2013年10月30日



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疑似と近似が積み重なっただけの「絶対」への信奉が義務づけられるリアル社会のウソくささに耐えきれなくなって疲れちゃいました



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▲ アメリカのフェルミ国立研究所の物理学者デビッド・アンダーソン博士と、ワシントン大学の航空力学の専門家スコット・エバーハート博士が共著した『 UNDERSTANDING FLIGHT 』(飛行の理解)という本。この世界で最も航空力学に詳しい専門家たちの記述によると、「飛行機がなぜ飛ぶかは、いまだにわかっていない」のだそう。飛ぶ理由はわからなくとも、航空力学は存在し、そのシミュレーションも完ぺきにおこなえます。しかし、飛行理論の根本ともいえる「どうして飛行機が飛ぶのか」については、仮説以外は存在しないのだとか。






 


心の底から疲れ始めた2013年の秋ですけれど

最近、元気がないんですよね。

今日も記事を書こうとしたけれども、その途中で力が抜けてしまいました。

元気といっても、あっちの話ではなくて(誰がそんなこと思うか)、精神のほうの元気のほうですけど、一日に何度か「心が疲れ果ててしまう」というような瞬間に見舞われます。

若い時から神経や精神系の疾患をそれなりに数多く経験している私も、こういうのはあまり経験がなくて、いわゆる「ウツ」や抑鬱というのともなんか違うし・・・まあ、これはそういうメンタルな話だけでもなく、明確な理由が存在しているとも思います。


それで何だか日々摩耗していて、「この世に疲れちゃってきている」ということかもしれないと。

まあ、原因というのか、わからないでもないのですけれど。



・・・変わらないどころか悪化していっているようにしか見えない社会の精神性。


・・・そして、日に日に衰えていく科学的見識。



この先に生きて少しは素晴らしいビジョンが存在するのだろうかと私自身についても疑問に思わざるを得ないですが、私には子どももいまして、うちの子だけではなくとも、「この世の子どもたちの未来」なんてのは考えるだけで力が抜けるような日々です。

ちなみに、「日本の子どもたち」という小さな形容ではなく、「世界中の」という全体的な話でもあります。



科学といえば、昨年、子どもと一緒に図書館に行った時に、その「子どもコーナー」の棚で手にした「原子の発見」という田中実さんという方の書いた本を立ち読みして、「物質不滅の法則」(質量保存の法則)を知った時のことを書いたことがあります。

大出血のような太陽フレアと真っ赤な富士山上空を眺めながら「物質は永遠」という法則を子ども科学本で知った日
 2012年09月03日

細かいことはともかく、上の「原子の発見」という少年少女向けの本で私が初めて知った物理の絶対的な法則として、


宇宙全体の質量とエネルギーの総和はゼロ


ということや、


ものは消えてなくならない。ものが変化して、なくなったように見えても、じつは別のものがそのかわりにできている


ということがあるわけですけれど、その時点で、「科学者たちはこんな絶対的法則を知っている人たちなのに、なぜ『宇宙が生まれた』(物理の法則に矛盾)だとか、まして、ビッグバン(論外)だとかの考えを平気で主張できるんだろう」と、非常に不思議に思ったことがあります。


また、「原子の発見」の中には、著者の田中さんの言葉として、下のようなことが書かれてあります。




生きているとはどういうことか。人間も動物も、そして、植物も生きている。生きているものと、生きていないものとは、どこがちがうのか。生きているものが死ぬとは、どういうことなのか。

生命という現象には、まだたくさんの解ききれない秘密がある。しかしそれは自然科学の力によって、しだいに解決されてゆくはずである。どんな生物も物質から出来ているのだから『物質不滅の法則』に外れるような現象は起こるはずがない。






田中さんは何気なく書いたのかもしれないですが、この


 > 『物質不滅の法則』に外れるような現象は起こるはずがない


という記述もまた、「生命にはその起源というものは存在しない」という私の考えをサポートするものとなったりしました。


しかし、「起源がないってどういうことだ?」と自分でも思うわけです。


宇宙にも生命にも起源がないなら、「いったい、私たちの存在はどういうことなんだい?」と思ってしまうのですけれど、この「何でも理解できければいけない」という強迫観念そのものがいけないことだと最近気付きました。


