前回記事: ウイルスの流入の繰り返しでDNAの進化をなし得てきた人類をサポートする「宇宙と火山」(1)
クラカタウ火山噴火の翌年の西暦 536年から「仏教の伝来」と時を同じくして疫病の嵐に見舞われた日本の厄災
昨年の震災の直後、「日本から消えた外国人」のことをよく書いていました。過去記事の「鎖国の気配 (2011年04月04日)」というものなどには、当時住んでいた東京の吉祥寺で夜の街を牛耳っていた中国人たちが一斉にいなくなったことが書かれてあります。
これは私の田舎である北海道などでも同じでした。あまりご存じのない方のほうが多いでしょうが、2010年頃までには、実は北海道の観光地は「日本人観光客はマイノリティ」となっていました。数もそうですし、日本人の観光客よりはるかに「お金をたくさん使う」東アジアからの観光客の人たちが、ここ数年は実質的に北海道観光を支配していました。
先日、「個人的に発令したい海外からの退避勧告」なんていう物騒なタイトルの記事を書きましたが、ほんの1年半ほど前に他の国から退避勧告が出されていたのは、この日本でした。
▲ 震災後3日目の 2011年3月16日頃の報道。「日本人の吉祥寺で」より。
最近ふたたび、日本と周辺国の一部の関係は「まるでお互いの退避勧告」が出ているかのような状態となっています。
今朝のエポックタイムスの記事では、中国では、「国交正常化40周年」を記念して、今年5万人以上の中国人観光客を日本に送る予定でしたが、中国全土にある 5500の旅行代理店にキャンセルするよう通達したそうです。
▲ エポックタイムスの記事。見出しは「中国と日本の緊張がエスカレートする中、旅行者と航空便が犠牲に」。
まあ・・・これらのことは複雑な問題ですので、特に感想はないですが、あの2011年の春の「気分」をちょっと思い出しました。
余談はともかく、昨日の記事の続きです。
日本の歴史は「6世紀以前と6世紀以降」だと言える理由
これは過去記事の、
・西暦 541年の東ローマ帝国でのペスト襲来に関してのヨーアンネースの記録
In Deep 2012年09月20日
と関係した記事でもあります。
『西暦535年の大噴火』という本からの抜粋ですが、「日本は6世紀を境にして何もかも変わってしまった」ということが記されている迫力のある文章です。「古代日本の精神的な滅亡」とも関係します。
5世紀から6世紀、アジアの周辺国が次々と「仏教国」となっていく中、150年以上にわたり仏教国となることを拒み続けていた日本が、それまでの「カミ」を捨てて、仏教国となっていった経緯、その理由の中に潜む「西暦536年から始まった天然痘の大流行」に関しての記載です。
インドネシアのクラカタウ火山の大噴火は西暦535年だったとされていますが、日本に「異変」が起きたのはその翌年からでした。
そして、それ以前には何もかもうまくいっていたという記載が『日本書記』にあります。下は、日本書記の西暦 535年に記された部分です。つまり「クラカタウ火山の噴火の前の日本の情景」といってもいいかと思います(まあ、日本の一部の地域の話ではありますが)。
「このところ毎年穀物がよく実って、辺境に憂いもない。万民は生業に安んじ飢餓もない。天皇の仁慈は全土に拡がり、天子を誉める声は天地に充満した。内外平穏で国家は富み栄え、わたしの喜びは大変大きい。人びとに酒を賜り、五日間盛大な宴を催し、天下こぞって歓びをかわすがよい」(『日本書記』)
その後、日本は次第に下のような状況に陥ります。
「疱瘡で死ぬ者が国に満ちた。その瘡を病む者が『体が焼かれ、打たれるように苦しい』といっては泣き叫びながら死んでいった。(中略)死体は腐乱して名前もわかりません。ただ衣の色を見て、そのむくろを引き取っています」(『日本書記』)
その頃の日本の様子です。
それでは、ここからです。
うまく省略できない部分が多く、長い抜粋となりそうです。
西暦 536年から始まった日本の出来事
デヴィッド・キース著『西暦535年の大噴火』 第7章 東洋の悲劇より
百済は(西暦五三〇年代の)百五十年前から仏教国だったが、これより以前に日本の朝廷に布教団を派遣しようとした記録は残っていない。朝鮮の大半と中国の多くの地域、つまり日本の隣国の大半は、少なくとも百五十年以上前から仏教を、部分的にせよ信奉していたのだから、日本だけがその先例に倣っていなかったことになる。大陸志向の蘇我一族ですら、思い切った行動には出ていなかったのだ。
だが、五三〇年代に前代未聞の状況が生じた。アジア東部の全域が飢饉に苦しみ、三年前の新羅同様、日本でも多くの人びとが、「事態を正常に戻すには、きわめて強力な魔術なり神の助けが必要だ」と感じたに相違ない。
