個人的な事情で、昨日今日と翻訳的な記事の更新をするのは無理そうなんですが、プライベートなことで申し訳ないですが、ちょっとそのことを書かせていただきます。
謎の激痛と高熱ごとに成長する中で
うちの子どもは年に一度くらい、原因のわからない激痛に見舞われることがあります。
痛みの出る場所はその時によってバラバラで、昨年は3月頃、あれは震災の数日前くらいだったと記憶していますが、最近ではそれが最後でした。その時には腹部だったのですが、比較的痛みに強い彼が絶叫するほどの痛みで、夜中でしたが夜間救急医療センターのようなところに電話をすると「すぐに救急車を呼んで下さい」と言われ、救急車で病院に運ばれました。
しかし、痛みは1時間ほどで消えていき、翌日にかけて精密検査もおこなったのですが、原因はわかりませんでした。同じようなことがその前にもあり、それは別の場所でしたが、その時も原因がわかりませんでした。
そして昨日もまたそれが起きてしまったんです。
どの場所かは具体的に書かないですが「顔の一部」です。本当に最近では初めて見るような痛がりぶりで、まだ夕方でしたが医療センターに電話をすると、後ろで絶叫している子どもの声を耳にしたせいか、「すぐに救急車を向かわせます」と言われ、救急車が来たのですが、その頃には子どもは少し落ち着いていて、救急隊員の人の一問一答にも答えられるようになっていました。
それでまあ、搬送はせずに、様子を見て、そして今朝になって病院に行き、検査をしたのですが、やはり原因はわかりませんでした。
生まれてからこの「原因不明の痛み」というのを何度かやっている彼ですが、ふだんは痛みにはかなり強いほうで、あの痛がりぶりはかなりの痛みだと思うのですが、「何なんだろうなあ」と正直思います。
それと小さな頃の「高熱」。
これもいつも「何の熱かわからない」ものでした。
うちの子どもは風邪などをひくことがほとんどなく、この数年はいわゆる病気になったことがないのですが、高熱が1年に1度くらい出ました。そして、熱はたいてい数時間で消えます。
そして、私たちが不思議だったのは、5歳くらいまで「高熱を出すたびに言葉を喋るようになっていった」ということがあったのでした。
以前書いたこともあるのですが、うちの子どもは一般的な成長と比較すると、発語を含めて約1年以上、言葉が遅れていました(幼児期の「1年以上発語が遅れる」というのは極めて希で全体の数パーセントもいません)。
しかし、「熱を出すたびにことばを話しだす」。
そのことは奥さんと「不思議だねえ」と言っていました。
この世には知恵熱という言葉がありますが、そういうたぐいなのかねえ、と話していました。
そして、もうひとつ、彼は5歳くらいまでは、熱を出している時にうわごとのように、「神様」のことを話すことがありました。
前回の記事、
・ウイルスの流入の繰り返しでDNAの進化をなし得てきた人類をサポートする「宇宙と火山」(2)
In Deep 2012年09月24日
での、デヴィッド・キース著『西暦535年の大噴火』からの抜粋の中に、日本の6世紀までの「神」についての文章があり、それはこんなものでした。
神=カミは、それ自体の姿形を持っていないと見なされていた。シャーマン(僧侶)から、ある物の中に入るように「言われると」、その物の形に適合できるとされていたのである。
そして、霊たちは、細長い「器」の中に住みたがると一般に信じられていた。具体的には、魔法の杖、旗、長い石、木、特殊な目的の人形、そして生きている人間などである。そうした人間(霊媒)は女性であることが多く、その体と声に神々が乗り移るとされた。
これを読んだ時に、「なんか同じようなのを聞いたことがあるな」と思い出すと、それは In Deep の過去記事にも書いていたのですが、「子どものうわごと」でした。
・子どものかみさま
In Deep 2011年03月04日
という記事で、日付けを見ると、震災の1週間前あたりの記事です。
そこに子どもがその前の年の暮れにつぶやいたことばが書かれてありました。
当時は、「さしすせそ」が「しゃししゅしぇしょ」の発音になるというタラちゃん語だったですので、それに準じて書き出します。
40度近くの熱を出していた時、ふっと上半身を起こして
