2013年06月07日



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地球がおひつじ座流星群の残骸の中に突入している今、経験のない嘔吐感で思い出すサルトルやライブドア・ショック



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▲ 5月の終わりから地球はおひつじ座流星群の破片の中に突入していているのだそうで、地球の大気への衝突は 6月 9日前後がそのピークとなります。Daylight Meteors: The Arietidsより。






 


おひつじ座流星群の地球の大気圏への衝突がピークとなる 6月 9日

タイトルにある「おひつじ座流星群」というのは、代表的な昼間の大流星群で、今、地球はこのおひつじ座流星群の破片の中に突入していて、明日あたりがそのピークとなるということがスペースシャワーの短い記事に書かれていました。

秒速 39キロメートルという、かなりのスピードで流星の破片が次々と地球の大気に激突するそうです。

上の写真はスペースウェザーの解説ページにあった写真ですが、もし流星群が見えるならこのように見えるという想像図のようです。昼間なので光は見えないと思われます。

流星の衝突の状態が激しければ、何らかの目に見える出来事もあるかもしれませんけれど。


全然関係ないですけれど、なんか市場というのか、金融市場の方面が私のような素人目にも危うい動きをしていているのを見て、数年前のことなどを思い出しました。しかし、今回のは規模が違いそうですけれど。






金融市場というモンスター広場に見える「小さな亀裂と異常」


昨晩、「吐き気」に見舞われまして、強いものではないんですが、お酒を飲んでいたわけでもないし、夕飯でも食べ過ぎたのかなと思っていたのですが、結局、真夜中まで嘔吐感で起こされたりしていました。

そういう中で、真夜中に、なんとなく市場の様子などを見ていましたら、為替が下のようにとんでもないチャートを描いていました。

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いわゆる FX という一般の人でもできる外国為替取引がありますが、この「瞬間的に3円近く変化する」というのは、人によっては「卒倒するレベル」の値幅の動きで、しかも瞬殺レベルのあっという間の変化。

これが夜中に起きていたので、今朝目覚めて呆然とした投資家の人たちも多かったのではないでしょうか。

FX は自分の元金の何倍もの取り引きができ、それが魅力でもあるのですが、「自分の想定している方向(売買した方向)と逆に向かった場合、元金の何倍ものマイナスとなる」という危険が常にあり、取引の方法次第では、資産が何千万あろうと何億円あろうと、「あっという間に」すべてを失う可能性があります(株ではそこまでの急激な資産の消失はないです)。そのような可能性のある結構危険な取引なのですが FX は今も人気があるようです。




2006年を思い出す

少し前の記事(精神的なカオスにやや考え込んでしまう昨今)で、それまで株に手を出したことのない知り合いが、「株を買ってみようかな」と言っていたところを「今はやめたほうがいい」と阻止したことを書きましたが、その後、株価はどんどん下がっています。

その知り合いがそれまで興味のなかった「株」に興味を持ったキッカケはテレビだったと言っていましたが、このあたりも7年前の株価暴落、いわゆる「ライブドアショック」の少し前の雰囲気を思い出します。

2006年のライブドアショックは、私がまだ株取引をやっていた時に起きましたので、その頃の雰囲気をよく憶えています。

その直前、世の中はどんな雰囲気だったか、ライブドア・ショック - Wikipedia にはこのようにあります。


事件前の背景

2005年7月以降、日経平均は7月の1万2000円台から1万6000円台にまで回復するなど、日本経済の復活を象徴するかのような、株価上昇が注目されていた。

株式市場は新規の個人投資家を大量に引き入れ活況を呈しており、通常、株式情報を大々的に扱うことのないスポーツ新聞に「バブル再来か?」の見出しが踊り、TV番組では株を買ったことのない芸能人が「株でいくら儲けられるか?」などの特集が組まれるなど、バブル景気時代を彷彿させる状態であった。



そして、今・・・というか、少し前までがまさに「株式市場は新規の個人投資家を大量に引き入れ活況を呈しており」という状態だったようです。

私はテレビの情報は知らないですが、ネットや紙媒体でも、「株価はどこまで上がる?」みたいな書き方はよくされていて、それに加え、今の政権の何とかミクスという経済政策で株も給料も景気も何もかも上がるという夢のような話が語られていたのが最近だったようです。

7年前のライブドア・ショックのメインのショック市場は、東証にあるうちの「東証マザーズ」という新興会社の多い市場で、ライブドア・ショックの当日は、実に「11.76パーセント」という1日の下落幅としては驚異的な下落をしました。ところが・・・昨日、それを上回る驚異が起きていました。

実は、昨日( 6月 7日)、そのマザーズ市場の下落率はライブドアショックの際の1日の下落率を超えた「 13.07パーセント」という前代未聞の下落率だったことを知りました。


「市場に何が起きようとしているんだ?」


と、さすがに素人の私でも思います。

上のドル円相場の急落(というか、急騰)も、何か事件や重要な経済指標の発表があってのことならともかく、昨日は「何にもなかった」はずです。何もないのに荒れるという状態。


確かに、市場というか、金融というか、何か起きようとしている感じはします。


人為的なものというより、あるいは、現在の金融市場はあまりにも肥大し過ぎていて、動き始めると制御することはできない「怪物」になっている可能性もあるのかもしれません。


ライブドアショックの時、数ヶ月後には、マザーズ市場の株価は全体の平均としてはそれ以前の 10分の 1程度の水準にまで落ちたはずです。

もし、近い未来に「国を問わず、職種を問わず、全面的な金融崩壊」というような事態が「仮に」訪れた場合、あの時に新興企業を襲った「株価 10分の 1」や、あるいは消える(上場廃止など)という状況が、今度はどんな規模と状況で出現するのか、あるいはしないのか。

