(注)最初の米国の竜巻の話はちょっとふれるつもりだったのが長くなってしまいました。本題ではないです。
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闇へと続く視点
先日、アメリカの竜巻での災害についてふれたことがありました。
結果として、4月28日前後の約一日で 300人以上の犠牲者を出して、米国史上での竜巻被害としては歴史的なものとなったのですが、その日から2、3日のあいだ、以前よく見ていたビフォー・イッツニュースという米国のニュース投稿サイトを見たんです。
竜巻のことを知りたいなあと。
このサイトには数多くのカテゴリーがあるんですが、ページトップにある「話題のニュース」欄と、その下の「主流のニュース」という2つあたりに、現在このサイト内でもっとも人気のあるニュースや、話題のニュースが取り上げられます。
かなりの話題となるものは、何週間もトップに掲載されていることも珍しくないです。記憶では、昨年あたりで最も長い期間、「話題のニュース」の見だしに掲載され続けていたニュースは、このブログでも「天文写真に写る直径240キロメートルの巨大な物体が地球に向かっている? (2010年09月30日)」という記事でご紹介したことがある記事で、これは1カ月近く掲載されていたような気がします。(現在も「巨大な物体」の関連記事は出ています)。
実際に重要なニュースかどうかというのは別として、米国の人々、あるいはこの投稿サイトを見ている人たちが「最も興味のあるニュース」が載せられているということになるようです。
さて、4月29日。
米国史上2番目の最悪の被害を出した自然災害の翌日。このニュース投稿サイトのトップはどんな感じだったか。
その日のものをそのまま載せて、下に簡単に訳した文章を載せます。
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話題のニュース(2011年04月29日)
上から、
・終末の日。地球の中心部がコントロールを失っている
・6つの惑星が夜明けの空に一直線に並ぶ
・巨大な物体が地球に向かっている
・海岸を洗い流した日本での津波の新しい映像
・米ドルのパニック売りが進行中
・太陽光発電の新発見
・オバマの出生証明書は詐欺だ
・危険なインフレが進行中
・米国人は最悪の生活水準を覚悟すべきだ
となっていました。
見ればおわかりかと思いますが、今現実に起きているほうのニュース、つまり、「数百人が亡くなっている米国史上最悪の自然災害」である今回の竜巻のニュースが、少なくともメインのニュースにはないのです。
ちなみに、メインストリームのニュースのほうにも竜巻のニュースはありませんでした。
福島の放射能のニュースはあっても、自分たちの国で 350人が亡くなったニュースは「ない」のでした。
しかも、その翌日なども含めて、結局一度もトップニュースの見だしには出ませんでした。
これを見て、さすがに・・・おいおい・・・と素直に思ってしまいましたね。
終末の日も日本の震災も重大なことかもしれないですが、「自分たち(米国)の周辺で現実に起きていることは何か?」ということについて、どうも完全にその視点が逸脱しているように感じます。
地球が終末を迎えようが、日本が立ち直ることができない災害の中にいようが、米国の竜巻で亡くなった方や、負傷された人々は現実に存在していて、そこから見れば、将来の地球がどうなるかより先に考えるのは「現実に起きていることへの対処」のように思うのです。
1カ月ほど前に、「もはや神も大地も怒らない」という記事で書いたことがありますが、そこに、
・起きる現実の事象に対して、淡々と対処し、次に進む
ということがどれだけ大事なことかに気付いたことを書いたことがあります。
私たち地球の人類に大事なことというのは、先の不安や恐怖によって自分たちに起きている現実が見えなくなってしまうということではなく、「将来、何が起きるのかは基本的に私たちにはわからないのだから、起きたことに現実的に対処して前に進む」ことなのではないかと。
上の米国人の視点はそこが欠如しているように見えたのです。
そして、米国の人だけではなく、日本にもあるかもしれないですが、共通していることは「闇しか見られなくなっている視点」を感じます。
以前書いた「道路に溜まる花粉を放射能だと思う気持ち」に表されるような視点や、「インターネットでのリンクの行き先は実は自分の精神状態が決めている」という現実が私たちの周囲にはあるわけなんですが、しかし、そのこと自体を否定しようという気もないです。
人の持つ考えというものは、そのあらゆる考えを尊重すべきだと考えます。なので、闇だけを見る視点は間違っているのではなく、「それがその人の世界である」限りは、存在自体は尊重したいと思います。
ただ、私がその「闇の世界」に近づくことはないです。
どちらがいいとか悪いとかではなく、完全なそれぞれの別の世界なのだと最近は思います。
ちょっと前置きのつもりが長くなってしまいました。
ここから本題です。
今日だけでは書ききれないと思いますが、人類の能力についてにさらに思うところがありました。
