2014年06月09日



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シュタイナーと池上六朗さんと谷口雅春とブルーノが原子や物質の真実でシンクロニシティを見せた日



particles-morph.jpg

▲ 本文とは関係ないですが、 コンピュータ上の描画方法のモーフィングというもので、粒子から輪郭を造っていくという技術により顔が作られていく様子。 WebGL Demo より。






 



意識と外界に関しての「整体」と「薔薇十字」の共通点

最近は頻繁に適当に選んだ古本なんかを買ったりしているのですが、同じような時期に買った「それらの間に何の関連もないようなもの」同士の中にも次から次へと、似たような概念の表現が出てくることがあります。

たとえば、先日買った、まあ、一種の「整体」の関係の方の本で、池上六朗さんという方の『三軸修正法』という本の、ご本人の文章の冒頭の「はしがき」は、このように始まっていました。


『三軸修正法』( 2003年) 「はしがき」より


宇宙は何時から存在したのか? それはヒトが宇宙を意識して言葉にしたときから始まったという説があります。何かが存在するというコトは、人間の意識にとって存在するというコトです。

モノ・コトの存在の意味はヒトの意識が規定するのです。では意識があればモノ・コトがそこに在るというコトが分かるのかというと、もう一つ、自分の意識をそこに向けるという作業がなければモノ・コトの存在は分かりません。

意識はそのままでは何にも知覚することは出来ません。「志向性」を持ったとき、始めてモノ・コトが何処に、どのように在るのかということを意識の内側に取り込むことが出来るのです。




まあ、この本は「整体」の本とはいっても、その基本理念は、宇宙はその原初から、「粒子と粒子がお互いに引き寄せあって、集まり始めた」という「宇宙本来の性質」を人間の体質改善の方法として応用した、その具体的な方法を書いているもので、理屈は単純ではないですが、


人間の体を肉とか血液とか細胞とか、そういう解剖学や生物学的な観点から見るのではなく、「人間は全体が小さな粒子が集まってできている」という観点で体を整える



という視点のものだと思われます。

もちろん、そういう理論をごり押しするというものではなく、わかりやすくはなくとも、謙虚に書かれているもので、本文中にも、


「微粒子というと、常識的には、分子か? 原子か? 素粒子か? というような、いわゆる物理、科学でいう粒子を思い浮かべますが、ここでは少しの間、その科学的な見解からの呪縛を離れて、自由にイマジネーションを展開してみます」


と書かれてあります。

要するに、あまり小難しく考えるより、こういう実践の方法もありますよ、と。

いずれにしても、この本も、実際、私は腰痛の改善なんかによく効いていまして、概念も夢があって良いものですけれど、内容も現実として良いもので、そういう意味では「本当に手にして良かった」と思える1冊ではありました。

腰痛じゃなくてもいいですが、何かそういうのがあって、そして、先に書きましたような「人間の体は宇宙のシステムと同様に、粒子が集合してできている」というような考え方に違和感のない方は手にしてみられるといいと思います。
Amazon にもあります。


話は変わりまして、シュタイナーが、神秘学の訓練の具体的な方法を書いた『いかにして高次の世界を認識するか』という本のことをたまに取り上げることがありますが、この中で、シュタイナーは、神秘学というものに足を踏み入れる、すなわち高次を認識するための「準備」のひとつとして、まさに、最初に書きました、『三軸修正法』の「はしがき」に書かれてあること、すなわち、


意識はそのままでは何にも知覚することは出来ません。「志向性」を持ったとき、始めてモノ・コトが何処に、どのように在るのかということを意識の内側に取り込むことが出来るのです。



ということが重要であることを書いています。

それが古くから続く、神秘学や薔薇十字などが伝えてきた「ひとりの人間が高次の意識を持つ」ための最初のステップだと読める部分が多数出てきます。

たとえば、ひとつを抜粋します。


『いかにして高次の意識を認識するか』( 1909年) 秘儀参入の初段階「1 準備」 より

私たちはまず、まわりの世界で起こっている特定の事象に魂の注意を向けなくてはなりません。すなわちそれは芽を吹き、成長し、繁茂する生命と関わる事象と、しぼんだり、枯れたり、死滅したりすることと関わる事象の二つです。

