聖書の「ヨハネによる福音書」にある言葉の、
「はじめに言葉ありき」
のことを書いたことがありますが、実はこれらのことは、そういう「はじめは」というところで終わるものではなく、
「はじめだけではなく、何もかも言葉だ」
ということなのかもしれないということを書いてみたいと思いました。
実体のすべてである DNA
ロシアの自然科学研究の状況を記した過去記事があります。DNA の「本当の働き」といったものの研究が進められていることが書かれています。リンクを提示しておきます。
・ (第1回)記憶媒体として機能しているDNA
・ (第2回)DNAは言語が具体化したものだった
・ (第3回)DNAは生物の直感力とテレパシーを支配している
上のは、内容的にわりと「ほんまかいな」というような部分は多いのですが、しかし、ここでは上の内容の真偽や信憑性というものではなく、あえて、上の内容をベースとして考えることにします。
それは、
「DNA は言葉によって頻繁に再構成されている」
という概念です。
今日、ふと思い立ったことに関しては、文章で長々と書くと、むしろわかりにくくなると思いますので、箇条書きにしてみます。
まず、
・DNA の配列は言語法則と同じである
・そして、DNA は言葉に影響を受けている
という前提条件があるとします。
・「 DNA 」は、人間の情報のほとんどすべてを持つ器官である
↓(そこから考えられること)
・ DNA は実体を持つ器官としての存在だが、それは言葉により牛耳られている
↓
・つまり、言葉がない状態では DNA は機能しない
↓
・DNA とは言葉そのものかもしれない
↓
・DNA とは私たち人間そのものである
↓
・つまり、私たちは「言葉そのもの」である可能性が高い。
というようなものです。
簡単にいうと、これは「人間というものの実体の問題」という核心にふれる可能性の高いテーマでもあり、なかなか難しい話でもあり、簡単に結論づけられるものではないとはいえ、今日、ボーッと駅で立っている時に、次々と頭の中に浮かんできたのは、
「これらの(風景の)実体は存在していないのでは・・・」
という概念で、そして、
「今、実体のように見えるこのすべてが「言葉」なのではないか」と
ということでした。
難しい書き方だと正直思います。
そして、本当はひとつひとつちゃんと今までの流れに沿う形で書きたいのですが、そういう論理思考が今ひとつうまく行かない時期で、また箇条書きにしますが、実はすべて、これまでのクレアと In Deep で書いたきたことの繰り返しなんです。
この世の中を認識している存在は誰か
まず、以前、宇宙は人間が認識してこそ存在するというシュタイナーの言葉を神秘学研究の方から教えてもらったことを過去に私は書いています。
それは、このようなものです。
In Deep の「人類が獲得した「予知できない」能力」からです。
今や人類はそれ以前とは異なります。神々は人類に運命を委ねたからです。
宇宙の知性は、ある時期から人間の側に移行しました。以前のように自然を探すことによって見いだせるのは死んでしまった法則だけです。人間は、自分が宇宙の意志であるという事実を自覚するとき、やっと宇宙と自分自身の本当の姿を見つけます。それは神々が与えてくれるものではなく、人間の判断行為の中にのみ見いだされるものです。宇宙は最終的な結論として人間を選びました。
前後略していますが、要するに、宇宙というのは自動的な運行を繰り返している無機質な存在にしか過ぎなくなっており、「人間がそれを認識して、また、人間が自分たち人間そのものの偉大さに気づいてこそ」宇宙はの再起動はあり得るというような話のように思います。
いずれにしても、「宇宙は認識されてこその宇宙だ」と。
簡単にいうと、「誰も宇宙のことを見もしないで、考えもしなくなったら、宇宙は存在しないも同然で、それは地球にも自然にも人間本人にも当てはまる」と。
まあ、このあたりの認識論はいろいろとあると思うので、いろんな意見はそれでいいとして、とりあえず、「人間の認識」というものがあります。
さて、その「認識する主人公」である人間。
という部分をスタート地点として、箇条書きしてみます。
・宇宙(あらゆる存在という意味)は人間から認識されないと存在しない
↓
・では、その「認識する主体である」人間の存在とは何か?
↓ (上記の DNA の話に戻る)
・人間は DNA であり、 DNA は言葉である
↓
・言葉がなければ人間は存在しない
↓
・それなら、この世界で、この宇宙で最上位にあるものは?
↓
・それは「言葉」である。
↓
・つまり、この宇宙の存在は基本的に「言葉」だけ。
という流れです。
これでも十分にわかりにくいのですが、また続きというか、関係したことは次回からも書くつもりですので、とりあえず、「実はこの世には実体はなく、言葉だけが存在しているのでは?」と、私が思ったということを書いておきたいと思いました。
そして、ここにさらに、 In Deep の DNA の翻訳記事にありましたとおりの、「 DNA がワームホール(ブラックホール)を生成し、また、 DNA が他の宇宙や他の次元の情報にアクセスしているのでは」という話。
つまり、 DNA は「言葉という存在の夢を現実の世界で実現している」というような可能性を感じた次第です。
それにこの「言葉」について思うことは、まだまだあります。
日本人は弥生時代の思考生活に戻れるか?
それは、日本語という問題なんですが、日本人の思考方式や、あるいは実際の生活が最も大きく変わったのは、(多分)、日本に「表記文字が伝わったころではないかと思うのです。
平たく言うと、弥生時代とその後の時代の違い、みたいな感じでもいいです。
そこで大きな転換があったような気がする。
もし、そこで転換があったのだとすると、それは「文字の登場」と「表記での表現」という問題が大きいような気がするのです。
どんな言語でも、喋る言葉と書く文字は違うものですが、特に、日本語は非常に大きい。「どこでも間違いのない日本語」というものは実は存在しない。
たとえば・・・。
10年以上通っていて、オヤジさんとも親しい焼き鳥屋。
そこにあなたは今日も入る。
そしてこう言う。
「今、私は仕事の帰り道にこの焼き鳥屋に立ち寄っています。今日は、まずビールを一本ください。そして、そこにある焼き鳥を塩味で一本とタレで一本下さい。そして、今日もいつものように楽しくここで過ごせると嬉しいと思っています」
この日本語は日本語のテキスト的な考えでは何の特別な間違いもないと思います。
実際、このような例文も日本語教材にあると思います。
それでは、上の日本語は実際に使ったとしたら、正しいでしょうか?
10年以上毎日会って話をしている近所の焼き鳥屋のオヤジさんとの会話として、これは正しいでしょうか?
やはりこれは間違いなのです。
これはもう完全に「日本語ではない」ということになります。
しかし、これが表記文字というものであり、どうも私はこの「表記表現」が、本来の日本人の思考様式を一変させたように思います。
良い悪いの問題ではないです。
表記文字が存在しない現代文明というのは考えられません。
しかし、この「表記言語と人間性」というのを考えるのは面白いような気がいたします。
マヤ族などの南米古代文明は、その文明の最後まで表記文字を持たなかったですが、あるいは、こういうようなところにも着目点はあるのかもしれないです。
これは人類の進化というより、「日本人の進化」という意味で考えてみたいような気はします。