なぜシドニーの緑の物体を無意識に気にしたのか少し気づいたとき
先日の、
・シドニーの海岸に無数に漂着した緑の未確認「浮遊」物体と、カリフォルニアの真っ赤な太陽から思い出す「丸い存在」に囲まれている地球の人類の関係
2014年09月22日
という記事は、下のような丸い緑の物体……多分、丸くなった藻類と思われるものがオーストラリアのビーチに大量に漂着したことをご紹介したものでした。

出来事そのものは大したことではないと思いながらも、なぜか気になり、記事として書いたのですが、昨日その記事を読み直していましたら、記事の中に唐突に、
「反対色」
なんていう概念が書かれていまして、そこに「緑の反対色は赤」とあります。
なぜ、唐突に反対色なんてことを書き出したのかは、よく覚えていないですが、これを見て、
「緑の丸いもの……その反対は赤い丸いものか……」
と、その記事ではカリフォルニアの赤い太陽の写真なんかを載せていますけれど、現在の「赤い丸」の本元は太陽ではなく、下のこちらだと思い出したのです。

▲ 2014年04月06日の記事「赤い月と黒い太陽: 2014年から 2015年まで4回連続する皆既月食がすべてユダヤ教の重要宗教祭事の日とシンクロ……」より。
2014年 4月から1年6ヶ月間の期間で4回連続する皆既月食、つまり、「赤い月」が問題なのだ、と。

太陽の日食とは違い、月の皆既月食は「血のような赤」となります。それが、今年の 2014年 4月 15日から 2015年 9月 28日まで4回連続して発生するという、時代によっては数百年に1度規模の出来事の渦中に現在の私たちはいます。
近代史で過去何度かあったその時期に起きたことについては、上にリンクした記事をご参照下されば幸いです。
そして、過去のこの期間は、いろいろなことがありましたけれど、簡単にいうと「犠牲の時代」です。
ところで、この「犠牲」という漢字の「犠」というのは、
牛 + 羊 + 我 = 犠

と、「羊と牛と私」という意味の漢字であることに気づいたりもして、過去記事「戦争や耐性菌の蔓延にさえ思う犠牲というキーワード」なども思い出しますが、それはともかく、4回連続する皆既月食の「赤い丸」は一種不吉なイメージを感じないではないものでもあるわけですが、そのような時期に、
「赤と反対色の緑の丸が大量に出現した」
ということが印象的だったのかもしれません。
この緑の物体が基本的には藻類であるであろうこと以外は正体不明のあたりも悪くないです。
理屈がつきにくいほうが、こういう場合は頼りになります(なんだか意味不明ですが)。
人間の持つ「赤」の不思議と、植物の持つ「緑」の不思議
ところで、この、
「赤の意味」
「緑の意味」
は、過去にそれぞれ何度か記事にしています。
緑のほうは、2011年の震災後、時事的な記事を一切書かなくなって、毎日街の中をさまよい歩いていた頃の記事のひとつで、
・緑の意味
2011年05月02日
というものです。「赤」のほうは何度も書いているような記憶があるのですけれど、たとえば、
・赤の意味: 再び現れた赤い海と赤い雨
2012年07月31日
というものがあります。
そして、それぞれで、
・緑 → なぜ、植物は緑なのか
・赤 → 人間の血液が赤い理由である赤血球の正体
について書いています。
「赤い血」に関しては、血が赤く見える理由だけなら、それは赤血球と、光学的な理由によるため、という一文で説明が済んでしまうようなことです。

