2012年05月12日



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またも旅立ち?: エジソンとシュタイナーからみた教育のこと



この記事では翻訳ではないです。
ただ、今日ご紹介したい報道記事もありますので、それはあとでご紹介いたします。


今回は先日書いた、子ども関係の記事の続きというか、私的なことも含めて記しておきたいと思いました。

先日、

3歳までことばを持たなかった私の子どものこと
 2012年05月08日

という子どもの話を書いたのですね。
思うところあって、タイトルを変えています。


それでまあ、今、うちの子どもはこの春から普通の小学校に行っているのですが、実際には私はこの「小学校へ行く」、あるいは「行かせる」ということ自体に、かなり疑問を持っていました

とはいえ、小学校にはとりあえずは入学させようとも思っていました。奥さんの祖母とか、うちの親とか、親戚関係とか「周囲の穏便な関係」というものが理由のひとつとしてありますし、もうひとつは何よりも、「子ども本人の意志と経験」でした。

本人が楽しいのならそれでいいわけですし。

でまあ、細かいことはともかく、とりあえず本人は小学校に1ヶ月行って、多少いろいろとあったりすることもあり、今後、子ども本人といろいろと話していこうとは思っていますが、私本人の価値観としては、「今後の時代に生きる人間として」は、どう考えても、小学校から高校まで12年間という長い時間を現行の制度での学校教育の中で過ごすのは人生の中であまりに不毛な気はしています。

本題とは関係ないんですが、そのことを少し書きます。


earth.jpg

▲ ぜんぜん内容と関係ないですが(笑)、なんとなく地球の写真などを置いてみました。



「不毛な輪廻」の中の学歴社会システムが間近に見えている中で

ちなみに、これは「学校教育の存在そのものが不毛」といっているのではないです。

現在の学校制度はそれはそれでいいのだと思います。

ただ、「私の価値観とは合わない」だけの話です。

今後も今まで通りの学校制度や受験制度、そして就職制度の中で生きていく人たちはたくさんいて、そのことを否定するつもりなどまったくありません。

私自身が、そういうシステムの中での完全な落ちこぼれだったので、その「12年間」が異常に不毛だと感じていただけで、小学校から高校卒業までの12年間を充実した時間だったと過ごせるのなら、それが一番だと思います。

しかし、もし、その目的が、仮に「大学に入るため」であり、それが「いい会社に入るため」という目的であるのだとすれば、それは特に今後は不毛だと思います。

その理由のひとつは、たとえばですが、その「いい会社」さえも日本から消滅しようとしているということもあります。

エルピーダメモリのことは記憶に新しいでしょうけれど、ソニーやパナソニックやシャープなどといった超大企業が、たとえば上で挙げた「12年後」に「同じ経営母体である会社」として存在している可能性が果たしてあるでしょうか?

あるいは、大手銀行、金融、証券、建築、不動産。

そんなものが12年後に今と同じ形で果たして存在しているでしょうか。



「いい会社」が存在しない社会の中で、「いい大学」を出た人はどこに向かえばいいのか。

まあその時にはその時で何らかのことがあるのかもしれないですし、あるいはまた「何事もなく」良くなっているかもしれないですが、しかし、そうだとしても、このような不毛な輪廻の社会システムに入るより、小さなうちから「野菜の育て方」とか、もう少し大きな子どもなら、「屎尿リサイクルや自家発電の方法」などを学んでいったほうが、この先いいような気もするのです。


いずれにしても、そういうことがないにしても、正直、私自身が子どもの頃から

「どうして学校に行く必要があるのだろう」

という疑問を持っていて、そして、大人は誰も的確に答えなかった。

「行くことに決まっている」

と答えられる。

それならそれでいいです。
決まっているなら仕方ないけれど、そのメリットを見いだしたかった。


まあ、12年間の学問の中で、唯一恩恵を感じているのは、「九九」ですね。

他はないです。
歴史も科学も全部忘れました。


私は日本語は自分で覚えました。

小児ぜんそくで寝たきりだった3歳から6歳くらいの間に毎日ひとりで絵本を読んでいるうちに覚えてしまっていました。

だから、言葉は早かったです。



あとは学校で学んだことは何ひとつ覚えていませんし、「席に座っていた」だけでした。


オレはこの椅子に座って何をしているのだろう」とずっと思っていました。


まだうちの子どもは6歳で、スタート時点の時間のズレはどうにでもなる時期ですので、うちの子どもの今後の「生き方」をもう少しちゃんと考えようかなと思い始めました。

何しろ彼はあと2ヶ月で「7歳」なんです。
つまり、私の思うところの「大人」になっていくのですから。

それで、引っ越したばかりなんですけど、来週あたりから、いろいろな場所を見にいくことにしました。



シュタイナー学校のある藤野に行ってみる

ひとつは、日本のシュタイナー学校としては文部省に学校法人として認可されている2つの学校のうちのひとつ「シュタイナー学園」のある神奈川の藤野という町を見てくるつもりです。

