2012年08月25日



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「暮らすことのできない都市の群れ」: 米国人記者が綴る中国の今



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▲ エコノミストの「世界の都市の住みやすさ」の2012年度ランキングで、最下位だったバングラデシュのダッカ。私個人はむしろこういう光景に一種の憧れがあって、昔は実際に行ってしまったりしていました。






 



早朝などは涼しい風も多少感じる最近ですが、それでも私の住んでいるあたりの日中の「皆殺し的な太陽光線」は続いていて、たとえば週間天気予報もこんな感じです。

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まだ「37度」とかいう数字が見えてゲンナリします。

日中、暑さをのろい、太陽を睨みながら、「太陽死ね」と呟きつつ(やめろって)歩いていたりするんですが、ここ数日、「ふと」気づくのは、太陽自体の光の弱さだったりします。

私は3年くらい前だったか、「太陽を直視すると気持ちいい」ということに気づいてから、ほとんど毎日、太陽を直接見るのですが、冬なら長時間見ていても大丈夫ですけど、真夏の太陽は普通はキツすぎてほとんど直視できないものです(ちなみに、一般の方は太陽の直視は絶対ダメですよ。目を痛めます。私はもともと痛んでいるんでどうでもいいんです)。

今の太陽自身が直視できるということは、弱ってる感じがしますね。

「今の暑さと太陽の輝きがリンクしていない」

とも思います。


先日、「太陽を分割するような形」の変なフィラメント(磁気のライン)が出ていることをご紹介したりしましたけれど、どうなんですかね、太陽。



▲ 記事「太陽に突然現れて急速に拡大した『巨大な亀裂』」より。


来年 2013年の夏までの黒点最大期までに順調に黒点が増え続ければ、特に問題にないと思うのですが、そうでもなかった場合、あるいは減っていったりするような場合は、太陽が長い「休憩」に入る可能性もあるのかも知れません。

が、しかし、なんであれ、現在暑いことは事実。

昨日から、最近の宇宙での新しい発見のことについて記事にしていたのですが、昨日は書き上げられず、今日もまた暑く、「こんな暑い中、宇宙も何もあったものじゃない」と、別の話題にいたします。

暑苦しい話題です。



暮らすのに適していようがいまいが、人々はそこに暮らしている


先日、英国のエコノミスト市の調査部門から、「住居に適した都市のランキング」という発表がありました。

これは日本語の報道もありましたので、そちらを貼っておきます。


世界の都市の住みやすさトップ10、カナダと豪州が上位
AFP 2012年08月19日

英誌エコノミストの調査部門「エコノミスト・インテリジェンス・ユニット」が今週発表した「世界の都市の住みやすさ」ランキング最新版で、カナダとオーストラリアの都市が上位につけた。同調査は、世界中の140の都市を安定度、保健医療、文化、環境、教育、インフラの5つのカテゴリーに分かれる30項目以上の質的・量的要素で評価した。

トップ3の都市は、半年前の前回調査から変わらず、オーストラリアのメルボルンが1位、2位にオーストリアのウィーン、3位にカナダのバンクーバー。その後もカナダとオーストラリアの都市が健闘している。
 
一方、最も住みにくい都市と評価されたのはバングラデシュのダッカだった。



というものです。

私は、白人が白人富裕層のために作っているような「ランキング」というのが好きではなくて、これまで基本的に気にしなかったんですけど、しかし、最近の世界の情勢、あるいは日本にしても世界や周辺国との軋轢なども大きく、海外への移住を含めて、「他の国の住みやすさはどうなのか」ということについて、興味のある方は多いと思います。

このレポートのオリジナルは、エコノミスト・インテリジェンス・ユニット Economist Inteligent Unit の該当ページ(英語)にリンクがあるのですが、これが有料レポートだったんですよ。

結構な金額を払わないと見られないものだということが判明して、購入するわけもなく詳細はわからないのですが、ただ、ベストもワーストも近年はそんなに変化していないもののようです。

