▲ 何かが破裂したかのような動きを見せた 8月31日の太陽フレア。下に動画があります。
今回の記事をすべて書き終わった後に、この冒頭を書き直しているのですが、後半ものすごく長くなってしまいました。なので、太陽フレアの話題を先に持ってきました。
さて、昨日、ブラックホールに関しての下の記事を書きました。
・発見された「 130億年前のブラックホール」が放つ矛盾
In Deep 2012年09月02日
昨日は日曜日で、上の記事を書いた後、子どもとどこかに行こうと思ったのですが、昨日は久々の雨でした。それで図書館に行くことにしました。
歩いて10分くらいのところに市の図書館があり、結構広く、子どもの本もかなりあります。
その図書館の「小中学生向け科学コーナー」にあった本である科学的事実を知り、それなりの衝撃を受けたというか、「子どもの頃にそんなことを習うんだなあ」と、改めて勉強しなかった自分を認識したりした次第ですが、これは昨日の記事に対しての余談ですので、タイトルの「大出血のような太陽フレア」のほうを先に書きます。
ここからです。
大出血のような太陽の破裂
数日前の 8月31日に、太陽で久しぶりにある程度の大きさの太陽フレアが発生しました。何しろ、最近の太陽は、スペースウェザーで「 QUIET SUN (静かな太陽)」という記事が書かれるほど何にも起きない太陽活動最大期ということになっていて、8月31日のMクラスのフレアは久々のものでした。
NASA の太陽観測衛星ソーラー・ダイナミクス・オブザーバトリー(SDO)が撮影したその際の写真が上に載せたものですが、この「色」は、本当の色ではなく、NASA の太陽観測衛星 はいろいろな波長で太陽を撮影していて、その中でのフレアの動きの見やすいものだと思われます。
NASA の太陽観測衛星の太陽の画像は、たとえば過去記事(「太陽が笑った」 より)のものですが、そのすべてを並べると、下のようにいろいろな色で表示されます。
▲ 見える光の波長の部分が違うので、それぞれ微妙に違う表面の形となって見えます。
さて、その 8月31日の太陽フレアの姿を、スペースウェザーは「美しさ」の点を強調して書いていましたが、私は、何だか、太陽内の「不要物」を外に吐き出しているような、嘔吐や大出血のような姿に見えてしまい、それでご紹介しようと思った次第です。
その時の動画はスペースウェザーに公開されていますが、オリジナルは数秒で、爆発も「一瞬」ですので、こちらでスローモーションにした動画を貼っておきます。
これが紹介されていたスペースウェザーの記事の文章もご紹介しておきます。
タイトルは「壮麗な太陽フレア」というようなものでした。
MAGNIFICENT ERUPTION
Space Weather 2012.09.02
壮麗な太陽フレア
太陽の南東に巻き付いている磁気フィラメントから 8月31日に大きな太陽フレアが噴出した。このフレアは CME (太陽コロナの大規模な噴出)を伴った。
NASA のソーラー・ダイナミクス・オブザーバトリーは、これまで撮影されたフレアの中でも、最も美しいもののひとつに数えられることができると思われるその太陽フレアの記録を撮影した。
このフレアは同時に CME を噴出させ、秒速 500キロメートルの速さで宇宙空間を進んでいる。 CME の発生の様子は下の GIF 動画にある。
この CME の雲は直接地球には向かっていないが、多少、地球に磁場での影響があると見られる。
アメリカ海洋大気庁(NOAA)の宇宙天気予報官によると 9月3日(日本時間9月2日)に磁気嵐が発生する確率は約 40パーセントだという。
ということで、この記事の「日本時間の 9月2日に磁場の影響が地球にある」という部分を読んでいて、ふと思ったことがあります。
私の家はベランダから富士山が見えるのですが、昨日の夜、「富士山の上空とその周辺が真っ赤」だったんですよ。
奥さんと子どもにいうと、「あ、ホントだ」と言ってしばらく見ていたので、私だけの錯覚というわけでもないようです。時間は夜の9時近くで、夕焼けとは関係ないし、もともとその方向で町の灯などで空が赤く光ることを見たことがないので、不思議に思っていました。
ちなみに、「何となく赤い」のではなく真っ赤。
