今日は本当は前回の記事、
・ポールシフトに関する最近の緊迫(1) : 磁場の反転時には「地球から大量の酸素が消滅する」とする科学論文の発表。そして、日本で西之島が「新しいアトランティス」となる時
2014年06月16日
の続きを書ければいいなと思っていたのですが、下のような理由で、体調・・・というか、いろいろと思わしくなく、結果として妙な雑談となってしまいました。
最悪のフィードバックの中で見つけたウィキペディアの項目
変な書き方で申し訳ないんですが、最近、自分の中の悪い感情や、あるいは自分から外に出た悪い表現が、少し後になってから「自分自身を体感的に襲う」ということがあるんです。
何だかどう書いてもうまく説明できないような気もしますが、少し以前から私は「自分の内部の世界と外に映る世界との関係」を実際的に結びつけて考えるという試みをたまにおこなっていまして、それ以来、どうも、「感情の現実的なフィードバック」のようなことが起こります。
まあ、その具体的なことはともかく、昨日、私は家で「怒りの感情」を表してしまったのですね。
最近の私では珍しいです。
「怒りの感情」というのは最近の自分の中では、最も戒めたい感情の一つなんですが、しかし、もともと怒りやすいわけでもなく、さほどこれを戒めるのは難しいことではないのですが、昨日はかなり強く「怒りの感情」が表に出てしまいました。
その怒りの感情の発露はほんの少しだったのですけど、そうしましたら、今朝は午前中から調子が悪く、「胸の奥底あたりからムカつきがくるような不快感のような吐き気のようなもの」というような胸の中心が重苦しい感覚にとりつかれてしまって、何もできずにボーッと座っていました。
「いろいろとだめだなあ、オレは・・・」
とつくづく情けなくなりましたが、ボーッとしたまま、ネットを見ていると、 ウィキペディアに、「ある項目」が存在していることに偶然気づきました。
その Wikipedia に存在していた「ある項目」とは・・・。
そうなのです。
なぜ何もないのではなく、何かがあるのか - Wikipediaという項目なのでした。
そして、これがとんでもなく長いページなんです。
多分、私がこれまで Wikipedia で訪れたページの中で、最も長く、文字量の多いものだと思います。ちょっと、文字数を調べてみましたら下の通り。
総文字数が5万6000!
かつての「 400字詰め原稿用紙」換算だと 140枚あたりに相当するということになり、このページだけでそこそこの文字量の書籍一冊が出せるほどのものなのでありました。
このページのでだしは、下のようなものです。
「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」は哲学の一分野である形而上学の領域で議論される有名な問題の一つ。神学や宗教哲学、また宇宙論の領域などでも議論される。
なぜ「無」ではなく、「何かが存在する」のか、その理由、根拠を問う問題。
ここから、5万6000文字超の本稿が始まるのです。
そして、その「概要」には、この問題がいかに難解であるかを物語るかの例がいくつか述べられています。
・たとえば実在するものはすべて意識的なものだけであるとする観念論的な立場や、または世界は私の見ている夢のようなものであるとする独我論的な立場などを取ってみても、その意識や夢にあたる「何か」があることは依然として認めざるを得ない。
・映画「マトリックス」のように自分は水槽の中の脳である、とか、またこの世界の全ては未来のスーパーコンピュータの中で行われているシミュレーション結果に過ぎないというシミュレーション仮説のような極端な考え方をしてみても、そこには水槽や脳や何らかの計算機が在る。
・物理学の領域ではビッグバンにより宇宙が始まったという説明がなされることがあるが、こうした説明もまた答えとはならない。なぜなら問いの形が「なぜ何もなかったのでなく、ビッグバンがあったのか」に置き換わるだけだからである。
・ビッグバンが真空の量子揺らぎから発生したといった説明もまた同様である。「なぜ量子力学の法則などという自然法則があったのか」こうした形に問いが置き換わるだけである。
・何か超越的な存在、たとえば神様を持ち出し、それが世界を作った、と説明しても話は同じである。「なぜ何もなかったのではなく、神様がいたのか」、こう問いが置き換わる。
などが延々と書かれてあり、その後、歴史や様々な人の話や理論なども紹介されます。
