2014年04月28日



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30年目のエレキな春 : 精神圏へ移行する人類の覚醒後の姿を夢想させてくれた『弥次喜多 In Deep 』と作者への感謝



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▲ 春の受勲で、紫綬褒章を受章した漫画家のしりあがり寿さん。『弥次喜多 in Deep 』の作者です。2014年4月28日の朝日新聞デジタルより。




この世界は存在しているのか? を考えるキッカケを与えてくれたしりあがり寿さんの漫画

このブログのタイトルの In Deep というのは、私が漫画家のしりあがり寿さんの『弥次喜多 in Deep 』という作品がものすごく好きで、そこから拝借していたことは何度か記させてもらったことがあるような気もします。

世界各地で台頭しつつある「宇宙は『ひとつ』(人類も他の存在も)である」という概念
 2012年01月10日

という記事では、


私自身、

すべてはひとつであり、実際には現実(この世)は存在しない

という概念は、昨年の後半くらいからの私のグリグリの概念で、今では完全にそう考えています。




と書いたしばらく後に、


考えてみれば、このブログに、「 In Deep 」というタイトルをつけた時から、「リアルとは何か」という命題と共存していくことになるような感じは予想されたような気もいたします。このブログのタイトルの元となった、しりあがり寿さんの『弥次喜多 In Deep 』という漫画の最終的なテーマは「この世は存在しないかもしれない」でした。



登場人物たちは常に「リアルとは何か」と自らに、そして、他人に問い続けて、江戸の時代を生き続けます。

そして、『弥次喜多 In Deep 』のストーリーは、「現実は存在しないからこそ、自分の足で前へ進んで現実を作っていく」というところで終わっています。つまり、


「現実が存在しようがしまいが、私たちは日々、前や後ろに進んで、そして、感情を表して、物理的な動きと観念的な動きを提示し続ける」


ということ。

それが「この世」であり、「人間のおこなうこと」だと。


そして、久しぶりに、今日、上のしりあがり寿さんのニュースを見まして、ブログ名に In Deep とつけた以上は、「弥次喜多 In Deep」で描かれる一種難解なテーマを自分なりに解釈していくこと、つまり、「この世とは何なのか」ということを考え続けることに意味があるのだと思っています。

しりあがり寿さんが春の褒章でもらったのは「紫綬褒章」というのを受章したそうで、どういうものかはよくしらないですが、記事によると、震災後はボランティアなどもしていたようです。上の朝日新聞の記事より。


「へただからこそ」 褒章受章のしりあがり寿さん

紫綬褒章受章 漫画家・しりあがり寿さん(56)

「まさか自分が、と。マンガ界の端っこでこそこそイタズラしてたのが見つかっちゃった、みたいな」。柄ではない、といった風に照れている。

3・11直後、震災をテーマにした作品を集中的に発表した。朝日新聞の夕刊マンガ「地球防衛家のヒトビト」では2011年5月6日付で、がれきの山だけが続く4コマを掲載した。ボランティアとして現地を目の当たりにし、「あれ以外描けなかった」。




まあ、私自身はそういう国家などからもらう賞とかに関しては否定的な人ではあるんですけれど、それでも、しりあがり寿さんがそんなふうに認められているのだなあと思うと、それはそれで嬉しいです。

かつて、

千年ムスコが気づいた「何も存在していない」現実
 クレアなひととき 2011年07月26日

という記事で、『弥次喜多 in Deep 』のラストについて書いたことがあります。


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▲ 千年ムスコという名前の少年。この長編漫画のラストに、ただひとり、「存在しない世界」へと旅立つことになります。目の前に現れたすでに江戸の世の中で神格化されていた弥次さんと喜多さんを前にこの台詞を言います。


上の千年ムスコがこの長編漫画のほぼラストで言う、

「まさか、弥次さん喜多さんまで・・・ホントウはいないんじゃ・・・」

という台詞は予想以上に重い台詞で、漫画のこの時点でのストーリーでは、弥次さんと喜多さんはすでに抽象的な意味での宇宙となっています。

つまり、「弥次さんと喜多さんが神として存在してこその世の中」という意味となるわけで、「その時代の宇宙はすべて弥次喜多から始まった」ということ。

その弥次さん喜多さんの存在を「ホントウは存在しないのでは」と疑いを持つことは、すなわち、この少年は、


宇宙って存在しないのでは


ということに気づいてしまったわけで、そして、それはさらにいうと、


この世には何も存在していないのでは


ということにも気づいてしまったことになります。

そして、その「存在しないかもしれない世界」を知ってしまった少年の旅立ちに、弥次さん喜多さん(のようなもの)は、「言葉だけで」こう言います。


そりゃあ不安だろうよ
だけどな・・・その不安をな ぐっとこらえて
ボウズがそこに「ある」と思ったらな
そのちっちゃな足を・・・
そう ぐっと・・・
そうやって前に出していくしかねえんだよ
そうやって・・・
ぐっと・・・


