今日は最初は、「1987年に発見された超新星と見られる天体がこの20年にわたって謎の変化を遂げている」というものを紹介するつもりでした。
これ自体もかなり興味深いものなのですが、その前に書いた前振りがものすごく長くなりまして、「超新星が宇宙に描き続ける奇妙なリング」は次の記事で本日中にアップします。
しかし、その様子はとにかく興味深いですので、記事の前ですが、超新星の様子を貼っておきます。 1994年から 2009年までの NASA のチャンドラー観測衛星の写真を連続で貼った動画にしてみました。1987A と名前がつけられている超新星のようです。
超新星 1987A の1994年から2009年までの変化(静止画の組み合わせ)
オリジナルの記事(英語)は、Astronomical Mystery: Tremendous Explosion And Appearance Of Odd Rings (天体の謎: 巨大な爆発と奇妙な形のリング)にあります。
巨大な天体(超新星爆発を見せるものは一般的には超巨大です)で、これだけの大規模な変化が 20年程度で起きていることも驚きですが、その「形」がすごい。最後はリングの中にウルトラマンの顔みたいなのが浮き出ている感じ。
今回は別のことを書きます。
ここからです。
「苦と死の神様」が私の友だちだった
いろいろあって(というか、単純に返信ができないためですが)、今はメールアドレスを記載していないのですが、以前からのお知り合いの方々が少しだけいます。どなたともお会いしたことはないですが、日本にいる方もいれば、エルサレムやインドネシアなどの遠方の方々もいて、たまにとても驚くようなことを教えてくれたりします。
先日書いた「 1785年の「薔薇十字の秘密のシンボル」の冒頭に出てくる数字」という記事で、以前から興味を持っている「4」が薔薇十字の古書の最初に出てくることを書いたのですが、この「4」がどうして、日本語では「死」を意味するものと結びつけられたのかとかに関して、いろいろと知り得たりしました。
まあ、そのあたり、そのうち少しずつでも書ければと思います。
ところで、私は知らなかったんですが「お酒」の語源の説のひとつとして「クシ」という古語が考えられるのだそうです。お酒という名前の由来というページに、日本酒造組合中央会が発行している「日本酒読本」という中にあるものからの引用があります。
そのまま抜粋します。
説は4つ書かれてありますが、他の3つは省略いたします。
お酒という名前の由来
【クシ】という古語からきたという説。
クシは怪し、奇し、つまり木や石のくぼみに落ちた果物などが自然発酵し、その液体を飲むとなんともいい気分になる、不思議なことだ、ということから、「クシ」と呼ぶようになった。ちなみに、酒の神様のことを「クシの神」(久志能加美、久斯榊)ともいいます。
「うーむ」と私は唸りました。「クシの神」。すなわち、九四の神。あるいは、苦死の神。
日本語で最も忌み嫌われる音を持つ組み合わせの音の神様が、日本のお酒の神様だったとは・・・。
最近たまにパニック障害のことを書いていますが、実はその症状に最も効く「薬」のひとつが、薬剤以上に(私にとっては)お酒であることは否めないのです。なので、私の人生では、お酒がこの世に存在していないと現在まで自分の命が継続していなかった可能性が強くて、それだけにお酒の神様はまさに私の神様。
苦と死の神様に乾杯!
ちなみに、語呂合わせの世界でいえば、クシの神様のこの名前、「9×4=36」ということで、36、すなわち「ミロク(弥勒)の神様」という考え方もできなくはなさそう。
もうひとつの話題は、これもある意味で「4」絡みです。
太陽は「ア」だった
先日の「神に怒りはないこと知る日々の中で」という記事で下のイラストを載せました。
これは 1785年の「薔薇十字の秘密のシンボル」の中にあるものです。
上のイラストでは、太陽に「4」の数字が当てられ、そして、下のようなマークが書かれています。
これは、「薔薇十字の秘密のシンボル」で太陽を表す場合にすべて使われているように見えます。
今朝、お知り合いの女性の方が「こんなこと見つけちゃいました」とメールをくれたのですね。彼女はそれをご自分のブログの「やはり、地球=太陽だった」という記事に書かれていますので、そこから図を拝借いたします。
いろいろとあるのですが、そこで最も私が衝撃を受けたのが日本の古文字との関係です。私は全然知らないのですが、「ホツマツタエ」というものがあるらしく、そこに記しされているホツマ文字(あるいは、ヲシデ文字)というものがあるらしく、これは 48字で構成されるもののようです。
下がその全文字です。
縦組みの表では、文字が「ア」から始まりますが、そのホツマ文字での「ア」が下の表記なんです。
上のまるい表では、中央左側のやや下にあります。
矢印を入れようと思いましたが、あまり手を加えるのも抵抗があるのでそのまま載せました。
これは簡単に書くと、
中世のヨーロッパ神秘学の世界で「太陽」は「4」の数字として表され、そして、その太陽のシンボルは、日本語の1番目の「ことば」である「ア」と同じものが使われている。
ということになります。
偶然にしろ何にしろ、シンボルが同じということは事実のようです。
ちなみに、彼女のブログではさらにすごい発見をしていて、それは今は短くまとめて書けないですので、一言で書くと、
