2012年03月17日



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「人間は最初 宇宙線だった」:埴谷雄高さんの1994年の言葉



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昨日の記事「今の太陽は自分自身も爆発を繰り返しながら何かと戦っている模様」では、最初は太陽の話を書いていたのですが、どんどんと逸脱していって、最終的には、作家の埴谷雄高さんの話へとなっていました。

あのあと何となく気になって 1995年に発行された『埴谷雄高 独白 死霊の世界』という本を適当にめくりながら読んでいたんですよ。その年に NHK 教育で5日間にわたり連続でテレビ放映された同名の番組を本にしたものです。

そうしたら、その中に「宇宙線」の話が出ていたんです。

埴谷さんがニュートリノが大好きだったのは知っているんですが、「宇宙線」という単語そのものが埴谷さんの口から出ていたというのは驚きでした。

しかも、「遺伝子には宇宙線時代もあったわけですよ」なんてことを言っている。

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テレビ番組のほうは知人にビデオで録画してもらったものを何度も見ていたのですが、その発言の記憶はなく、変だなあと思っていたんですが、本の前書きなどを読むと、「書籍のほうにはテレビで放映しなかった独白部分も収録」したのだそうです。そういや、本のほうはあんまり読んでいなかったので、それでこの 17年間気づかなかったのでした。

この本の元となったテレビ番組『埴谷雄高 独白 死霊の世界』は 1993年6月から1994年4月までの1年近くのあいだ、NHK のディレクターと取材スタッフが埴谷さんの家に赴いて撮影を続けた NHK 番組史上でも相当な執念と労力で作られた番組ですが、時代は今から20年前ですし、その頃に「宇宙線」と放映しても、見ている人にはよくわからなかったかもしれないですしね(科学番組ではなく、あくまで文学の番組だったということもありますし)。

私なんかに至っては「宇宙線」という言葉自体を知ったのが2年ほど前のことです。

そんなこともあり、埴谷さんが宇宙線について語っていた部分をメモも兼ねてその部分を抜粋しておきます。

ちなみに、ここには、「無機物から生命が発生して」という旧科学の発想がベースにありますが、これと進化論は、この世代の人として誰も逃れられなかったものなのかもしれません。また、ここで埴谷さんが言っている天文学は 1993年時点でのもので、現在では宇宙線もニュートリノも多少理論的に違うことになっているかもしれません。

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▲ 埴谷雄高さん。多分 1993年頃のものだと思います。やっぱりトカイワインと一緒に写っている写真が埴谷さんらしいと思いましたので、これに。

(ここから)



『埴谷雄高 独白 死霊の世界』第五回 アンドロメダの兄弟へ
NHK 出版 1995年

アインシュタインじゃないけど、われわれ生物は単細胞から来ているわけです。遺伝子。

その単細胞が、普通の無機物からやはりできたわけだから、宇宙線時代もあったわけですよ、ずっと。

宇宙線の存在というようなことは、ある意味で非常に自由なんですよ。自由自在、宇宙は。それは鉛でやっと止まる。鉛が障害物なのね。要するにわれわれで言えば、宇宙線にとっての最大の階級的存在は鉛なんだ。

(小川国夫さんという人と対談した時にも)ニュートリノの話が出て、これは日本の神岡鉱山というところで探知したわけですけれども、東大とアメリカの学者が、水をたくさん入れて、CCDという電気の倍増管で通過した光を増幅するわけですよ。そうするといくつ通過していったかわかるわけです。大マゼラン星雲で宇宙彗星が爆発したときにもやはりニュートリノが通過した。通過してどこかへ行っちゃったわけです。

ニュートリノは自分が自由自在なのですよ。どこにも止まらないのですよ、ある意味でいうと。自分のことも考えないですね、ニュートリノは。

ということは、われわれはどこかへぶつかるから自分だと思って、壁にぶつかるとか、あるいは恋人と手を押しやるとかね。しかし、ニュートリノは、何のことはない、障害物は何もないですよ、どこもみな通過しちゃうのだから。

ニュートリノにとっては、宇宙というのは何もないというところなのですよ。無の空間なんですよ。われわれは物があると思っているから存在とかなんとか言っているし、障害とかなんとか言っているわけだから。

今の天文学者たちもニュートリノを研究していて非常に困っているのですよ。だけど、やはり、どこから止まるだろうというふうに言っているわけだ。

そういうものが出てきたら、僕は宇宙線時代のときは、鉛の板という障害物があるから、人間が女に惚れるみたいに自同律の不快になっちゃった。ところが、ニュートリノは宇宙線以上に、普通の鉛板はどんどん通過してしまう。

今のところ、このニュートリノを止めるためには鉛の板を何十トンも、ものすごく大きいのを作らなくちゃ駄目だろうと天文学者は言っているわけですね、実際はわからないのですよ、ニュートリノはいまだに。




(ここまで)


