2014年05月31日



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「気温 40度の5月」の光景が気になりつつ、聖書とクインビー博士と森田正馬博士の言葉から考える「この世」と「神の子である人間という概念」



関東の私の住むあたりは今日(5月31日)、最高気温が 32度だか 33度だかになるそうで、日本全体としては、それより暑く感じたりするところも今日はあるのだと思います。

しかし。

「ふ、甘いよ」

という声が西の方から聞こえてきます。


下のは今日の中国の報道です。

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▲ 2014年5月31日の中国 365jia より。


このタイトルの最初の「熱! 熱! 熱!」というあたりに実感がこもっていますけれど、昨日 5月 30日、北京で気温が「 40度」を超えてしまったんですね。

正確には 42度。

北京の5月としては、1951年に 40度が観測されたことがあるそうですが、その記録を上回り、観測史上最高の5月の気温ということになりました。

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▲ 天安門広場の地表近くの気温は50度に達しました。 bjnews より。


報道によれば、北京をはじめ、天津省、河北省、中央山西省、山東省、河南省など多くの地域の一部で 35度を越えた模様。


しかしまあ、他の地域に目を向けますと、下の光景はさすがに猛暑とは無縁な感じがしますが、こちらはどこかというと、数日前のニュージーランドなんです。一部の地域で大雪になったようです。

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▲ 2014年5月26日の Yahoo ! News (ニュージーランド)より。


上の光景はセントラル・オタゴという場所のようで、下の位置にあるようです。

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セントラルオタゴ - ワイナリー訪問より。


アメリカのカリフォルニア州でも、5月 22日に雪降ってますしね。

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▲ カリフォルニア州のスノー・サミットのスキー場に5月の末に雪が降りました。2014年5月22日のアメリカ KTLA より。


そんなわけで、世界各地も暑かったり寒かったりと、いろいろですが、中国にしても、ニュージーランドなどにしても、ほんの少し前までは「こんなことになるなんて予想もしていなかった」のですから、日本も来月あたりはどうなるか、よくわからないです。

北京のように灼熱が来るのか・・・。
それとも、逆なのか・・・。

個人的には北京みたいなのは勘弁してほしいですが・・・。

さて、週末でもあり、最近の記事への補足としての資料などを少し書いておきたいと思います。






 




クインビー博士の本当の言葉

先日の、

病気は「存在」するのかしないのか? : 98パーセントの人間が「老衰以外で死亡する」時代に
 2014年05月28日

という記事の中に、アメリカのキリスト教系新宗教クリスチャン・サイエンスの創始者であるメリー・ベーカー・エディさんのことを書きました。

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▲ メリー・ベーカー・エディさん( 1821年 - 1910年)。


彼女が「宗教と治癒」という関係について思うようになったのは、フィニアス・クインビー博士という心理治療師によって病気を治癒されたことなどが、ひとつの要因となっているとしました。

その記事で私は下のように書きました。


クインビー博士が、主に治癒に使ったのは暗示と催眠術だったのですが、クインビー博士が考えだし、多くの病気の人々に最も効果のあった「暗示の言葉」は何だったかというと、谷口雅春によれば、下の言葉だったのだそう。

「あなたは神の子だから、あなたに病気は存在しない」

「人間は何者にも支配されない神の子なのだ」

ちょっと考えられないですが、これだけで、数百人の患者が完治してしまったという記録が残っています。




このように書いたのですが、これは、クインビー博士の言葉の概略だけを書いているのですね。

引用が 50年以上前に発行された『生命の実相』からで、文体等が自分でもわかりづらい部分があったので、そうしたのですが、しかし・・・。

仮に・・・もし本当に、上のような手段で、何人かの肉体の病気が治ったという事実があったなら、それは場合によって、たとえば、信仰心のある人などにとっては有効に効く場合もあるのではないかと思い、クインビー博士が患者に言っていたとされる言葉を資料として掲載しておこうと思います。

最近、私もやはり現代医学は「物質で人間を治そうとする意志が強すぎる」と感じていたものですので、そういう理由もあります。「神」という言葉に関しては、私には宗教はないですが、最近は「漠然とした神」を想定することは可能な気がしています。