だが、「まさにこのようなときに」伝統的な神々を信奉せず、外国の神を崇拝するのはとりわけ賢明なことではないと考える人たちもいた。軍事・警察を司る物部氏と、祭祀を担当していた中臣氏は、天皇にきっぱりと警告した。
『日本書記』によると、「わが帝の天下に王としておいでになるのは、常に天地社社(あまつやしろくにつやしろ)の百八十神(ももあまりやそがみ)を、春夏秋冬にお祀りされることが仕事であります。いま初めて蕃神(あたしくにのかみ)(仏)を拝むことになると、おそらく国つ神の怒りを受けることになるでしょう」と進言した。
そこで天皇は妥協案を用意した。仏教導入に大賛成の蘇我氏だけは「試しに」外国の神を崇拝してもよい、ということにしたのである。
『日本書記』によれば、蘇我氏の筆頭だった宿禰(すくね)は「ひざまずき、(仏像を)受けて喜んだ。・・・・・家に安置し、・・・・・家を清めて寺とした」だがその後、異常事態が起こった。ひどい伝染病(おそらく天然痘)が日本で発生したのである。多くの人びとが亡くなった。日本では何世代も前から天然痘が流行したことはなかったので、免疫もほとんどなかったちに違いない。
「国に疫病がはやり、人民に若死にする者が多かった。それが長く続いて、手だてがなかった」と『日本書記』には書いてある。
伝染病が流行した地域は、おそらく人口密度の高い地域だったのだろう。そうした地域では、人口の六割が死亡したと推定される。まずインフルエンザに似た徴候が現れ(高熱、腰痛、頭痛)、次にしばしば咳と下痢の症状が出る。次いで、猩紅熱にも似た発疹が現れる。患者は体を焼かれるような、あるいは、絶えず熱湯でやけどをさせられているような感じになる。『日本書記』はのちに、患者たちがこう言ったと記している。
「体が焼かれる・・・・・ように苦しい」
その後、発疹に変化が現れる。そして発疹は顔面を中心に始まって、体の下のほうへ広がっていく。とくに多く出現するのは手足だ。そして皮膚に無数の水疱が現れ、最後には、直径七 - 八ミリという大きめの膿疱になる。
患者の五パーセントは、内出血のため数日で死亡した。別の五パーセントは発疹が広がり、熱が四十度まで上がった。もっとも、患者の大半は天然痘で死ぬことはなく、結局は肺炎と敗血症でおのおの三割が亡くなったものと思われる。天然痘ウイルスが鼻腔、口腔、目の保護粘膜を剥ぎ取ったあと、二番手のバクテリアが侵入したのだ。
とくに被害に大きかった地域では、住民の九割が罹患し、生き残れたのは三割だけだったと思われる。以上のような状況では、「天皇が仏教崇拝を許したことが伝染病流行の原因」と見なされても不思議はない。
仏教反対派はもちろん、日本の神々が怒ったのだと主張した。そうした神々は、現在の神道が信奉している神々と同一であり、主に五つに分類されていた。自然の中に住んでいる神(木や、薄くて背の高い石、山などに住んでいる)、特殊な技能・技術に関連する神、特定の一族を守り特定の共同体を敵視する神、以前は人間だった神(先祖の一部を含む)、そして特定の高貴な神々(太陽神、日本列島を形作ったと言われている二柱の神々など)、以上である。
神=カミは、それ自体の姿形を持っていないと見なされていた。シャーマン(僧侶)から、ある物の中に入るように「言われると」、その物の形に適合できるとされていたのである。
そして、霊たちは、細長い「器」の中に住みたがると一般に信じられていた。具体的には、魔法の杖、旗、長い石、木、特殊な目的の人形、そして生きている人間などである。そうした人間(霊媒)は女性であることが多く、その体と声に神々が乗り移るとされた。
天皇は稀有な男性霊媒とされ、その体は、神聖な祖先である太陽の女神が永遠に「借りている」とされた。こうして天皇は、神性の入るところ、神性の媒体とされた。
天然痘が猛威を振るうと、物部氏と中臣氏は、蘇我氏から仏像を奪い取るよう天皇に嘆願したと『日本書記』にはある。
「あのとき、臣の意見を用いられなくて、この病死を招きました。いま元に返されたら、きっとよいことがあるでしょう。仏を早く投げ捨てて、後の福を願うべきです」
天皇は同意するしかなかった。だがある意味では、仏像は本当に伝染病の元凶だった。なぜなら、この病気は、蘇我氏が熱中していた「外国の品々」の中に入って朝鮮からやってきたからである。
『日本書記』によると、「天皇は『申すようにせよ』と言われた。役人は仏像を難波の堀江に流し捨てた。また蘇我氏の寺に火をつけ、あますところなく焼いた」
仏教と天然痘をめぐって、日本国内は意見が大きく割れたに違いない。五三〇年代に起こったさまざまな出来事は、国内に政争を招き、その後の百年の日本史をじかに左右し、この国の将来を形作った。
