2012年10月24日



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地球のコアの変化の報道の渦中で 《存在の空虚が世界への殺意を呼び込む》 という意味を確かめる



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▲ 若松孝二製作、大和屋竺監督『荒野のダッチワイフ』(1967年)より。これらの「無駄にまで男的な世界」の雰囲気は後の人気テレビアニメ「ルパン三世」のメイン脚本家となる大和屋監督のルパンの世界に引き継がれていきます。
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最近、ポールシフト絡みの記事が多いのですが、今朝、米国の科学系ニュースを大量に配信する Ideas, Inventions And Innovations というサイトを見ていましたら、「人工衛星から目撃された地球のコアと磁場、そして重力の急速な変化」というタイトルのものがありました。

あまりに最近の流れとマッチしていたので、気になり、少し目を通してみますと、ドイツ地球科学研究センターという名前が出てきました。これは、過去記事の、

ドイツの科学研究法人が「急速なポールシフトと気候変動と超巨大火山の噴火が同時に発生していた」ことを証明
 2012年10月18日

に出てきた研究機関で、そのドイツ地球科学研究センターの共同研究チームが、今度は人工衛星で、今現在の地球に急速な変化が起きているということを確認して、それを「全米科学アカデミー紀要」に発表したというものです。

うーむ・・・。毎日のようにポールシフトだとか、大陸移動関係のニュースが報じられて、「ほんまかいな」という感じもします。

この「全米科学アカデミー紀要」というのは、米国科学アカデミーという世界最大規模の科学団体の発行する機関誌で、世界の科学専門誌として1位か2位の参照数を持つものです(Wikipedia では世界第2位とのこと)。

その記事を翻訳してご紹介しようと思ったのですが、私にはものすごく内容が難しくて、それほど長い記事でもないのですが、翻訳に時間がかかりそうで、今日は途中までで時間んがなくなってしまいました。加えて、最近ずっとこの関係の翻訳ばかりで、やや「ポールシフト疲れ」が出ていたこともあり、今回は全然関係ない記事を書かせていただきます。

明日には、「地球のコアと重力の関係」の記事の翻訳をアップできると思いますが、オリジナル記事は、


にありますので、興味のある方はどうぞ。


今回の記事は、先日亡くなった若松孝二という映画監督と関係する話ですが、最近の流れとは全然関係ないですので、興味のない方は飛ばされて下さい。

個人的にはこのことを、最近またよく考えています。



「自分の存在の意味」を 1960年代のピンク映画で再確認した日


先日、映画監督の若松孝二さんという方が亡くなったんですけれど、まあ、最近どんなことをしていたのかは私は知らないんですが、この若松孝二さんが、監督としてではなく、多分、はじめてプロデュースした作品があります。

1967年の『荒野のダッチワイフ』というピンク映画で、私は 1980年代くらいにビデオで見て、結構なショックを受けていたのですが、先日、若松監督が亡くなったニュースを見て、探したんですけれど、見つからない見つからない

やっとある中古ビデオ屋で 中古VHS が売られているのを発見して(高かったです)、数日前、20年ぶりくらいに見ました。 1990年代に再発されたビデオのようで、裏ジャケットに、切通理作という人が解説を書いていました。

その解説の最後のほうに次のようにあったのです。


『荒野のダッチワイフ』解説
 切通理作

大和屋竺のダッチワイフとは、現実に挫折した者がすがりつく対象ではなかった。現実の時間に戦いを挑んでいく人間にとっての《傷》を意識した断絶風景なのだ。

だが《傷》にこだわればこだわるほど、世界は風景化していき、自分以外の下界はよそよそしいものになっていく。すると最後には、《傷》にこだわる自分自身すら実在しているのかという疑問にかられる。

大和屋竺は己の《傷》を詠嘆しない。哀訴もしない。そこには、現実という時間と自分の意識に流れる時間との溝を、ただ見極め続けるという透き通った孤独がある。

大和屋竺は常に先鋭的で「新しい」存在なのだ。それは、彼が常に、存在の空虚こそが世界への殺意を呼び込むという、根源的な問題を突きつけ続けているからである。



まあ、一応、「単なるピンク映画の解説」ではあるんですが、解説もとても良い内容で、特にこの最後の一文にある存在の空虚こそが世界への殺意を呼び込む」というフレーズから、一瞬にして、私は過去の記憶から「自分の好きな様々なこと」に通じるひとつのことを想起したのでした。