・血はなぜ赤い?より
しかし、そのこと自体より、その赤血球そのものへの思いが私にはあります。それは、
人間の赤血球は DNA を持たない
ということを上にリンクしました「赤の意味……」を書いた時に初めて知りまして、瞬間的に下の発想がグルグルと頭の中でまわりはじめたのでした。
・地球のほぼすべての生命は DNA を持っている
↓
・DNA を持たない生命や組織は、ほぼ存在しない
↓
・ところが、地球上には DNA を含まない生物の組織がある
↓
・それはヒトを含む哺乳類の赤血球
↓
・人間も動物も「赤」を作り出せるのは基本的に赤血球だけ
↓
・この世に「生命の赤」が存在しているのは基本的に赤血球があるため
↓
・ところが、その哺乳類の赤血球「だけ」がこの世で DNA を持っていない
↓
・つまり、どうやら……「哺乳類の赤血球は生命とは言えない」
↓
・人間と哺乳類はその生命とは言えない血液の循環によって生きている
↓
・ということは、もしかすると……(以下略)
この「ということは、もしかすると……」については、なんら具体的なイメージがあるわけではないのですけれど(苦笑)。
これについて、スティーブン・スピルバーグ監督の映画『ジュラシック・パーク』の話題を絡めて書かれている東邦大学医療センター佐倉病院のサイトにある「赤血球ヘモグロビンの進化;ヒトはなぜ核を捨てたのか」というページの下の記述がわかりやすいと思います。
「ジュラシックパーク」・・・ご存じの方も多いと思いますが、恐竜の血を吸った蚊の化石から生命の起源である DNA を取り出し恐竜を現代に復活させるという内容の映画です。作者は何故このような物語を考えたのでしょうか。実は恐竜の赤血球には核(DNA)があったからなのです。下の写真を見て下さい。
左はヒトの赤血球、右は恐竜ではなく鶏の赤血球ですが、鶏の赤血球中には細胞核が存在していることがわかります。恐竜だけでなく現在の鳥類・魚類・爬虫類・両生類の赤血球にはすべて核があります。これら脊椎動物の中で赤血球に核がないのは、哺乳類だけなのです。
ここに、
> 脊椎動物の中で赤血球に核がないのは、哺乳類だけ
とあるように、鳥、魚、爬虫類、両生類にはあるのです。
哺乳類が、それらのすべての生物と違うのが、この「赤血球に DNA を持たない」ということなんです。
そういう意味では、
・人間と他の生き物
という違いを上回るほど、
・哺乳類と他の生き物の違い
というのは大きいものなのかもしれません。
何しろ、哺乳類は DNA を持たない、いわば「生命というより物質」といえる血液によって、自らの生命を維持しているわけで、そこは哺乳類共通の神秘的な部分ではあるように思います。
ちなみに、赤血球が赤い理由は、ヘモグロビンというものが含まれていることによるものですが、ヘモグロビンは、
・ヘム鉄錯体
・グロビン
からできています。「錯体」というのは「分子」というような感じの意味でとらえて構わないとすれば、ヘムというのは、要するに鉄です。
そして、グロビンというのは「物質が外部の磁場と反対の向きに磁化される性質」を持つもので、簡単な書き方にしますと、「血液とは鉄と磁気で構成されている」ことと DNA を持たないことを合わせて考えれば、
「人間の血液」とは、生命ではない磁場
だといえる気もしまして、そのようなものに私たちの肉体的な生命維持が託されている。
植物が多分永久に「緑」である理由
その人間と哺乳類の神秘性の象徴である血の「赤色」の反対色である「緑色」。
緑色を代表する生物は言うまでもなく、植物です。