前ローマ法王ベネディクト16世が 2010年に、イギリス・ロンドンでの講演で語った、有名な言葉も載せられています。
ベネディクト16世
ロンドン 2010年9月17日
「人文科学と自然科学は、私たちの存在の諸相についての非常に貴重な理解を与えてくれます。また物理的宇宙の振る舞いについての理解を深め、人類に多大な恩恵をもたらすことに寄与してきました。
しかしこうした学問は、根源的な問いには答えてくれてませんし、答えられません。それはこれがまったく違う階層での営みだからです。こうした学問は人間の心のもっとも深い所にある願望を満たすことができません。我々の起源と運命を完全に説明することもできません。
人間はなぜ存在しているのか、そして、何のために存在するのかということに対しても説明することはできません。そして「なぜ何も無いのではなく、何かが在るのか?」 この問いへの完全な答えを与えることもできません」
さらに、注目したのは、「お釈迦様」のこの「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか」という問いに対しての対応でした。
お釈迦様の場合
ある仏弟子が、
「以下の問題について仏陀は教えてくれない、また分からないとも言ってくれない。このままなら弟子をやめて世俗に戻る」
と仏陀に問い詰めたということがあったそうです。
その弟子がお釈迦様にきいた質問は、以下の4つだったそう。
1. 世界は常住(永遠)であるか、無常であるか
(時間は永遠に続くものか、または始まりや終わりがあるのか)
2. 世界は有限であるか、無限であるか
(空間に果てはあるか)
3. 霊魂と身体は同一であるか、別異であるか
(人間の魂と肉体はひとつのものか、あるいはそれぞれ別のものなのか)
4. 如来は死後に存在するのか、存在しないのか、存在しかつ非存在であるのか、存在もせず非存在でもないのか
(死後の世界や、来世というのはあるのか)
という問いでした。
ブッダはこの問いにどう答えたか。
Wikipedia には以下のように記されています。
答えないということをもって答えとした。
(笑)。
この「解答しないという立場」をとることは、仏教的には「無記」とか「捨置記(しゃちき)」と呼ばれているのだそう。
それにしても、この「答えないということをもって答えとする」というのは座右の銘にもなりそうな、とても気に入ったフレーズです。
20世紀以降、暴走してしまった「科学」では
ちなみに、この「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか - Wikipedia 」では、どちらかというと、哲学や宗教の観点から述べているものが中心となっていますけれど、科学の「基本的絶対条件」をひとつ持ってくれば、さらに難しいことになります。
それは、「物質不滅の法則」というものです。
今では「質量保存の法則」と呼ばれますが、同じもので、
化学反応の際には反応する物質の全質量と生成する物質の全質量はまったく等しく、反応の前後において物質の全質量は変わらないという法則
という 1774年に発見された自然の法則です。
これはつまり、私たちのいるこの世界は、
「物質は無くならない」
つまり、「モノは消えない」という厳然たる自然法則に縛られていることを意味します。
モノは形を変えて輪廻しているだけであるということです。
消えないということは、普通に考えれば、「物質の出現を考える」ということも難しい話となるわけで、かつての優れた科学者たちは、「この物質世界が突然出来た」ということについて頑なに否定していた人たちも多かったのでした。
物理化学の創始者とも呼ばれるスヴァンテ・アレニウス(1859年 – 1927年)は、『宇宙の始まり―史的に見たる科学的宇宙観の変遷』という著作で以下のように書いています。
部分的な抜粋をつなげていますので、文脈的に違和感のある部分はご容赦下さい。
文中に出てくる「開闢(かいびゃく)」というのは、いわゆる「天地創造」的なことがらを現します。
スヴァンテ・アレニウス『宇宙の始まり』より
物質界が不滅あるいは永遠であるという考えが、原始的民族の間にもおぼろ気ながら行われていたということは、彼らの神話の構成の中にうかがうことができる。
ところが、中世の間に、物質界はある創造所業によって虚無から成立したという形而上学的の考えが次第に勢力を得てきた。このような考え方は、デカルトにも、かの不朽のニュートンにも、またかの偉大な哲学者カントにもうかがわれる。
