2011年04月14日



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どんなに愛される資格があるのかを私たちは知らない



江戸時代の話ですが、1858年に、日英何とか条約のために来日していた英国の使節団の一員で、船艦の艦長だったオズボーンという人が、日本についてこう書いています。

この町でもっとも印象的なのは、男も女も子どもも、みんな幸せで満足そうに見えるということだった。


何だか当たり前のことのように見えるこの短い一文ですが、しかし、イギリス人の彼が「みんな幸せで満足そうに見える」と書いたということは、彼の国、あるいは彼が見てきた国では、少なくとも「みんなが」幸せそうに見えたわけではなかったということなのかもしれません。

今の日本がどうかというのはわかりませんし、当時の日本だっていろいろとあったとは思いますが、少なくとも当時の英国人には日本は「そう見えた」。

その後、彼は日本から英国にいる母親に手紙を書きますが、その内容は、

日本人は私がこれまで会った中で、もっとも好感のもてる国民です。どんな地位にいようととも、私は日本なら喜んで出かけたいと思っています。


というものでした。

こういう例は多く残されていて、たとえば、「逝きし世の面影」という著作にたくさん出ているようです。こちらに内容の紹介があります。



▲ 本自体は楽天にありました。


しかし、ここで勘違いしたくないのは、「だから日本は素晴らしい」という言葉が仮に私たちの口から出てしまうと、それで、もうダメだと思うのです。


江戸時代や明治自体などに来日した外国人の感嘆は、日本人が「これはすごいこと」だと気付かないで淡々と日常的にしていたことで、そして、そのすごさに気付いていなかった日本人がすごかった。気付いてしまった今は不幸とも言える気がします。今の時代は、「だから日本はすごい」と言わなければならなくなってしまった。

本来は「無言」に戻るべきなのでしょうが、この「不幸」の中、もう少し言葉にしてみます。


たとえば、日本では比較的昔から普通のことだと思えるような、

・道にゴミや糞尿がなく、きれいだ
・玄関前に花などが置いてある
・子どもと大人が一緒に遊んでいる


こういうことは当時の西洋では「発想もつかないこと」だったようです。

西洋では古くから「子どもは小さな大人であり、邪魔な存在」という意識がかなり長く続いており、今は違うでしょうが、「道ばたで子どもも大人も遊んでいる」という光景は夢の世界のように見えたのだそうです。まあ、今の日本は治安などの問題で、そういう光景は少なくなってしまいましたが(道ばたに子どもがいない)。

また、一般的に昔の西洋では、道に糞尿を捨てるのは特別なことではなく、「道は汚いところ」という意識がかなり一般的だったと記録されています。


以前、記事に書きましたが、今、日本はどちらかというと、ふたたび鎖国の時代に戻りつつあるかもしれないということがあり、さらには、「国際社会が日本のことを忘れ去ってくれるかもしれない」ということがあります。

これはリスクの大きさを承知で書けば、日本にとってひとつのチャンスだと私は考えています。もともとの日本にあった(そして本来は今でもある)「特別ではない普通の日常」を取り戻すことができるのかの瀬戸際に今の日本はいるように思います。




一蓮托生の宇宙

私は「人類と宇宙から独立した」ということを最近書いていて、以前、「宇宙も自然もすべてが人類を尊敬しているのかもしれない」と書いたのですが、昨晩、ふと考えがさらに進みました。


すなわち、宇宙とあらゆる自然は、ただ人類を尊敬しているのではなく、人類である私たち以上に、宇宙も自然も私たち人類(すなわち、自分たちを認識してくれているもの)を愛してくれているはずです。人類が消えると宇宙も消えるということがほぼ確実となっている以上、「宇宙の最後の存在意味は人類を存在させ続けること」だと思います。


つまり、宇宙も人類も、その他のすべても「何もかも常に一心同体」であり、そこに優劣はないのだと気付いたのです。


これは「人類は尊敬されている」という考えからさらに進化していると自分で思います。なぜなら、もともと私は「尊敬」という言葉が嫌いだからです。

若い頃から「尊敬している」という人はいませんでしたし、今もいません。
あるのは「好きな人」という区分だけで、それはたくさんいます。

このブログに何度もでてくる作家の埴谷雄高さん、パンスペルミア説の生物学者フレッド・ホイル博士、パチプロの田山幸憲さん、昭和天皇、あとは、米国の元プロレスラーのストーンコールド・スティーブ・オースティンといった人たち。