なので、少し前なら同じような感じだと思われます。

2年前の2010年のレボートがありましたので、その「ベスト10」と「ワースト10」の表を載せておきます。大体、今年も同じようなものだと思います。

Global-Liveability-2010.png

注釈しておきますと、下のようになります。




都市の暮らしやすさランキング ベスト10

1位. バンクーバー(カナダ)
2位. ウィーン(オーストリア)
3位. メルボルン(オーストラリア)
4位. トロント(カナダ)
5位. カルガリー(カナダ)
6位. ヘルシンキ(フィンランド)
7位. シドニー(オーストラリア)
8位. パース(オーストラリア)
9位. アデレード(オーストラリア)
10位. オークランド(ニュージーランド)



都市の暮らしやすさランキング ワースト10

130位. ダカール(セネガル)
132位. コロンボ(スリランカ)
133位. カトマンズ(ネパール)
134位. ドゥアラ(カメルーン)
135位. カラチ(パキスタン)
136位. ラゴス(ナイジェリア)
137位. ポートモレスビー(パプアニューギニア)
138位. アルジェ(アルジェリア)
138位. ダッカ(バングラデシュ)
140位. ハラレ(ジンバブエ)







です。

harare.jpg

▲ 2010年のワースト1のジンバブエの首都ハラレ。写真は青年海外協力隊のサイトより 2008年のジンバブエ大統領選挙の頃の様子ですので、貼られているのは選挙のポスターだと思います。選挙ポスターがカラフル。


今年の「ワースト」のほうでは、最下位の位置をバングラデシュのダッカが、2010年の最下位だったジンバブエのハラレから「奪還した」ということになるようです。

さっそく、最下位となった街ダッカのあるインドの「デイリータイムス」というメディアは記事(英語)で、「意図的に私たちの街のを最下位にしようとしている」としながらも、「私たちのほうも努力していないのでは」と書いていたりして、複雑な心境を伝えています。

それにしても、私は上のランキングを見ると、ワーストのほうにばかり行きたい都市があります。カメルーンのドゥアラとかはよくわからないですが、他の街は過去に一度は「なんらかの接点」があって、思い入れがあります。

ナイジェリアの「ラゴス」なんてのは行ったことはないのですが、私が高校生の時、1979年か1980年だと思いますが、日本の音楽家の坂本龍一さんがリリースした「B2 UNIT」というソロアルバムがありまして、この中の「Riot in Lagos 」(ラゴスの暴動)という曲があり、それにえらく感動したことがあります。17歳の頃でしたかね。毎日聴いていました。

この曲を知るまで「ラゴス」という地名や言葉さえしらなかったので、それからラゴスに興味を持ち調べ、ついでに「暴動」というものにも興味を持ち、その頃から「世界の暴動」を図書館で調べたりしたものでした。

調べてみると、この曲は、Wikipedia にもなっていて、そこにも、


> 『B-2ユニット』制作時に、ナイジェリアの都市ラゴスで起きた暴動からインスパイアされており


とのことです。

下の曲です。

坂本龍一 ライオット・イン・ラゴス (1980年)


これを 1980年代の「日本の奇跡的ソング」の一曲という人は多いと思います。


さて、話が逸れましたが、「海外移住」という現象は、アジアでは、日本でも多いのかもしれないですが、中国でも下のような現象が起きています。

ただし、日本などとは理由が違うかもしれないですが。


中国の億万長者、先行き不安で国外脱出
大紀元 2012年08月25日

投資で米国永住権取得

米国のEB-5投資永住権プログラムは、10人以上の雇用を保証できる外国人投資家に永住権を与えるものだ。

このプログラムで永住権を取得した中国人は2006年では63人だったが、昨年では2408人に躍進し、今年の現時点ですでに3700人を超えている。

全世界の投資家を対象とするこのプログラムだが、これまでに許可された投資家数の75%を中国人が占めた。

昨年発表された国内の調査では、無作為に選ばれた資産百万ドル以上の中国富裕層千人のうち、6割は海外の移住を計画していると回答した。移民先は米国だけではない。豪州への中国人移民も増え続けている。2011年、投資移民を含めた中国人移民は初めて英国移民を上回ったという。




そして、中国に絡んで、話題となっている記事を翻訳紹介してみようかと思います。
それが今回の本題です。

題して「人が住むことのできない都市」という記事です。

もちろん、上の「住みやすい国ランキング」と同様のことで、そんなことは人それぞれの判断であるわけですが、なかなか考えさせるものがありましたので、ご紹介したいと思います。

