前記事: 世界終末狂想曲(1): チリの災害前に出現する巨大 UFO 報道から中国のろうそく買い占め騒動まで
▲ テレビのインタビューで「世紀末的なジョーク」で返すメドベージェフ首相。下に、日本語字幕入りの動画を置きました。
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メドベージェフ首相のジョーク
先日の記事「オーストラリア首相が「世界滅亡の日が近づいています。マヤ暦が正しいことが証明されるのです」と国民に宣言」でご紹介したギラード首相が「ジョーク」をかました翌日くらいに、今度は、ロシアの首相のメドベージェフさんのテレビでのインタビュアー相手への「ジョーク」が話題となっています。
そのジョークの内容は「小型の核の入ったケースをエイリアンに渡したことがある」というような感じの内容でした。
インタビュアーの女性も笑っていて、ジョークなのはわかるのですが、なんかこう・・・先日のオーストラリアの女性首相のもそうなんですが、「本人がニコリともせずに言うので」、見ているこちらは、やや戸惑う面は確かにあります。
たとえば、日本の政治家かなんかに、政見放送かなんかで、
「実は私は幽霊なんですよ」
と真面目な顔で言われても、どう対応していいのだか困るような。
ところで、ロシアついでにもうひとつ動画を貼っておきます。
これもロシアのテレビニュースで放映されたもので、「ロシアのふたつの太陽」なんですが、これまで見てきた「ふたつの太陽」と比べても、かなりの異質感のようなものを感じるものです。
なぜなら、「ふたつの太陽が同じ輝度で光を反射させている」からです。
動画が見られない場合のために写真も貼っておきます。
動画はこちらです。
ロシアのふたつの太陽
ロシアのテレビによると、フェイクではないとのことですが(まあ、放映した以上はそう言うでしょうけれど)、なんなんですかね。
光学現象的に考えると、よくわからないです。
実は私はいまだに「この世の終わり」という意味がわからないのです
▲ キューバの首都ハバナ東部のビーチで、マヤの儀式に参加する人々。テレグラフより。
前回、「世界終末狂想曲」というようなタイトルで、いくつかの国の騒動を書いたのですけど、その続きはいくらでもあってキリがないのですが、アメリカなどを含むいくつかの国では、「 2012年 12月 21日に世界は終わりませんので、パニックを起こさないように」という警告を発しているほどの事態でもあります。
さて・・・。
ところで、「世界が終わるって何?」と実は思います。
自分の終わり?
そうではない終わり?
その基準は?
それはずっと思っています。
私はオカルティストではないですので、人間の生命の死はどうやっても死だということを確信しています。
それは概念での「輪廻」とか「永遠のサイクル」といったものとは違う「確実な生命の死」というものが存在するということで、そしてこれは地球に生きているすべてのものに与えられている宿命だと考えます。
しかし、そのことは多くの人もそう考えているはず。
だからみんな死を怖れる。
なら、一体、2012年12月21日の世界中の人の怖れは何なのか・・・と。
普通に生きていても、人はいつか死ぬわけですけれど、それと「世界の終わりの死」の違いは何なのか。
人間は地球で毎日毎日死んでいきます。
メディアで報じられる著名人やら、肉親や知人らの、「目に見える貴重な命の喪失」には多くの人が嘆き悲しむけれど、どこかの知らない国の道路脇に捨てられている死体のことをいちいち想像して涙ぐんだりする人はほとんどいません。
しかも、それは実際にはできないことです。
それをしだすと、毎日毎日、10万回くらい泣かないといけないからです(そのくらい毎日毎日人が死んでいるという意味です)。
なので、 2012年 12月 21日にもたくさん人は死ぬでしょうし、翌日の 12月 22日にもたくさんの人が地球で死んでいくことだけは予測できます。アメリカで、日本で、キューバで、韓国で、メキシコで、トルコで、南アフリカで・・・どこでも人は毎日死んでいきます。
それは、人間が地球に住み始めてから毎日毎日続いているはずです。
「地球の歴史で人がひとりも死ななかった日」なんてないと思われます。
少し前の過去記事の、
・虹という「地獄の門」の彼方に
2012年11月20日
という記事を記すまで私自身、知らなかったことで、意外でもあったのですが、キリスト教の聖書には「人間は死んだ時点でその意識が消え去る」ということが繰り返し書かれています。上の記事からの抜粋ですが、
創世記 / 3章 19節
お前は顔に汗を流してパンを得る/土に返るときまで。お前がそこから取られた土に。塵にすぎないお前は塵に返る。
詩編 / 146編 3-4節
霊が人間を去れば/人間は自分の属する土に帰り/その日、彼の思いも滅びる。
コヘレトの言葉 / 9章 5-6節
生きているものは、少なくとも知っている/自分はやがて死ぬ、ということを。