百済は(西暦五三〇年代の)百五十年前から仏教国だったが、これより以前に日本の朝廷に布教団を派遣しようとした記録は残っていない。朝鮮の大半と中国の多くの地域、つまり日本の隣国の大半は、少なくとも百五十年以上前から仏教を、部分的にせよ信奉していたのだから、日本だけがその先例に倣っていなかったことになる。大陸志向の蘇我一族ですら、思い切った行動には出ていなかったのだ。
だが、五三〇年代に前代未聞の状況が生じた。アジア東部の全域が飢饉に苦しみ、三年前の新羅同様、日本でも多くの人びとが、「事態を正常に戻すには、きわめて強力な魔術なり神の助けが必要だ」と感じたに相違ない。
だが、「まさにこのようなときに」伝統的な神々を信奉せず、外国の神を崇拝するのはとりわけ賢明なことではないと考える人たちもいた。軍事・警察を司る物部氏と、祭祀を担当していた中臣氏は、天皇にきっぱりと警告した。
『日本書記』によると、「わが帝の天下に王としておいでになるのは、常に天地社社(あまつやしろくにつやしろ)の百八十神(ももあまりやそがみ)を、春夏秋冬にお祀りされることが仕事であります。いま初めて蕃神(あたしくにのかみ)(仏)を拝むことになると、おそらく国つ神の怒りを受けることになるでしょう」と進言した。
そこで天皇は妥協案を用意した。仏教導入に大賛成の蘇我氏だけは「試しに」外国の神を崇拝してもよい、ということにしたのである。
『日本書記』によれば、蘇我氏の筆頭だった宿禰(すくね)は「ひざまずき、(仏像を)受けて喜んだ。・・・・・家に安置し、・・・・・家を清めて寺とした」だがその後、異常事態が起こった。ひどい伝染病(おそらく天然痘)が日本で発生したのである。多くの人びとが亡くなった。日本では何世代も前から天然痘が流行したことはなかったので、免疫もほとんどなかったちに違いない。
「国に疫病がはやり、人民に若死にする者が多かった。それが長く続いて、手だてがなかった」と『日本書記』には書いてある。
伝染病が流行した地域は、おそらく人口密度の高い地域だったのだろう。そうした地域では、人口の六割が死亡したと推定される。まずインフルエンザに似た徴候が現れ(高熱、腰痛、頭痛)、次にしばしば咳と下痢の症状が出る。次いで、猩紅熱にも似た発疹が現れる。患者は体を焼かれるような、あるいは、絶えず熱湯でやけどをさせられているような感じになる。『日本書記』はのちに、患者たちがこう言ったと記している。
「体が焼かれる・・・・・ように苦しい」
その後、発疹に変化が現れる。そして発疹は顔面を中心に始まって、体の下のほうへ広がっていく。とくに多く出現するのは手足だ。そして皮膚に無数の水疱が現れ、最後には、直径七 - 八ミリという大きめの膿疱になる。
患者の五パーセントは、内出血のため数日で死亡した。別の五パーセントは発疹が広がり、熱が四十度まで上がった。もっとも、患者の大半は天然痘で死ぬことはなく、結局は肺炎と敗血症でおのおの三割が亡くなったものと思われる。天然痘ウイルスが鼻腔、口腔、目の保護粘膜を剥ぎ取ったあと、二番手のバクテリアが侵入したのだ。
とくに被害に大きかった地域では、住民の九割が罹患し、生き残れたのは三割だけだったと思われる。以上のような状況では、「天皇が仏教崇拝を許したことが伝染病流行の原因」と見なされても不思議はない。
仏教反対派はもちろん、日本の神々が怒ったのだと主張した。そうした神々は、現在の神道が信奉している神々と同一であり、主に五つに分類されていた。自然の中に住んでいる神(木や、薄くて背の高い石、山などに住んでいる)、特殊な技能・技術に関連する神、特定の一族を守り特定の共同体を敵視する神、以前は人間だった神(先祖の一部を含む)、そして特定の高貴な神々(太陽神、日本列島を形作ったと言われている二柱の神々など)、以上である。
神=カミは、それ自体の姿形を持っていないと見なされていた。シャーマン(僧侶)から、ある物の中に入るように「言われると」、その物の形に適合できるとされていたのである。
そして、霊たちは、細長い「器」の中に住みたがると一般に信じられていた。具体的には、魔法の杖、旗、長い石、木、特殊な目的の人形、そして生きている人間などである。そうした人間(霊媒)は女性であることが多く、その体と声に神々が乗り移るとされた。
天皇は稀有な男性霊媒とされ、その体は、神聖な祖先である太陽の女神が永遠に「借りている」とされた。こうして天皇は、神性の入るところ、神性の媒体とされた。
天然痘が猛威を振るうと、物部氏と中臣氏は、蘇我氏から仏像を奪い取るよう天皇に嘆願したと『日本書記』にはある。
