(追記) タイトルに「夢」のことを書いていますが、前置きの関係ない内容が長くなりすぎていて、ずっと後ろの最後に書いてあります。どうもすみません。
ところで、メールのご返信がまた遅れてしまっていて、こちらもどうもすみません。
帯状疱疹前後にいただいたものはまだほとんどご返信できていません。
痛みが消えたので(微妙に後遺症の気配が・・・)、少しずつ書かせていただきます。
最初は夢などとは関係ない話です。
中国の「復讐の同時多発」に見る人が人を尊敬しない宇宙(その場合、人は宇宙からも尊敬されない)
ふと見た「大紀元日本」のニュースの見だしで気になるものがあったので読んでいたら、内容が当初の展開と違って、ものすごく恐ろしいことになっていっていたものがありました。
報道自体は、「中国を襲った未知のウィルス」というタイトルの「(上)記事」と「(下)記事」というもので、どうやら中国で謎のウイルスが流行しているようです。
これは基本的に性感染や血液感染で拡大するもののようなので、病状自体もなかなか悲惨な感じなのですが、悲惨な病状は他にも世の中にいくらでもありますので、それはいいとして、記事の途中から内容が、「患者たちの世の中への復讐の問題」というようなものへと変わっていっていたのでした。
この謎の感染症は、中国当局は存在を認めておらず、「エイズ恐怖症」というようなことで括られているようなのですが、そうされた患者たちが、
・各都市で「わざと」献血し、輸血を通して病原菌を拡大させる
・患者の女性が男性を「わざと」誘惑してセックス等で病原菌を拡大させる
・周囲の人の食器につばを吐くなどして周囲にも「わざと」感染させる
ということを2008年頃から繰り返していることがわかってきたというようなことが記事に書かれてあります。
食器に何かをして効果があるのかというと、
生涯一度も風邪をひいていないという退役軍人の平安さんの感染も奇妙なものだ。「2009年の宴会で、知り合いが私のカップにつばを吐いた場面を私は目撃した。後日、彼もつばを吐いたと認めた。私はすぐに発病して、次々とすべての病状が現れた。数カ月の間、私に接触したすべての家族、親戚、同僚、友人、計100人が感染した。」
というような話(本当かどうかはわからないですが)も出ていますので、これが本当なら相当な感染力で、しかも、この病気の症状がまたひどい。患者の林峰さんという人の症状。
1年半の間、内臓が硬くなるのを感じ、歩くことが難しくなって痛みを伴い、関節はギシギシと音を立てた。皮膚と筋肉は繊維化してリンパ管が痛み、皮下組織は砂のようになり、脂肪が粒状になったようだ。入浴時、水に濡れると皮膚の表面が何かドロドロしたものに包まれるようになり、風呂から上がったあとは拭いても拭いても乾かず、いつまでもネバネバしていた。
「水に濡れると皮膚の表面が何かドロドロしたものに包まれるようになり」というのは何だか困った症状です。
この話を紹介したのは、病気そのもののこともありますが、患者の人たちの「他人にもうつしてやろうとする行動」が(ひとりふたりではなく)全体的に拡大しているということにショックを覚えたことがあります。
「そういう人もいた」ということなら、ある程度これまでにも(エイズなどで)あった話ですし、理解できなくもないですが、「大多数が一斉にやっている」となると社会的に違う意味になってくると感じます。
まあ、しかし、これは単に批判とか非難とかいったこととは違う哀しさを感じる問題でもあって、この「故意に病気をうつしている人たち」を責めたいということではないのですが、こういうニュースは社会全体を考えると、気が重い部分はあります。
日本は最近大きな自然災害を受けて、いまだその渦中にありますが、しかし、この中国の病気のニュースからは、それ以上に「本当の厄災」を感じたりします。仮にその社会全体の人々の考えがこのような「自分の苦しみも他人に」という方向に向かってしまうと、特別な自然災害だとか経済崩壊がなくても、社会はうまくいかないのではないかなあと感じます。
まあ、「人が人を尊敬していない」という形の具体的な例を見た感じで、病気の症状の怖さと共にショックなニュースでありました。
それにしても、これはどんなタイプの病気なんだろう・・・。
確かにそれにも興味はあります。