「幼稚園のしぇんしぇい(先生)は神しゃまは空の雲の上にいるっていうけどね・・・しょれ(それ)は違うんだよ。神しゃまは透明で、どこにでもいるの。あしょこ(あそこ)にもしょこ(そこ)にもいるの。雲の上にもいるけど、他にもどこにでもいるの。木にしぇみ(せみ)みたいに止まっていることもあるの。でも、透明だから誰にも見えない。でも、透明でもしょこ(そこ)にいるの。全部の空も砂も木も全部しゅべて(すべて)神しゃまなの」。
とハッキリとした声で話して、またすぐ倒れるように寝てしまいました。
朝には言ったことは本人は全部忘れていましたので、熱でうなされた寝ぼけ言葉だったことは間違いないのですが、「神様」というものが人間社会(あるいは日本の古代社会)に生まれたのもこんな感じだったのかなあとも思いました。
子どものうわごとから学んだ古代日本の精神文化の形成
古代は世界の国のシャーマンでも、幻覚剤や幻覚キノコなどを使って、幻影の世界に自分を突入させたり、場合によっては錯乱の世界に入ることがあったようですが、そういうような時は、そのシャーマンに「いわゆる霊的な力」とかがあるとかないに関わらず、熱でうなされたうちの子どもと同じように、「幻覚剤によって自分の頭(心)の中にもともとあるもの(概念やもともとある世界観)を噴出させる」ということはあったのだと思います。
言い方を変えれば、「実は誰でもシャーマンになれた」という可能性もあります。
▲ 古代の北米や南米の先住民族のシャーマンたちはキノコやサボテンなどの幻覚剤を使って、「過去や未来」にふれていたとされています。写真は北米のペヨーテというサボテン。
そして、そのシャーマンを信奉する人々にも、どこかに(たとえば眠っている時の夢とかも含めて)同じような「神」や「その概念」があって、自然とその「神性を共有できる」という環境になっていたのだと思います。
要するに、現在での宗教では教義や生き方は「学ばなければならない」ですが、「そんなことは学んだり教えられなくても、自然と共有できる神様と神性」だったのではないかと。上から押しつけられる宗教ではなく、「誰の心の中にでもある神様」。
それが日本の古代宗教の現実で、その後は「神道」みたいな言葉になりましたが、そういう禍々しい言葉になる前の話です。
だからこそ、日本に6世紀に仏教が入るまで、多分、数万年くらいのあいだ、日本人はうえのような「空も砂も木も全部すべて神しゃまなの」という感覚の中で生きられてきたのだと思うし、そしてその感覚は「地球と共生する」という意味では合理的な概念だとも思います。
なお、古代の日本にはアメリカ大陸のようなキノコやサボテンはなかったと思われますが、しかし、シャーマンは同じような「酩酊状態」に入る必要はあったはずで、日本でお酒が発達したのは、ペヨーテなどの幻覚サボテンなどがなかったことも大きかったのかも知れません。
縄文時代の超自然観というページには以下のようにあります。
酒や向精神薬、そして太鼓(リズムという意味)が使われていたという可能性が書かれた後に、
他界と交流する技法
■太鼓にしても酒にしても、意識の状態を変容させ、霊的な世界とコンタクトするために使われたということには変わりはない。またどちらも日本の土着信仰=神道の儀礼には欠かすことのできなかったものであり、弥生以降の文化との連続性を感じさせる。
■酒以外に、日本列島の自然条件で、意識状態を変容させる向精神薬として使用された可能性が考えられるのは、大麻、ベニテングタケ、シビレタケ、ワライタケなどのシロシビン系キノコ、そしてヒキガエルである。
とあります。
この中で「麻」とありますが、今でいう大麻に関しては、衣服と食事にも転用できたこともあり、古代日本では、かなり有用な野菜のひとつだったと考えられているようです。
同じページに下のような記述があります。
▲ 福井県立若狭民俗資料館にある福井県「鳥浜遺跡」前期の麻の出土品。
アサは縄文前期にはすでに縄や布として利用されていた。ただしそれが繊維材料ではなく向精神薬として用いられたかどうかはわからない。『魏志倭人伝』には弥生時代の西日本で酒が好まれる一方、麻の栽培が行われていたことが書かれているが、それが向精神薬として用いられていたという記述はない。しかしその後も大麻は神道の伝統の中では神聖な植物でありつづけた。
