2014年07月14日



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聖女キューブラー・ロスが「神を呪った」とき : 寿命は長いけれど命そのものが粗末な感じがする今の時代に読んだ聖女の「最期」



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▲ 今回は写真がほとんどないですので、本文とは関係ないですけど、絵の一枚でもと思いまして。Kanayo Ede の Old Barn という作品です。






 


昨日今日と、少し考え込むことが多く、今回は雑談めいた記事となります。

ここ数日、須原一秀さんという哲学者の書かれた『自死という生き方』という本を、私としてはそれなりに真剣に読んでいました。

須原一秀さんという方に関しては、この本を読むまで私は知らなかったのですが、Wikipedia から抜粋しますと、次のような方です。


須原一秀(1940年 - 2006年)は、日本の哲学者・社会思想研究家。元立命館大学非常勤講師。元龍谷大学非常勤講師。

現代を肯定的に捉え、哲学的思索に裏打ちされた社会思想研究を行う哲学者であったが、本人の遺著『自死という生き方』によれば“一つの哲学的プロジェクトとして”、2006年4月、自宅近くの神社にて自死した。享年67。




つまり、上の『自死という生き方』という本は、本は本として存在しますが、本だけでテーマが完結するのではなく、「自分の死」によって完結するというプロジェクトでした。

そして、 Wikipedia に書かれてある通り、須原さんは本を書き上げた後、自分で決めていた日に自死します。

本人が亡くなったわけですので、この本の編集や加筆を学者仲間などがおこない、内容を補填・編集して出版されたものです。

ところで、この「自死」という言葉はあまり聞き慣れない言葉かもしれないですが、今の日本で使われる「自殺」という言葉のイメージがあまりにも暗いものとして固定されてしまっているので、最近では、

・自死
・自決
・自殺


のそれぞれの言葉を「それぞれ違う意味の単語」として使ってはどうか、という意見はそれなりにあります。須原さんもそれを主張しています。

ところで、どうして上みたいな本を知ったかというと、私は東海林さだおさんのエッセイが十代の終わりの頃から大好きなんですが、そこで知ったのです。

東海林さんのイメージとは違うように思われるかもしれないですが、実は、東海林さだおさんという人は、

「最後は自決で人生を終えようと考えている」

という人なんです。
多分それなりに本気だと思います。

最近、文庫本で出版された、その東海林さだおさんの『花がないのに花見かな』の中に、廃墟愛好家だという栗原亨(とおる)さんという方との対談があり、そのタイトルは「樹海で死ねたら」というものでした。

栗原さんという方は、これまで調査のために 70回以上も樹海の中に入っている方なのだそう。

上の対談も非常に興味深いですけれど、その対談の内容はともかく、その中に、東海林さんが、『自死という生き方』という本を読んでいろいろと思うところがあった……というようなことを書かれているんです。それを読んで、私もすぐに Amazon で探して買ったという次第だったんですね。

それを読んでいるうちに、薄々と最近思っていたことや、「自分の未来」も含めて、昨日から考え込んでしまっている部分があります。





単に放っておいても高齢化で滅びる日本という国

これは上の『自死という生き方』の内容とは関係のないことですが、私の周辺もそうですが、今では多くの人々が、自分が直接介護などに関わったり、あるいは周囲で介護やそれに準じた状態というのを様々に見たり聞いたりしているのではないかと思います。

というより、最近では、この「高齢化社会」というのは、単なる日本の社会問題であるということを越えて、どういったらいいのか、宿痾とでもいうのか、要するに、このままだと、この「高齢化社会の進行で日本自体が滅びるのでは?」とさえ真面目に思うことがよくあります。

経済的な破綻とか、戦争がどうのこうのとか、あるいは天地がひっくり返るような自然災害とか、そんなことがどちらに転ぼうと、単に「放っておけば、そのうち日本は自滅する」というのが明らかであるというようにしか見えないのです。

しかも、それは私の生きているかもしれない間の、ほんの 10年先とか 20年先に起こりうることだと思っています。

いやいや。

そんな小難しい話をしなくとも、たとえば、今、介護をされている方は、

「将来の私もこの人(自分が介護しているお相手)のようになりたい」と思うかどうか

というような話でもいいですし、そうは考えなくともいいのですけれど、2年くらい前の記事で、日本だけではないですが、現在の「普通の」価値観として、


長生きすることは無条件に素晴らしい。(場合によっては健康であろうがなかろうが)



という概念があるというようなことを記したことがありました。

そして、それは社会的に絶対的な思考であり、つまり、


その「長生きすることは素晴らしい」ということに対しての、いかなる反対意見の存在も許されない



という社会であることの事実。

「介護に疲れた人」でも、それを言ってはいけない。

そして、あちこちで現に起きている「共倒れ」(老老介護でどちらも立ちゆかなくなる)。そのうち、子供なども関係してきて、そちらも参加することで三重の共倒れ(仕事をやめたりしての介護で収入の問題が出て来る)なども起きる。