このマーク自体が地球を表しているのではないかというものです。
つまり、この薔薇十字の図は、「地球=太陽」だということ表している可能性があるということです。
実は、「地球=太陽」をにおわせるイラストは 1785年の「薔薇十字の秘密のシンボル」の中に多く出てくるのです。周囲にあるラテン語の説明はわからないものが多いのですが、イラストだけでわかる部分もたくさんありますので、少しそういうイラストを載せておきたいと思います。
太陽=地球(そして人間)
また、「地球は太陽である」と同時に「人間も太陽である」ということが示されているイラストが多く、もしかすると、薔薇十字が言いたかったことは、
地球と太陽と人間は同じもの。
ということだったのかもしれません。
下のような「心臓の中に太陽がある」というニュアンスをうかがわせるイラストもあります。
何度かこのブログでも引用させていただいたことがありますが、かつてクレアの頃にコメントを下さっていた、シュタイナーの研究者であり、薔薇十字の修行者でもある、ねるさんという男性がいます。昨年の震災の後にもらったメールにあった記述は上のイラストに描いてあるそのままを感じました。その頃、「人類が獲得した「予知できない」能力」という記事に転載させていただいたのですが、もう一度全文転載させていただきます。
現代人の知性とその可能性
人間の知性はいまや他の存在たちにとっての希望です。自然のなかに生きていた神々はもういません。自然は、もはや自動的に運行する機械に過ぎないのです。科学によって自然を観察しても生命は見つかりません。自分を探してのぞき込んでも、見つかるのはただの影にすぎません。
今や人類はそれ以前とは異なります。神々は人類に運命を委ねたからです。
宇宙の知性は、ある時期から人間の側に移行しました。以前のように自然を探すことによって見いだせるのは死んでしまった法則だけです。人間は、自分が宇宙の意志であるという事実を自覚するとき、やっと宇宙と自分自身の本当の姿を見つけます。それは神々が与えてくれるものではなく、人間の判断行為の中にのみ見いだされるものです。
宇宙は最終的な結論として人間を選びました。
この奇跡の只中にいる人間自身がこのことに気づいていません。空に輝く物質的な太陽とおなじ力が人間の内部にも働いているという事実をです。自分自身の知性がこれから大きく変容する可能性があることに人間は気づかなければなりません。宇宙の命運が掛かっていることを知らなくてはなりません。
過去の光は人間の内部に移行しました。自分の思考が宇宙の意志であることを自覚すると、想像をはるかに超えた数の存在たちが闇から救出されます。動物たちは大気圏の外から人類を見守ってくれます。植物たちはこの地上で人類を助けてくれます。鉱物たちは自らを思考の材料として提供してくれるはずです。
だから宇宙に生きる全ての存在たちのために、人間は、今、行動しなければなりません。
「空に輝く物質的な太陽とおなじ力が人間の内部にも働いているという事実」があるという概念がこの世界にはあるということになるようです。難解ですが、理屈抜きで考えてみれば、それもまた納得できるような気もする昨今です。
さまざまにつながってくる「ア」の存在
ちなみに、昨日読んだ「方丈記」にも「ア」の下りが出てきて、1181年の「養和の飢饉」という大飢饉の時の京都の様子を書いていて、京都だけでも4万人以上の餓死者の屍が京都の路上で見受けられるという悲惨な描写が方丈記の中にありますが、現代語訳を読むと、下のような下りがあります。
仁和寺にいた隆暁法院という人は、これほどに数え切れない人が死んでいくのを悲しみ、死体の首を見るたびに、額に阿字を書いて仏縁を結ばせ成仏できるようになさったという。
ここに出てくる「阿字」の「阿」というものは、インドの古語であるサンスクリット語(梵語)の1番目の母音である「ア」を示すもので、これはサンスクリット語の表記では下のようになります。
隆暁法院という寺院の方は、養和の飢饉で亡くなった方の額にこのマークを書いてくださっていたようです。
あんまり関係ないですが、せっかくサンスクリット語が出てきましたので、サンスクリット語の数字も載せておきますね。Sanskrit Lessonにあります。
「ア」といえば、昨年偶然、梶井基次郎の短編集を手にして、そこに「瀬山の話」という短編がありました。クレアの「言語による宇宙存在と人類存在の再プログラミングは可能か?」という記事などにそのことを書いたことがあるのですが、この「瀬山の話」という今から 90年前の小説で、梶井基次郎は「ア」への疑問を書いています。
今回はそれを抜粋してシメとしたいと思います。
「瀬山の話」 梶井基次郎 1924年
一体、何故アといえば、あの片仮名のアに響くのだろう。私は口が発音するその響きと文字との関係が --- 今までついぞ凝ったことのない関係がへんてこで堪らなくなった。
「一体何故(イ)といったら片仮名のイなんだろう。」
私は疑っているうちに私がどういう風に凝って正当なのかわからなくさえなって来た。
「(ア)、変だな、(ア)。」
それは理解すべからざるもので充たされているように思えた。
梶井さん、そのあたりわかってくるかもしれないですよ。
関係する過去記事:
・地球の内なる太陽 Vol.0 - 過去の知識から学ぶべき本質的なこととは何か?
・人類の未来(3): 私たちは「言葉」である