話が逸れましたが、以前はそんなうちの子どもでしたが、言葉を覚え、字なども覚えていき、そして「神しゃま」を「神さま」と発音できるようになっていくにつれて、徐々にそれらの「神性」は消えていきました。
この「神性の消失」というのはすばらしいことだと私は思っています。
震災の後、何度かふれたことのある「人間の最大の進化」であるところの「予言できない能力」、「未来も過去も見ることのできない能力」というものがどれほどものすごい高度な進化だったかというのは、どう説明しても、うまく説明することが私にはできなかったようで、今は書くのをやめています。
この「人類の神性の消失」こそが、宇宙が人類に求めた最大の進化であるということが、過去の中世などの神秘学のあらゆる部分に、あるいは聖書やコーランやブッダの言葉などのあらゆるところに満ちています。
そして、地球のすべての人間の価値観から「予知」とか「過去とか未来」とか、あるいは前世とか、転生とか、あるいはテレパシーとか、そのような価値観が「完全に消えた時」、それが人類の最後の進化に繋がるのだと思います。
なぜか。
それは宇宙の永遠性と関係のあることで、実は私たちは「一瞬にだけ生きている」という事実があり、それは「科学では時間という存在を定義できない」という科学上の世界とも関係します。
実は「一瞬の中にすべてがある」ということが現実なんです。
これは夢物語を言っているのではなく、物理学のひとつの結論だと思います。
参考までに、2011年8月9日号の日経サイエンスの翻訳記事がネット上にありますので、それを部分的に転載しておきます。
時間は実在するか?
クレイグ・カレンダー (カリフォルニア大学サンディエゴ校哲学科 教授)
時間は過去から現在、未来へととめどなく流れていく。過去は変えられず、未来は決まっていない。そして私たちは現在を生きている──それが私たちの「時間」についての日常感覚だ。
だがそうした日常的な「時間」は、現代物理学には存在しない。
物理の数式は「現在地」のない地図のようなもので、あなたが今いるのがどこかは教えてくれない。アインシュタインの相対性理論によれば、そもそも唯一かつ絶対的な「現在」というものはない。過去から未来にいたるあらゆる瞬間は、等しく実在している。
(中略)
相対性理論に軸足を置く限り、時間というのは単に、異なる物理系に起きる出来事の相関を記述するための発明品にすぎない。それはちょうど、お金のようなものだ。お金があるおかげで、私たちはコーヒー1杯を購うたびに何と物々交換するかを話し合わなくてすむ。だが別にお金自体に価値があるわけではない。
では、なぜこの世界に、時間というものが存在しているように見えるのだろう? そのヒントは、80年前に英国で行われた1つの実験にある。この実験によると、時間が存在しない静的な世界においても、その一部分で起きている出来事の関係性を記述すると、それはあたかも時間が存在するかのような振る舞いを示す。
私たちが日常的に時間を感じるのは、私たちが自分自身を世界から切り離して、物事を見ているせいなのだ。
ということで、つまり、時間というのは「人間の発明品」であり、「便宜上、あるようにして使っているもの」であることが厳然たる事実で、「時間」というものはどんなに誰が何と主張しても「存在しない」のです。
その事実のある中で、未来や過去を予見するという行為は「存在しない時間軸を見る」という一種「無理」なことだと思うのです。それはあまりにも形而上的な概念かとも思います。
しかし、時間軸は存在していないけれど、「状況は存在している」こともまた事実です。
では、どこに存在しているかというと、「科学」だけの話でいえば、全部同時に今の一瞬にすべて存在しているということになるようです。
まあ、そんなわけで、単なる日記となってしまいましたが、いくつか興味深い報道もありますので、明日以降ご紹介したいと思います。
そういえば、今朝、病院の初診の問診票のようなものに記入していた時、
「平成17年7月7日生まれ 満7歳」
と、見事に7が並んで、「パチンコ好きのオヤジたちに見せてやりたいなあ」と思った次第です。