私たちが周囲の世界に目を向けてみると、これらの事象は、いたるところに、同時に存在していることがわかります。そしてこのような事象をとおして、あらゆる場所で、ごく自然に、私たちのなかにさまざまな感情と思考が生み出されます。

ところが私たちが準備を始めるためには、日常的な状況のなかでこれらの感情と思考に身をゆだねているだけでは、まだ不十分です。私たちは日常生活においては、あまりにも早く、ある印象から別の印象に移行していきます。しかし準備を始めるためには、私たちは集中的に、完全に意識的に、これらの自称に注意を向けなくてはならないのです。




このあたりまでとしておきたいと思いますが、シュタイナーが言いたいのは、(私が理解しているわけではないですが)これらのことにより、「外の世界と内面」、あるいは「魂と外界(特に生命)のつながり」を日常的に持つことがとても大事な生き方のようです。





この世は「限りなく存在しない」かもしれない

また、話は変わりまして、谷口雅春の『生命の実相』。

ここにも、『三軸修正法』の基本理念の「人間の体は微粒子の集まり」という基本概念と似ていなくともないような記述が何度も出てきます。

ただ、谷口雅春の理論は、とにかく極端で、

「物質というものは無い」

と繰り返し記述しているという過激な思想を持っているわけですが、まあしかし・・・過激とか、、こうやって書いていますけれど、私自身も、わりとよくそんなようなことを書いちゃったりしているわけですけれど。



しかし、その「存在しない」という、ややこしい話はここでは置いておきまして、谷口雅春は、(今から50年くらい前の時点の)現代科学での「モノというものの実体」について著作に記しています。

その部分を抜粋してみたいと思います。


『生命の実相』(1962年)実相篇第一章からの抜粋

星や太陽などの物質分子間の距離が互いに隔たっていることは明瞭なことでありますが、われわれが住む地球上の物質分子間の距離も互いに離れていて、一つとして密着しているものはないのであります。

(ここから水の分子や液体の分子の説明が長く続きますが割愛します)

液体やガスの分子と分子との間が隔たっていることは解ったが、石や金のような固体はおさえてもなかなか小さくならないから、これらの物質分子相互間はそんなに隔たっていないだろうと言われる方があるかもしれません。

ところが、あにはからんや石や金属の分子などでも、その分子の大きさを比較していうならば、星と星の間に大きな距離があるほどに分子間の距離が互いに隔たっているのであります。(中略)

かくのごとく物質というものは、離ればなれの無数の分子という小粒から成り立っていて、その小粒と小粒とは非常な距離を隔てているのであります。




厳密な科学的での意味は別として、私たちの細胞なども分子などからできているわけで、「実際にはスカスカな感じもしないではない」ということは誰でも思うことのあることです。

近代科学はいろいろな概念を持ち込んできたりしますけれど、私たち科学の素人から見ると、やっぱり「全体としてスカスカが根本として私たちとかこの世界って成立してる?」とは思えてしまうわけです。

たとえば、原子。

これは現代での意味では、

元素の最小単位


というものであるのですが、 Wikipedia によりますと、


「物質」が、「極めて小さく不変の粒子」から成り立つという仮説・概念は紀元前400年ごろの古代ギリシアの哲学者、レウキッポスやデモクリトスの頃から存在していた。だが、この考えは当時あまり評価されたとは言えず、その後およそ2000年ほど間、大半の人々から忘れ去られていた。



とのことで、どうしてそれらの人がそんなような「変なこと」を思いついたのかはわからないですが、「モノというものは小さな粒子が集まってできている」という考え方は、2400年前くらい前にはすでにあり、そして、それは「事実だった」と