中国に7年間住んで、ほぼすべての省と自治区を訪れた人による文章です。
イサーク・ストーン・フィッシュ( Isaac Stone Fish )という人によるものですが、アメリカのメディアに多く書いているようですが、どこの国の人かはよくわからないです。下の人です。

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▲ イサーク・ストーン・フィッシュさん。フォーリン・ポリシーというメディアの記者で、ロサンゼルスタイムスなど米国の新聞雑誌等で中国関連の記事を書いているようです。


結構長いですので、翻訳に入ります。
記事は基本的に文字だけですので、写真をこちらで添付したりしています。






 


Unlivable Cities
Foreign Policy 2012.08.13

暮らすことのできない都市の群れ


unlivable-china.jpg


中国の大都市は、写真で見ると素晴らしい場所のように見えるが、実際には、そこは人が暮らすには適さない、ひどい場所だという事実がある


イタリアの偉大な作家イタロ・カルヴィーノは、彼の著作である幻想的な小説『マルコ・ポーロの見えない都市』で、マルコ・ポーロが訪れた中国の都市から 55の物語を情感たっぷりに描いた。

そこに書かれてある幻想の中国は、建物は貝殻のような形をしており、らせん状の階段が街に散りばめられている。そして、その幻想的な「ジグザグ都市」の住民たちは、毎日、同じ通りで、眠るための道具を作り、料理を作り、お金を貯め、あるいは物を売ったり、人に質問したりして1日を過ごす・・・という小説だった。


しかし、現在のヨーロッパ人が中国に行き、今の中国の現実の描写をした場合、上のような幻想的で肯定的な描写にはならないだろう。

駅を一歩外に踏み出すと、そこでは多数の中年の女性たちが薄汚れた金属製のカートの上でインスタントラーメンを作り、あるいは鶏をパック詰めしている。今にも倒れそうなホテルの前の路上には農民たちが並んで座り、スイカの種をガムのように噛んでいる。

空気は石炭の匂いがする。

そして、歩いていると、人工的なビルが密集する場所に行き当たり、灰色の箱状の建物がズラリと並ぶ。ある街には、青い色のガラスで囲まれた中国銀行のタワーが作られる。その青と金属での建物の威圧感に観光客は圧倒される。


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(訳者注) ▲ 中国銀行のタワー(左)とその近辺。


中国の都市を、「同じ外観を有する千の都市のようなものだ」という人がいる。

どうして、中国の都市はそのように画一的なのだろうか。

その答えは、この国の建築の歴史の中にある。

1930年代、中国は国家としての形態が崩壊していた。
国の大部分を督軍(当時の中国の地方長官)に支配され、また、中国北東部は日本によって植民地支配されていた。上海は外国人の娯楽場として栄えていた。

当時の中国の平均寿命は 30歳前後で推移していた。

当時は、チベット人、ウイグル人など少数民族たちの住む地区は中国とは関係せず、それぞれ自分の国家として少数民族自身で統治管理していた。

毛沢東が 1949年に中国の主席となった時には、中国の大半の地域はほぼ廃墟と化していた。そして、毛沢東の共産党のテーマは「都市の再構築」だった。

その際の共産党の都市再建のテーマに「広い大通り」、「大きく機能的な建物」などの共通した思想を取り入れ、また、単一の言語と共通した法律を公的に導入し、そこにソ連の都市建設からもヒントを得た。

今日でさえ、ほとんどの中国の都市は、ソ連時代の建設工学で作り上げられたもののような感じがする。

毛沢東の時代以降、中国はリベラルな改革を進めたが、これは国と都市が豊かに育つことを意味しているわけではない。

首都の北京は、ケ小平が 1978年に権力を掌握して以来、それまでの原形をとどめないほど変わったが、私は、北京が過去にどのようなものだったかを確認するために、中国の様々な発展途上の地域を訪問した。

中国の中部の交通の拠点であり、観光地でもある西安。
テラコッタの兵士像の「兵馬俑」(へいばよう)で有名な土地だが、西安に広がるみすぼらしいピンク色に見える建物の数々に、兵馬俑も顔をしかめているかのように見える。