別に子どもをシュタイナー学校に入れるということではなく(そんなお金はないですし)、そういう学校がある場所なら、悪い土地ではないのではないかなあという単純な話です。

ここから電車で1時間20分ほどで行けるのでそれほど遠いところではありません。

自然の多いところだと聞きますし。


ところでは、私は「シュタイナー」のこと自体を知ったのが、ブログ「クレアなひととき」を書いていた時、薔薇十字の修行者の方からコメントをいだたいて、はじめて知った次第です。

まして、「シュタイナー教育」となると、今でも何も知らないですので、Wikipedia の「シュタイナー教育」を見ると、そこに大変に興味深いことが出ていましたので、少し書いておきます。

最近、私がこだわっていた「こどもは7歳で大人になる」と関係したことです。


シュタイナー教育の七年期

上記 Wikipedia のシュタイナー教育のセクションの「教育理論の特徴」にあることをそのまま抜粋します。

ちなみに、ここには「エーテル体」とか「アストラル体」とかいう単語が出てきますが、私は相変わらず、このあたりのことが理解できないですが、省略して書くこともできないですので、そのまま書きます。部分部分の抜粋です。


魂と身体

人間の魂から身体までを、意識の座である自我、感情と印象の座であるアストラル体、生命の座であるエーテル体、物質から成る肉体の4層に分けて理解する。

肉体が誕生しても他の3層は未分化の状態であり、7歳のときにエーテル体が自律、14歳のときにアストラル体が自律、21歳のときに自我が自律するとされる。

従ってその各段階に分けて人間の成長を理解することが重要視される。
魂はさらに意志・感情・思考(表象活動)の3つの領域から理解され、それぞれの発達にふさわしい時期にその能力を伸ばすよう、配慮されている。




とあり、続いて、


七年期

シュタイナー教育では、人間の成長を7年おきに大別してとらえる。

生まれてから成人するまでの21年間のうちに世界から「真・善・美」を全身を通して理解し、その世界と自分との一体感を見いだし、世界の中で自由で自律的に生きることのできる人格の育成を目指す。

第1七年期(0〜7歳) - 肉体が誕生してからの7年間。この肉体を動かす事、すなわち意志の成長が課題となる。(中略) 無意識的にも「(私の周りの)世界は善であふれている」ことを子どもが理解するような教育を目指す。

第2七年期(7〜14歳) - エーテル体が既に自律し、アストラル体が活動するようになるまでの7年間。(中略)「世界は美しい」とおぼろげにも感じられる教育を目指す。

第3七年期(14〜21歳) - アストラル体が既に自律し、自我がはっきりしてくるまでの7年間。(中略) 「世界は真実に満ちている」ことをはっきり理解する教育を目指す。




とのこと。

シュタイナー教育でも、最初の「人格の到達点を7歳」と考えているようです。

ただ、私はそれで人間は完全に完成すると思っていましたが、その後も7年ごとに到達点があり、21歳で完全な大人になるということのようです。

まあ、21歳というのは、私個人から見ると遅いように思いますので、完全な大人は「14歳」ということにしておこうかと思います。

そういえば、以前、マヤ語の文法が紹介されているブログ「カンクン丸福」で、下のような記事を読んだことが印象的でした。


マヤ族の子供の旅立ちより。

マヤ族の子供たちは12歳から13歳になるとおとなの仲間入りをしました。その前にいろいろなこと、基本的な生活に必要なこと、たとえば家を作る、作物、特に主食のトウモロコシの栽培方法、獲物の取り方、鹿、イノシシ、アルマジロやイグアナが蛋白源となりました。ですからこれらの動物の捕獲方法などを親や目上の人たちに何回もおしえてもらいました。それから、感謝すること、特に太陽や風や雨などに毎日感謝をすることなど生活の中で大切にしなければいけないことなどを習います。



