シリーズ:良い時代と悪い時代
(2) 天上の神々の地位
(3) 2013年の巨大彗星アイソンのこと。そして宇宙から地球に降り続ける生命のこと
(4) 2013年 2月15日に世界各地で同時に太陽の光のように爆発した複数の隕石
(5) 米国で話題になっている巨大小惑星の衝突を検証してみました
(3) 2013年の巨大彗星アイソンのこと。そして宇宙から地球に降り続ける生命のこと
(4) 2013年 2月15日に世界各地で同時に太陽の光のように爆発した複数の隕石
(5) 米国で話題になっている巨大小惑星の衝突を検証してみました
▲ ロシアのツングースカで 1908年に起きた大爆発の際の想像図。Universe Todayより。
少し前に、
・ウイルスの流入の繰り返しでDNAの進化をなし得てきた人類をサポートする「宇宙と火山」(1)
In Deep 2012年09月23日
・ウイルスの流入の繰り返しでDNAの進化をなし得てきた人類をサポートする「宇宙と火山」(2)
In Deep 2012年09月23日
というふたつの記事を書きました。この「1」のほうで私は、火山噴火という自然現象の「意味」を考える上で、中世の一種のオカルトの概念である「エメラルド・タブレット(ヘルメスのエメラルド盤)」というものの中の次の一節を引用しました。
唯一となる奇跡の実現のためには、下のものが上のように、上のものが下のように。(中略)
それは地上から天へ昇り、また再び地へと戻り生まれ変わります。
そして、上のものと下のもの両方の力を身につけるのです。
上の記事を書いていた頃までは、「西暦535年に起きた自然災害」は、巨大な火山の噴火だろうと考えていたのですが、やはりそれだけではどうにも考えがたいこと(特に疫病の流行)などもあり、次第に、上のエメラルド・タブレットの一節などを思い浮かべるうちに、
・そういう時は、上も下も同時に来るのかもしれない
と、ふと思ったりしたのです。
簡単にいうと、「下は地球で上は宇宙」です。
そして、西暦535年にはクラカタウ火山などの巨大な火山噴火は確かにあったのでしょうが(噴火したこと自体は地質学的にもほぼ証明されています)、それと同時か前後して、「巨大な彗星が地球に衝突(空中爆発を含む)していたのではないか」と考えるようになりました。
昨日今日と、久しぶりにフレッド・ホイル博士の『生命はどこから来たか』という 20年くらいほど前に記された本を読み返していました。
何しろ、以前も書いたことがあるかもしれないですが、私は本の読み方というものが「なっていない」のです。最初から読み始めて最後まで読み終えたというほとんどないのです。
では、どういう読み方かというと、
・目次で気になるタイトルの見だしのところから読む。
・適当に開いたところを読む。
というどちらかです。
たとえば、最近また読んでいる他の本として、ジョルダーノ・ブルーノという16世紀の修道士の書いた『無限、宇宙および諸世界について』という本があります。これなどは大好きな本ですが、買って半年以上は経つのに、まだ 10分の 1くらいしか読んでいません。
それだけしか読んでいないのに「どうして大好きなのか」というと、「適当に開いたところに必ず感動する文章がある」のです。
だから好きなんです。
ちなみに、この『無限、宇宙および諸世界について』は、どの章でも「基本的に読者を笑わそうとしている」という部分に満ち溢れている点は注目に値します。このあたり、「笑う者、死すべし」というようなテーマだった『薔薇の名前』という中世の暗黒時代を描いた映画を思い出しますが、あるいは、ブルーノが火刑に処された理由には、案外とこういう「強い笑いの要素」もあったのかなあと思ったり。
なんとなく「16世紀の科学本なんて堅苦しそう」と思うかもしれないですが、たとえばこの本の「最初」はどのように始まるかというと、対話形式で書かれているこの本の「第1対話」の最初はこのように始まります。
フィロテオという人がジョルダーノ・ブルーノ自身という設定だと思います。
『無限、宇宙および諸世界について』 第1対話の冒頭より
エルピーノ 宇宙が無限だなどということがどうしてありえましょうか?
フィロテオ 宇宙が有限だなどということがどうしてありえましょうか?
エルピーノ この無限が証明されると思うのですか?
フィロテオ この有限が証明されると思うのですか?
エルピーノ どのような拡がりなのだろう?
