「ビッグバンは人類にとって有害」だと知った日に
前回の記事で「ニュートン」といういろいろな意味で有名な(有名すぎる) 17世紀の科学者のことについてふれましたが、この「ニュートンとの絡み」はしばらく続きそうな気がします。
前回の記事「土星を周回する「月の龍」」でこのように書きました。
ニュートンは自然科学者としてだけ教えられてきた私たちが受けてきた学校教育の価値観についての話です。
実際にはニュートンの研究の大半は今の時代でいえば「オカルト」に属するもので、ニュートンは、錬金術の研究、賢者の石の捜索、ヘルメスのエメラルド版の解析、そして、聖書の研究と、聖書の予言の解析などに人生を費やしていました。
どうして私たちの学習の歴史では「こちらが無視されてきたのか」ということは、科学史を考える上でかなり重要なことのように思います。
そして、少し前の「現代のジョルダーノ・ブルーノを作り出さないために(1)」という記事では、「進化論とビッグバン理論」が現在の科学の最大の阻害となっているかもしれないと書きました。
しかし、さらに言うと、上のうちの「ビッグバン理論」。
これが現代の科学だけではなく、「人類存在全体の概念の中で最も有害な概念かもしれない」ということにさきほど気づいたのです。宇宙論としての正否ではなく、「ビッグバン理論は、人類が持つすべての概念の中で最も有害かもしれない」という意味です。
そのことに気づきました。
まあ、また夢で見ただけですけど(自分の考えごときじゃ、私は何も気づきやしないです)。
でも、どうして「正否」を越えて「有害」なのか。
そのことをどう書くといいのか・・・。
でも、少し書いてみたいと思います。
私たちが「長生き」に価値を見いだすのはなぜか
たとえば、うちの奥さんの実家などでは「介護」の問題などを抱えています。あるいは、今の時代では、親や兄弟の高齢化で、介護や、介護と類似した問題や困難を抱えている方々はたくさんいらっしゃるのではないでしょうか。
もちろん、「介護」というのはひとつの例ですが、このような高齢問題がどうして生じるのかということには、次の2つのこれまでの人類の社会概念の流れがあります。
・健康で長生きすることは素晴らしい
という概念。
そして、さらに、
・その「長生きすることは素晴らしい」ということに対しての、いかなる反対意見の存在も許されない。
という事実。
つまり、「長く生きることに意味はない」という意見は社会的に認められないということです。私も今の社会に生きる人間ですので、長寿の価値の意味はわかります。たとえば、「長く生きたい」とか、親や知り合いに「長く生きてほしい」とかの考え方はわかります。
しかし、では、高齢化社会と共にこれだけ問題が噴出しているのは、なぜなのか。
あれほど「長生きしたい」と思い、そして、周囲に「長生きしてください」と言い続けて、その結果、実際に今の世の中は長く生きる人がとても多いです。
その「実現した現在の長寿社会」は、果たして夢のようなパラダイスでしょうか。
この問題では、たまに経済状態の差のことが取り上げられます。つまり、「お金があれば・・・」という話です。
では、日本で最高の設備と医療施設を持つ老人ホームに入れられた本人は「幸せ」なのでしょうか。
そして、その「最高の」老人ホームに自分の親を入れることができた子どもたちは「幸せ」なのでしょうか。
難しい話だと思います。
しかし、なんとなく現在の私たちは「それは仕方ないことだから」というように思っていなかったでしょうか。
つまり、人間が年をとることによって起きる問題というのは「長生きした幸せに比較したら仕方がないことだ」と。
介護もアルツハイマーも老人性痴呆も「長生きしたのだから仕方ない」と。
「長く生きていること自体は幸せなことなのだから」と。
私はこのことがずっと疑問でした。
しかし、多分、この答えは出ないのだろうなと、あきらめていました。
「長生きの価値」を否定できることなどできるわけがないと。
しかし、昨日見た夢でそのことがわかったのです。
ビッグバン理論がこのすべての「諸悪の概念」を作り出していると。
ビッグバン理論というのは、「宇宙は有限である」という理論と言い換えてもいいと思います。どこかで宇宙が「できて」、宇宙は「成長し続けて」いるという理論であり、この理論では宇宙に「果て」があります。
つまり、ビッグバン理論では宇宙は有限なのです。
宇宙というのは私たちがいる場所です。
その「私たちがいる場所」というものが「有限だ」という根本概念。
それがそうではないとなった時、私たちの基本観念は大きく変わるかもしれないのです。
つまり、宇宙は「有限ではなく無限だ」とする。
すると「有限」という価値観に意味がなくなってくるわけです。
長生きというのがどういうことかというと、
・生まれてから → 死ぬまで
の物理的な時間の長さの長短を表します。
つまり、基本的に「人間も含めて、存在は有限である」というところに立脚した考え方のわけです。
もし、この「生まれてから → 死ぬまで」の間の時間というものの存在の意味がないとしたら。
あるいは、その時間軸の中に縦横無尽に存在している「瞬間」は、どれだけ集まっても「瞬間に過ぎない」ということであったら。
あるいは、上の「生まれてから → 死ぬまで」というものを含めた「あらゆる瞬間」というのはやはり「瞬間」なのだととらえられるようになれば。
観念的に聞こえるかもしれないですが、そうでもないと思いますよ。
いずれにしても、ビッグバン理論というのは、単なる宇宙理論ということだけではなく、これは、
・私たちの存在している場所は「無限か有限か」ということを問う大変な問題
だということを、昨日の夢で変なジジイに教えてもらいました。
私もその夢のジイサンの言うことを聞いて、確かにそうだと思いました。
それで今書いています。
エメラルド・タブレットに書かれてあるかもしれない「この世の無限」
さて、タイトルに「エメラルド・タブレット」としたのに全然その話に入らないですが、自然科学の父であるニュートンが生涯を賭けて取り組んだ、その「エメラルド・タブレット」(ヘルメスのエメラルド盤)とはどんなものなのかを、もう一度考えてみたいと思います。
なぜなら、「エメラルド・タブレット」で描く「この世界」は「無限」であると思われるからです。
これはつまり、
・エメラルド・タブレットとビックバン理論は対極にある
ということです。
どちらが正しいのかというより、どちらが「素敵に感じるか」。
それを再確認してみたいと思います。
エメラルド・タブレットは過去記事に書いたこともありますが、もう一度訳し直します。
英語版の Wikipedia の Emerald Tablet には、
・アラビア語訳版のエメラルド・タブレット
・アイザック・ニュートン訳のエメラルド・タブレット
・イタリア語版のエメラルド・タブレット
・ラテン語版のエメラルド・タブレット
が掲載されています。
これをすべて訳してみます。
ラテン語の翻訳は適当になりそうですが、とりあえずやってみます。
これからやりますので、次以降に他の記事の中などで適時掲載します。
まあ、急ぐようなことでもないですので。
いちおう書いておきますが、「錬金術」という概念が大事なのではなく、
・この世の存在は有限ではなく無限
ということを知りたいための作業です。
そして、その前提となっている私の感覚としては、「宇宙は絶対に無限だ」という、完全なる確信です。
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