震災前、特に昨年の暮れあたりからは世界各地でいろいろな「病原菌不明の病気」がたくさん発生していたことを、世界の感染症情報が集められる ProMED-mail などで日々読んでいたのですが、震災後からまったく見ていないので、その後の状況がよくわかりません。
病気に関しては、また少し報道を読むようにしよう
どうも今までのものではない病気が拡大し過ぎている感じがいたします。
(日記)わたくしの地元の店
私の住んでいる街には、最も多かった十数年前には、それこそ十軒近くのレンタルビデオショップがあったと記憶していますが、ここ数年の間にどんどんと消えていき、昨年、ついに「一軒だけ」となりました。
西荻レンタルシップというお店で、歴史も長く、一度場所は変わりましたが(狭い場所へ移転)、二十年前後の歴史を持っていると思います。
この店には「昔からの方針」というのがあって、それはビデオから DVD 中心となった今でも続いていますが、この方針があるからこそ、つぶれずに生き残っているようです。その「方針」は、「主流から外れた品揃えに力を入れる」ということ。そして、「マニアをターゲットにする」というふたつの路線です。
最近になって、世の中の個人経営のレンタルショップが次々と消えていった理由は、インターネットなどで簡単に DVD や、あるいは映像そのものを安価に、あるいはタダで手に入れられるようになったということと、あるいは、版権切れなどの昔の映画や、あるいはメジャー映画の中古などは数百円で買えるようになっています。そんな中で、わざわざ「レンタルショップでレンタルする意味がない」という状況に陥ったわけです。
しかし、逆にいうと、今でも「インターネットでも格安でも手に入らないもの」は貴重なわけで、ここにポイントがあります。つまり、今なら「ネットで手に入れることが難しく、大手量販店では扱わないようなもの」に焦点を絞っているのです。
このお店は、まだビデオだけだった昔でも私たちには貴重でした。
たとえば、ヒマな時に、こんなことを思った人がいたとします。
「今日は、「ピンクフラミンゴ」か「エル・トポ」か「ブルジョワジーの秘かな愉しみ」か「フリークス」か「気狂いピエロ」か、あるいは「仁義なき戦い 頂上作戦」か「狂い咲きサンダーロード」か森繁の「社長漫遊記」のどれかを見たいなあ」(全部映画のタイトルです)と思ったと。
これらが全部あるんです。
全世界のカルト映画、三流ホラー、B級にも入れられないZ級SF、東映ヤクザシリーズ、日活ロマンポルノ(なんと全部)、ゴダールとかヴィスコンテイとかヨーロッパで調子に乗っていた監督のほとんど全員の作品など、あらゆるジャンルの映画マニア向けの映画がほとんどありました。モンティパイソンなんかも全巻置いてありました。「太平洋戦争 海軍の記録」だとか「アトミックカフェ」などの戦争マニア向けも充実。韓流が起きる何年も前から韓国映画、北朝鮮映画も入っていました。
「金日成のパレードが見たいんだけど」と街で人に訊かれれば(どんな人だ)、「あ、それはレンタルシップのカウンターの右隣の棚の下から3段目に」という会話ですべて成り立ちました。
少なくとも、私たちのような暇なマニアには嬉しい店でした。
これは現在の DVD 時代に、さらに磨きがかかっています。
たとえば、日本映画の DVD コーナーには「男はつらいよ DVD 全巻揃えました」と張り紙が貼ってあり、ズラッと、寅さんが全巻並んでいる。その上に菅原文太の「トラック野郎」と梅宮辰夫の「不良番長シリーズ」シリーズがほぼ全巻。洋画の新作コーナーを見ると「片腕カンフー 対 空飛ぶギロチン」が最前列を飾り、その横に「不思議惑星キンザザ」と「ヤン・シュヴァンクマイエルのアリス」などが並んでいる。
このように「見たい人がほんの数人でも、それらを相手にした確実な商売をする」という昔ながらのポリシーを守っています。
多分、オーナーやスタッフが心から映画が好きな人たちなんだと思います。
この西荻窪という街は、昔から杉並区の肥だめと呼ばれていて(おいおい)、ツタヤとかブックオフとか、東京ならどこにでもある大手の中古屋が一切ありません。この街では、レンタルビデオ店と共に、やはり数が減っている古本屋にしても、「マニアックな品揃えのある店」だけが生き残っています。
でも、こういう「本来は個人の趣味に対しての商売」というのは、これでいいのだと思いますけどね。
映画にしろ本にしろ、「多くの人が見る」とか「読む」とか異常なのかも。