大きな火事、花火大会、戦争、急に大都市ができた(こわいわ)、富士山の噴火、など何か理由はあるとは思うのですけど、今朝、ニュースを検索しても別に該当するようなものもなく、どういう現象だったのかなあと。
CME の磁場とか・・・やっぱり関係ないよなあ。
まあ、いずれにしても、そのような「太陽の大爆発」の様子でした。
ここから冒頭に書きました「物質は永遠」についての件です。
250年前に決着がついていた「この世の永遠性」
昨日、図書館に行き、子どもは子どもで自分で本を探していて、私も子どもコーナーの本などを見て歩いていると、「科学 かがく」と書かれたコーナーがありました。
その中に、
「原子の発見」 田中実 著
という本がありました。
「ちくま少年図書43 科学の本」とありますので、こども向けのもののようです。
「子どもコーナーだろ? 原子だと?」と思いつつも何となく手にし、目次を見た時に「うっ」と思いました。
そこには私が知りたいと思ったことがわかりやすく書かれている。
パッと開いたページのセクションのタイトルは、「分子の研究 - 生命は物質から作られる」で、そこを読んでみると、このようにありました(結局、子どもの本に紛れ込ませて借りてきたので、今、手元にあります)
「ちくま少年図書 原子の発見」 131ページより。
生きているとはどういうことか。人間も動物も、そして、植物も生きている。生きているものと、生きていないものとは、どこがちがうのか。生きているものが死ぬとは、どういうことなのか。
生命という現象には、まだたくさんの解ききれない秘密がある。しかしそれは自然科学の力によって、しだいに解決されてゆくはずである。どんな生物も物質から出来ているのだから『物質不滅の法則』に外れるような現象は起こるはずがない。
「どんな生物も物質から出来ているのだから『物質不滅の法則』に外れるような現象は起こるはずがない」。
上ではじまる章は、そこに前後して、紀元前4世紀に、アリストテレスとデモクリトスが論争をしつつ、ふたりとも共通して、
「ものは消えてなくならない。ものが変化して、なくなったように見えても、じつは別のものがそのかわりにできている」
という認識を持っていることが長く書かれ、そして、「ラヴォアジエ」という人が登場します。このラヴォアジエという人の登場がひとつのクライマックスといえる感じなんですが・・・私はこの名前を知らなかったのであります。
「それにしても」
と立ち読みしながら思いました。
「これは最近の本ではないな。いつの本だろう」
と思って、奥付を見ると、発行は1979年と書かれてありましたが、しかし、著者の前書きを見ると、この本が最初に発行されたのは 1957年なのだそう。
つまり、50年以上前に「少年本」として発行されたもののようです。
1957年だと私はまだ生まれていない。
どうして、「最近の本ではないな」と思ったかというと、たとえば、上に抜粋したくだりの中も「生命という現象」という表現が出てくるのですが、生命存在に対して、今はこういう表現をする人はいないのではないでしょうか。
「生命の中の現象」とか「生命で起きる現象」だとか、そういうような書き方はあるかもしれないですが、「生命という現象」という書き方は「生命という存在自体を現象としてとらえている」ということだと思われます。
つまり、生命はその存在自体が、他の無機物などの科学現象などと比較できる「物質としての現象である」というニュアンスです。
今の時代だと(少なくとも子ども向けの本などでは)「生命は生命。物質は物質」というような区分に自然となるような感じがするのですが、しかし、50年前の科学界での「空気」のようなものは違ったのかもしれません。そして、この「生命という現象」という言い方は、そのまま、エメラルド・タブレットなど西洋神秘学からアルケミー(錬金術)などの中に漂う、
「万物は一者の適合により一者より来る」
ということに通じる概念だと私は思います。
中世の神秘主義などの根幹には、「生命はすべての宇宙に通じる現象と同じ現象」であり、つまり、人間を含めた生物の中で起きているすべての現象は科学での法則とすべて一致するはず、ということがあったと思います。
これは生命を軽視しているのではなく、真逆で、「生命と宇宙が同一である」ということのひとつの道筋となることだと思います。
つまり、私たち人間も宇宙と差は「まったく」ないということです。
