▲ CNET より。
アメリカの理論物理学者が、死後の世界(あるいは来世)を科学的に証明できると確信していること、そして、「宇宙は我々の認識なくしては存在しない」ということを述べたことがアメリカのメディアで報道され、話題となっています。
今回はその記事をご紹介しようと思いますが、どうして、この記事をご紹介しようと思ったかたというと、部分的に、以前からこのブログで書いていました「私個人が想像する人間と宇宙の関係」と近いものがあるからです。
先に、そのことについて少し書かせていただきたいと思います。
中世の神秘学での「真実」に近づいていく科学
2011年3月11日の震災の直後から1ヶ月くらい、くるったように毎日、「人間について」のことを書き殴り続けた頃があります。
そんな中で、知り合いからもらったメールが、私をさらに駆り立てることになりました。
そのメールの内容は、震災6日後の、
・人類が獲得した「予知できない」能力
2011年03月17日
という記事に記していますが、今回また載せさせていただこうと思います。
かつての「クレアなひととき」の頃にはブログにコメント欄があり、無知だった私は、多くの方々からコメント欄を通して、いろいろなことを教えていただきました。
その頃にコメントを下さっていた方のひとりに、ルドルフ・シュタイナーの研究者であり、薔薇十字の修行者でもある、ねるさんという若い男性がいました。その方が送ってくれたものです。
▲ ルドルフ・シュタイナー。19世紀から20世紀の初めにかけての有数の哲学者であり神秘思想家でした。
下の文章は、彼が、2011年の震災の直後に送ってくれたメールの内容の一部です。
ところで、今回の「死後の世界」の報道は、ロシアの声の日本語版にも短く報道されていて、そこには下のような部分がありました。
「量子物理学 死後の世界があることを証明(ロシアの声)」より抜粋。
普段青いと思ってみている空でも、脳に作用することによって、赤とも緑とも認識することができるということで、それゆえ、宇宙というものは我々の認識なくしては存在しないのだという。
と書かれてありましたが、この中の「宇宙というものは我々の認識なくしては存在しない」という部分をご記憶いただいて、お読みいただくと幸いです。
現代人の知性とその可能性
人間の知性はいまや他の存在たちにとっての希望です。
自然のなかに生きていた神々はもういません。
自然は、もはや自動的に運行する機械に過ぎないのです。科学によって自然を観察しても生命は見つかりません。自分を探してのぞき込んでも、見つかるのはただの影にすぎません。
今や人類はそれ以前とは異なります。神々は人類に運命を委ねたからです。宇宙の知性は、ある時期から人間の側に移行しました。以前のように自然を探すことによって見いだせるのは死んでしまった法則だけです。
人間は、自分が宇宙の意志であるという事実を自覚するとき、やっと宇宙と自分自身の本当の姿を見つけます。それは神々が与えてくれるものではなく、人間の判断行為の中にのみ見いだされるものです。
宇宙は最終的な結論として人間を選びました。
この奇跡の只中にいる人間自身がこのことに気づいていません。空に輝く物質的な太陽とおなじ力が人間の内部にも働いているという事実をです。自分自身の知性がこれから大きく変容する可能性があることに人間は気づかなければなりません。宇宙の命運が掛かっていることを知らなくてはなりません。
過去の光は人間の内部に移行しました。自分の思考が宇宙の意志であることを自覚すると、想像をはるかに超えた数の存在たちが闇から救出されます。動物たちは大気圏の外から人類を見守ってくれます。植物たちはこの地上で人類を助けてくれます。鉱物たちは自らを思考の材料として提供してくれるはずです。
だから宇宙に生きる全ての存在たちのために、人間は、今、行動しなければなりません。
震災後数日ということもあったのでしょうが、私はこのメールを読んで、ボロボロと泣いていました。
私も彼の書いていたことと同じように「宇宙と人間の関係」を考えていました。そして、私が(自分の中で) 23歳から続けてきた「宇宙との戦争への終わり」がこのメールで見えてきたのです。
宇宙との戦争と書くと、何だかよくわからないですが、下のような話です。
震災2日目に書いた、
・決意の涙: 東京 DAY3
2011年03月13日
という記事に記しています。そこから一部抜粋します。
パニック障害で苦しんでいる時に、その苦しみの吐露をどこに向けていいのかわからなくなり、対象を宇宙全般にしたことがあります。
「殺せるものなら殺してみやがれ」と大きく書いた紙を壁に釘で打ち付け、そのことで「宇宙に向かって暴言を吐き続けることを確認して」生きていたことがあります。
しかし、特にそれらしき報復はなかった。
「死ねや、宇宙が!」
と呟いても、少なくともその場でバチなどは当たらなかった。