事実、理解などしなくても、この世は成立している。


それを知ったのも、やはりまた、子どもと一緒に図書館に行った時の立ち読みによるものでした。






「近似」を許さない今の時代

先日、子どもと図書館に行ったときに、今度は子ども本コーナーではなかったのですが、竹内薫さんという人の『99.9%は仮説』というタイトルの本が目につき、それを立ち読みしていましたら、その本の冒頭に書いてあったのが、


> 飛行機がなぜ飛ぶのかはまだよく理解されていない。


だったのです。


「いくらなんでも、そんなわけねーだろ」と思い、家に帰って調べてみましたら、今回のトップに載せました、フェルミ国立研究所とワシントン大学の航空力学の専門家のふたりの記した本に行き着いたりして、この今の世の中で、「飛行機がなぜ飛ぶのか、わかっていない」ということが真実だったことを知るのです。


でも、飛ぶ理由はわからなくても、設計もシミュレーションもできて、飛行機は実際に飛んでいます。


飛行機が飛ぶ理由の仮説についてはこれまで、私はそれぞれ何の定理か知らないですが、ベルヌーイの定理というものや、渦動説だとかいうもので説明できると思われていたそうなのですが、これでは説明できないというのが真実だそう。

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▲ 飛行機が飛ぶ原理とされていた「ベルヌーイの定理」というもの。これについて、フェルミ国立研究所の物理学者デビッド・アンダーソン博士などは、そのような今まで説明されてきたことは「全部デタラメ」だと。真実は、「まだわかっていない」ということ。


この『99.9%は仮説』という本は、Amazon をはじめ、どこででも入手できると思います。


ところで、その本には、1965年にノーベル物理学賞を受賞しているアメリカの物理学者リチャード・ファインマンの、


「科学はすべて近似にすぎない」


という言葉も紹介されているのですけれど、なんかこう、子どもの頃から、今に至るまで、教師や科学者の口から、


「今教えている勉強はすべて近似(大体そんなもの)にすぎない」


と教えられた記憶がないです。

学校でも、あるいは「上から教える人」たちから、


「今教えているこれは絶対的なもの」


というように「学問はすでに 100パーセント決定しているもの」として教えられ、そして、私たちの下の世代の子どもたちや若い人たちもそのように教えられて育っていくのでしょう。


そして、これが地球を滅ぼします


学問の進歩は止まり、「わかってもいない、確定もしていない、あるいは、そもそもがねつ造されたものかもしれないような理論かもしれない数々」を「絶対」として頭の中に叩き込まれていく社会。


その結果として地球の文明は衰退して、私たちは滅びていく。


その責任は専門家の人たちだけではなく、私なども含めた一般の多くの大人にもあると思います。

なぜなら、「疑っていない人が多すぎる」からです。


たとえばですけれど、どなたかがノーベル賞をとったとする。
専門家の人たちはともかく、ニュースを見た多くの人々は、


「日本人がノーベル賞を取った! バンザーイ! バンザーイ!」


これで終わり。


その本質を疑うどころか、場合によっては、いったい何の業績で受賞したのかもわからない。


これからもずっとこんな「シープル的世界」な感じで世の中は続いていくのだろうなあと思うと、自分の子どもをこの世の中に生みだしてしまったことにも罪を感じたりして、落ち込みはひどいものですけれど、まあしかし(あまり期待していないですけれど)、ほんの少し、何か起きたり、何かが変わるかもしれない。


希望が完全に消えるまで(現在、約 80パーセント消滅中)は書きたいと思っています。


そういえば、上に「その結果として地球の文明は衰退して、滅びていく」と書いていますけれど、私の書き方ではまったく具体的に伝わらないですが、過去記事に、フレッド・ホイル博士の言葉を抜粋したことがあります。

