2014年08月15日



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毎年「霊と死」に踊らされる夏のこの時期に知った「ペリリュー島の激戦」と、津波被災地・大槌町の「未来の記憶」


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▲ 写真家アレハンドロ・チャスキエルベルグの作品を紹介している FENCE より。

大槌町 - Wikipedia より

大槌町(おおつちちょう)は、日本の岩手県上閉伊郡に所在する町。2011年3月11日、マグニチュード9.0の東北地方太平洋沖地震が発生し、大槌町も強い揺れに襲われた。 加えて、この地震が引き起こした大津波とそれによって発生した火災により、町は壊滅的被害を受けた。








 



先日、アルゼンチンの写真家による印象的な写真の作品群を見つけました。

それは、岩手で 2011年の津波で壊滅的な被害を受けた大槌町という町の「廃墟跡」で、そこにもともと住んでいた人と共に、その場で撮影したというものです。

上の写真もその1枚で、写真家の技量(あるいは心理的技量)のおかげなのか、悲劇よりも「人間の力強さ」を感じさせるもので、やや感動しましたので、いくつか載せたいと思います。

ところで、この最近の1週間ほどは、記事の更新も開くことが多かったんですけれど、ほぼ、とんぼ帰りで私の実家のある北海道へ帰省したりしていたり、他にも「老」と「死」の関係でいろいろとあったのですが、まあ、それらのゴタゴタで、肉体的というより、精神的にちょっと参っていた時期でした。

そんな時に「偶然」知った、太平洋戦争時の「ある戦場」についてのことを少し書きたいと思います。




はじめて知った「太平洋戦争時の狂気の戦場」の映像

上に書いたようなゴタゴタとしたことがやや一段落した、8月 13日、家族は奥さんの実家のほうに行き、夜は私1人で部屋でお酒を飲んだりしていたのですが、午後 10時前くらいに、

「あ、天気予報見よう」

と、消していたテレビをつけ、 NHK に回しました。しかし、もう 10時を少し過ぎており、天気予報は終わっていたのですが、始まっていたのが NHK スペシャルで、そのタイトルは、「狂気の戦場 ペリリュー 〜"忘れられた島"の記録〜」というものでした。


これがすごかった。


偶然見ることができて本当に良かった……という、「良かった」というのは何だか変な表現ですが、この戦場も戦闘も知らなかったので、知ることができて本当に驚きと同時に、 NHK スペシャルなんて、この数年見たこともなかったので、偶然に感謝したした次第です。

NHK の番組サイトの冒頭をご紹介します。

狂気の戦場 ペリリュー 〜"忘れられた島"の記録〜

今年、アメリカで日米の熾烈な戦いを記録した113本のフィルムの存在が明らかになった。撮影地はフィリピンの東800キロに位置するパラオ諸島の小島・ペリリュー。「地球最後の楽園」と呼ばれるサンゴ礁の美しい島だ。

70年前、日米両軍はここで死闘を繰り広げた。米海兵隊の最精鋭部隊と言われる第1海兵師団第1連隊の死傷率は、史上最も高い約60%。そのあまりの犠牲者の多さと過酷さから、ほとんど語られてこなかったため、「忘れられた戦場」と呼ばれている。

ペリリュー島は、太平洋戦争の中でも特異な戦場だった。日本軍はアッツ島以降続けてきた組織的な“玉砕”を初めて禁じ、持久戦を命令。米軍が当初「3日以内で終わる」と予想した戦闘は2カ月半に及んだ。



そうなんです。

今年になって、初めて「フィルム(しかも、ほとんどがカラー映像)」の存在が明らかになった戦場の記録を放映したのです。

しかも、太平洋戦争のアメリカ軍の連隊の死傷率として、史上最も高い約60%という死者をアメリカ軍は出したという戦闘だったのです。日本兵は山に穴を掘り、持久戦に持ち込み、接近戦で戦い続けました。それはゲリラ戦のようでもあり、ベトナム戦争のようでもありました。

この映像と、そして戦況などと共に、見ている途中で私は体が震えてくるほどの強烈な「未体験のはずなのに、体験したかのような感覚」を味わい続けていました。顔の表情も動かなくなりました。

途中からほとんど顔も体も不動で番組を見ていました。
なぜだかわかりません。


それはともかく、番組によると、ペリリュー島に派遣されたアメリカ軍の「第1海兵師団第1連隊」は、当時のアメリカの「最強の部隊」と言われていた部隊で、3000人から構成されていました。

ペリリュー島で迎え撃つ日本兵も、関東軍から選ばれた精鋭で、人数は何千人だったのかはわからないですが、最終的に生き残ったのは 120人だけ( 60人だったかも)だったのだそう。

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▲ 戦闘末期にアメリカ軍が投入した火炎放射器搭載の装甲車。130メートル先までのすべての対象を焼き払います。


