2014年05月30日



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ディストピアをユートピアに向けることはもう無理なのか、それともどこかにかすかな希望はあるのだろうか




5月28日の CNN に掲載され、その後削除された記事

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上の記事は、ユーザーがニュースを共有できる CNN の iReport というサイト上に投稿されたものです。しかし、閲覧回数が 25万回に達したところで CNN はこの記事を削除しました。

その内容は、


ニューヨークのマンハッタンに相当する大きさの巨大小惑星が、地球から 8200万キロメートルに位置しており、この小惑星は地球に衝突する可能性のあるコースをとっている。NASA のジェット推進研究所の計算では、直径は16キロメートル。 2041年3月35日に地球に最接近する。



というものでした。現在は、該当するページにアクセスすると、記事は削除されており、下のように「 NASA はこの情報を正式に否定しました」という内容の文書が掲示されています。

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▲ NASA のジェット推進研究所のスポークスマンは、「発見された最大の小惑星は3キロメートルであり、また、その小惑星は地球に影響はない」とメールで CNN に返答したと書かれてあります。


真偽はともかく、さすがに私は、2041年という今から 27年後までの衝突の危険を不安視するほど先を考えないですが、実は今回は上の話は本題とはあまり関係ないのです。しかし、この記事を投稿した人のように「この世の終わり」を常に念頭に置く人は意外に多いのではないでしょうか。

世が進めば進むほど、この何百年とか、あるいは、数十年の間にいろいろな人が「人類の未来の理想」としていて考えていたあらゆることから今は逆行しているような気がしてならない感じがしています。

時代の流れには逆らえないこともわかっていますけれど、どうしてこうなったんだろうということを考えます。





誰のための何のものなのかわからない様々な事や物

私はスポーツ全般にまったく興味がないのですが、もうじき、ブラジルではサッカーのワールドカップがはじまるということで、現地は盛り上がっているようです。

街の中の様々なグラフィティ(壁に描く絵)も「サッカー1色」となっているようです。

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▲ ブラジル・サンパウロの学校の校舎に描かれたグラフィティ・アートを特集した 2014年5月29日の ロシア・トゥディ の報道記事より。以下、同じ。


サンパウロ市内

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▲ 書かれてある文字は、「食べ物が欲しい。サッカーは要らない」。



リオデジャネイロ

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▲ マラカナスタジアム近くの地下鉄駅入口。


今回のワールドカップの FIFA のマスコットは、ワールドカップ マスコットというページによると、下のようなものだそう。

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フレコという名前だそうですが、このフレコ君も壁に描かれていました。

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▲ 左がやや悪そうなことを考えていそうな表情のフレコ君。右の人物は誰かわかりません。マラカナスタジアム近くの壁。


現在のブラジルですが、ワールドカップへのデモが頻発していて、ほんの3日ほど前にも大きなデモが起きています。


ブラジル首都でW杯開催反対デモ
NHK 2014.05.28

サッカーのワールドカップ、ブラジル大会の開幕が来月12日に迫るなか、首都ブラジリアで大会の開催に反対するデモが行われ、警察が催涙弾を使うなど混乱が起き、予定されていた優勝トロフィーの展示会が中止される事態となりました。



NHK の報道ではふれられていませんが、この日のデモには、ブラジルの先住民たち数百人も参加していて、専属地の拡大と保護を求めて国会議事堂を占領したりもしています。

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▲ ブラジル先住民たちの集団に催涙弾を使っている光景。新華社より。


こんなことをご紹介していますが、私はワールドカップの開催に反対でも批判的だというわけではないです。

しかし、このように世界で様々におこなわれるイベントが「いったい誰のために、誰の幸福のためにおこなわれているのか」ということを、冷静に考えてみてももいい時期に来ている気がするように思うのです。

2030年だったか3500年だったか忘れましたが、日本でも東京オリンピックが開催されることになっていますが、そういうのも含めて、こういうことって、誰の幸福につながっているのだろうと。

これからも、いつまでも今回のブラジルのような状態の中で様々な催し事が開催され続けるのだとしたら、そこにいったい何の意味があるのだろうかと。


ところで、上に子どもたちの「サッカーじゃなくて、食べ物をください」というようなことが書かれている絵がありましたけれど、今後、この状態が拡大する可能性は強いと思います。

なぜなら、ブラジルは現在、過去最悪ともいえる干ばつの真っ只中にあるからです。

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▲ 2014年5月29日の wwmt.com より。


多分、ワールドカップの開催中も、「水」の問題は起きる可能性が高いと思われます。

まあ、先日、サンパウロでは、同地としては非常に珍しい「雹(ひょう)」が降ったりしたという珍現象はありましたけれど、雨は降りません。

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▲ 5月26日の来たるべき地球のかたちより。


華々しく世界中に報道されるワールドカップでしょうけれど、それが終われば、ブラジルにはかなりの苦しみしか残らないような気がします。もちろん、上のほうの絵にあるマスコット氏のように、笑いが止まらない人たちもいるのでしょうけれど。

スポーツは、いわゆる陰謀論的にいわれることもある3S政策(3つのS/映画、性産業、プロスポーツ)のひとつで、これらは「大衆の愚民化政策のひとつだ」というような主張もありますが、もはやブラジルでは自らの国の誇りのスポーツであるサッカーすら、それに対して使えないほどの状態になっています。