しかしともかく物質はその全量を不変に保存しながら徐々に進化を経たものであるという主導的観念はあらゆる開闢(かいびゃく)的叙説に共通である。
それが突然に存在を開始したという仮定には奇妙な矛盾が含まれている。
スペンサーもこの点については、はっきりしていて『この可視世界に始めがあり終わりがあるとはどうしても考えることはできない』と言っている。物質の創造を考えることが不可能なのと同様にまたエネルギー(力)の創造を考えることも不可能である。
また、今でもある『エコノミスト』誌の初期の副編集長であり、イギリスの哲学者ハーバート・スペンサー( 1820年 - 1903年)は、以下のように述べています。
ハーバート・スペンサー『生物学原理』より抜粋
恐らく多くの人々は虚無からある新しい有機物が創造されると信じているであろう。
もしそういうことがあるとすれば、それは物質の創造を仮定することで、これは全く考え難いことである。この仮定は結局、虚無とある実在物との間にある関係が考えられるということを前提するもので、関係を考えようというその二つの部分の一方が欠如しているのである。
エネルギーの創造ということも物質の創造と同様にまた全く考え難いことである。
そして、これらの、あるいは他の多くの優れた科学者や哲学者の亡き後に、この世に出てきたのがビッグバン理論という「無から存在が生まれた」という珍妙な理論であり、これは、上でアレニウスが、
「突然に存在を開始したという仮定には奇妙な矛盾が含まれている」
と言い、
ハーバード・スペンサーが、
「物質の創造を仮定することは、全く考え難いことである」
と言っていた言葉に対抗するような、「物質が突然、存在を始めた」ということをビッグバン理論は語っているのでした。
物質不滅の法則は、「法則」とついているように、この自然界にある「法」であることは厳然たる事実です。
「法」という言葉は自然や宇宙では重い響きです。
その「法」をおかしてまで「一般的認識」にまでひろまるほど喧伝が推進され続けてきたビッグバン理論は、ここまで書いてきた、哲学・宗教、そして科学の、どの考え方とも合わない「アウトロー」的なものであるということが何となくおわかりになるでしょうか。
そういえば、このことと関連して、宇宙のインフレーション理論(初期の宇宙が指数関数的な急膨張をしたとする理論)を最初に提案したことで知られている(つまり、ビッグバン理論の肯定者のひとりである)アメリカのアラン・グースという宇宙物理学者が 1997年に記した著作『なぜビッグバンは起こったのか』という本には、以下の印象深い1行があります。
宇宙の創造が量子過程で記述できれば、一つの深い謎が残る。何が物理法則を決定したのか。
この「一つの深い謎が残る。何が物理法則を決定したのか」という文脈から、このアラン・グースという人は心底では、ビッグバン理論の「奇妙さ」に疑念を抱いていた可能性を感じます。
何しろ、
・「宇宙ができていく初期の過程で、すでに物理の法則が働いていた」
という「インド人もビックリ」的な事象と立ち向かわなければならないからです。
アレニウスは『宇宙の始まり』に、古代のインド哲学における「宇宙の状況」を記しています。アレニウスは長く書いていますが、その全体を非常に簡単にまとめると、
ブラーマ(主、神、梵天)は 86億 4000年間の半分は目覚めており(世界の創造)、半分は眠っている(世界の破壊)。
この創造作業と世界破壊作業との行われる回数は無限である。そうしてこの永遠の存在なる神はこれをほとんど遊び仕事でやってのける。
このように、86億 4000年間のサイクルを持つ「創造と破壊」が「無限に繰り返される」というのが、インド哲学の考え方だったようで、この世の創造も、この世の終わりも、その輪廻の中の「神の日々の生活」のひとつであり、そして、それは何度も何度も繰り返し起きていくことであって、完全な意味での「始まり」という概念も「終わり」という概念もないことが書かれてあります。
アレニウスは大変に理性的な科学者ですが、科学と自然の原則に忠実に考えれば考えるほど、物質不滅の法則などの「物質は消滅することも突然出現することもない」というように考えていく中で、このような「輪廻」という考え方を持つインド哲学や、様々な古代神話と「宇宙の真実の接点」を見出したいと考えていたようです。
なんだか訳も分からず熱く語ってしまいましたが、少し胸の重さが消えました。
自分でもどうしてこんなことを懸命に書いていたんだかよくわかりません。
明日は普通に更新できると思います。