どうでもいいですけど、埴谷さん、かなりお酒で酔ってますね。文脈に支離滅裂な部分が多いです。でも、テレビを見ていた時「酔えば酔うほど強くなる」という酔拳的な部分が埴谷さんにあることを感じていました。

それにしても、「人間が女に惚れるみたいに」というフレーズには笑いました。「男が」ではなく「人間が」と言っている。酔った埴谷さんには、「男は人間」で、「女性は人間以外」と感じていたことがわかります。私もですが、どうやら、女性に「神様の方向」を見いだしていたかもしれないことがわかります。私は最近その感じが特に強いです。

抜粋ついでに、上の埴谷さんの思いに対して、わりと納得のいく話をしていると思われる他の人たちの言葉をいくつか引用しておきたいと思います。



世界は生命体であり、その中には無限の動力と無限の主体が存在している

上の埴谷さんの会話の 400年前のもので、イタリアの修道士ジョルダーノ・ブルーノの著作『無限、宇宙および諸世界について』から抜粋いたします。 16世紀の科学では宇宙線もニュートリノは観測されていなかったですが(ただ、言葉が違うだけで同じような概念は確立されていたようです。エーテルとか)、ブルーノの言う宇宙の物質の特性は宇宙線そのものです。

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▲ Tシャツにもなっているジョルダーノ・ブルーノ。日本まで送ってくれるかどうかわからないですけど、こちらで 30ドルで売ってます。


(ここから)



『無限、宇宙および諸世界について』第二対話より
ジョルダーノ・ブルーノ 1585年

この無限にして巨大なるものは、何ら特定の形態ももたず、外物に作用する感覚も持っておらぬにもかかわらず、一つの生き物なのです。

なぜならば、それは自らのうちに完全な霊魂をもち、生命ある全体を包み、その全体であるからです。またこう考えたとて、二つの無限者を認めることから生ずるような不都合は何一つ生じません。

というのは、世界は生命体であり、そのなかには無限の動力と無限の動的主体が、上に述べたようなありかたで、はっきりと存在しているのですから。




(ここまで)

さらには、上のブルーノの死後、150年後に書かれた18世紀の科学者、イマヌエル・スエデンボルグの『地球間の諸地球』より。

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▲ 切手になったスエデンボルグ。1938年発行。


(ここから)



『地球間の諸地球』第一章
1758年

宇宙には地球は一つ以上在ることを次のことから信じることができよう。すなわち、星空は無限に広がっていて、その中の星の数も無限であり、その星の各々は、その所で、またはその世界で、一つの太陽であり、我々の太陽のように、いろいろな大きさを持っているのである。

すなわち、このように無限の拡がりをもった全体は必ずや、創造の究極である一つの目的に到達する手段でなくてはならない、その目的は、神が天使と人間とともに住みたもうことのできる天界である、なぜなら、目に見える宇宙は、または無数の太陽である、かくも無数の星できらめいている天は、地球の存在と、その地球上の人間の存在に対する一つの手段に過ぎず、その人間から天界が形作られることができるからである。

(中略)

天使たちの天界は無辺であって、人間の持っているあらゆる微細なものにも相応し、無数のものが各肢体、器官、内臓に相応し、また各々の者のあらゆる情愛に相応しているのである。




(ここまで)

上の「人間の持っているあらゆる微細なものにも相応」というのは、つまり、「宇宙全体と個人の人間の体は対応している」ということのようで、宇宙を自由に動いている宇宙線の存在との関連を思わせるものがあります。


ところで、中世のヨーロッパの人々が「神」とか「天使」とかを書くのは、その時代のグリグリなキリスト教支配の中では、「そのように表現しなければならないということが多かった」という点には注意したいところです。必ずしも本心ではなくとも、神やキリストに帰結していく方向で書かないと、ブルーノのように「焼かれちゃう」ということになってしまう時代でした。

こういう例はいつの時代でも見られて、日本の戦前の本ですとか、ソ連や中国の共産党の時代の本もそうでした。「本心」ではなくても、「書くと焼かれちゃう」ということを避けて書かなければいけない時代でした。

日本の例では、「日本刀神話」を実質的に崩壊させた『戦ふ日本刀』という昭和15年(1940年)の著作が有名です。日本刀の修理工だった著者の人が、当時の軍事政権や軍人などを美化して褒め殺しにしつつ、結局、「日本刀は戦いに向かない」という当時は絶対に書いてはいけなかった真実(日本刀神話を否定することは、戦前の日本ではタブーでした)に突き進むという快作です。

まあ・・・・・・今の時代も実は変わっていないですけどね。書くと「焼かれちゃうこと」はたくさんあります。言論がこの世に生まれてから「言論の自由」など一度もあったことがないですし、今後もないと思います。

「言論が存在しない世界」になるまでは。

今回もまとまりなく書いてしまいましたが、今回のものなども、「この世は無限」という概念に近づきたくて羅列しています。
タグ:埴谷雄高