「あのとき、臣の意見を用いられなくて、この病死を招きました。いま元に返されたら、きっとよいことがあるでしょう。仏を早く投げ捨てて、後の福を願うべきです」
天皇は同意するしかなかった。だがある意味では、仏像は本当に伝染病の元凶だった。なぜなら、この病気は、蘇我氏が熱中していた「外国の品々」の中に入って朝鮮からやってきたからである。
『日本書記』によると、「天皇は『申すようにせよ』と言われた。役人は仏像を難波の堀江に流し捨てた。また蘇我氏の寺に火をつけ、あますところなく焼いた」
仏教と天然痘をめぐって、日本国内は意見が大きく割れたに違いない。五三〇年代に起こったさまざまな出来事は、国内に政争を招き、その後の百年の日本史をじかに左右し、この国の将来を形作った。
ここまでです。
まだまだ続くのですが、「6世紀の日本の出来事のその始まり」は以上の部分でも何となくおわかりかと思います。
そして、6世紀の日本では上のような「病気の流行」と、「朝鮮からの仏教の伝来」のふたつの出来事で、以後、100年に渡る混乱に突入していきます。
そして、西暦 590年に「仏教推進派が勝利」し、「日本国家の孤立と伝統を求めた一派」は敗北します。つまり、以後、日本は「古代のカミ」を捨てて、外国の神様(仏)を国の第1の神様として国家作りがスタートします。
その後、次々と中国、そして朝鮮から宗教、政治、経済、行政、芸術などが日本に大量に導入されて、日本は「変わっていく」のでした。
それにしても、イギリス人の書いた文章で、「当時の神道を知る」あたりは、私も十分に「日本人失格」ですが、上の文章にある神道の以下の部分は興味深いです。
> シャーマンから、ある物の中に入るように「言われると」、その物の形に適合できる
このあたりの成り行きというのは、ホント何もかも似ているなあと思います。
新訳聖書の「ヨハネによる福音書1章」の冒頭、
初めに言があった。
言は神と共にあった。
言は神であった。
この言は、初めに神と共にあった。
万物は言によって成った。
成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。
言は神と共にあった。
言は神であった。
この言は、初めに神と共にあった。
万物は言によって成った。
成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。
あるいは、コーランの「雌牛章 117節」の、
かれが一事を決められ、それに「有れ。」と仰せになれば、即ち有るのである。
まあ・・・あるいは最もこういう部分を適切に語っていたのが中世の「焼かれた科学者たち」だったのかもしれません、1600年に異端として火刑にされたジョルダーノ・ブルーノという人は『無限、宇宙および諸世界について』という本の中で、「物体」についてこのように書いています。
元来その全体を構成しているところの目に見えぬもとの物体なるものを考えてみますと、それらはある所ではそこへ流れこみ、ある所では外へ流れ出ながら、広大無辺の空間を通じて変遷を繰り返しているものだからです。
これらの元素は、あるいはそれも神の摂理のおかげなのでしょうが、現実には新しい物体を作り上げることもなく、古くからの物体を解体することもせぬのですが、少なくともそうしようと思えばできる能力をもっているのです。
何だか難しい言い方ですが、要するに「物には実体はないけれど、(「神」とブルーノが呼んでいるものの摂理で)物ができたり消えたりするようになっている」と。
ちなみに、今回抜粋した『西暦535年の大噴火』の「東洋の悲劇」の章は下の文言で締めくくられています。
仏教はある意味では、(中国や朝鮮の)こうした変化を日本に導入するさいの単なる口実に過ぎなかった。言い方を変えれば、危険な贈り物だった。
五三〇年代に気象異変と伝染病をきっかけとして始まった動きは、ここに完了した。日本の七世紀初頭は、六世紀初頭とはまったく様相を異にしていた。古代日本は消え去り、近代日本の原型が生まれたのだ。今日の日本という国の起源ははるか昔の、悲劇の六世紀にあったのだ。
それにしても、この1000年後にも今度は「鎖国」という形で、日本の神様だけを囲う形にした日本の政策が「富士山の噴火の時代だった」というのも何だか感慨深いものがあります。まあ、時期は同じではないですけど、このあたりは、以前、
・あらかじめ予測されていた小氷河期の到来(2) 「鎖国」と「富士山大噴火」を生み出した前回マウンダー極小期
2011年11月09日
などに書いてあります。
ところで、今回の「日本の感染症の流行と火山の噴火の関係」については、また別の記事として書きます。