その原子。

下のようなものです。
直径はおよそ1億分の1センチくらいだそう。

atomic.gif

▲ 自然科学研究機構 核融合科学研究所「エネルギーの森」より。


上の図にありますように、原子には原子核というものが中心にありまして、つまりは、「原子核以外の部分はスカスカ」と言えるように見える構造をしているわけですけれど、この原子核の大きさは、下のようなものです。

atom-02.jpg

恋するカレンより。


原子全体の大きさを東京ドームとすると、その中心に一円玉を置いた程度、なのだそうです。楽しい高校化学「原子の構造」という教育ページにも、


原子核の大きさは、原子の2万分の1程度である。これは、東京ドームを原子の大きさとすると、原子核は、ちょうどピッチャーグランドにピンポン玉を置いたぐらいの大きさである。したがって、原子は、スカスカの構造をしていることになる。



と書かれてあります。

まあ・・・これが、つまり、「スカスカ」が、この世のほとんどのものの最小単位となっている。

スカスカがたくさん集まってできているこの世。

現在の科学的にいえば、この表現は厳密には正しくはないですけれど、でも、まあ、たとえば、「感覚」だとか「見た目」ではスカスカの状態がたくさん集まって、この世がある。

だからまあ・・・やっぱり、その方面から考えてみても、「この世って限りなく無に近い」というようなことも、どうしてもまた思ってしまうのですよねえ・・・。在ってほしいような気もするのですけれど。


グチャグチャとした展開となってしまいましたが、最近読んだ3冊(と言っても、まだどれも完読していませんが)の、そして、その間に何の関連もなさそうな本の中に流れるシンクロニシティーというようなものも味わい深く思いつつ、とりあえずは、最近ちょっと気になっていた腰痛が、『三軸修正法』を読んで少し良くなったということからいろいろと書いてしまいました。

今回はこんな雑談めいたもので終わってしまいそうですが、そういえば、以前、何度か取り上げたこともある、16世紀のイタリア出身の哲学者であり修道士で、異端の罪により、西暦 1600年に火刑に処されたジョルダーノ・ブルーノ「この世」に対しての考えはさらに過激です。

giordano-bruno.jpg

▲ ジョルダーノ・ブルーノ( 1548 - 1600年)が、異端判決によって火刑に処された際の状況を描いた画。 La Iluminacion より。


1583年頃にブルーノが、「対談形式」の書式で書いた『無限,宇宙および諸世界について』には以下のような記述があります。


『無限,宇宙および諸世界について』( 1583年)より

私が結論としたいのは、こういうことです。諸元素ならびに世界物体の秩序は、夢であり、架空の想像にすぎません。それは、自然によって真実を証されることもなければ、理性によって論証されることもなく、適切さからいっても妥当ではなく、可能性としてもそのようにはありえないからです。

そこで、知るべきことは、一つの無限な容積をもつ拡がり、ないし空間が存在し、それが万物を包み、万物に浸透しているということです。




今でも科学の世界、特に天文学の世界では名前が頻繁に出てくるジョルダーノ・ブルーノが出していた結論は、

世界の物体の秩序は、夢であり、架空の想像


というものだったのでした。

しかし、「夢であり、架空の想像」なのに、そこに「なぜ、あるいは、どのように秩序が生じたのか?」。ブルーノは、「理性によって論証されることはない」としているので、考えるだけ意味がないことかもしれないですが、ふと、新約聖書の「ヨハネによる福音書」の


「はじめに言葉ありき」


を思い出します。

この「言葉」というのは、ラテン語から英語に訳した際、「 Logos (ロゴス)」を「 Word (ワード)」にしてしまったという一種の誤訳ともとれる経緯があったようで、それがそのまま、日本語の聖書も含めて、全世界に広まったというのが真実のようです。

なので、実際には、

「はじめにロゴスがあった」


というのが、「ヨハネによる福音書」での「この世の創世」だったようです。

ただこの「ロゴス」という単語自体の意味は多分、永遠に私にはわからなさそうです。Wikipedia 的な、つまり、辞書的な意味はわからないではなくとも、その真意がわかる日はなさそうですし、ブルーノなども「いつまでもわからない」と言っているのですから、それでいいのかなと思います。

とりあえず、今回出てきたような一見複雑な概念には、何となくつながりがあり、それは高尚な学問の世界ではなく、たとえば、健康法への応用だとかも素晴らしいことだと思いますし、あるいは「高次の認識」という言葉に興味のある人などにも、実際的な響きとして届くものかもしれません。







  
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