フィロテオ どのようなへりに囲まれているのだろうか
フラカストリオ 要点を、要点を、どうぞ。あなた方は気をもたせすぎますよ。
ブルキオ 早くその要点を話したまえ、フィロテオ。君の言うおとぎ話やら空想やらを聞いて楽しみたいものだね。
フラカストリオ 慎みなされ、ブルキオ。もしもその真実をあなたも認めざるをえなくなったら、何とされます?
ブルキオ たとえ真実であったとて信じたくないね。そんな無限なんて、私の頭では理解もできぬし、胃袋で消化するわけにもゆかぬからな。もっとも、フィロテオの言うとおりであってくれればよいとも思いますがね。さすれば、運悪くこの世界から墜落するようなことがあっても、どこかの土地には落ちつけようというものだ。
こんな感じで、次から次へと「皮肉屋」たちが、フィロテオ(ジョルダーノ・ブルーノ)の前に立ちはだかるという、ウルトラセブンとか鉄拳タッグトーナメントだとか新日本プロレスとか、そういう世界と同じなんです。
しかし、我らがブルーノはそのような相手たちに勝つ(説き伏せる)のです。そして、『無限、宇宙および諸世界について』の最後は上の冒頭に出てくるエルピーノのこの言葉で終わります。
エルピーノ では夕食を始めましょうか。
読んでいて普通に笑えるハッピーエンドで完結しているのです。
まあ、実際にはジョルダーノ・ブルーノは、西暦1600年に火刑に処されてしまうわけで、現実のほうは、「では夕食を始めましょうか」ではなく、「では、これからあなたを焼きますね」ということになってしまったのですが、しかし、本のほうでは全体的に明るい空気に満ちています。
ジョルダーノ・ブルーノについては、過去記事の、
・参考過去記事:バチカンの希望の砦は「宇宙人という神」の登場(1)
In Deep 2011年11月01日
など、何度か取り上げたことがあり、いろいろと書きたいこともあるのですが、あまり話が逸れるのも良くないですので、今回のタイトルと関連した話に進みます。
いずれにしても、上に書きましたように私は本の読み方がデタラメなのですが、それだけに思い出すために部分的に読み直すことも多いです。
今回、フレッド・ホイル博士の『生命はどこから来たか』も、読み返したい場所があり読んでいたのですが、この本のエピローグに「彗星の活動から見る地球の良い時代と悪い時代」という概念のことが書かれてあり、それが印象深かったのでご紹介したいと思ったのです。
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歴史の中で、人々が「宇宙」に意識を向けた時とは
この『生命はどこから来たか』という本は、全体としては難解な科学本で、ちょっと私には手が負えないものですが、しかし、ところどころにホイル博士の「宇宙観」などが出ていて、そこはどこも興味深いものです。
「良い時代と悪い時代」というのは、宇宙からの隕石や彗星などが多く降り注いだと天文学的に考えられる時代と、そうではない時代のことを指しています。
もちろん、宇宙からの隕石や彗星などが多く降り注いだ時代は地上でそれによる災害が数多く発生していたわけで、そういう意味では「悪い時」なのですが、しかし、その「悪い時」に、人々は「地球と宇宙が密接である」ことを意識するようになったことが書かれています。
人類が何をどうしようが、空から彗星や隕石が降り注ぐような時代。
人は自然と「人間は宇宙には勝てない」ということを知るようになります。
書かれてある時代は西暦後の時代のことであり、決して大昔ということでもないですし、また、「宇宙からの隕石や彗星の攻撃」の状態が変化する期間のスパンというのは思いの他、短いのです。
たとえば、下の表はその『生命はどこから来たか』の中にあるもので、中国の宋の時代に記録された 11世紀から 12世紀までの 10年ごとの隕石の数です。
「たかだか 200年間」のあいだに、その数がものすごく大きく変化していることがおわかりかと思います。
当時の中国には記録が残っているわけですけれど、記録のない他の場所でも、多くの国で同じように隕石の数の変化があったのだと思います。
上のグラフでいうと、西暦 1070年だとか、その前後あたりが最も隕石の「攻撃」が多かった時期のようですが、このような「悪い時」に地上の文化は一変したと、フレッド・ホイル博士は記しています。