内容については、フィルムも証言も、その具体的な描写と語り口があまりにもすべてが衝撃的で、うまくまとめて説明することはできないですが、いつかまた再放送されると思いますので、そういう際にはぜひご覧になっていただきたいと思います。

どこからともなく現れて、部隊最後方を歩くアメリカ兵を刺殺して音もなく消え去る日本兵。戦闘の恐怖に耐えかねて発狂するアメリカ兵の姿や、日本兵同士での処刑の後の光景など、映像では、これまでちょっと見たことがないような光景が続きます。

処刑に関しては、どんな戦場でも「敵前逃亡」は前線では基本的に銃殺刑ですので、その点では普通のことなのでしょうが、その映像では、手足を縛られ、頭部も切断されたり、尋常ではない粛正の状態が示されていたので、日本兵の内部でも「狂気じみた何か」が起きていたのかもしれません。

そして番組には、現在も生きている当時の日本兵、そして、アメリカ兵、さらに、そのフィルムを撮影したアメリカ軍の従軍カメラマン(現在 91歳)なども出ていて、証言を行っています。

番組に出ていた元兵士たちは、最も年齢の若い人で、アメリカ人の 88歳。日本人の元兵士には 93歳の人もいましたが、この人たちの記憶の明確なこと・・・

93歳の元日本兵は、この戦いを比喩として、

「サソリとサソリをね、瓶の中に入れて、そして上から蓋をした状態。逃げられもしない。ひたすら殺し合うだけ」

というようなことを言っていました。

「サソリとサソリ」というのは、「双方とも当時のそれぞれの最強部隊だった」という意味だと思います。そして、「蓋」というのは、この戦いは、当時の戦略的な意味で、「日本兵もアメリカ兵もどちらも見捨てられたような形」となった戦場だったといえる部分があることから来ているようです。

88歳の元アメリカ兵は、仲間のアメリカ兵が木に縛り付けられて殺されている光景を見て、怒りに震えている直後、日本兵を発見した時のことを話します。

「最初に見つけた日本兵の頭を2発撃ち、その場にいた 17人を全部私が殺しました」

ということを「とても穏やかな顔つき」で話していました。

日本のテレビ番組とはいえ、もしかすると、孫などもいるであろう温厚そうなオジイサンの口から出る言葉としては、それだけでもショッキングなイメージがありましたが、でも、むしろその老人の表情が穏やかで私は何だか救われたという変な感覚に陥ってもいました。

ところで、これらの戦場の話は、今から 70年も前の話で、「そんな昔のことをちゃんと覚えているものなのだろうか」と思われる方もいらっしゃるかもしれないですが、第二次大戦で、フィリピンに兵士として派兵された作家の山本七平さんが 40年ほど前に書かれた『ある異常体験者の偏見』という著作の冒頭は以下のような文章で始まります。

山本七平『ある異常体験者の偏見』(1973年)冒頭より

ときどき「山本さんは戦争中のことをよく憶えていますね」といわれるが、こういうことは、形を変えてみれば、だれでも同じだということに気づかれるであろう。

たとえば航空機事故である。ニュースとしてこれを聞いた人はすぐ忘れるであろうが、本当に落ちて、全員死亡した中で奇跡的に助かったという人は、そのことを一生忘れ得ないのが普通である。

それは「思い出すだに身の毛がよだつ」という体験で、本人にとっては何とかして忘れたいことにすぎない。「戦争体験を忘れるな」という人がいるが、こう言える人は幸福な人、私などは逆で、何とかして忘れたい、ただただ忘れたいの一心であったし、今もそれは変わらない。



くしくも、それから 40年後の先の NHK ドキュメンタリーの中で、ペリリュー島の「地獄の光景」のフィルムを撮影した現在 91歳のアメリカ人の方も同じようなことを言っていました。番組のほうの最後のほうのシーンです。番組を見た記憶だけで、書きとめていたわけではないですので、台詞は適当ですが、

「あの記憶は忘れられるなら忘れたいですが、死ぬまであの光景が私の頭の中から消えることはないのだと思います」

というようなことをうつむいて語っていました。

山本七平さんは、1945年 1月 6日から終戦まで続いたルソン島の戦いで戦い、生き残った人です。この「ルソン島の戦い」は、日本兵 25万人のうち、21万7000人が死亡しています。兵士の9割弱が死亡した地獄の戦場でした。


そんなわけで、何だか余談というか、変に長い話となってしまいましたけれど、この時期になると、「霊」というものがこの世に存在しようがしまいが、毎年、私の中に刺激を与え続けるようで、