マヤでも「14歳までには完全な大人の仲間入りをする」と。

あ!・・・そういえば、私は若い時・・・といっても、正確には18年くらい前で、すでに30歳近かったと思いますが、その頃、一度だけ小説を書いたことがあるのです。

結局、発表も投稿もしませんでしたし、その頃は手書きだったので、原稿も今は残っていませんが、そのタイトルは「14歳」というものでした。

14歳の少年が「自分が大人になるための割礼は何か」を考えるうちにその行為は、


・自分を殺すか
・他人を殺すか
・宇宙の源泉を殺すか


という選択で「3つめを選ぶ」話でした。

まあ、それはともかく、Wikipedia にあるシュタイナー教育の書き方で「いいな」と思ったのは、

0歳から7歳までの最初の7年間は、「私の周りの世界は善であふれている」ことを認識させること

をめざし、そして、次の7年間、すなわち、

7歳から14歳までは「世界は美しい」と感じられること

を、めざすことですね。

私はこれを読んで、僭越ながら「あー、オレは子どもの頃、自分に対して自分でこの教育をしてきた」ということに気づきます。

私は生まれてから7歳まで、つまり最初の7年間をほとんど「小児ぜんそく」と共に過ごしました。幼稚園にはほとんど行けず、共働きだった私の家で、私はひとりで本を読んだり、近所を散歩することが多かったです。

そんな中でどうして「世界は善であふれている」と思うようになっていったかというのは、説明が難しくて書けません。

とりあえず、それは妄想と共に「私は善の中に生きている」と確信するに至りました。

それまで「笑う」ということを知らなかった私は、その頃からよく笑う人になりました。


その後の7歳から14歳までというのは、私が「この世の負の部分」を初めて知った時代でした。

世の中で起き続けていた戦争の写真、特に中学校の図書室にあった「ベトナム戦争の写真集」で見た何十もの何百ものバラバラになった死体。ついでに見た第2次大戦の写真のおびただしい数の死体。死体・・・死体・・・死体・・・。

「世の中ってなんてひどいんだろう」と思い始めた頃です。

しかし、中学に入った頃、私の価値観に大転換が発生します。

パンクを初めとする「カウンターカルチャー」と知り合ったのです。

この「パンク・ムーブメント」を含むアンダーグラウンド文化は、すべてではないですが、その中の多くは、あえて「この世の負」の部分、あるいはネガティブな部分を全面的に、しかもそれをメインに取り上げました。

暴力、死、犯罪、差別、悲惨、自然破壊、戦争、階級、貧富、奇形、病気・・・。

そして、それまでの私の子ども時代の生活は、そういったものは「対岸にあるもの」で、つまり、忌み嫌うだけのものだった。

それらはあくまで「マイナスでイヤなものだから、自分たちのそばに来てはいけないもの」だと。

しかし、パンクと知り合って私は変わることができました。

オレが生きているこの世に、それらは確かに存在している。つまり、オレはそのマイナスサイドと同じ世界のひとりなのだ

と。

つまり、そういう「マイナスの世界」が悪いわけではないと思うことへの「最初の布石」だったと思います。もちろん、だからといって、それを万歳と思うわけもないですが、最初の転換点だったことは確かです。


ネガティブと共に生きていく。天国ではなく、地獄の方向に寄り添って生きてみる。すると、それまで何となくつまらなかった世の中でしたが、ふと世の中を見回すと、「なんと美しいことか」と思う。

私の生きている地球とはなんと美しい存在だったのかと初めて気づいた。

そこに死体が転がっていても、です。


こうして、私は7歳から14歳までの7年間の間に次第に「世界は美しい」と思うようになっていきました。

もちろん、これはシュタイナー教育とは関係ないですよ(笑)。
個人的な体験の話で。
私は基本的に気狂いですから。


そういえば、「自分が気狂いだ」と気づいたのも14歳の時でした。

幻聴に指示される日々が続くうちに、私は、

「自分の正気が失われるまでの時間はもうそんなに残ってないな」

と思い、受験のために図書館に行っていた学校の生徒たちと共に図書館におもむき、そこで毎日、「精神医学の本」を読んでいました。

若いうちに自分が発狂したり精神に異常をきたした場合、もっとも悲しむのは親だと思ったので、自分で事前に察知しておけば、親に迷惑をかける前に対処できるかなと思った面もあります。


それから30年以上経ちますが、当時の「幻聴の指示」は非常に私に人生を急がせたのは事実です。何しろ、経験のない方にはわからないでしょうが、「幻聴」というのは、何となく聞こえるものではないのです。

「隣で実際に誰かが喋っているかのように聞こえる」のです。

高校に入って幻聴からの指示が消えて以来、聞こえることはなくなりましたが、「幻聴が聞こえる中学生」なんて、普通におかしいわけで、自分で「オレのこれからの生き方」はなんとなく想像できました。