ちなみに、著者の田中実さんという人は、この本が出る前の 1978年に亡くなっていて、現在は、ネット上にも同一人物の記述はないようで詳しいことはわからないですが、奥付からだと東京工業大学の教授だった人のようです。
「不滅」の物質は「生まれない」はずだという確信に至った子ども図書コーナーの午後
さて、ところで上の本で最も感銘したこととは何なのか、ということですが、それは、この世には『物質不滅の法則』というものがあるということでした。現在は「質量保存の法則」という名前になっているようですが、55年前のこの本には「物質不滅の法則」とあります。
その法則とは、Wikipedia の質量保存の法則によれば、
質量保存の法則は、「化学反応の前後で、それに関与する元素の種類と各々の物質量は変わらない」という自然科学における保存則である。
というもので、そして、このアリストテレスの時代から「ものは消えない」と考えられ続けてきたことを実験で証明したのが 18世紀の科学者ラヴォアジエという人だそう。
どうして「ものは消えない」ことに感銘を受けたというと、感覚的な話として、これは、
「宇宙の誕生は存在しなかった」ということに結びつく
からです。
なぜ、感覚的にそう思うか。
たとえば、ここで私の書いている意味とは違うとはいえ、Wikipedia の質量保存の法則の説明ページの最後は次の文章で締めくくられます。
なお、この宇宙全体の質量とエネルギーの総和はゼロである(位置エネルギーは重力ゼロの状態を基準点とするため、マイナスの値を取る)。
この「位置エネルギーは重力ゼロの状態〜」の部分は何のことかわからないですが、宇宙全体の質量の総和がゼロということは、
「宇宙では何も生まれてもいないし消えてもいない」
という概念に結びつき、
「宇宙では常に同じ物質群が形を変えて輪廻しているだけ」
という考え方もできます。
一定量の「輪廻」の中で、この世はまわっているという概念。
つまり、物質は永遠であると。
(※ このようなことが著作「原子の発見」に書かれているわけではなく、あくまで、その本の上のページを読んで私が思った概念です。つまり、このあたりからは科学の話ではなく、この先は「娯楽」の範疇です)
話を戻しますと、永遠というものは文字通り永遠なわけで「終わりがない」という意味だと思います。そして、そこから冷静に考えてみれば、消えないもの、つまり「永遠のもの」というものが「生まれる」? 終わりがないのに始まりだけがある?
それは変なのではないかと。
終わりがあるものに対して始まりを考えるならともかく、「終わりがない」のなら「始まりもない」のでは? と。
この疑問は以前、 「DNA の寿命がほぼ永遠」ということを知って以来あったものでしたが、今回の物質不滅の法則(質量保存の法則)を知って、この考えはさらに強固になった気がします。
すなわち、やはり私は、
「宇宙はいまだかつて一度も誕生したことがない」
と確信します。
137億年前のビッグバンが正しいとか正しくないとか、そもそも、ビッグバンそのものについてとか、そういうことではないです。「宇宙は生まれたことがない」ということですので、ビッグバン理論がどうだこうだという話ではないです。
しかし、「宇宙は生まれていない」のに、現に確かに存在している。そして、存在しているから、科学の世界では「存在しているものには始まりがあったはずだ」という前提のもとに、始まりを探しはじめる。
2年くらい前に、
・超弦理論学者から発表された「宇宙は永遠のサイクル」論
In Deep 2010年11月29日
という報道をご紹介したことがありましたが、これにしても、「現在の宇宙は何兆年も前に二つの宇宙が衝突したことによって作られた」という話で、やはり始まりを探っている。
なんでも「最初」を探ろうとする。
このあたりは進化論も同じだと思います。
起源を探す。
しかし、実際には「起源」はあらゆる存在には「存在しない」ことなのだと最近は思います。この世に存在するのは「状態」だけだと思います。
つまり、今の人間でいえば、今の人間とその歴史の状態。
宇宙でいえば、今と宇宙の状態。
そして、「宇宙は成長もしないし、終わりもしない」。
何しろ始まりがないのですから終わらない。
「始まりがない」ことの証拠は終わりがないから。
循環、あるいは輪廻を繰り返すだけ。
「生まれもしない宇宙がどうして存在しているんだ?」