それは「個性をつぶしていく」という表現の方向性ですしね。
まあ、しかし、「たくさん売る」というシステムでは基本的に「突出した個性が許されない」という宿命はあるので、仕方ない面はあるのでしょうけれど。
個性というか、すなわち、「スターウォーズ アナルの逆襲」というタイトルをつけられなかったり、「ハリー・ポッター 今日も明日もギロチン処刑」という小説にはできなかったりと、「好きなものを書けばいいというわけではない」というようなところはあります。ある程度は、万人に受けるタイトル、内容にしなければならない宿命をもともと負っていて、それは作者の方の苦労でもあるわけですが、社会全体の要らない苦労でもあるような気はします。
まあ、この数十年、「個性」はつぶされてくばかりの方向だったので、今の時期を機転として、「個性の時代」というようなことになっていけばいいなあとは思いますが・・・。飲み屋とか飲食店だって、昔は小さな個人の店がたくさんあったんですが、何もかも大手の画一に飲まれてしまいました。
この街のレンタルビデオと古本屋はこの「精神的スラム街」の最後の抵抗線のような感じがします。幸い、どのお店もわりと繁盛しているようです。
現代の世界のもっとも優れた概念のひとつが「悪」であるということ
変な話で長くなってしまいましたが、以前書いたように、最近、過去に好きだった映画や音楽や映像を再確認して、保存できるものはしたりしています。電子媒体の寿命がどのくらいかよくわからないですが、「記憶」として後世に残すというようなことは(無駄な努力でも)してもいいのかなあと思っています。
そして、実は「どうやったって、後世にも前世の人たちにもこんな映画(あるいはこんな音楽)は作れない、あるいは作れなかっただろう」というものが今の時代の地球にはたくさんあると私は思っています。本当はものすごい時代なのです。
それは「悪い部分がたくさんあった時代」だからできたものが多いということで、これがたとえば、「善良だけが存在したような時代」だと、まったく存在しえない作品や表現というものはかなり多いわけです(「悪」の概念がないと基本的に現在の娯楽は存在しなくなる)。なので、いろいろと問題はありつつも、実に刺激的で楽しい時代に我々は住んでいるのだなあとも思います。
そういえば、信じるかどうかは別として、知り合いの方で「前世が見られる」人がいるのですが、その人によれば、「アトランティスの時代は異常に平和で、人々はその平和すぎる日々に絶望していた」とおっしゃっていたことがあります。
それを聞いて「ああ、そうだろうなあ」と思いました。
たとえば、私やあなたの生活から、
・暴力
・裏切り
・嫉妬
・お金
・犯罪
・戦争
・競争
などの概念が全部消えたとします。
すると、今の世の中にあるほとんど100パーセントのテレビドラマや映画の内容の中に出てくる「暴力」や「裏切り」は存在しないことになります。そして、小説も映画も遊園地も、現在の社会にある娯楽はほとんど存在しなくなってしまうのではないでしょうか。
ディズニーの世界だって、悪がいるから正義もある。
暴れん坊将軍だって、悪がいないと、ただの松様。
「悪の概念」がこの世から消えるということはほとんどの現在の娯楽が消えてしまうことを意味します。それがいいと思う方も当然いると思いますが、個人的にはつらく思うことのほうが多いようにも思います。
物理的な話になるのかもしれないですが、光の作用というのがあって、これは、
・真っ暗だと何も見えない
というのがあって、これはわかると思うのですが、
・光だけでも何も見えない
のですよ。
100パーセント、光だけでは何も見えない。
影がないとこの世にはモノは存在しないという厳然たる事実があって、悪と正義はそういう関係とも言えそうです。
今がいわゆる何番目の世界なのかはわかりませんが、現在の社会が、仮に地球の歴史上でもっとも「醜悪」だったとした場合、その代償として、私達は「最も刺激的な娯楽」を享受できていた希有な時代の人々だったと言えるかもしれません。
仮にこの時代が終わって、次に「退屈な地球が始まる」のだとしても、媒体などでこの時代の文化は残しておきたいと思うのでした。あとの時代にそれらを見られて、「うわあ、この頃の人たちって野蛮ッ!」って言われるのかもしれないですが。
また余計な話が長くなってしまって、なかなか夢の話に入っていけないですが、少しずつ書こうかと思います。