これらは「誰のための何なのか?」。

そしてこれからも続けていくことのどこに意味を見出せばいいのか?
スポーツに興味があるとかないとか以前に本気でわからなかったりします。

「誰のための何なのか」といえば、上海やドバイなどの馬鹿高いビルやタワーや、中国などにいくらでもある誰も来ないテーマパークや、誰も住んでいない巨大団地群など、つまり、「地球の資産を使って機能していない数々の事物」もそうだと思います。

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▲ 廃墟化した中国のディズニーランド風の巨大テーマパーク「中国魔法王国」。 Izismile より。


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▲ 中国の河南省鄭州市の完全な無人状態にある巨大都市の様子。2010年12月21日の過去記事「衛星写真に写し出される中国各地の広大な無人都市」より。






バックミンスター・フラーの「富」の概念

アメリカが産んだ思想家であり建築家だったバックミンスター・フラーは、「富」の概念について、次のように語っていました。Wikipedia からの引用です。


バックミンスター・フラーの富の概念

フラーは独特の富の概念を公言していた。それは、一般的に私たちの大部分に認められている貨幣ではなく、人間の生命を維持・保護・成長させるものとした。

それらを達成するための衣・食・住・エネルギーを、そして究極的にはより効率的に成し遂げるための形而上的なものであるノウハウの体系であるテクノロジー、それ自体が更に発展し続ける、それこそが「富」の本質であるとした。




・形而上的なものであるノウハウ

だとか、

・それ自体が更に発展し続ける

などは難しい表現ですが、テクノロジーは本来ならこのような理念の延長線上にあるべきものだということを言っていたのかもしれません。

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▲ バックミンスター・フラー( 1895年 - 1983年 )。


さらには、過去記事で、ウェブボットのクリフ・ハイのエッセイを載せたことがあります。

今から5年前のものです。


ALTA レポート 1309 クリフ・ハイ巻末エッセイ
2009年3月


現在、太陽系全体で大きな変化が起こっている。ここで思い出して欲しいのは、「自然の力とは戦ってはならない。使うのだ」というバッキー・フラーの忠告だ。

今は変容が始まっている時だ。太陽系のこの変化によって人間性の変容のプロセスは加速される。その意味では、まさに今われわれは巨大な転換点に立っていることになる。

今後、様々な意味で混乱するだろう。その中でわれわれは変容することを積極的に選択しなければならない。いずれにせよわれわれは変容せざるを得ないのだから。

先ほどのバッキー・フラーの言葉を言い換えるなら「自然の力をこちらから捕まえてそれを使うべきだ」ということになろう。

今は選択と意思決定、そしてリスクを伴う行動のときだ。
変容の過程が進行中であることをあなたは感じるだろうか? 

もしまだなら、感じるまでの時間はわずかである。待っていないで変容の過程に飛び込んでゆくべきなのだ。




バックミンスター・フラーは

人間の生命を維持・保護・成長させるものこそが富なのだ。


と言っていたわけですけれど、今回の「サッカーより食べ物を下さい」にしても、世界中に広がる廃墟や、人の住んでいない住宅の数々にしても、このバックミンスター・フラーの理念からはおよそ遠く離れたところに私たちは行き着いてしまっているのかもしれません。

少なくとも、「それ自体が更に発展し続ける文明」とはほど遠い感じがします。


昨年あたりからの私が、いつも漠然と、「そろそろ最終局面なのかな」とした実感を持つのは、そういうようなことを考えることが多くなっているからかもしれません。

子ども時代から「未来はこうなっていく」という夢というか希望というか、そんなものを持っていた少年たちの頭の中にあった世界は、間違いなくユートピア(理想郷)だったわですけれど、現実には「ディストピア」(ユートピアの反対)的な傾向が強いことは疑いようがない。

それでも、私などは映画や音楽で「ディストピア的な作品」に数多く接していたわけで、まだ耐性がありますが、パンクなどの反体制音楽や、アンダーグラウンド・アートやカウンターカルチャーの経験の少ない若い人は「ディストピアへの耐性がない」ようにも思えます。

最近は「物の見方が一方からだけ」という風潮をとても感じます。

つまり、綺麗なものは綺麗、醜いものは醜い、悪いものは悪い、良いものは良いとして考えるように仕向けられてきている。若い人たちは本来この世にある「世界の寛容性と多様性」を削がれて育てられて生きてきた傾向が強いように思います。

そうなると、今のような世の中ではただただ希望を少しずつ消失させて日々生きる。

そして「もう終わりに近づいている」と思う。

同じように思う人が増えていることが、冒頭の小惑星の投稿記事にも現れているような気もしますし、あるいは、最近の数多くの刹那的な殺傷事件や無意味と思えるような人々の行為の中に見えて仕方ないです。

それでも、あえて「世界は誰のもの?」と自分に聞いてみます
そして、

「まずは自分の(外部と内部の)もの」

と思うことには意味かあるかもしれません。

日常の外界も自分の内面の世界においても、「自分自身と自分の世界の価値観を独自に形成して、それを確実なものとしていくことが大事かもしれない」と決意して、そして、周囲と自分の価値観の比較をやめるということだけでも、あるいは、もしかするとこの世の中は少しは良くなっていく可能性があるかもしれません。