といわれると、そんなことは誰にもわからないのだと思います。
でも、「在る」。
それは過去記事から、旧約聖書やコーランの言葉を振り返っても何となくわかる気がします。コーランに至っては神(とされるもの)は「生みはしないし、生まれもしない」と明記されています。
そこを少し遡ってみます。
旧約聖書 出エジプト記 3章14節を思い出してみる
今年のはじめころ、こちらの過去記事を書く中で、旧約聖書の「出エジプト記」というものを知りました。
そこに「有って在るもの」という表現が出てきます。
これはモーセという人が「神」というような感じの存在から語られるシーンです。
ここは日本聖書協会の口語訳では以下のようになっています。
出エジプト記 / 3章 14節
神はモーセに言われた、「わたしは、有って有る者」。また言われた、「イスラエルの人々にこう言いなさい、『「わたしは有る」というかたが、わたしをあなたがたのところへつかわされました』と」。
これはですね、はっきり言って「日本語として崩壊している」のですが、しかし、この「出エジプト記 / 3章 14節」というのは、日本語だけではなく、あらゆる言語で訳すのが難しい章だということを今回、調べ直して知りました。
「牧師の書斎」というサイトの出エジプト記3章14節についてというページを見ると、原語であるヘブル語(ヘブライ語)の時点で奇妙なのだそうです。
とヘブル語で書くこの部分はこの牧師の方によると「この出エジプト3:14はまことに不思議なことばです。その一つに発音表記のことがあります」とあり、私にはよくわからないですが、不思議な文字か表現をしているようです。
そして、この部分は「旧約聖書中最も多く論じられてきた箇所のひとつです」ということだそうで、サイトによると、日本語と英語だけでも訳と出版元によって次のように違うようです。
フランシスコ会訳の「わたしはある(エーイェ)ものである」あたりは、焼き鳥屋で泥酔して絶叫しているオヤジたちのようで、ヤバゲですが、これはどうしてこんなことになっちゃったのかと考えますと、最初に旧訳聖書を書いた人が意地悪だったというわけではなく、「もともと存在する存在である存在」という概念をうまく表現できなかったのではないですかね。
要するに上に書いた「永遠不滅のこの世」のことです。
「はじまりも終わりもないし、存在でもないもの」からの言葉を神の言葉として書きたかったのだけれど、どうしてもうまく表現できなくて、何だかわからない表現になってしまった・・・けど、「もういいや」と旧約聖書の作者たちが表現を放棄した姿のようにも見えます。
また、イスラム教のコーランにもマッカ啓示 4節 第112章「純正章」に、
言え、「かれはアッラー、唯一なる御方であられる。アッラーは、自存され、御産みなさらないし、御産れになられたのではない、かれに比べ得る、何ものもない。」
とあり、かれ(アッラー)は、「御産みなさらないし、御産れになられたのではない」と、生まれてもいないし、生みもしないことが明記されています。
そして、新約聖書の「ヨハネによる福音書」の冒頭のセクションのフレーズには、
いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。
とあり、どうやら、神は誰も見たことも(今後見えることも)なさそうで、しかも「父のふところにいる独り子である神」が「神を示された」という非常に難解な表現となっていて、どうやら存在自体が危ういことにも気づきます。
話がどんどん逸れてきましたが、過去記事などで書いたことと、昨日、図書館の子どもコーナーで見つけた「物質不滅の法則」には、明らかに相関した関係があると感じます。
そんなわけで、ここまででも結構長くなっている気もするのですが、ラヴォアジエが 1774年に語った言葉が本に掲載されていますので、そこを抜粋して今回の記事をしめたいと思います。
ラヴォアジエ師が教えてくれる腐敗と燃焼と発酵の意味
ちなみに、ラヴォアジエという人はこういう人です。
アントワーヌ・ラヴォアジエ - Wikipediaより。
アントワーヌ=ローラン・ド・ラヴォアジエ(1743年 - 1794年)はフランス、パリ出身の化学者である。「酸素の発見者」「近代化学の父」。
1774年、精密な定量実験を行い、化学反応の前後では質量が変化しないという質量保存の法則を発見した。