それでも、

「長生きしてくれているから・・・それだけで・・・」

と他人の前では呟かなくてはならない。

今の日本の高齢者がいる家庭で、「高齢者の病気の問題や、介護とは無縁」の家は、むしろ少ないのではないでしょうか。

うちの母方の祖母は、もうかなり昔の話ですが、10年間寝たきりでしたが、うちの母の妹さんが長く介護していました。しかし、介護を続けるうちに、もともと上品で穏やかだった母の妹さん、つまり私の叔母さんの顔の様相が年々やつれ果てていくのを見るのはつらいものでした。

最後の何年間かは、介護を受けているお婆さんご本人は、すでに自分の娘の顔というか、その存在自体を忘れているのです。

下の世話から何から何まで介護する娘さん(私からすれば叔母さん)に対して、

「あなたはどなたですか?」

と言うのです。

こんなような同じ例は今現在おびただしくこの世に存在しているはずです。

そして、今のままだと、こういう事例はどんどん増えていくしかないはずです(減る道理がないので)。
中途半端な健康知識や健康番組などのせいで、体の寿命だけは伸びていく。

私は最近は特に漠然と、「これはもう本当にダメなのではないだろうか」と感じることがあります。そして、これから老境に入っていく私たちのような五十代くらいの人間というのは、「本気で生き方の考え方を変えるべき世代なのではないか」というようには思うようになっていました。

いずれにしても、今の社会が漫然と進行していけば、あと・・・それこそ 30年もすれば、日本は何も機能していない実質的な廃墟となっている可能性さえ感じます。

えーと・・・何だか変な展開となりましたが、今回はその須原一秀さんの『自死という生き方』の中に、キューブラー・ロスという女性の話が長く書かれていまして、そこに何ともいえない感覚を覚えまして、「命」あるいは「死」というものを考える上で、ちょっと書いておきたいと思ったのです。

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聖女キューブラー・ロスが「神を呪った」とき

キューブラー・ロスという方は、終末医療の先駆者であり、40年間以上の中で、数千人の「最期」を看取ってきた人であり、また敬虔なキリスト教徒でもあり、私財を投じて死に向う患者のための施設を作ったりしていた、まさに聖女と呼ばれるにふさわしい人でした。

辞書的な説明は、Wikipedia から抜粋しますと、下のような女性です。


エリザベス・キューブラー・ロス(1926年 - 2004年)は、精神科医。その中で彼女は初めて今日、「死の受容のプロセス」と呼ばれている「キューブラー・ロスモデル」を提唱している。まさに死の間際にある患者とのかかわりや悲哀の考察や悲哀の仕事についての先駆的な業績で知られる。



Kubler-Ross.jpg

▲ キューブラー・ロスさん。


また、 Wikipedia には、


彼女は死への過程のみならず、死後の世界に関心を向けるようになった。幽体離脱を体験し、霊的存在との交流したことなどを著書や講演で語った。



という記述もあり、彼女は「優秀な精神分析医」という冠だけではなく、敬虔なクリスチャンとしての「聖女」としても人々の尊敬を受けるようになっていきます。


人間の最期を真剣に見つめ続け、そして神の愛に生き、魂の再生を信じていた「間違いない聖女だった」彼女の最期はどのようなものだったのか

死の受容のプロセスの「受容」に行き着いたのか。

そのあたりのことが『自死という生き方』にかなり長く書かれています。

ちなみに、 Wikipedia の彼女の説明にあった「死の受容のプロセス」とは、彼女の最も有名な『死ぬ瞬間』という著作に書かれてあるもので、死の受容のプロセスとは、死に近づく患者たちの段階として、




否認
自分が死ぬということは嘘ではないのかと疑う段階である。

怒り
なぜ自分が死ななければならないのかという怒りを周囲に向ける段階である。

取引
なんとか死なずにすむように取引をしようと試みる段階である。
何かにすがろうという心理状態である。

抑うつ
なにもできなくなる段階である。

受容
最終的に自分が死に行くことを受け入れる段階である。





という段階で亡くなっていくとしたものです。

その理論を確立したキューブラー・ロスさんの最期について『自死という生き方』から抜粋します。


『自死という生き方』 8章 - キューブラー・ロス − キリスト教徒の苦悩 より


『死ぬ瞬間』などの著書で世界的に有名な精神科医、キューブラー・ロスは、ターミナルケア(終末医療)の先駆者として、四十数年にわたり数千人の人々の最期を看取ってきた。彼女は死に行く人を励まし、愛の言葉で力づけてきた功績で、聖女とも呼ばれていたのである。