その同じ記事に下のように書いていた部分がありました。
宇宙がどのように生まれたのかは今はわかっていませんが、中世の神秘学などの言葉を借りると、順番としては、
・ことば
・存在
・認識
というように来たように思います。
今、私たちが「宇宙」とか「存在」と考えているものは、実は我々が認識しているために存在しています。
これは難しい話ではないのですよ。
・見ないと見えない
・聞かないと聞こえない
というようにいくと、
・認識しないと存在しない
という流れにはなるように思います。
と書いていますが、つまり、宇宙と人間の関係は、
・宇宙は人間が認識しないと存在しない
・そして、人間も宇宙がないと存在しない
ということになることは現実の問題として事実だとも言えそうなことなのです。
世界は基本的に「ない」ものから構成されている
▲ 「この世の無限」が描かれているものかもしれないと個人的には思っているエメラルド・タブレット。過去記事「エメラルド・タブレット 完全版」より。
そして、その人間の感覚機能のメカニズムの多くは今でもあまりわかっていません。
たとえば、「どうして赤は赤に見えるのか」といった当たり前のようなことも、その根本はわかっていません。わかるのは、光線の波長によって人間が感じる色が決まっているということだけで、光線そのものに色がついているわけではないです。
大ざっぱにいうと、波長の長さにより「赤から紫まで」が人間には見えています。
それは下のような分類です。
この波長に色がついているわけではなく、もっといえば「存在しないも同然」のものなんですが、それを私たちは「さまざまな色」として認識している。
その理由はまったくわかっていません。
科学より哲学に近いものです。
ちなみに、上の波長で「紫」より短い波長の光線が紫外線(紫の波長の外にあるから紫外線)で、これは人間には見えません。そして、赤より長い波長は赤外線で、これも見えません。
それらが色として見えない理由もわかりません。
これは他のあらゆる器官についても同じで、どうしてその音がそのように聞こえているのか(音波は振動で、そこに音など含まれません)、どうしてそのような肌触りを感じるのか、全部、その理由はわかっていません。
▲ 音が聞こえる仕組み。 Wikipedia より。
なぜかはわからなくとも、それらの感覚を感じながら、人間はこの世界を経験している。
つまり、光線とか波長とか振動とかの、存在しないようなものを体験している中で私たちは生きているということはある程度の事実だと言えそうです。
私たちの周囲の実態はほとんど「ない」。
そして、この宇宙はその全体がその「ない」もので作られている。
あるのは「人間による認識だけ」というのが、シュタイナーら中世神秘学の人々の考えであり、また、過去の偉大な宗教、例えばキリスト教やイスラム教や仏教、そして神道などの教えとも全体として、あるいは一部が一致していると思われます。
私が過去記事などで繰り返して書いていました「宇宙に始まりはない」ということも関係します。
これに関しては長くなりますので、過去記事で、聖書「ヨハネによる福音書」にある言葉の「はじめに言葉ありき」と、ロシアでの「 DNA は言葉によって再構成されている」という研究を関連させて記しました過去記事の、
・私たちは「言葉」である
2011年06月13日
をリンクしておくに留めておきます。
というわけで、前置きが長くなりましたが、ここから本記事に入ります。
なお、記事の中に「二重スリット実験」という聞き慣れない言葉が出ます。
量子学の世界ではかなり有名なもののようなのですが、難解です。
Wikipedia によりますと「粒子と波動の二重性を典型的に示す実験」ということで、私には意味がわかりませんが、「観測が現実に影響する」とか、あるいは、「観測することにより結果が変わる」というような奇妙な現実を示すもののようです。
今回の記事に出てくる教授は、このことを「粒子が同時に2つの別々の実体として機能することができる」というような表現をしています。
つまり、「ひとつの実体はひとつの実体ではなく、ひとつの実体は複数の実体とも言える」というような禅問答のような書き方になりますが、そのようなことのようです。
それでは、ここから記事です。
Scientist: Quantum physics can prove there's an afterlife
CNET (米国) 2013.11.16
量子物理学は死後の世界があることを証明することができると語る科学者
ロバート・ランザ教授は、人間にはその死の縁を越えたところに何かがあることを確信している。教授は科学でそれを証明できると言う。
たとえば、「死後には来世の世界がある」という選択と、「死後にはまったく何もない」という選択があるとすれば、どちらを選ぶだろうか。私(記者)なら前者の来世のあるほうを選ぶような気がする。