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(訳者注)▲ 西安の兵馬俑。


中国の人民日報に 2007年に掲載された「中国共産党が描く理想の都市」のチェックリストの中から書き出してみる。これは、外国からの直接投資を誘致するためのものでもある。

・公共の広場
・富裕層のための別荘地
・大型高速道路の開発
・新しいゴルフコース

などだ。
これは中国アカデミーの監督官による記載で、つまり、中国の「都市作りの美しさ」というものがこのあたりの集約される。

それでも、たとえば、中国の街自体が魅力的であったのなら、どんな建築でも設計でもそれは悪いことではないのかもしれないが、現実には、水道の水も飲めないし、街のいたるところが、軍事施設や官公庁などの立ち入れない敷地により分断されて、風景は高速道路だけが遠くまで拡がり、大気はときおり黄色になる。

西はウルムチから、北は瀋陽まで、中国の広大な土地に広がっている風景は実は単なる「都市のコピー」なのだ。そして、これらのすべての経済的成功は、終末的な大気汚染と、過剰な交通を生み出し、そして、官僚主義に支配され、人々は毎日の生活の中で窒息寸前になっている。

中国の都市は生きること自体が厳しい場所だと言わざるを得ない。

私は昨年(2011年)の終わりまで、中国で7年間過ごした。そして、22の省と、すべての省以外の地区も訪問した。そこには自治区と呼ばれる場所も含まれている。

武漢の中心都市の交通渋滞の中で、そのクラクションの音のすさまじさに、私は耳に損傷を受けて、聴覚障害者となった。

南京では、ミルク色のスモッグが立ちこめていて、街の風景自体がよくわからないほどだった。

1976年の大地震で有名な唐山の有名ホテルで窓を開けると、四方が工場の煙突で囲まれていた。

私は北京で6年暮らし、上海と天津など多くの中国の場所に住んだ。

しかし、中国で最も住みやすい街をと言われれば、私が2005年から3年間暮らしたハルビン(黒竜江省)を挙げたい。





ここまでです。

ここから記事では、ハルビンの話などになっていき、まだまだ続くのですが、とりあえずここまでとしておきます。

私が今回の記事を紹介しようと思ったのは、日本も都市開発についての同じような「過ち」を持つ気がしたからです。

今住んでいる埼玉県の所沢というところに越してきた後、その時初めて知ったのですが、この所沢の周辺は、「江戸時代から宿場町だった所沢には浦町と呼ばれる花街があり、明治・大正時代に栄えていた」という場所で、花街のようなものが広がっていた場所だそうなんですが、今、ほぼ何の面影もないのです。

ほんの数十年前まではあったはずの「存在」の大半がない。


京都や奈良などの「国が指定した場所」以外の古い文化などは、どんどん壊しちまえ!というあたり、上の記事に出てきた毛沢東の「都市再構築計画」なんかの無味乾燥性と変わらないかもと思った次第です。

今、その元の花街のあたりは、画一的な超高層マンションだらけです。

上の記事にある「広がっている風景は実は単なる都市のコピーなのだ」という言葉。


歴史は移っていくものなので仕方ない面もあるのですけれど、「もう少し古都の姿が残っていればなあ」と散歩するたびに思います。

誰しも今は東大寺や金閣寺には住めないけれど、普通の古民家には今でも改築すれば誰でも住めるのになあ、とか。でも、残っていないので住めない。

私も「いつか古民家に(夏は強力なエアコンつけて)住みたいなあ」と考えることがあるのですけど、埼玉のこのあたりには、もはやないのですよ。前に藤野に行った時にも、現地の人に聞いてみましたら、藤野あたりでも、「古民家は人気で、空きはないと思います」と言ってました。しかも、人気なのでむしろ普通のマンションなんかより高いと。

「チクショー、変な逆転現象見せやがって」と思ったものでした。

まあ、そういう感じで、今回も長くなってしまいましたが、前回記事の「2001年9月11日も含まれている「太陽活動最大期」で書きましたように、まだまだ世の中は荒れる可能性はあります。

でも、世の中が荒れることに自分の生活が巻き込まれてばかりの感覚もつまらないので、それとは別に「自分たちの未来の生活」を周囲と切り離した観念の中で考えるのもいいかと思います。