2012年01月14日



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「聖書は日本と日本人のために書かれた」とする説



今回のものは最近のものでもなないし、インターネットのものでもないです。今日偶然出会った「本」の話です。

年末に引っ越しまして、まだ町の周辺の状況をあまりよく知らないもので、時間ができた時にはいろいろと見て回っています。今日、外を歩いているときに道路でいろいろと車やら通行人やら様々が込み入っていて、「ああ、もうなんか進むのが面倒くさい」と、道で立ち止まって、ふと横を見ると、そこは古本屋さんでした。

私の新しい家から急げば1分かからない場所でしょうか。
すぐ近くです。

「へえ、こんなところに古本屋が」

と、初めてその存在に気づき入ってみました。

引っ越してきてから、そろそろ2週間経つというのに気づいていなかったほどですから、とにかく小さな古本屋で、何の期待もしないで入ったのですが、そこにある本の品揃えは何だかすごくて、前衛芸術と思想のマイナー本がズラリと並び、そこから心理、歴史、宗教などの中の「ややカルト」な本が並んでいたのです。

並んでいる本のタイトルを眺めているだけでも楽しかったのですが、宗教コーナーの棚に『聖書との対話』というタイトルの本がありました。

背表紙に書かれてあるのはそれだけで、この『聖書との対話』というようなことだけなら別にどこにでもありそうなタイトルの本なので、手にとったこと自体が不思議なのですが、その帯に書かれてあった文字に興味を持ちました。

(帯より)




聖書は日本人のために編まれたという奇妙な信者との出会い。突然の来訪、預言めいた手紙・・・謎が謎を呼ぶ哲学的××小説? そして・・・独創的スタイルの旧約案内。





この「聖書は日本人のために編まれた」という文字に反応してしまって、少し立ち読みしたんです。

すると、書いている人自体はわりと普通の人のようなんです。

著者は、福田定良さんという方で、経歴を見ると、1970年の定年まで法政大学の職員をされていた方のようで、その年代を考えると、現在もご健在であるかどうかは微妙ですが、文章を見ても極めてまじめな人であることがわかるのです。

その人が「聖書は日本人のために編まれた」という人たちと出会って、長く付き合いのあったということを書いているものでした。


私も昨年来、どうも聖書の呪縛が強いもので、こういうフレーズには弱いという部分があるのですが、こんな「聖書は日本人のために編まれた」という主張を信じたり、広めたいということではなく、引っ越した土地で偶然見付けた「奇書」ということで、その「はじめに」をそのまま抜粋したいと思いました。

本編の全体は私もまだ読んでいません。

引っ越しとか倒れたりとかいろいろあって、本などをじっくり読むまでには、あと少しかかりそうです。

でも、この「はじめに」だけでもおもしろいですし、これを書いている方の真面目な気質がおわかりかと思います。

ここから書きます。
改行をいくつかこちらで入れていますが、他は原文のままです。




聖書との対話 - 旧約篇 「はじめに」より
福田定良 1980年09月01日発行


 聖書はキリスト教の信者にとっては信仰の書として、そうでない人びとにとっては西洋の精神を理解するための教養の書として読まれてきた。だが、これから紹介する聖書の読みかたはキリスト教の信仰を前提とするものでもなければ、西洋人の精神の源泉と見なされている古典の読みかたでもない。それは、きわめて風変わりな考えにもとづく読みかたである。この考えを信念と呼ぶべきか信仰とよぶべきか、私はいまだにきめかねている。

 とにかく、その考えかたによれば、聖書は日本のために、あるいは日本人のために編集されたのだという。もっと神秘的な言いかたをすれば、今日の日本、もしくは日本人を予想して編まれたのだという。この考えに比べれば、ジンギスカンは源義経であったという説のほうがまだしも信じやすいだろう。

 だから、私は、これから紹介する聖書の読みかたを正しい読みかたとして読者におすすめするわけではない。すぐあとで報告するように、私はある人物との出会いがきっかけとなって、この奇妙な考えにもとづく読みかたをしている人たちが少なくないことを知ったのだった。

 不思議なことに、この人たちとの接触が深まれば深まるほど、私は彼らの奇妙な信念(もしくは信仰)には辟易しながら、彼らの読みかたに心をひかれるようになり、私たち日本人には異質な感じがする聖書が面白くなってきた。このことの次第をお話すれば、読者も私のように聖書を面白く読むことができるようになるかもしれない。--- これが本書の執筆を思いたった第一の理由である。