ですので、下の言葉は、信仰をお持ちの方なら、それぞれの宗教の神様に置き換えたり、また、信仰のない方なら、「神」を「宇宙」としてもいいでしょうし、他の何でもいいでしょうが、置き換えながら考えてみるのもいいのではないでしょうかと思います。

それでは、ここからです。

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▲ フィニアス・クインビー博士( 1802年 - 1866年)。




クインビー博士が病気の患者にかけた暗示の言葉
谷口雅春訳


聖書にいわずや、神すべての創造(つく)り給いしものをはなはだ善しと観たまえりと。
神は人間を神の相(すがた)に造り給いて、これに万物を支配せしめ給うたのである。

だからなんじは健全である。

神ひとたび善に作りたまえるものは何物の力をもってするも悪に変じることはできない。
神ひとたび健全につくりたまえるなんじは、何物の力をもってするも病に変化することはできない。
なんじが今病気であるということは虚妄の迷いである。

迷いを去れ!

神は今もなお、なんじが健全で完全円満で一切の支配者であるのを観たまうのだ。





なお、これは言葉遣いが古い上に、命令口調でもありますので、こういうものを、何か工夫して、たとえば家族や同居人などが夜間で病院に行けない時など、ちょっとした気休め程度、あるいは単に精神的に楽になる手段となればいいと思います。もちろん、その人が少しでも「神」的なもの(何かの大きな力のこと)に信頼を置いていないと意味はなさないのでしょうけれど。

何となく映画『エクソシスト』を思い起こすような台詞ではありますけれど、「悪がどうのこうの」というよりは、一言でいえば、クリスチャン・サイエンスの創始者エディさんの一言、

「病気は『無』である」

という意識に導くための言葉だと思われます。

これらは宗教的な概念のもとでの「肉体的治療」なんですが、最近読みふけっていた森田正馬さんの『神経質の本態と療法』という論文の最終章のほぼラスト部分の記述に大変感動した部分がありまして、そこには「宗教」という単語も出てきますが、そこをご紹介したいと思います。





神という名の法はどこにあるか

ところで、森田正馬さんは最近何度かお名前を出していながら、ちゃんとした経歴などをご紹介したことがありませんでしたが、 Wikipedia 的には下のような経歴の方です。

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この『神経質の本態と療法』は、東京大学で医学博士号をとった論文の、ほぼラスト部分であるというとろに妙な感銘を受けます。つまり、ご紹介します文書は、「哲学文書」ではなく、「科学文書」だということを念頭にお読みいただければ、その味わい深さが何となくおわかりになるのではないかと思ったりいたします。

なお、文中に私が読めなかったり意味がわからなかったりしたものがありましたので、それを調べたものを先に記しておきます。


帰命頂来(きみょうちょうらい) = 身命をささげて仏に帰依すること。
法性(ほっしょう) = すべての存在や現象の真の本性。
弥縫(びほう) = 失敗や欠点を一時的にとりつくろうこと。




ここからです。




『神経質の本態と療法』第八章より抜粋


自然科学から見れば、神は民族心理の過渡的産物である、とかいうように、神という実体の存在はない。神、仏、真如とかいうものは、宇宙の真理、すなわち自然科学の法則であって、法そのものにほかならない。

真の宗教は、自己の欲望を充たそうとする対象ではない。神を信じるのは、病を治す手段でもなければ、安心立命を得る目的としてもいけない。

神仏に帰命頂来(きみょうちょうらい)するということは、自然の法則に帰依、服従するということである。因果応報を甘んじて受け入れ、周囲の事情、自己の境遇を喜んで忍受することである。

われわれの血行も、心の中に起こる感情や観念連想も、みな法性(ほっしょう)であって、常に必ず自然の法則に支配されている。

夢も偶然の思いつきも、忘却も、執着も、みな必ずそれに相応する事情があってはじめて、そのようになるのである。

頭痛、眩暈も、必ず起こるべくして起こる弥陀(みだ / 阿弥陀仏のこと)の配剤であれば、煩悶、恐怖も必ずあるべくしてある自然法則の支配によるものである。

われわれはこの自然法則に勝つことはできないことを知り、不可能を不可能として、それに服従することを正信(しょうしん)といい、因果の法則を曲げて不可能を可能としようとし、我と我が心を欺き、弥縫(びほう)し、目前の虚偽の安心によって自ら慰めるものが、すなわち迷信である。