リーマンショック後の 2008年頃には「資本主義の崩壊」というようなことがさかんに言われていましたが、 2013年の今でも資本主義も市場取引も存在し、むしろ金額的には以前より大変な活況を呈しています。

この資本主義と金融市場の活況が永遠に続くのかどうかは私にはわかりませんが、でも、やはり「永遠のわけはない」とは思うのです。


上の金融の話のキッカケとなったのは、昨晩の「吐き気」だったのですが、昨日の吐き気の感じは、なんともイヤな感じのつきまとうもので、ふと、高校時代に地元にあったジャズ喫茶に置いてあった永島慎二さんという漫画家の 1960年代の作品『漫画家残酷物語』というシリーズの中にあった「嘔吐」という作品を思い出しました。

余談めいた話となりますが、少し書かせていただきます。




サルトルの『嘔吐』を今にしてはじめて知り


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▲ 晩年のサルトル(1905年 - 1980年)。


永島慎二さんの『漫画家残酷物語』は 1961年から 1964年まで連載された作品だったそうですが、私がはじめて読んだのは高校生の頃でしたので、 1970年代の後半だったと思います。

その「嘔吐」というタイトルは、サルトルの「嘔吐」から拝借しているものだということが書かれてあったと記憶しているのですが、サルトルのほうは私はぜんぜん知らないで生きてきました。


昨日の吐き気でそのことを思い出し、Wikipedia のサルトル嘔吐を読んでみたのでした。

「嘔吐」は、概要としては、


『嘔吐』は実存主義者の小説家サルトルが1938年に著した小説である。大学教授であった頃の作品で、彼の著作の中で最も良く知られるものの1つである。

ある絶望した研究者が事物や境遇によって彼自身の自我を定義する能力や理性的・精神的な自由が侵されているという確信に至り、吐き気を感じさせられる様子が描かれている。



というものです。

読んでいて、軽くショックを受けたのは、私が過去経験してきたようなと心象(?)風景とやや似ている感じが描かれていたことでした。

それは Wikipedia では下のように説明されています。


主人公は、ありふれた物から流れ込んでくる嘔気の気配を感じる。この気配は排水溝の中の丸められた紙切れから砂浜で拾った石まで、不規則に現れるように感じられた。

彼が受けた感覚は純粋な嫌悪感であり、激しく高まった侮蔑感はそれが喚び起こされるたびにほとんど彼の精神を破壊しそうになるほどであった。嘔気が起こる頻度はそれが何を意味するのか彼には分からないまま徐々に高くなっていく。

しかし、公園の栗の木の根元で、彼は嘔気が本当は何を意味するかに関する鋭く鮮明な洞察を得る。存在そのもの、実存する物が無ではなく何者かであるという性質自体が、彼をゆっくりと狂気に追いやる物の正体であった。彼はもはや物体を色や形といった性質も持っているとは捉えなくなった。



今はこんなひどいことはないですが、パニック障害のひどかった時のパニック中は、上のように、


> 存在そのものが無ではなく何者かであるという性質自体が、彼をゆっくりと狂気に追いやる


ということに日々苛まれていたのです。

パニック障害とはいっても、様々な症状があるわけで、私の場合ですが、私がパニックに陥ると、まず、

・頭で定義している物事の「定義が頭から消える」

のです。

上の書き方では何だかわからない表現ですけれど、たとえば、「コップ」が目に入れば「これはコップ」だと別に特別な判断をしなくてもわかるのが通常ですよね。

それがわからなくなるわけです。

「これはコップ」と改めて判断するための手がかりが必要になる。

しかし、この世には物も色も音も無数にあるわけで、それが情報として一気に目や耳から入ってきたものを処理できなくなってきます。当然、混乱する。目を閉じ、耳を閉じ、心の中で解決策を探る。

そして同時に吐き気にも襲われ、何が何やら・・・というのが二十代によくあった症状でした。


昨晩の吐き気は、そのようなことを思い出させてくれたと同時に、はじめて、サルトルの「嘔吐」を知るキッカケになりました。

「嘔吐」読んでみようかなあ。でも難しい内容なんだろうなあ。


ちなみに、サルトルは、この小説『嘔吐』でノーベル賞を与えられることになりますが、


サルトルはノーベル賞を辞退した数少ない人々の1人であり、ノーベル賞を「資産家層によって作られた儀式に過ぎない」と評した。



と、ノーベル賞の受賞を拒否したのでした。

その際、「いかなる人間でも生きながら神格化されるには値しない」と述べたそう。

やっぱりカッコイイ人はとことんカッコイイと改めて思います。



難しい言葉を使わなくても、いつかはきっと「存在の意味」かわかる日は来るのだと

しかし、サルトルのような哲学者の人々が論争を続けてきた「存在」だとか、そういうものの答えも、難しい言葉を使わなくても、実は単純に人々の中には「その答え」があるように思います。その答えが出る時代に向かって、私たちは歩いているのだと信じたいところであります。

まあ、いろいろと不安や懸念は確かにあります。自然災害だとか、経済の崩壊だとか、天体の衝突だとか、ポールシフトだとか、太陽活動の低下だとか、あるいは、想像もつかない様々な不安はあります。


でも、まあ・・・進むしかないのだと思います。


気づくと、ダラダラと自分のことなど長々と書いてしまいました。
すみません。


明日はひさしぶりに「パンスペルミア」関係の記事を書くかもしれません。