夢の正体 その1: リアルな部分と曖昧な部分
小さな頃から夢のことで不思議に思っていたことが、
・情景があまりにもリアルである
ということです。
つまり、当時、一般的に言われていたような「夢が脳の記憶で再現されているのなら、ふだん(起きている時に)頭の中で想像する程度のリアルさで止まるのではないか」とは、かなり小さな頃から考えていました。
たとえば、ふだん・・・というか、今でもいいですが、「頭の中で何かの状況を考える」、あるいは夢想する。
しかし、その夢想はあまりにぼんやりとしていて、とても「夢で見ているように」はいかないのではないでしょうか。ところが、眠っている時に見る夢では、「現実と区別がつかないほどのリアルさで夢は現れる」。
夢は「現実の(過去の)記憶そのものを大脳が見ている」のだと考えていますが、そこに「大脳の願望や不安や、あるいは生理現象での体の状態の欲求などが混じる」のが夢の基本だと最近は思っています。
たとえば、夢を見ている時にも、その光景を見て「何かを考えて」いることに気付くことがあります。つまり、夢の中でも何かを見て「怖い」とか「楽しい」とかを感じたり考えている。その「考えている」器官の主体は大脳であり、ということは、大脳は「(眠っている時に)見させられている光景に対しても、起きている時と同様に考えている」ということになりそうです。
つまり、「起きている時も眠っている時もどちらも大脳は同じように機能しているけれど、見させられている対象が違う」ということのように思います。眠っている時に見ている光景の記憶の媒体は多分、 DNA なり遺伝子の中にあると思われますが、その記憶媒体は、それこそ「映画の DVD 」ほどにクリアに鮮明に過去の記憶と状況を記録しているのだと思います。
何しろ、夢に出てくる情景には基本的には「曖昧な部分があまりない」ですから、さすがに脳での想像だけではあの再現力は難しい。
つまり、眠っている時に行われていることは、
・遺伝子の中にある過去の記憶の再生(多分、検索は脳が行う)
・それを見て思考する大脳(通常と同じく、左脳が客観的な判断をして、右脳が色彩や感覚を判断する)
ということになっているのだと考えています。
また、「大脳は頻繁に夢に介入しようとすることがあるのではないか」ということもあります。
たとえば、夢には「知り合いの人物」が出てきます。
それは肉親だったり、恋人だったり、友人だったりといろいろとでしょうが、起きた時に「○○さんが出てきたな」と自分で納得したりしているのですが、「ふと」冷静に考えてみると、他の情景に比べると、その人の顔そのものの記憶が曖昧だということに気付くことがあります。
「あれは本当に○○さんだったのだろうか」と考え直すと、どうも自信がない。
仮に、夢の記憶で見たその人はまったくの別人(過去の記憶の中にある人など)でも、「代替」として、現実の世界にいる人をあてがわれるという感じがしています。
そこには、周囲の人を含めて、本人の希望なども含まれるかもしれません。
現世に存在する好きなスターやスポーツ選手などを含めて、「代替」があてがわれる。
目覚めた後に、見た夢の内容をよく思い起こしていただきたいのですが、「人の顔そのものは非常に不鮮明な記憶」であることが多いのです。その人の姿はハッキリしていても、「顔だけ」がなんとなくハッキリしない。
目覚めた後に、
「あれは○○さんだった」
と断定的に思うことが多いのですが、どうも知り合いの中から(瞬間的に)「合いそうな人物」を抽出してそこに当てはめている感じがします。
いずれにしても、上に書いた、夢は「遺伝子の中にある過去の記憶の再生を見ていて、大脳はそれを客観的に見ている」とすると、起きている時と眠っている時の差は、おおむねこのようになるように感じたりします。
・起きている時 → 視覚と松果体でものを見ている
・眠っている時 → 記憶の媒体(多分遺伝子)の中のものを見ている
ということなのではないかと。
そして、どちらでも大脳はちゃんと働いており、それらを客観的に見ていて、また、そこでも「右脳と左脳」は機能しているのではないかと思っています。
今回書いたことは「夢が未来を予知しない」ということに関して、特に重要な要素ではないでしょうし、私が勝手に思っているに過ぎないことですが、私が「夢の正体」として何となく最近思ったことを書いておきました。