まあしかし、幻聴には苛立っていましたが、その14歳の頃にはすでに私は上に書いたように、自分に対してのマイナス面での悲嘆というものがあまりなく、そんな中でも世界は美しく、世の中は「善」でした。


なんだか、シュタイナー教育から離れた話になってしまいましたが、うちの子どもが、私のような経験の中で「世界は美しい」ということにたどり着くのは難しいと思いますので、私の子どもには、もっとちゃんとした道のりで、「世界は美しい」と思うように育ってほしいのです

だって、本当に「この世の存在は美しい」のですから。


さて、タイトルに「エジソン」と入れたのですが、どうしてかというと、検索で「小学校中退」で検索していた出てきたのがエジソンだったのです。エジソンの言っていたことはなかなか面白いのです。

そのあたりを少し抜粋して、今日の日記はやめますね。

なんか変に長くなってます。



エジソンの言葉


Wikipedia のトーマス・エジソンに、「経歴」というセクションがあって、そこに、「少年時代」があります。


少年時代

小学校に入学するも、教師と馬が合わず中退した。

当時の逸話としては、算数の授業中には「1+1=2」と教えられても鵜呑みにすることができず、「1個の粘土と1個の粘土を合わせたら、大きな1個の粘土なのになぜ2個なの?」と質問したり、国語の授業中にも、「A(エー)はどうしてP(ピー)と呼ばないの?」と質問するといった具合で、授業中には事あるごとに「なぜ?」を連発していたという。

(中略)

最終的には担任の先生から「君の頭は腐っている」と吐き捨てられ、校長からも入学からわずか3ヶ月で退学を勧められたという。



上のエピソードで一番シビれたのは「君の頭は腐っている」と少年エジソンに言った担任の言葉ですが(すげえ言葉。笑)、エジソンの疑問もとてもいいですね。


> 1個の粘土と1個の粘土を合わせたら、大きな1個の粘土なのになぜ2個なの?


これは、小学生への解答として学校教育では答えが存在するのでしょうか。

高等教育なら何だか難しい数式を並べて「それでも1+1=2である」と言いくるめることはできるかもしれないですが、小学生の算数でこれは説明できるのか?

あと、

>「A(エー)はどうしてP(ピー)と呼ばないの?」


は、まさしく、作家の梶井基次郎の「瀬山の話」(1924年)を思い出します。
90年くらい前の小説です。

かつて、クレアなひとときの、「バーストした視覚の中での新宿にて (2011年07月19日)」で、その部分を抜粋したことがあります。



梶井基次郎 「瀬山の話」(1924年)より抜粋

 一体、何故アといえば、あの片仮名のアに響くのだろう。私は口が発音するその響きと文字との関係が ----- 今までついぞ凝ったことのない関係がへんてこで堪らなくなった。

「一体何故(イ)といったら片仮名のイなんだろう。」

私は疑っているうちに私がどういう風に凝って正当なのかわからなくさえなって来た。

「(ア)、変だな、(ア)。」

 それは理解すべからざるもので充たされているように思えた。そして私自身の声帯や唇や舌に自信が持てなくなった。

 それにしても私が何とかいっても畜生の言葉のように響くのじゃないかしら、つんぼが狂った楽器を叩いているように外の人に通じないのじゃないかしら。

 身のまわりに立ちこめて来る魔法の呪いを払いのけるようにして私の発し得た言葉は、「悪魔よ退け!」ではなかった。ほかでもない私の名前だったのだ。

「瀬山!」

 私は私の声に変なものを味わった。丁度真夜中、自分の顔を鏡の中で見るときの鬼気が、声自身よりも、声をきくということに感ぜられた。私はそれにおっ被せるように再び、「瀬山!」といってみた。その声はやや高く、フーガのように第一の声を追って行った。その声は行灯の火のように三尺も行かないうちにぼやけてしまった。私は声を出すということはこんな味があったのかとその後味をしみじみ味わった。

「瀬山」
     「瀬山」

   「瀬山」
         「瀬山」

私は種々様々に呼んでみた。
しかし何というへんてこな変曲なんだろう。



これは、この「瀬山」を連呼するところの改行も、縦書きですが、実際の文庫本の小説でも上のようになっています(笑)。

すげー小説ですよ、これは。

いずれにしても、上と同じような疑問が少年エジソンにもあったようです。


Young_Thomas_Edison.jpg

▲ 悩む少年エジソン。


うわー、単なる雑記ですのに、なんだかすごく長くなってしまいました。

どうもすみません。




[シュタイナー]に関係する過去記事:

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2011年05月11日の記事

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[2年前の In Deep ]

2010年05月11日の記事

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