そして、さらに「これは埴谷雄高さんが『死霊』を著しながらも、ご自分で気づかなかった" 目指すべく虚体 " の真実だ」と感じたのです。

いや、こんな難しい言い回しでは良くないんですよ。

つまり・・・。たとえば・・・・・・。

「動機がわからない殺人」

「我が子を虐待する人たち」

などの現実と「存在の空虚こそが世界への殺意を呼び込む」というフレーズは、実は一致しているように思うのです。

もっと具体的にいうと、たとえば・・・今の世の中は「くるっている」、あるいは、「ややくるっている」と思う人はそれほど少なくないのではないでしょうか。

私もわりとそう思います。


では、(もし本当に最近になってから社会が狂ってきたとするのならば)なぜ社会はそうなってしまったのか


いろいろな現実的なことを言うたとえば評論家の人だとか権威筋の人たちはたくさんいると思いますが、「それで世の中がよくなったことがあったか?」と私は昔から考えます。

なんとなく世の中というのは、「夢や理想では変わらんよ」というような考え方がありますが、私は逆に思っています。


「夢や理想が先行した世の中じゃないと良くならない」


と私自身は子どもの頃から考えていて、今もそう思っています。



上の「存在の空虚こそが世界への殺意を呼び込む」という中の「存在の空虚」も難しいですが、これは言いかえれば、


「どうしてわたしはこの世にいるのだろう?」


ということです。

今の多くの大人たち、何より、ほとんどの子どもたちは、その答えが見いだせていないように思います。


そして、私は確信していますが、

「どうしてわたしはこの世にいるのだろう?」

ということへの答えがない限り、この世は今よりもっともっと悪くなります。



今など話にならないくらいに悪くなります。

自分の人生の四十数年でもその過程を見てきました。

どんなことでも私は人より劣っていたので、常に「人の後ろから歩いていく人生」でしたので、世の中がよく見えました。


世の中は悪くなった。
このことを「それは違う!」と明確に否定できる人はどの程度いるでしょうか。


そして、それがどんな世の中であろうと、「どうしてわたしはこの世にいるのだろう?」ということへの答えが出ない限り、もっともっと、どんどん悪くなるはずです。



いずれにしても、「存在の空虚こそが世界への殺意を呼び込む」というフレーズはすべて言い換えると、

「自分がこの世にいる理由がわからないのなら、この世を愛せない」

です。

今の世の中で、この世を愛せない人ばかりなのはそれが理由です。
私は多くを断言しませんが、これだけは断言できます。


どうすればいいのか?・・・ということは、私にはわからないですし、しかも、ここで具体的な方法論を書くのは、まるで「評論家」ですので、曖昧な方向性として、ひとつ抜粋しておきたいと思います。

それは、スイスの神学者カール・バルトさんという人についてふれている、Wikipedia の終末論というページからです。


神学での「終末」には、個人的な救済の完成と、世界的な救済の完成の2つの意味が存在する。

20世紀のスイスの神学者・カール・バルトも、主著『ロマ書』で「(終末にキリストが地上の裁きのために天国から降りてくるという)再臨が『遅延する』ということについて…その内容から言っても少しも『現れる』はずのないものが、どうして遅延などするだろうか。…再臨が『遅延』しているのではなく、我々の覚醒が遅延しているのである」と言い、「終末は既に神によってもたらされている」という認識である。




という部分ですが、大事なのは、終末のほうの話ではなく、

個人的な救済の完成
世界的な救済の完成

というふたつの意味が存在するという意味です。

これは現代に反映させれば、世界の価値観や幸福の尺度(あるいは他の人たちの価値観や幸福の尺度)と自分のそれを対比させる必要はないということです。

自分の救済は自分でする、あるいは自分でしかできない。

つまり、「自分だけの価値観を持つことが、世界全体を殺さないための手段だ」ということを上の神学とかいうものの概念から思います。


というわけで、いろいろ長々と書いてしまいましたが、多分、この『荒野のダッチワイフ』という映画がレンタル店などに置いてあることはないでしょうし、中古でも手に入らないと思いますので、冒頭のオープニングを貼っておきます。

音楽はすべて、その後ジャズのトップミュージシャンとなる山下洋輔さんによるものです。


「荒野のダッチワイフ」 (1967年) オープニング・タイトル



製作:若松プロダクション
監督:大和屋竺
音楽:山下洋輔

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ちなみに、この『荒野のダッチワイフ』の監督は、大和屋 竺(やまとや・あつし)さんという人なんですが、この人は後の『ルパン三世』テレビシリーズの第1シーズンと第2シーズンのメイン脚本家をつとめた人です。

この『荒野のダッチワイフ』の脚本も大和屋さん本人によるものですが、「ルパン三世」で最高傑作の誉れの高い「魔術師と呼ばれた男」を彷彿させるシーンがたくさん出てきます。


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▲ 『ルパン三世』第2話『魔術師と呼ばれた男』(1971年 / 脚本:大和屋 竺 )より。


なので、初期のルパン三世シリーズが好きな人なら、世界観は似ていますので、異常にシュールな点を除けば、『荒野のダッチワイフ』は必見だと思います。

ただ、手に入ればですが。


ちなみに、私は初回のルパンの放映を見ているんですよ。1971年という年代から逆算すると、8歳ですので、小学2年生だったということになりますかね。

最初のルパンは強烈に「大人の世界」のアニメで、子どもの私に大人の憧れを植え付けたのも、このルパンでした。

その時に見たルパンのシリーズで、もっとも強烈な印象として残っているのが、「脱獄のチャンスは一度」というものでした。その後、再放送で小学生の時に再び見てから 40年近く見ていないので、ちゃんとしたストーリーは覚えていないですが、「物語って面白い」と思ったものでした。

その後、10歳くらいからはほとんどテレビを見ない人になってしまったので(ラジオに没頭し始めた)、この頃が最後のテレビ時代。いい思い出です。

というわけで、本当に関係ない話ですみません。


ただ、しつこく書きますが、世の中は「自分の内に存在する夢と理想」で作られます。

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今回の記事と関連した過去記事:

どんなに愛される資格があるのかを私たちは知らない
2011年04月14日

「宇宙は人間そのもの」という結論を夢想するとき
2012年03月19日

「なぜ何も存在しないより、何かが存在したほうがいいのか」 - ベネディクト16世
2010年09月23日

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[1年前の In Deep ]
2011年10月24日の記事

わたしの神話はずっと続いている