 といっても、私は彼らのような考えの持ちぬしではない。だから、彼らの誰かが「われわれの聖書の読みかた」というような本を書いてくれればいいのだが、いずれおわかりになるように、彼らが本を書くなどということはおよそ考えられないことなのである。私が彼らの承認を得て本書を書くことができたのもまったくの偶然によるものでしかない。彼らの考え方にしたがえば、ただただ神の意志にもとづくものでしかない。

 彼らの聖書の読みかたを紹介する第二の理由は、私とおなじように、読者がどこかで彼らに出会うかもしれないという気がするからである。戦後、彼らの数は激増したらしく、私がこの三十年ほどの間に受け取った手紙の消印から見ても、彼らの活動範囲はほぼ全国におよんでいることがわかる。もし、彼らの一人に出会ったら、聖書の話をしてもらうといい。その話のおもしろさは私が保証する。とうてい本書などの及ぶところではないだろう。

 だが、困ったことに、彼らはきわめて用心ぶかい。その用心ぶかさは、聖書は今日の日本のために書かれたという奇妙な思想に由来するものである。彼らは自分たちの思想が世界の人びとには受け入れにくいものだということをよく承知しているので、この人は同志になるに違いないと確信したときでなければ、聖書の話はしない。だが、本書の読者(と言っても、彼らの思想に興味をもつようになった人にかぎられる)は別である。彼らはよろこんで聖書について語り、さらには、自分が神から聞いた言葉を語ってくれるだろう。

 実を言うと、私が彼らの独自の読みかたを知ったのは、彼らの一人が私を同志になりうる人物だと勘違いしてくれたおかげであった(これも、彼らの考えによれば、神の導きによるもの、ということになる)。だが、私が彼らの熱心な働きかけにもかかわらず、一向に神の言葉を受け入れようとはしないことを知ると、彼らは私に約束(彼らは「契約」と言いたいかもしれない)の厳守を誓わせて、私から離れていった。その約束のひとつがこの本を世に出すことなのである。

 彼らと絶縁してしまった現在、彼らの消息は知るよしもない。彼らの話や彼らの手紙には、もっとよく話しあって一緒に考えてみたいことが沢山あるのだが、こちらからは連絡のとりようがないのである。だから、読者が彼らに会ってみたいと思っても、その希望をかなえてさしあげるわけにはいかない。私としては、読者が彼らの一人と出会ったときに、あやまたずその正体を見ぬき、この本を手がかりにして彼らと親しく話しあえるように、と思うばかりである。

 もう一つおことわりしておくことがある。この本で取り上げている聖書は旧約聖書である。キリスト教徒はともかくとして、新約聖書を面白く読むには、やはり旧約から先に読んだほうがいい。これは私の持論なのだが、聖書は日本もしくは日本人のために書かれたと信じている人びとも、少なくとも、これまでのところでは、新約より旧約を重視してきたようである。むしろ、日本人にとっての聖書は旧約聖書だと信じこんでいるようにさえみえる。

 もっとも、いちばん最後にお目にかかった「信者」の話では、旧約よりも新約をよしとする人たちもいないわけではないらしい。むろん、この人たちにしても、新約聖書は日本人のために書かれたと信じているのである。もし、この「新約派」に会う機会があれば、他日、新約聖書の読みかたについても報告することができるようになるかもしれない。





(ここまで)

以上が『聖書のとの対話』の「はじめに」の全文ですが、文章の雰囲気から、この人はその「聖書は日本もしくは日本人のために書かれたと信じている人びと」にとても興味を持っていても、ご本人は懐疑的で、ただ、その人たちとの出会いにより「聖書に興味を持つようになった」ことが伺えます。

まあ、確かに「奇妙さ」では特筆すべき話ですが、そういう話があるというだけならともかく、「それを信奉している人々が複数いる」ということに興味を持ちます。

この本が書かれたのは 30年ほど前のようですが、あるいは、今でも日本のどこかに「聖書は日本もしくは日本人のために書かれた」と信じている人や、あるいはそういう考えの集団の人たちがいるのかもしれません。


私なんかも、昨年あたりから聖書に興味を持っているわけですが、そのキッカケは「吉祥寺の夜のお仕事の可愛い女の子との出会い」でしたから(ダメなキッカケだな、おい)。人により、興味をもつきっかけはいろいろだなあと思います。

この本を読んで、何かおもしろいことがあれば、またそのうちご紹介いたします。
タグ:聖書

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