ホイル博士によると、この1万3千年ほどの間で、最も彗星の衝突などの天体からの被害が多かった時期には、「ひとりの人間が 30年間で彗星によって死ぬ確率は15パーセント程度だったろう」と述べています。
しかし一方、「良い時」、つまり、隕石や彗星の地球への衝突による災害がほとんどないような時代に、人は「宇宙に対して傲慢になる」というようなこともあったようです。
ちなみに、最近のその「良い時代」とはいつか。
それは今です。
今現在です。
この 500年間というのは、地球への隕石や彗星の攻撃が、最も少ない時期のひとつです。
今の時代の人々に「宇宙に対しての傲慢」という言葉が当てはまるかどうかは私には何とも言えないですが、でも、やはり、少しそれを感じます。
ホーキング博士じゃないですが、
「宇宙なんて計算で何とでもなるから」
と考えるような人たちが世界中に満ち溢れている。
まあそれはともかく、ホイル博士は、この『生命はどこから来たか』のエピローグの最後を下の一文でしめています。
人類は過去五〇〇年以上にわたる記憶喪失の眠りから、そろそろ目覚めた方がよい頃である。
ホイル博士は「良い時」が過ぎようとしていることを感じていたように思います。
すなわち、次は「宇宙からの攻撃の時代」です。
そして、それは悪い時代であることは確かですが、しかし一方で、少なくとも過去の歴史では、その時代に人はやっと「宇宙のパワーの強さ」を認識します。そして、同時に「地球のパワーの強さ」も認識します。
人類がどうやっても対抗できない環境の変化と大災害。
なので、「悪い時代」は、人間が変化してきた節目でもあったようです。
「宇宙に傲慢なまま」で何万年も過ごせるのならそれでもいいのかもしれないですが、多分、そういうことは天文学的に見れば「ありえなーい」です。引越のサ・・・いや、そうではなく、ちょうど先日の記事の、
・起きていることは「ポールシフトではなく地球の大陸移動」: 地球の極の物理的な移動が起きていることが地球物理学会で発表される
In Deep 2012年10月03日
というようなこともあり、地球のほうでも「悪い時代」が始まっている可能性もあります。
「下なるは上なるのごとし、上なるは下なるのごとし」
をあてはめてみれば、宇宙と地球は同時に変化するものなのかもしれません。
というわけで、フレッド・ホイル博士の『生命はどこから来たか』のエピローグの部分から抜粋させていだたきます。
ちなみに、「彗星の大きさとその衝撃」の比較については、同書の下の表がわかりやすいと思います。
私は、個人的に西暦535年には上の表での「上から二番目あたり」の規模の彗星が(地表に激突しないで)空中爆発したのではないかと思っています。地表に激突すると、クレーターができますが、535年頃のそういうものは発見されていませんし、海の中だと世界中で壮絶な津波が起きたはずですが、当時の日本を含めてもそういう記録はないですので、空中爆発ならあり得るかと思います。
1908年にロシアで起きたツングースカ大爆発のような。
それでは、ここから抜粋です。
改行を適時入れています。
『生命はどこから来たか』 エピローグ
フレッド・ホイル著
大島泰郎(東京工業大学名誉教授)訳
この本を通して、地球という惑星と地球上の全ての生物は、宇宙的な存在であることをみてきた。この点から考えると、彗星は解決の糸口となる。今日でも、地球は彗星のかけらを拾い続けており、その量は一日に何百トンにものぼる。当然彗星本体も地球に衝突することがあるだろう。その衝突の頻度と結果について考えてみたいと思う。
(※ エピローグの最初の部分は、45億年前から6500万年前くらいの間の地球の地質学的なはじまりの時代から古代までのことが長く書かれていますが、そこは割愛します。今回は、約1万3000年前からの比較的、近代の話に入ってからの部分を抜粋します。)
ツングースカ型の爆発は過去一万三〇〇〇年ほどのあいだに時折起こったに違いない。この時期の最初の頃は、元の彗星の分裂が激しく起こっていただろう。もしツングースカ爆発を起こした彗星の破片が元の巨大彗星から分裂したものであるならば、今日最も明るい流星群である、牡牛座-牡羊座流星群の前に、六月と十一月の年二回、われわれの祖先がこの流星群を経験したときは、現在のように何の影響もないことはなかっただろう。