オカルト小学生の悩みへの回答
ここ数日、以前書いた「人類の進化の中で獲得した能力」についてのもうひとつのことだと最近考えていることについて思いついたことがありまして、それはすなわち、「人間は人間の心を読めない」ということです。
これだけ書くと違和感のある響きだと思いますが、できるだけ順番に書いてみたいと思います。
小学校の頃はテレビでも雑誌などでも今よりはるかにオカルトが人気で、超能力にしろテレパシーにしろ「ブーム」というものにも近いような流行がありました。
子ども同士でも「テレパシーごっこ」とかをやるわけです。
その頃、思っていた疑問について友だちと話し合ったことがあります。
わたし「でもさ、テレパシーがあるとさ、エッチなことを考えていても、相手にわかっちゃうのかな」
友人 「ああ・・・わかるんじゃないかな」
わたし「それじゃ、困るじゃないの」
友人 「でも、わかっちゃうと思うよ」
わたし「秘密とかは?」
友人 「わかっちゃうんじゃない?」
ということで、ふたりで「それはいろいろと困るなあ」と悩んだものでしたが、そのことに関して、基本的な回答をこの数十年前の若い彼らに与えられるような気がしました。
それは、「人は人の心は読めないから安心していい」という答えです。
なので、エッチな心も秘密も守られますので、彼らは心配しなくていいのです。
そして、このことも以前書いた「人間は未来を予知できない能力」というものと共に、人類の文明を発展させるために大変な役割を持っているように感じたのです。
未来に関しては、
・明日を予知できないから人間は人生をワクワクして文明を進めることができた
ということを書いたことがありますが、人の心についてもほぼ同じことだと思っています。
参考記事: 人類が獲得した「予知できない」能力 (2011年03月17日)
たとえば、「未来を予知できない」ということに関して、恋愛の問題を挙げたことがあります。明日誰と出会って、どんな恋愛をするかは私たちにはわからない。だから外見や趣味や行き先や所属や話し方に気をつけるということがある(気をつけない人もいますが)。
そして、恋愛の存在から経済を含めたあらゆる文明が生み出された。
ファッションやインテリア、あるいは音楽、ドラマ、小説など娯楽のすべては、多分、恋愛がこの世に存在しなかったらすべてなかったものだと思います。恋愛が現在社会の中に生み出した経済価値は「無限」といえるように思います。
そして、この「恋愛のドキドキ」が成立する最も基本的な条件というのが、「相手の気持ちがわからない」という一点にあると思います。
要するに、こんなことを書いている根拠はこの一点なのですが(笑)、これに関しては、私は「未来を予知出来ない能力」と共に、この「相手の心がわからない」ということの両方を会わせた時に本当に素晴らしい結論に達することができています。
それは、
・私たちには未来がわからないし、相手の気持ちもわからないからこそ、人の安心を願ったり、人のことを気に掛けてあげることができる生活習慣を獲得できた
と。
未来も人の気持ちも全部わかれば、「心配も気遣いも必要ない」のですから、それら「人を思いやる気持ち」が出現する可能性さえなかった(未来と相手の気持ちがわかるなら、その心配自体が成立しない)。
特に、日本人の間に大きく漂う「気」の問題や気配りの問題。震災後に何度かふれた「テレパシーにも近い日本人の心の心の交流」。
これらすべてが、
・未来がわからない
・相手の気持ちがわからない
という二つの現実からスタートした人類史上でも最大級の「人類の社交文明」だと考えています。
仮に、人類が、
・未来がわかる
・相手の気持ちが読める
とした場合、それらの要素が崩壊するという事実があります。
そして、この一連の流れからもうひとつ気付いたことがあります。
それは「人類の意味」についてです。
・未来がわからない
・相手の気持ちがわからない
という二つをどうして人類が持ち得たのかというと、「人類の目的は楽しみを見出すためだから」だということがわかります。
人類以外の他の動物たちは、宇宙の記憶と共に生きている以上は、「未来がわかる」と同時に、多分、「相手の気持ちがわかる」のだと思います。「相手の気持ち」というのは変かもしれないですが、つまり、宇宙の記憶には、多分、存在するあらゆる歴史と感情と思想が含まれているのでしょうから、やはり、人類以外の生き物は未来も相手の気持ちもわかるのだと思います。
だから、日常がつまらない。
何もかもわかっている動物たちは、社交マナーもファッションも、恋愛術も会話もグルメも発展させることをしなかった。あるいはする必要もないし、しても意味がなかった(未来も相手の気持ちもわかっている恋愛のために小道具は必要ないから)。
その上で私は思うのですが、その「本来はつまらないと思って生きている動物たちや、あるいは宇宙そのもの」を退屈から救う方法は、私たち人類が「楽しく生きること」にあるのではないかと考えるようになりました。そう考えるようになったのは、さきほどの話ですが、何となく間違っていない気もします。
他の具体的なことは後日書いてみたいと思います。