬している
人類とか日本人とかのことはこれまで何度も書かせていただきましたが、目指すべきは、私たち人類が「それら神やら大地やらと対等」であることで、そして、その兆しを東北の方々に見ている気がするのです。この進化を後退させてはいけない。
人々が自然災害を前にして、地面にひれ伏して拝み、生け贄を捧げていた頃から見ると、この「淡々と対処して、前に進む」ということは「驚異的な人類の進化の一場面」だと思っています。
災害を赦す・・・という言い方は被害に遭われた方の前では言いにくいですが、必要以上に怖れたり、憎んだりすることはあまり意味がないようにも思います。
考えれば、日本という国は、その大都市の多くが「海岸沿い」にあります。
他の国を見ればわかりますが、こういうことはそれほど普通のことではないです。
「上から五番目くらいまでの都市のほとんどが海沿いにある」という国。
因果な話ではあるけれど、でも、食べものの話の時にも書いたのですが、日本人はどの民族よりも海の食べものを愛していて、認識していました。なので、そんな海から怒りを受ける筋合いはないし、あるいは、今回の災害に対して、海への憎しみをもって接しているという方も実は少ないのではないかと感じます。
今は放射能を含めて、いろいろとありますが、やっぱり、本来的には「海は東北の人たちを尊敬している」と思っています。そして、いつかは日本人全体が「海に尊敬される」可能性があると思います。日本の歴史はそれを語っていると思います。
海はそれこそ水の構成要素から見ても「何もかもが生き物」であって、地球の表面を覆い尽くす「巨大な生命」だという見方も出来ます。その「地球最大の生命体」がもっとも仲良くしたいのは、今は東北の人たちで、そのうち、日本人もみんなそう思われるようになれると思う。
まあ・・・その・・・日々気分は悪くないのですが、相変わらすぐ涙が出て、止まらなくなります。今日もさっきの地震の時の NHK の人たちの姿を見て以来、涙が止まらなくて、その中でこれを書いていました。何だか途中、宇宙とか出てきてよくわからない話になりましたが、すいません。
被災地の方々には相変わらず頑張ってくださいというような言葉しか言えないのですが、本当に頑張ってください。
そして、被災地ではない場所にいる私たちも、この東北の人たちの「対処して、現実を見ながら前に進む」という、人類の歴史の中で最も優れた地震への対処を見習いたいと考えています。
まあ、実際には震度7とか来たら、私なんかは実際にはうろたえるでしょうけれど、それでも、この1カ月の地震の連続で、以前よりは耐性がついています。
子どもたち、どうも
そして、世の子どもたちもこの1カ月の地震の連続で耐性がついてきているようです。
地震が来ると「すかさずサーフィンの真似をする」という強者の子どももいるようで、「すぃ〜すぃ〜」とか言って乗り切るようです(苦笑)。
今の子どもたちは文字通り、「新しい時代」の子どもたちだと感じます。
そして、彼ら彼女たちは、これまでの数百年の歴史以上に多くの自然災害と食糧不足に対峙することにはなると思います。震災前のこのブログで書いていた多くの記事にあったような自然災害の懸念はほとんど継続しており、子どもたちがダイレクトに経験する可能性は高いと思っています。
どれくらいが生き残るのかも想像はできません。
それだけに、多くの子どもたちには「自然災害を怖れて大地にひれ伏して拝む」というようなことを覚えてはほしくないです。
「現実に対処して前に進む」。
多分それ以外の方法はやはりないのだと。
そして、それは恐怖の心情の中でおこなうのではなく、できるだけ「楽しく乗り切ってみる」。
大人はそれをサポートすればいいのだと思います。
どのみち、子どもよりは先に我々は消えるのですから、今見ている東北の人たちから学べることは何でも学びたいと思っています。そして、それを子どもに教えていきたいと思います(うちの子など、結構な「地震博士」になっている)。
どんなに理想的なことを言っても、この先、子どもたちは文明の終焉を含めた「圧倒的な光景」を見て生きていくということは仕方ない面もあります。だから、強くなければならない。強くなるためには、現実的であることと同時に、「自分と宇宙は対等だ」ということを小さな頃から自覚できるようになればいいなと思います。
まだまだ東北の方々に学ばせてもらいたいと思っています。
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