実際、彗星がまき散らした塵が太陽光を錯乱するために、何年間も黄道帯全体が輝いたのが見られただろう。彗星の分裂や、彗星が長く美しい尾を引く姿は、古代の空ではごく普通に見られたことに違いない。神話、伝説、宗教がこのような経験を基にしていることは間違いない。そしてその経験は、地球上あちこちに分布した遊牧民の共通した経験であった。実際、彗星の分裂は神々が争った様子として神話のなかに自然に取り込まれただろう。現在まで残ったほとんどの宗教にも、それぞれ別々の場所にもかかわらず、共通性が見られるものである。
最初の氷河期が終わってからしばらくの間は、人類は農作を始めていなかったが、その後狩猟生活から抜け出し始めた。そして定住を始めた頃、ツングースカや、もっと強力な宇宙からの爆撃が頻繁に起こったことだろう。
人類の進歩のなかで、彗星が関与したおそらく最初の重要な段階は、金属の精錬であろう。その後、金属によって武器、道具、機器が作られるようになったことを考えると、これは大発明で、人類繁栄の分岐点だったといえよう。
(中略)
氷河期が終わった紀元前八〇〇〇年(一万年前)頃からの地球の気温の変遷を調べてみると、約一〇〇〇年周期の変動があることがわかる。図3に示すように気温は三〜六度Fの間で変動している。地球だけ考えていてこのパターンを説明するのは難しいが、彗星の衝突を考えるときれいに説明できる。地球上空もしくは地球の近くでバラバラになった彗星は成層圏に塵をまき散らし、太陽光線を錯乱するようになる。その結果、太陽光線の届く量が減少し地表温度が下がる。計算によると温度を五〇度F(※ 摂氏で約10度)下げるために必要な塵の量は現在の一〇〇〇倍も必要ではなく、これは今まで述べてきた彗星の衝突を考えれば可能である。
▲ 図3 ヨーロッパと北米における平均気温の変化。
紀元前一万五〇〇年の彗星の衝突後の温度の低下は、ちょうど氷河期が終わる頃の温度の上昇段階にあったため、小さいものだった。これまで述べてきたことを認めるならば、旧約聖書の数多くの奇妙な記述部分も、事実に基づいたものであるのかもしれない。神の怒りによるとされる大洪水、ソドムとゴモラへの火の雨、飢饉などはツングースカおよびもっと強力な爆発の影響として説明できるだろう。
火事、津波、洪水、作物に影響する気候変動、地震でさえも彗星の衝突によって起こった実際の出来事であったと考えることができる。超自然的な神秘的な説明は必要ないのである。また、ヨシュア(古代イスラエルの指導者でモーセの後継者)が太陽がずっと空にあったと言ったときに見たものは何だったのかも理解できるだろう。それは一九〇八年六月にツングースカで見られた巨大な火球と同じものであっただろう。古代都市エリコをヨシュアに率いられたユダヤ人が攻撃したときに壁が崩壊したのは、今までラッパの音によるものと信じられていたが、天体の破片がエリコの近くで爆発したための爆風によるものであった。
今、衝突によって死ぬ範囲を五〇〇〇平方キロメートルとすれば、地球の全表面積は一億平方キロメートルなので、一回の爆発で死ぬ確率は二万分の一となる。一年に一または二回の割合で衝突があるとすれば、現在の交通事故と同じほどの確率となる。しかし彗星の群と遭遇する頃の、一年間に一〇〇回もの衝突があるとすれば、三〇年間に当たる確率は一五パーセントとかなり高くなる。
もっとも古代では、他の理由で死ぬ確率も同じくらいあったであろう。さらに重要な結果は、三つの人口中心地帯のうち一つは完全に破壊されるであろということである。生き残った人は一〇〇キロメートル以上遠くから、空から火の雨が降るのを見ただろう。そう考えると、図4のような中世の描写もよく理解できよう。
▲ 図4 十六世紀の「最後の審判」の図。ギリシャ・アトス山にあるディオニシオン修道院のフレスコ画。
過去一万年にわたる人類の歴史における文明の盛衰は、周期的またはほぼ周期的な彗星の衝突で説明できるだろう。衰退はほんの短期間で劇的に起きるが、繁栄は長く続く。悪い時代は厳格な哲学や宗教が興り、途中の穏やかな時代になってそれらは円くなる。このことは西洋では事実であったが、東洋では後に述べるようにいささか異なっていた。
ここまでです。
書き始めてみましたら、予想以上に長いもので、実は今日は時間的にここまでしか無理でして、残りは明日、続きとして書かせていただきます。
中途半端ですみません。
しかし、上の最後のほうにある「衰退はほんの短期間で劇的に起きるが、繁栄は長く続く」という部分。
今は、この「長く続いている繁栄期」のひとつです。
それはもう 500年ほど彗星が地球に衝突していないからかもしれません。