しかしその彼女は、晩年脳梗塞に倒れ、豹変してしまうのである。その様子を伝えるビデオを見た(『最後のレッスン − キューブラー・ロス 死のまぎわの真実』 NHK制作)。

彼女自身あれだけ他人の最期に真剣に接してきたにもかかわらず、そして二十世紀にホスピスに関してあれだけの業績を達成したにもかかわらず、自らの「自然死」の受け入れに関しては、やはり難しいことを表す内容であった。

と言うのも、彼女は死んで天国に召されることをはっきりと望んでおり、その瞬間を楽しげに待ちわびる言動がはっきりと見られたが、しかしその「お迎え」があまりにも遅いことにいらだって、最後には神様を呪いだしてしまったのである。

インタビュアーが、あなたは長い間精神分析を実践してきたので、それが役立っているだろうに、と問いかけると、「精神分析は時間と金の無駄であった」と、にべもない返答がかえってくる。




ということになってしまうのです。

彼女は 1995年に脳梗塞で倒れて、2004年に亡くなりますが、その下りは Wikipedia には、

1995年に脳梗塞に見舞われ左半身麻痺になった。2004年にアリゾナ州のスコットデールの自宅で亡くなった。


とだけ書かれているのですが、実際には、以上のように「神を呪う」という状態にまで陥り、そして、最後の頃には、


「もうこんな生活はたくさん。愛なんてもう、うんざりよ」
「神様はヒトラーだ」
「聖人? よしてよ、ヘドが出る」


などと言い出すようになるのです。

これは、すべて、その NHK のドキュメンタリーに収録されているのだそう。

それでも、1995年に脳梗塞で倒れてから2年後に彼女が書いた手記『人生は廻る輪のように 』には、まだ「神」も「愛」も「魂」も彼女の中にあったことがわかります。

部分部分抜粋します。


キューブラー・ロス『人生は廻る輪のように』より

学ぶために地球に送られてきたわたしたちが、学びのテストに合格したとき、卒業がゆるされる・・・・・究極の学びは、無条件に愛し、愛される方法を身につけることにある・・・・・
自然に死ぬまで生きなければならない・・・・・

どうかもっと多くの人に、もっと多くの愛を与えようとこころがけてほしい。それがわたしの願いだ。
永遠に生きるのは愛だけなのだから。




そして、それから数年後には前述した、

「愛なんてもう、うんざりよ」
「聖人? よしてよ、ヘドが出る」

という言葉が彼女の口から発せられるようになってしまうのです。

彼女は自分の最後に死の受容のプロセスの「受容」に行き着いたのか。
それはわからないです。

しかし、これは彼女に対して否定的な意味で書いているのでははなく、キューブラー・ロスという方があまりにも愛と信仰(神)に真摯であり続けたからだというようにも思います。

ただ、彼女が分析し続けた「臨終の理想」は、現実には「自分の死の場合」はその理論と噛み合わなかった、というだけで・・・。






真剣に「未来への何らかの存続」を考えてみたり

考えてみれば、毎日毎日、世界中で誰かが亡くなっています。
理由や原因はあまりにも様々です。

その中には生前、あるいは活動期に非常に立派だった方もいらっしゃるでしょうし、そうではない人もいるでしょうけれど、さきほど書いた、「高齢化に殺される日本という国」の問題なども含めて、たとえば、私は今、50代になりましたけど、こういう世代の人間は、これから先どのように考えていけばいいのか。

この『自死という生き方』を数日前から少しずつ読んでいて、私は自分がどのようにして生きていけばいいのかわからなくなってきています。

毎朝、やや「鬱」っぽい気分で目覚めることが多いです。
そして、朝起きて、すぐお酒を飲むこともあります。



皆さんは日本はどうなると思われますか?・・・このままの現状で時代が進むと。

あるいは、ご自身はどうなると思われますか?・・・今のままの価値観で進んでいくと。

そこにあるのはどんな未来・・・?

ただ、これらの問題は、本来は「地球最後のニュース」と銘打っている In Deep に多く書くのは適切なことではないと思いますので、今後は書くことはないと思います。

いずれにしても、今回は変な話となってしまいましたが、明日は「地球の磁場の反転が今すぐに起きてもおかしくない」とした欧州宇宙機関( ESA )の報告について書こうと思います。

先日の、

地球の磁場が弱くなっていることを欧州宇宙機関の地磁気観測衛星(SWARM)が確認
 2014年06月30日

と関係する話ですが、さらに「先の話」があったのです。
そのことについて書ければ書こうと思います。

何しろ、私には小さな子どもがいて、今は「自死」など考える余裕もないです。
考えたり書いたりすることが唯一の「擬似死体験」かもしれません。

ま・・・今は。