こういう人たちはみんな好きです。でも、尊敬ではない。

大体、埴谷雄高さんなんて何度も何度もここに小説の引用だとか出させてもらってますけど、「死霊」そのものは読んだことないですからね。「死霊」第一巻は持っているのですよ。でも、3ページくらいで挫折して、あとは「すてきな飾り物」となっています。

ただ、埴谷さんの対談はすべて読んでいて、小説の引用もそれらの対談集などに出てくる引用で理解したものです。「死霊」は私程度の頭の人では「漢字すら読めない」ほどの男性性小説で、おもしろいものではないです。

でも、埴谷さんはカッコイイ。素敵だ。
そういうことになると思います。


宇宙と人類が一蓮托生の関係にあることについては、観念的な問題だけではなく、「私たちを取り囲む微生物の働き」などでも多分わかることのように思っています。先日書いた空間をつないでいるものの正体という記事で、私にメールを下さった方の知人の方のお話を紹介したことがあります。
そこにあった、


 > この世界には微生物が隙間なく蔓延している


という一節。

これが宇宙全体を貫いているとすると、「宇宙は繋がっている」ということが物理的にも言えることになると思うのですが、しかし、ここには以前、「ペアである自分」というものを書く原動力ともなった「壁」があります。

それは、「光速の限界」という物理の問題です。

100億光年先の「微生物」と繋がるためには、光速で100億年かかってしまう。
しかも、宇宙はもっともっと果てしなく巨大に広がっている。


「全部の宇宙が一体」であるためには、この物理の法則を打破する必要があるわけで、だからこそ、「自分の中にある宇宙」を考えてみたくなったり、あるいは「今、私たちがいる場所(たとえば地球)が最も大事な場所だ」ということになるのだと思います。

光速で瞬時に移動できる範囲で物事を拡大解釈していけば、きっと何かがそこにあるような気がします。

そして、それはその時に個人個人考えられる範囲でいいのだと思います。

たとえば今なら「東北のことを考える」でもいいし、「日本と日本人を考えてみる」でもいいと思います。そこから考えが宇宙に繋がっていく日がくると思っています。



どんなに愛される資格があるのかを私たちは知らない

1860年に、通商条約の締結のために来日した当時のプロシアという国の使節団の人は、報告書に、日本人についてこう書いています。


「どうみても彼らは健康で幸福な民族であり、外国人などいなくてもよいのかもしれない」。



実際に、 100年前とかそれ以上前に、日本にやってきたほとんどの外国人の共通の意見が上の意見に集約されています。

とはいえ、その後の 100年で日本の状況はかなり変わってしまった。最近の日本と日本人が「どうみても健康で幸福な民族」かどうかは、かなり微妙で、それだけに今の時期は考えてみるいい機会なのではないかとも思います。


今日は最後に、1876年(明治9年)と1899年の二度日本に来日して、日本が大好きだったフランスの画家のレガメという人が書いた「日本素描紀行」という著作からの抜粋です。中略と抜粋なので、このように続いて書かれているわけではありません。

 私は、午後三時から始めた貧しい人々の住む地域の散策から戻って来た。

 魚屋や八百屋の店先は、夕食のため、たいへん賑わっている。この時刻の盛んな活気は、やがて人気のない街の静けさに移っていくのだろう。

 私は、深く感動して、頭をかしげて戻る。たった今見たすべてのことに、心の奥底まで動かされ、あの誠実な人たちと、手まねでしか話せなかったことが、たいへんもどかしい。

 勇気があって機嫌よくというのが、陽気で仕事熱心なこのすばらしい人々のモットーであるらしい。女性たちは慎ましく優しく、子供たちは楽しげで、皮肉のかげりのない健康な笑い声をあげ、必要なときには注意深い。すべての人が、日中は、家の中でと同じように通りでも生活をしている。

 彼らは、私がどんなに彼らが好きであるのか、おそらく知るまい。また、自分たちに、どんなに愛される資格があるのかも知らない。


guimet.jpg

▲ レガメの書いた当時の東京の風景。これは浅草の射的屋。







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