ホイル博士は、誤った科学的見解について、


学会は誤った知識の領域を持つことになり、その損失はもとより、その周辺領域すべての進歩を阻害してしまう。このことが同時に、多方面に影響し、人間社会の衰退、そして最終的には破滅へと導くのである。



と書いています。

これは、過去記事の、

破局の回避という奇跡があるとすれば
 2013年03月09日


に記したものですけれど、再度、部分的に抜粋しておきます。




『生命はどこから来たか』(1995年)より
 フレッド・ホイル、チャンドラ・ウィクラマシンゲ共著


われわれは皆、許しを請うことなくこの未知の世界に生まれてくる。生まれて数ヶ月もすると、目も見え、自らの足で立つこともでき、やがて話し始め、ついには言語の壁をも突破する。初めは何の手がかりもないのに他人の話していることを理解し、自分自身でも話すようになるのである。

われわれは、これらすべてのことを自然のうちに学ぶのである。しかし、唯一残念なことは、この時期において子供たちは、周りの大人たちに世の中の状況の偽りのない真実を、流暢に語る手段を身につけていないことである。そのため、大人たちは適切な双方向の会話ができればやがて誤解に気づくだろうという幻想を抱いたまま生き続けることになる。

不幸にも、偏見のない見解を伝達することができるようになる頃には、教育という過程により偏見のなさを失ってしまうのである。

(中略)

先に述べたように、ある分野の科学的知識は確かなものである。確かな知識からまだ未解決課題へと進むと、事情は違ってくる。教条的な意見や教義が顔を出す。科学者は真の科学者であることをやめ、事実より教義を取り上げ、こうして創造主義者と同じ思考をとるようになる。

われわれの考えは、地球上の生命の起源と進化に関する進化論者の見解は、創造論者と同じくらい全く間違っている。創造論者の誤りは明白だが、進化論者の誤りはわかりにくく、特に学校で学ぶ子供たちの目から真実を隠していると思う。科学の進歩の方法は確実な知識を外へ押し広げていくことである。注意深い研究により、最前線が次第に広げられていくならこの方法はうまくいく。

しかし、突然大飛躍して科学が発展することもある。ニュートンの力学の飛躍的な進歩が、天体力学の発展、 19世紀の光と放射線の理論、そして現代の量子力学を導いてきた。

これらの進展に貢献した科学者各人の称賛に値する業績は偉大であり、その名は永く刻まれるようになっている。科学者たちが大進展の主役になりたいと野心を持つのは当然である。ある者はその才能により成功し、ある者は幸運に恵まれ、さらにある者はけしからんことに作り話で成功を収めた。そのやり方は、何もないのに大進展があったかのように振る舞うのである。

このようなニセの効果がうまくいくには、一人の孤立した科学者ではなく、科学者の陰謀団のほうがよい。声を揃えることで、陰謀団は各々の科学者の口を封じ、科学雑誌に発表される論文の内容に圧力を加え、ついには反対意見を一掃してしまうことができる。

こんなことは全くの作り話ではうまくいかない。初めには、ゲームでいうところの「ツキ」があったに違いない。すなわち初めには、事実は陰謀団の言う理屈に合っているかのように見える必要がある。

陰謀はのちにその理論に合わない事実がわかってきたときに現れ、科学雑誌を自由に操ることを通して慎重にこの事実を葬り去ってしまう。さらに陰謀団の理論が、教育課程に侵入し、常に難しい試験の連続に追い立てられ、自らを失っている数多くの生徒たちに教え込まれると教義は確立してくる。

学会は誤った知識の領域を持つことになり、その損失はもとより、その周辺領域すべての進歩を阻害してしまう。このことが同時に、多方面に影響し、人間社会の衰退、そして最終的には破滅へと導くのである。





ここまでです。

まあしかし、「近似を認めないこの世の破滅を見てから死んでやろうか」という凶暴な気持ちもややあります。

暗い元気の源ですが、それが確かに生きている理由にもなっているかもしれません。



  
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