しかし、死者はもう何ひとつ知らない。彼らはもう報いを受けることもなく/彼らの名は忘れられる。
しかし、一方では、聖書だけではなく、様々な神話、伝承、聖典が「永遠」という概念を書くわけですが、上の聖書のように、こんなにドライに「人間の死」というものを扱う中で、それでは、いったい、何が永遠なのかというと、どうやら、
「この世が永遠だ」
と言いたいようです。
上の「コヘレトの言葉」には、
世は去り、世はきたる。しかし地は永遠に変らない。
というくだりがあります。
また、昨日の記事で初めて知りました7世紀の中国の預言書「推背图」( Tui Bei Tu )の出だしは以下のようなものでした。
私はこの広大な世界の終わりを知らない。
太陽と月のサイクルは永遠に続いていくのだ。
太陽と月のサイクルは永遠に続いていくのだ。
でした。
大体、多くの神話や伝承の言うところは同じようなところに行き着くように思われます。
この「永遠に続いていく」というものの中に「人間の命」というものは含まれてはいないですが、では「永遠に続いていくものは何なのか」ということは大変に難しいです。
宗教を信奉されている方なら「神が永遠」だと思われるかもしれません。
しかし、この「神」というもの。少なくとも、たとえば、キリスト教やイスラム教といった大きな宗教の聖典では「存在自体が危うい」。
新約聖書「ヨハネによる福音書」1章 18節
いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。
コーラン「純正章」 4節 第112章
アッラーは、自存され、御産みなさらないし、御産れになられたのではない、かれに比べ得る、何ものもない。
聖書のほうでは「(神は)誰も見たこともないし、神を示したのが誰なのかもわからない」というようなことになっていて、コーランでは、(神は)生まれたこともないし、生みもしないとなっている。
このように存在が危ういものが永遠である・・・というのもなんか変だ。
しかし、いっぽうで私は「宇宙」とか「宇宙論」というものは上のようなものだと確信しています。私は執拗にビッグバンを嫌悪していますが、ビッグバン理論というのは上の「反対」であるわけです。宇宙を「見たもの」はいるし、宇宙は「生まれた」ということを言っています。
ビッグバンの拠り所となっているものに「宇宙マイクロ波背景放射」というものがありますが、「マイクロ波がどうしてこの世に存在するか」ということまで考えると、根拠の拠り所が実は上の聖書などの「見たこともない神」とも近いほど危ういということもまたわかるような気がします。
しかし、面倒くさい話はともかくとして、宇宙というのはコーランでいうところの、
・生まれたことがない
という概念と、聖書で言うところの、
・いまだかつて(宇宙の実態を)見た者はいない
というふたつの概念で十分に説明できるものだと私自身は思っています。
・・・・・・おっと。
世紀末の話から何だか話が逸れてきてしまいました。
破局は私たちの心の中に巣くっている
しかし、世紀末といえば、私たちの世代(1960年代生まれなど)は、子どもの頃からノストラダムスの大予言などを体中に染み込ませて生きてきた世代です。1999年に世界は終わる、と。
しかし、その1999年。
何か現実的にも個人的な心理的にも騒動があったかというと、そういう記憶がないのです。コンピュータなどの「2000年問題」というほうがクローズアップされていたほどで、「やっときた 1999年は何の感慨もなく過ぎていった」という感じだったと思います。
しかし、今回の2012年12月21日に向かっての世界の方向は、その時とは明らかに違います。
その理由は「マヤ族」という概念とは関係ないと私は思っています。
そして、その理由を説明する最も適切な理由は、昨日の記事の翻訳記事りの最後に出てきた、中国の北京大学のルー・ジーファ教授という人の以下の言葉、
「これは中国の社会的不安を反映しているものだ。現在の中国の中で、自分の生命も社会の安定も不確実であるということに起因している」
というところから、「中国」という言葉を抜けば、すべてに当てはまることのように思います。
私たち現代人はいろいろな意味で「行き果ててしまっているのだと感じます。
この先の世の中があるにしてもないにしても、絶望感のほうが強くなり過ぎた世界となってしまったということのように感じます。
「こんなんなら終わっちゃったほうがいい」
そう思っている人はとても多いと思います。
それでも、実際、(解釈にもよりますけれど)世界の終わりなんて来ることはないわけで、心の中はすでに破局していたとして、前に歩いて生きて行くしかないというのが今の多くの人々の人生なのかもしれません。
何だか途中から話が曲がってしまって、元のテーマに戻るのが難しくなりましたので、今回はここまでにしておきたいと思います。
次回は、話を地質的な話題に戻します。
アメリカのかなり広範囲で起きている「地質的異変」について書ければ書いてみたいと思います。