ちなみに、彼はフランス革命で革命側に「処刑」されています。
その下りは、
フランス革命勃発後の1793年に徴税吏であること、徴税請負人の娘と結婚していたことなどを理由に投獄された。1794年5月8日の革命裁判所の審判で「水と有害物質をタバコに混入した」との(架空の)罪で死刑とされ、その日のうちに断頭台で処刑された。
とのこと。
断頭台とはつまりギロチンです。
以下は、そのラヴォアジエが 1774年に、物質不滅の法則(質量保存の法則)について記述したくだりです。途中のカッコは著者の田中実さんの補足です。
なお、少年向けということがあり、原文はひらがなが多いのですが、漢字にしたほうがわかりやすい単語などは漢字にしました。
「原子の世界」 132ページより ラヴォアジエの言葉
植物は空気・水・その他の生命のない世界から、有機物質をつくりあげるのに必要な物質をとりいれる。
動物は植物を食べて、じぶんのからだをつくる。またこのように、植物を食べてそだった動物を食べて、からだをつくる動物もある。動物のからだを形づくる物質は、もとをたどっていくと、空気と鉱物の世界からとりいれられたものである。
発酵・腐敗・燃焼は、動物や植物が、空気や鉱物の世界からかりてきたものを、もとにかえすことである。
動物・植物・鉱物(空気もふくめて)の三つの世界のあいだで起こる、このように見事な物質の循環を、自分はどんなやりかたで起こさせているのだろうか。燃焼したり、発酵したり、腐敗したりする有機物質が、燃焼や発酵や腐敗をしない無機物質を材料として、自然界でつくられるのだろうか。これはいまのところ、深入りして研究できない問題だ。
しかし、生物が無機物質から作った有機物質は、燃えてもとの無機物質になり、また有機物は腐敗して無機物質となるのだから、生物のからだのなかで、無機物質から有機物質がつくられるのは、燃焼や腐敗とは逆のはたらきなのだろう。
この部分、特に「発酵・腐敗・燃焼は、動物や植物が、空気や鉱物の世界からかりてきたものを、もとにかえすことである」を読んで、私は図書館で、
という表情で突っ立っていましたら、横にいた小学生の女の子たちから不思議な顔で見られてしまう(子どもコーナーの本を読んで目を大きくしている不審な中年という構図)という失態をしでかしてしまいました。
今回はここまでです。
なんだか前後の結びつきがムチャクチャで、しかも長くなってすみません。
植物は空気・水・その他の生命のない世界から、有機物質をつくりあげるのに必要な物質をとりいれる。
動物は植物を食べて、じぶんのからだをつくる。またこのように、植物を食べてそだった動物を食べて、からだをつくる動物もある。動物のからだを形づくる物質は、もとをたどっていくと、空気と鉱物の世界からとりいれられたものである。
発酵・腐敗・燃焼は、動物や植物が、空気や鉱物の世界からかりてきたものを、もとにかえすことである。
(発酵と腐敗が、微生物のはたらきでおこることは、ラヴォアジエの時代にはまだわかっていなかった。しかし、かれのかんがえたことは正しい。もし動物の死骸、枯れた植物が、くさる【腐敗】ということがなかったら、地球は生物の死骸でうずまってしまう)
動物・植物・鉱物(空気もふくめて)の三つの世界のあいだで起こる、このように見事な物質の循環を、自分はどんなやりかたで起こさせているのだろうか。燃焼したり、発酵したり、腐敗したりする有機物質が、燃焼や発酵や腐敗をしない無機物質を材料として、自然界でつくられるのだろうか。これはいまのところ、深入りして研究できない問題だ。
しかし、生物が無機物質から作った有機物質は、燃えてもとの無機物質になり、また有機物は腐敗して無機物質となるのだから、生物のからだのなかで、無機物質から有機物質がつくられるのは、燃焼や腐敗とは逆のはたらきなのだろう。
この部分、特に「発酵・腐敗・燃焼は、動物や植物が、空気や鉱物の世界からかりてきたものを、もとにかえすことである」を読んで、私は図書館で、
という表情で突っ立っていましたら、横にいた小学生の女の子たちから不思議な顔で見られてしまう(子どもコーナーの本を読んで目を大きくしている不審な中年という構図)という失態をしでかしてしまいました。
今回はここまでです。
なんだか前後の結びつきがムチャクチャで、しかも長くなってすみません。