自分で「ある」と思ったら、怖がらずにそこに踏み出す。
そうすれば、「世界は作られていく」と弥次喜多は少年に告げるのでした。


そして物語は終わります。



正と負の宇宙

それと、弥次喜多 In Deep では「幸(さち)」というストーリーが大好きで、これは正の宇宙に対して、「負の宇宙」が作られる瞬間というのか、あるいは、生の宇宙に対して、「死の宇宙」が作られる瞬間というのか、そういうものを描いた(と、私自身は解釈しています)ものでした。

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▲ 弥次喜多 in Deep 『幸』より。


子どもの時から不幸な少女が、死んで山に捨てられた後、「死後に受胎する」ところから始まる話(お父さんは弥次さん)で、しかし、死者である彼女が赤ちゃんを産むことは、現在の宇宙の原則と相反してしまい、「死者の幸が赤ちゃんを産んだ瞬間にこの宇宙は消滅する」ということになり、そのため様々な「形而上的な存在たち」が彼女と赤ちゃんの存在を消そうとします。

しかし、彼女のあまりにも子どもを産みたいと熱望する姿勢に心をうたれた「形而上的な存在たち」は「現在のこの宇宙ではなく、別の宇宙を作り、そこで子どもを産む」という選択をし、そして、新しい宇宙が生まれます。

その「死の宇宙」で彼女は生まれて初めて「幸せ」を手にするのでした。





「存在しない」ことを成立させるために必要な「存在していること」

思えば、「幸」の「ふたつの宇宙」この「世界はふたつの相反するもので出来ている」ということもよく思うことでした。

とはいえ、

「この世は存在しない」

ということと、

「世界はふたつの相反するもので出来ている」

ということは何だかとても噛み合わない気もするのですが、しかし、そうでもないということにも気づきます。

・存在している
・存在していない

という対立図式も「ふたつの相反するもの」だからです。

過去記事の、

「暗黒物質は存在しないかもしれない」 : 王立天文学会の総会で発表された科学界にとっては衝撃的な新学説
 2014年02月13日

では、「 MISHIMA 」という三島由紀夫を描いた 1980年代のアメリカ映画の中にある三島由紀夫の回想の台詞として、下の台詞を抜粋しました。

MISHIMA(1985年)より

子どものころ、
私はすでに世界がふたつの相反するもので出来ているのだと感じていた。

ひとつは世界を塗り替えることのできる言葉。
もうひとつは言葉とはまったく関係のない現実の世界。

世の常の人は、体が先にできて、そして、言葉を覚えるのであろうに、
私の場合は、言葉が先に来た。


これは、

・言葉



・現実の世界

というふたつでこの世はできているということを言っているわけで、つきつめれば、聖書の、

「はじめは言葉だった」

ということと同じような概念に突き進むこともわかります。
つまり、「はじめに現実の世界はなかった」と聖書は言っていると解釈して構わないかと思います。


あるいは、前ローマ法王ベネディクト16世が述べた、


「人間はなぜ存在しているのか、何のために存在するのか。そして、なぜ何も存在しないより、何かが存在したほうがいいのか」

(2010年9月23日の過去記事「なぜ何も存在しないより、何かが存在したほうがいいのか - ベネディクト16世」より)



という大変に今でも心に残る言葉も思い出します。

ベネディクト16世は、「この世が存在しないという選択」について知っているということに気づき、慄然としたものでした。


そして、これは、最近いろいろとご紹介する焦臭い「大量死」の事件のことや、あるいは、「それが今後も続くかもしれない」というようなことを記事にすることがありますが、それらの意味と通じるものがあるのです。


つまり「生」と「死」です。


この「生」と「死」、あるいは「生者」と「死者」ということについて、私たちは本来なら、これまでの価値観とはまったく違う考えで未来に進もうとしない限りは、いつまで経っても、私たちは、

「死に脅迫され続ける生活」を続けていかなければならない

ように思うのです。

これは、過去記事の、

私たちに残されたかすかな「破局の回避」の可能性のために(1)
 2013年03月24日

などで書きました、ロシアのチジェフスキー博士の著作『ロシアの宇宙精神』にある次のフレーズ、


生きた物質、生命の宇宙的な性質、そして生物圏が精神圏へ移行するという問題に取り組んだ創造的な思考は、生命の生み出した最高のものである人間の課題について考えようとする思想伝統につながっている。



というものともつながることで、少なくともロシア宇宙主義では、今後、

人類は精神圏へ移行する

というようなことがロシアでは学問として言われていたわけです。
「精神圏」へ移行した時の「生」と「死」とはどんな意味を持つのか。

それは移行してみければわかりませんし、そもそも、そんな移行なんてことがあるのかどうかも私にはよくわかりませんが、そのようなことも、漫画『弥次喜多 in Deep 』の中には、「要素」として、絵やストーリーのそこら中に散りばめられています。

いずれにしてましても、この『弥次喜多 in Deep 』という作品が、私にとっては、創世記のような役割を果たしていたわけでした。そんなわけで、受勲されたついでといっては何ですが、感謝の言葉を書かせていただいた次第です。

ちなみに、はじめてしりあがり寿さんの漫画を読んだのは、30年くらい前だと思いますが、『エレキな春』という単行本でした。それ頃から実際に「春という季節も 30回くらい経験しているのだなあ」と思いますが、それが多いのか少ないのかはよくわからないです。


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