この中には、「神とは自然の法である」と記されていて、その記述に迷いを感じさせません。

また、

神仏に身命をささげて仏に帰依することするということは、自然の法則に帰依、服従するということである

という内容のことも書かれています。

つまり、森田博士の中では、「神はこの世」という概念があったのかもしれません。そして、これはわりと純粋な日本的な考え方のようにも思います。つまり、「自然の運行とすべての生き物そのものを神様だとする考え」に近いものに感じます。


そして、クインビー博士が一切の薬物や物理的治療をおこなわなかったのと同様、森田博士も、神経症の治療に一切の薬物も、あるいは今でいうカウンセリング的なことさえ治療としてはおこないませんでした。「自分の苦しみと自分自身が一体となり、不可能なことは不可能だと悟ること」を自分の力で成し遂げていくというような方法でした。


それにしても・・・この森田博士の青年期までの生き方は、私とわりとよく似ているのでした。

病弱で生まれ、少年期には神秘やオカルトに強く興味を示し、しかし、成長するにつれて、神秘への興味は薄らぎ、あるいは、八卦のような占いが当たると評判になったり(私の場合はタロット)というあたりはとても似ています。

そして、そのうち、計算の中で自分の占いのパーセントが、すべて計算のうちに収まることに気づき、占いへの興味も失せ(私の場合は、タロットの解釈が自己基準でどうにでもなることに気づき)、そして大人になっていった、というあたりはとても似ています。

ただ、そこから森田博士は多くの人のためになる医者としての仕事を全うしたわけで、ダラダラ過ごした私とはまったく違います。

この森田博士の本を読み続けていたことは、クレアの、

森田正馬と老子とブッダと梶井基次郎のコアミックスが神経症治癒に対して示唆してくれるもの
 2014年05月29日

という日記にも書いています。





人を治癒することで一番大切なものは多分

ところで、唐突な感じがするかもしれないですが、宗教的な考え方では「信仰と希望と愛」の3つのうちではどれが最も重要だと思われますか?

クインビー博士のような暗示による治癒も含めて、信仰などによって、病から解放されることが可能だとした場合、それのどれが最も重要かは大事なことになるかもしれないからです。誰かを癒やしたいのなら、それを最も重きに置くことになるわけでしょうから。

たとえば、キリスト教の聖書ではどう書かれているか。

キリスト教は信仰なのだから、それは信仰だろうと思っていたのですが、新約聖書「コリントの信徒への手紙一」には以下のように書かれています。


コリントの信徒への手紙一 / 13章 13節

信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。
その中で最も大いなるものは、愛である。




ということらしいんですね。

ですので、家族でも恋人でも、病気などでつらい思いをしている時には、今の世の中での普通の治療をした上での話ですが、上の言葉を思い出すのもよろしいかと思います。

ちなみに、この「コリントの信徒への手紙一 13章」というのは、なかなか興味深いもので、

予言、あるいは「神や天使たちからの声」を「否定」

しています。

それらは滅ぶものだと。

「異言」という言葉が出てきますが、普通は、外国語というような意味のようですが、「天使たちの異言」という言い方などから、これは(人にはわからない)天使の声という意味のように思います。

部分部分ですが、日本聖書協会より抜粋します。


コリントの信徒への手紙一 / 13章 1-10節から抜粋


たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。

たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。

愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。

愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう、

わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。

完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。




この中の、

預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう

という言葉はシュタイナーの、

あなたが霊的に見たものについて沈黙することができるようになりなさい。


の意味と相互に関係した意味を持っていることに気づきます。


いずれにしても、ごく普通の私たちは、「霊的な世界」のこと以前に、森田博士のいうように、

自然法則に勝つことはできないことを知り、不可能を不可能と理解する


ということが大事なのかもとも思います。

今の時点では。