2011年08月06日



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ヨハネによる福音書を純粋に読む



最近はこのブログなどでも「言葉と世界」というようなことによくふれていて、そこから梶井基次郎だとか、いろいろと脱線してはいるものの、この「はじめに言葉ありき」という概念が基本にはあります。この言葉自体は聖書の「ヨハネによる福音書」という章の冒頭に書かれているものです。

私はキリスト教徒ではないですが、海外のキリスト教徒の人たちが書いているサイトやブログを読むことがあります。その時に、たまに「ふと」ある疑念が最近とてもわきます。

あるいは、バチカンや聖職者の人たちの言葉を読んだりしていてもそうなのですが、それは、


本当に聖書を信じているのだろうか


という疑念です。


彼らの文言には、「最初に神が言われたことは」とか、「はじめに神がなさったことは」というようなものが出てくるのですが、しかし、現実では聖書では・・・たとえば「ヨハネによる福音書1章」の冒頭はこのように始まります(日本聖書教会より)。



初めに言があった。
言は神と共にあった。
言は神であった。




普通に読めば「最初に言葉があった」と明記されているように感じます。あるいは、「神というのは言葉そのものだ」とここに書かれているとしか読めない感じもします。


そこで、この「ヨハネによる福音書1章」の冒頭部分を少しちゃんと読んでみることにしました。



ヨハネの登場までのプロローグの編集


日本聖書教会より、「ヨハネによる福音書1章」の、「ヨハネの登場」(1章6節)までです。



初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。

この言は、初めに神と共にあった。

万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。

言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。

光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。




この後に、「神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。」と続きます。

この内容をそれぞれ現代語として箇条書きにします。



・はじめに言葉があった。
・言葉は神と共にあった。
・言葉は神であった。

・すべてのものは言葉からできた。
・言葉以外からできたものはひとつもない。

・言葉の中に命があった。
・命は人間を照らす光であった

・光は暗闇の中で輝いている。
・暗闇は光を理解しなかった。




ここから割愛できるいくつかの行を消してみて、さらにわかりやすくしてみます。


まず、2行目にある誤解を招きやすい「言葉は神と共にあった」を消します。

何が「誤解を招きやすい」のかというと、その上に「はじめに言葉があった」とあり、「はじめ」という単語は順列を示す概念の単語である以上、「神か言葉かどちらか」という選択のニュアンスを含んでいるはずです。

そしてその選択に関しては、「最初に神があった」と書かれていない以上、その実態は聖書のこの部分で「神」より「言葉」という表現が先に書かれているという意味でも、「最初は言葉」であるというニュアンスが強いと思われます。


さらに、

・すべてのものは言葉からできた。
・言葉以外からできたものはひとつもない。


は意味が重複していますので、どちらかを割愛。ここでは下を消します。

また、「命は人間を照らす光であった」は私には意味不明なので、ここでは消してみます。なぜ意味不明かというと、この言い方では、

「命」と「人間」は別のもの

と読めるからです。

聖書では、「命そのものが人間ではない」と言っているということです。
なので、この解釈は私には難しすぎるので、割愛します。

また、同じ「難解」という理由で、

・光は暗闇の中で輝いている。
・暗闇は光を理解しなかった。


の文字列も一応割愛します。

ただ、この2行は大変に興味深い表現だとは思います。それは、存在の上下関係としては、「光より闇が上」だということが伺える文章だからです。光は闇夜に迎合しようとしているけれど、「暗闇は光を理解しなかった」と、完全な無視の状態で存在しており、それを光が何とかしようとしている。


これらの編集で、「ヨハネによる福音書 1章」の冒頭はこのようになります。



・はじめに言葉があった。

・言葉は神であった。

・すべてのものは言葉からできた。

・言葉の中に命があった。




少なくとも、聖書というものの中では、この世の最初はこのようになっていたと書かれているということのように思います。




コーランのマッカ啓示より


私は最近、非常に何に対しても原理主義的であり、少なくとも、聖典のたぐいには(それがどんな宗教のものであっても)「すべて真実が書かれてある」と考えています。

上の聖書「ヨハネによる福音書 1章」にある下りは、コーランにも同じような部分があります。

コーランの2章にあたる「雌牛章」 117節にあります。(伊斬蘭文化のホームページより)



(かれこそは)天と地の創造者である。かれが一事を決められ、それに「有れ。」と仰せになれば、即ち有るのである。




ただし、ここでは「かれ」という存在が「有れ」と声を発することになっていて、発生する主体の存在が垣間見えますが、ただ、この「かれ」がどういう存在かということに関しては、大体このようなものであるようです。

コーラン 第112章 純正章(マッカ啓示 4節)より 全文です。


1. 言え、「かれはアッラー、唯一なる御方であられる。
2. アッラーは、自存され、
3. 御産みなさらないし、御産れになられたのではない、
4. かれに比べ得る、何ものもない。」




つまり、「かれ」は、


・もともと存在しており

・唯一の存在で、他に同じようなものはない

・何かから産まれたわけではないし、何も産みもしない



というもののようです。



なお、学術的には『ヨハネによる福音書』の冒頭部分、つまり、「はじめに言葉があった」は、ブロローグ扱いとなっているようで、あまり真剣には考えられてはいないようです。

Wikipedia の「構成」という項目から抜粋します。

『ヨハネによる福音書』は(1:1-5をプロローグと考えると)本文が1:6から始まっており、最初の部分(1:6-12章)は洗礼者ヨハネの洗礼に始まるイエスの公生活を描き、後半部分(13章-21章)は弟子たちに個人的に語った言葉とイエスの処刑にいたる経緯、イエスの復活までが描かれている。


とのこと。
ここにある「「1:1-5をプロローグと考えると」という投げやりな記述を見ても、この部分は「装飾部分」ということのようです。


しかし、個人的には、イエスが云々の部分こそがエピローグであり、最初のブロロークと言われる部分だけを人々に伝えたかったのが、「ヨハネによる福音書」だったような気もしますが、そのあたりは好き好きということなんだと思います。


一応、「ヨハネによる福音書」の冒頭の続きを書いておきます。




神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。

彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。

彼は光ではなく、光について証しをするために来た。

その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。

言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。

言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。

しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。

この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。

言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。

ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。」

わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。

律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。

いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。





上記の「言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった」の響きの悲しいこと!


世界は言葉によって作られたが、世界はそれ(言葉によって成ったこと)を認めなかった」。


まさに現代の世の中。
まあ、私は信じていますが・・・でも、神の子とかいう面倒くさいものになりたくはないし・・・(私は聖書にあふれるこの「選民的」な意識があまり好きではないです)。




余談: 夢でオジサンに怒鳴られて

関係ないですが、数日前、夢で起こされ、目覚めると「呼吸が止まって」いました(苦笑)。喉の問題なのか、自律神経系の何かなのかわからないですが、目覚めると呼吸をしておらず、慌てて息をした次第です。

昔、あることで緊急治療室に運び込まれた後に、呼吸が止まったことがあるのですが、その時と同じような感覚でした。睡眠中の無呼吸症候群というようなものも今まではなかったですし、どうして呼吸かが止まっていたのかわからないですが、風邪気味なのも関係あるのかもしれません。


いずれにしても、「あのまま目覚めないと、そのまま死んじゃったりすることもあるのかなあ」と今でも考えます。


夢で私を起こしたのは見知らぬ小さなオジサン(いわゆる「小人」に近い感じ)でしたが、車から降りてきて私に怒鳴り始めました。

それで目覚めました。

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