今日は翻訳記事をご紹介する時間がどうしてもとれませんでした。
しかし、 3月11日ということで記事をアップしたいと思いました。2011年の3月11日からの日々は、私にとっても、今までとは(精神的な意味で)違う日々の始まりでした。あの頃の東北の人々の姿を見る中で私は変わることができたのでした。
昨年の震災後の記事の、
・もはや神も大地も怒らない (2011.04.08)
に書かれてある私の心情は今でもそのままです。
今、地震や噴火などの自然災害に対しての恐怖は私にはまったくありません。
昨年、そういう感情は自然と消えました。
何か起きたら対処する。
対処できないものなら「それまで」。
交通事故とか殺人事件とか経済のこととか、今でも「こわいこと」自体はたくさんありますけど、「地球のこと」への恐怖は消えました。
そういえば、上の記事のタイトルは「もはや神も大地も怒らない」というものでしたが、先日の記事「エメラルドタブレット(2)」の内容に関して、ちょっと調べていた時に、日月神示の一節が検索されたんですが、そのフレーズがこんなものでした。
扶桑の巻の第八帖というところにあるもので、
神に怒りはないのであるぞ。
天変地異を神の怒りと取り違い致してはならん。
というものでした。
ここには「取り違い」という言葉が出てくるので、少なくとも書かれた頃の人々が「天変地異を神の怒りと思っていた」という雰囲気というのか、全体の感じがあったのだと思われます。そして、それはもしかすると、今でもそういうように思っている人はいるのかもしれないですし、私も3月11日までは何となくそのように考えていました。
しかし、もう今はまったく思っていません。そういう意味ではこの1年は「天変地異は神の怒り」だということは完全な勘違いだということを学ぶ期間だったと思います。 In Deep でご紹介してきた様々な宇宙科学、物理学、聖書やオカルトのすべてがそこに向かっていました。
人類が獲得した、宇宙も羨む「偉大な無能」
こういう言い方をしていいかどうかはわからないのですが、「地球」を「人間の体」と対応させてみれば、たとえば人は毎日のように排泄をしたりします。
時には嘔吐したりする。
そして、地球では内部から吹き出ることによる噴火があったり、内部での何らかの物理的現象による地震があったりする。
これらが同じだという意味ではなく、エメラルド・タブレットにあるように、「ひとつの現象はすべての現象に通じる」ということを信じれば、たとえば人間に起きることが(現象的なイメージとして)地球や宇宙に起きないということもないかなあということです。
エメラルド・タブレットのその部分はいろんな訳がありますが、この部分です。
万物が一者から一者の瞑想によって生まれるがごとく、
万物はこの唯一なるものから適応によって生じる。
人間は毎日のように髪の毛が抜けたり、古い皮膚は落ちる。
そして、地球では毎日噴火があり、毎日地震が起きる。
人間の中では、毎日、おびただしい数の細胞が死んでいる。
地球の上でも大小の生命が消えていく。
しかし、その細胞の中にある DNA は死なないで存在し続けている。
この「死んでいくように見えて、実は永遠のサイクルの中にある」という現象が、地球とか、あるいは宇宙とかにもあるはずだという確信の話です。これは実証のしようがない単なる個人的な確信であるわけで、他の方がそう考えるようなものではありません。私はそう考えているというだけの話です。
それにしても、私は相変わらず不勉強な人間のせいで、日月神示の全体は存じないのですが、上のフレーズに興味を持って、いくつか見てみると、なるほど、今まで勉強してきた聖書などのフレーズと通じるものがあり、ここにもまた「ひとつはすべてに通じる」という概念を見たりします。
特に、「いいフレーズだなあ」と思ったのは下の部分などです。
白銀の巻というところにある、
人間は皆、かみかかっているのであるぞ。かみかかっていないもの一人も居らんのぢゃ。かみかからんものは呼吸せんのぢゃ。
とか、黒鉄の巻というところにある、
言葉は神であるが、人間でもあるぞ。
震災以降の記事では、「何の能力もない普通の人間の存在」というものがどれだけものすごいものかということをずいぶんと書いていました。
未来を予知出来ない能力を獲得したことによって「明日を生きる楽しみ」を勝ち得た人類。人の心を読めないからこそ、毎日毎日、ワクワクドキドキしながら人生や恋愛ができるようになった人類。
私がずーっと思っていた「無能である人類が等しく持つ驚異の実相」が、上の日月神示の「人間は皆、かみかかっているのであるぞ」の「皆」に現れていると思います。
今ここにいる私や、そこにいるあなたのような「きわめて無能な人たち」はすべて宇宙から見れば「神がかっている」。
なお、「言葉は神であるが、人間でもあるぞ」という概念に関しては、ヨハネによる福音書の冒頭の「はじめにことばがあった」というものとの関連で今後も出てくることになると思います。
どうしてこれが大事なことか。
それは、「はじめ」と「終わり」という概念の問題に突入していくからです。
たとえば、ずっと人々が唱えてきた「終末」という問題。
地球の終わりとか人類の終わりとか、そういう言葉には「終わり」という概念が含まれます。
「終わり」の対極の意味は「はじまり」ですが、どんなものにでも対極は存在します。つまり、終末を語るには「はじまり」にも言及する必要があると思うのですが、聖書や仏典やコーランや、あるいは日月神示など、そういうものに書かれてあることが「正しい」のなら、
「はじめはことば」
であることが提示されていて、また、
「言葉は神であるが、人間でもある」
のなら、はじまりの対極にある「終わり」に存在するものは何なのか。
それを知りたいように思います(推定では「終わり」という概念はこの世にないと思っています)。
何だか話の方向性が無分別になってきましたので、ここまでにしておきます。
ところで、先日の記事に書いた 1785年の「薔薇十字の秘密のシンボル」関係のことを少し書いておきます。ここには興味深いイラストがたくさんあります。
薔薇十字のシンボルでの数字の意味
たとえば、その「薔薇十字の秘密のシンボル」の中には下のようなイラストがあります。
日本語はこちらで入れたものです。
太陽に「4」の数字が当てられている、ということがわかります。前後の本文は読めないのですが、このイラストを見ても「4」の中心性というものが何となくイメージできます。
「7」に関しては、どうやらこの西洋神秘学の世界では「全部」ということになっているようにイラストでは見られます。「全部」というのは、つまり「7以上がない。7がすべてである」というような意味です。
そう考えると、「4」の意味もちょっとわかります。
つまり、1から7で完結する概念は下のようなことになると思います。
1234567
この真ん中は・・・。
1234567
となるわけで、7から作られている世界では中心が4になるということに初めて気づいたのでした。
あと、数字関係のイラストで興味を持ったのがこちら。
「7」と「666」が同居している図です。
この「666」という数字は「薔薇十字の秘密のシンボル」の中には何度もイラストで描かれますが、イラストだけの感覚でいえば、よく言われているような「悪魔的なイメージ」というものはなく、上の図にあるように「7の対極」として描かれているというように感じます。
つまり、「世界そのものである7」が存在するためには対極の「666」が存在する必要があるというような雰囲気が伝わります。実際はわかんないですけどね。
さて、これから鴨何とかさんの「方丈記」の冒頭でも読んでみます(夢指令)。
古文ほとんど読めないんですけれど。