しかし、この問題は私たちにちょっと異常な感覚ともいえる希望を与えている問題でもある。特にアメリカでは死後の世界に関しての話題はそのように捕らえられる。死後の世界をめぐる議論は、信条、あるいは信仰だけの問題とされる傾向があるのだ。
しかし、アメリカのひとりの科学者が、そのこと、すなわち「向こうの世界」について、確固たる証拠があるかもしれないことを示唆した。
バイオセントリズム( biocentrism )の支持者である米国ウェイクフォレスト大学再生医療研究所のロバート・ランザ教授( Robert Lanza )は、私たちが宇宙に対して持つ考え方を180度転換させる。
ランザ教授は、宇宙が生命を作り出したとは考えない。
教授は、宇宙は私たち人間が産みだした意識の産物だと言うのだ。
英国のインディペンデント紙が、私がランザ教授のウェブサイトの主張に向けている意識についての理解をさらに推し進めてくれた。教授の試みは、私たちに見えている生命や人生の方向、あるいは「そのすべて」を再プログラムすることだ。
例えば、「死」という現象を取り上げてみる。
これは「リアルな感覚の中に存在できるものではないのです」と教授は言う。死は、それを見たり考える時に恐ろしさを感じるものであるので、教授の「リアルではない」という言葉には救いがある。
しかし、いくら何でもこの話は複雑怪奇に聞こえないだろうか。
これに対して、レンザ教授はこう答える。
「人生というのは、一般的な直線としての考え方を遙かに超えた冒険です。私たちが死ぬ時、私たちはランダムなビリヤードボールの列( billiard-ball-matrix )の中にいるのではなく、避けることのできない人生の母体( inescapable-life-matrix )の中にいるのです」。
死は単に私たちが考えて見ているものに過ぎない。
しかし、実際のところ、死はすべてに思える。
ランザ教授の視点と考えは、
「空間と時間を物理的なものとして処理することによって、科学は世界を理解するための完全に間違った出発点を拾い上げてしまいました」
というものだ。
教授の学問の出発点は生物学だ。しかし、教授は量子力学で思考することを加え、量子力学を用いて現実主義の懐疑派の人たちに意見を渡す。
教授は「二重スリット実験( double-slit experiment )」を取り上げる。この実験では、粒子はそれがそのものとして認識されているただ一つの要素ではないことを示す。その代わりに、それらは同時に2つの別々の実体として機能することができるという結果を示すのだ。
要するに、これらの一連の話は、冗談好きな誰かが「私たちはみんなパラレルワールドに住んでいるのかもしれないよ」と言ったりすることがあるが、それは真実だということなのかもしれない。
私(記者)自身は、この世界についての解釈について、多くの一般的な科学者たちとは違うような考え方を好む傾向がある。たとえば、デジャヴ(既視感)などは、ランザ教授の言っていることとも関係するのではないだろうか。
少なくとも、教授は私たち人間という存在について、これまでと違った方法での考え方を得ようと試みている。
いずれにしても、私たちがこの宇宙で起きている真実を知られるとしたら、この世の中は非常に興味深いものとなるかもしれない。
(訳者注) ここまでです。
ところで、この記事を書いた記者は、アメリカ人か、アメリカ在住の人だと思うのですが、「多くの一般的な科学者たちとは違うような考え方」と書いています。これは西欧の科学のことを言っているのだと思いますが、20世紀初頭までの、たとえば、ロシア宇宙主義などの科学は、量子論のような難しい問題を引き合いに出さなくても、「人間と宇宙の関係」についての様々な見識を出していました。
過去記事の、
・ロシア宇宙主義チジェフスキー博士の言葉でわかりかけてきたニルヴァーナの3つのALLの意味
2013年04月01日
にロシア宇宙主義を書いた『ロシアの宇宙精神』という本からの抜粋があります。
ロシア宇宙主義の人間と世界を変革する夢は、空間と時間における人間の限界を克服することをめざした。
進化の意識的な統御、世界の霊化という最高の理想は、互いにつながりあう一連の課題として展開される。たとえば「隕石」などの現象、すなわち、宇宙現象の統御を解明すること。あるいは、自然の力の自然発生的で破壊的な動きは、人間の意識によって方向づけられた過程とすることを探る。
そして、人間が死を克服し、肉体的な自然性を変容させるべく研究し、宇宙のなかで不死の生命を永遠に作り出していくことがこれらの研究の目標なのである。
今の世界があまり希望の見えない世の中には感じても、まだほんの少し、世界の認識が変化する機会は残っているかもしれないとは思います。
そうなってくれれば、上の CNET の記者のように
「この世の中は非常に興味深い」
と思うことのできる世の中に生きることもできるのかもしれません。