「死者」

というものへの思いが強くなるようです。

昨年の今頃も、

心地よい「死の園」からの帰還後に気付いたイルカの大量死と人間の大量死をつなぐ曖昧なライン
 2013年08月10日

というようなタイトルの記事を書いています。

ところで、この時期というと、戦争と共に、原爆のことが話題となりますが、広島はともかく、「長崎がどうして原爆投下の対象として選ばれたのか」というのは、人体実験な目的が最も大きかったということが今では公での通説になっていますが、ただ、上の昨年の記事に書きました下の部分にもやや着目してみる、ということの意味もあるのかなとも思います。

この 33度線が通る場所というのは、政治的混乱を象徴する場所が多く、33度線の代表的な国や場所として、

・トリポリ(リビア)
・ダマスカス(シリア)
・カシミール(インド)
・バグダッド(イラク)
・長崎(日本)
・ヨルダン川西域
・ベイルート
・エルサレム


などがあり、国家の中の複数の地域を通過する国としては、チベット、アフガニスタン、イランなどがあります。他にバミューダ海域や米国のソルトン湖も、この北緯33度上にあります。



ただ、原爆投下の問題は今でもセンシティブな問題で、私が気軽に書けるようなことではないと思っています。

それにしても、上の 33度線の地域のうちで、リビアとかシリアとイラクとか、あるいはガザの周辺などは、昨年よりも今年になってからのほうが、さらに状況が厳しくなっていることにも気づきます。

イスラム国( IS )の台頭、リビアの内戦、ガザへの侵攻。

いずれにしても、戦争はどうやら拡大を続けていて、2014年 8月 7日の時点で「戦争状態」にある国は、以下の赤い部分の 10カ国だそうです。

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What Countries Are Currently At War? A Complete List


そんなわけで、いろいろと「死」を思う時期の中で見つけたアルゼンチンの写真家が作成した「生を感じる」写真をご紹介します。




白くぼやけた「写真の記憶」にショックを受けて

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・写真家アレハンドロ・チャスキエルベルグさん(1977年生)。


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▲ アレハンドロ・チャスキエルベルグさんの写真の1枚。Slate より。以下、すべて同じです。


アルゼンチンの若き写真家、アレハンドロ・チャスキエルベルグ( Alejandro Chaskielberg )さん。

彼は、 2011年 3月 11日の地震後に被災地を訪れ、その後、何度か現地に足を運ぶうちに、現地の人々や市民団体、学生さんたちとの交流を深めていった時期に、チャスキエルベルグさんは、被災地で「あるもの」を見つけて、それにショックを受けたのでした。それが彼を今回の作品を創作する熱意に突き動かしたもののようです。

その彼が「ショックを受けたもの」は下のものです。

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何かよくわからないかもしれないですが、これは、水没して、部分的に「白くぼやけた家族の写真アルバム」なのです。どこの家族のものかはわかりません。

ほとんど写真としての原型は留めていませんが、下段の右から2枚目などを拡大してみますと、家族か親戚などでの集合写真のようなものであることがわかります。

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その「写真の記憶」が白くぼやけている光景と、そして、現実に目の前に広がる「廃墟」の光景との組み合わせに大変に衝撃を受けたチャスキエルベルグさんは、

「この廃墟で、もともと住んでいた人たちの写真を撮りたい」

と思うようになり、付き合いのあった地元の人たちの協力により、「元の自分のたちの家の廃墟」の中で写真の撮影が続けられたのでした。

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写真を見ると、おわかりかと思うのですが、写真の中に「白い部分」と「カラーの部分」が入り交じっていることに気づかれるかと思います。

そして、

「人々、そして活動している街には色がついている」

ということもおわかりかと思います。

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チャスキエルベルグさんは、「廃墟となった部分を白く加工する写真処理」をすることによって、破壊された記憶から色を消し去り、命のある部分に色を残すという作品を作り上げたのでした。

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大部分が廃墟となってしまった町の中から「生きているすべてを浮き上がらせる」という試みともいえます。


考えてみれば、この方々は、戦争ではなく、自然災害の被害者ですが、先のあげた戦争体験者の人々の、

「あの記憶は忘れられるなら忘れたいですが、死ぬまであの光景が私の頭の中から消えることはないのだと思います」

という言葉と同じ思いを持っているかもしれません。

なお、上の写真は縮小していて、今ひとつその迫力と美しさが伝わりませんので、非常に大きなサイズで掲載されている、Slate というサイトの、

Devastatingly Beautiful Photos of Japanese Tsunami Victims in the Ruins of Their Homes
(自分たちの住んでいた家の廃墟の中の日本人津波被災者の圧倒的に美しい写真 )

をご覧下さるとよろしいかと思います。

これが被災者ご本人たちの復興につながるものかどうかはわからないですが、しかし少なくとも見ている私たちの「何か」には結びつくように思います。いずれしても、この作品によって、私は大槌町という、ともすれば今まで知りもしなかった町の存在を一生忘れることはないはずです。