植物だって(私は進化論を信じないですが)、選択的な進化でなくとも、突然変異であれ何であれ、太古から「緑以外」に変化していった種があっても不思議ではないのに、「ほぼすべて」の植物がその葉の部分を緑色を基本としています。
葉が緑以外の植物はあることはあっても、非常に限定的で、葉のある植物はほぼ全部が緑を基本としています。
かつて、なぜそうなったのかということを「ふと」考えたことがあったのですが、調べているうちに、植物が緑色であることは「異常なほど」不思議であることに気づくのでした。
それはどういう意味かというと、光合成や、植物は太陽の光で成長することと関係しています。
同じ太陽の光を吸収して生きる生物なら、最も効率よく光を吸収できる色であったほうがいいはずですが、「緑色は最も光の吸収効率が悪い」ようなのです。
これは、
植物が太陽の光を最も効率よく吸収するためには「緑色ではない」ほうがよかった
ことを意味します。
緑以外なら何でもいいといってもいいかもしれません。
このことは、上でリンクしました過去記事「緑の意味」でも引用しました、公益社団法人 日本技術士会北陸支部のサイトに「彼らはなぜ「緑色」を選んだのだろうか」という、植物を 35年間研究してこられた方が書かれているコラム記事があります。
そこには下のようなことが書かれてあります。
人間が認識できる基本的な色だけでも6色(紫・青・緑・黄,橙・赤)もある。原始の植物が地球上に初めて登場した時には、赤でも黄色でも紫でも、何色でも選べたはずなのに、なぜに「世界中の植物たちは、申し合わせたように緑色を選んだ」のか・・・。これが何とも摩詞不思議?
あとは、引用すると長くなりますので、概要だけ書きますと、
植物の葉が緑である理由は、「葉が緑色の光を反射あるいは透過し、他の色の光を吸収している」という理由による」ものにも関わらず、
・地球に届く太陽光の強さと波長との関係を見ると、緑色の光に強さのピークがある
ということで、つまり、植物は、自分自身が緑色であることによって、最も強い光を「捨てている」のです。
そして、このコラムを書かれている方は以下のように書きます。
「光のエネルギーを利用して光合成を行う植物が、最も強い光を吸収しないで捨てる。そういうメカニズムになっている植物たちって、一体なんでやねん!?」
このように書かれているのですが、私も何年もこのことが不思議でした。
そして、このコラム筆者の方は最後にこのように書いています。
植物たちと付き合いはじめてから35年もの時間が流れてしまいました。
その間、ほとんど毎日目にしている彼らが「緑色」であることに対し、ほとんど意識をしなかった。ところがある日、ふと気になり出すとおおいに気になり、その疑問を捨てられなくなってしまう。
35年も見続けて来ながら、そんな基本的なことすら解っていなかったのだなあ〜と、かなり凹んでいます。
彼らが緑である理由はいまだに解りませんが、自分の無知さ加減は身にしみて解りました。
願わくば、「なあ〜るほど!!!」と納得してから神に召されたいと思います。
私も、まあ、神に召されるのでも、悪魔に連れて行かれるのでもどちらでもいいですが、この、「植物たちが自分自身にとって非効率的な色の生物として地球上にあり続けた」ことについては知りたいと思っています。
それにしても、このブログを書いていると、生物のことにしても、宇宙や地球のことにしても、
「〇〇は科学的にはわかっていません」
「〇〇についての理由はよくわかっていません」
「〇〇がどうして起きるのかは不明です」
という表現がこれまで何度出てきたことかと思います。
現在の科学は実際のところは「この世」のことについて、わかっていない部分のほうがはるかに多いことを感じます。
さて、しかし、そのことはともかく、上に書きました、
「植物が緑色であることは本来なら非常に不自然で不思議なこと」
であると共に、
「人間の赤い血液は DNA を持たない上に、その存在自体が(地球や宇宙の磁気に反応する)磁場そのものである」
というふたつの不思議なことがある一方で、
・緑と赤は、反対色(補色)である
という色覚上の概念を思い出します。
反対色は「補色」とも言い、つまり、色覚的な意味で、その色をサポートする色でもあります。
ここで唐突に、結局、何の科学的な意味のある概念でもない概念ですが、この色の関係性は、
「植物の、人間(あるいは哺乳類)に対してのサポートの歴史そのものを象徴している」
というようなイメージが浮かび上がります。
言うまでもないですが、人間は……少なくとも、現代の地球に住む普通の人間は、植物がこの世になければ生きていくことはできません。
食糧としてはもちろんですが、それよりはるかに多くの意味で、人間は植物にサポートされて、この世に生き続けてきました。
現世人類が地球に登場したのは、遺伝子解析では、今から十数万年前のアフリカとされていますが、それ以来、一環して、人類は植物に支えられて今日まで生き抜いてきたのですけれど、このように回りくどい書き方をしなければ思い出せないほど、私たちは、「植物への感謝」を忘れて生きてしまっているのかもしれません。
私自身もそうです。
植物を目指す人間という概念
シュタイナーは、たとえば、著作『いかにして高次の世界を認識するか』などでも、薔薇十字的な視点で「植物に対しての真剣な観察」の重要性を何度も書いています。
かつて、ブログにコメント欄があった頃に、「薔薇十字の修行」をされている方が、コメントを書いてくださっていたことがありしまた。「薔薇十字の修行」などと書くと、おどろおどろしい感じがするかもしれないですが、シュタイナーの本を読んで、私は最近知ったのですけれど、シュタイナーがいう「薔薇十字の修行」というのは、
「毎日の普通の生活を通じて正しい生き方を学び、そして、すべての他の人びとと、すべての生物への愛を意識して、この世の正しいことと正しくないことを認識する」
ということだけの話で、何かお祈りを唱えたり、絶対的指導者に服従したり、神秘的な作法にあやどられるようなものではないということのようです。
以前、その薔薇十字の修行をされている方のコメントを何度か引用させていただいたことがあります。
・驚異の植物の防衛力アップ法が米国の生物学者の研究により判明:その方法は「さわること」
2012年04月23日
などにも引用していますが、彼は以下のように書いていました。
なお、これは記事に対してのコメントというより、私に対してのメッセージ的なものです。
ところどころからの抜粋ですが、「中略」などの文字は読みにくくなるために入れていません。
シュタイナーが言う体内における光合成の件、これは明らかにオカルトに聞こえますが、薔薇十字の伝統に生きる者は本気でこれを実践します。狂気の沙汰と言われようと、呼吸による身体内の炭素の把握はぼくらの最重要の関心事です。
古神道の大国隆正という人の『本学挙要』という本の中に人と稲が逆さに並べて描かれている図があります。これはフトマニの区象といって、人間は逆さまになった植物であり、互いに共生しているという旨を説明するものです。西洋でも東洋でも霊学ではこれは一般的な認識です。
薔薇十字でもおなじです。
植物というのは、体内に緑色の血が流れ、太陽に向かって真っすぐに成長する地上の存在としてはピュアなあり方のお手本みたいなものです。
ゲーテには「原植物」という理想的な植物の概念があります。つまりあれが人間として目指すべき理想であり、最高の元型です。
薔薇十字の理想は、赤い血の情熱を保ちつつ植物のように上へと向かうことです。そして太陽に向かうことです。これが重要な点です。
太陽へと向かう植物のようにしかも自由への衝動を内に担いながら上へと成長しようとする、地上では類をみない神聖な存在として人間存在が語られ、そしてその正しい道が古今東西どの流派に限るとなく実践されて来ました、、、、、と、このようなことを信じる、信じないは別として、いずれにせよこれが宇宙と人間の歴史に対する薔薇十字の伝統の解釈です。
ちなみに、上にゲーテの「原植物」という言葉が出てきます。
文豪ゲーテは、「植物の原型」のようなものを追い求めていたようです。
これについては、東京大学の長田敏行教授の「ゲーテと植物」というページの中に、以下の記述があります。
原植物と形態
植物変形論について述べるとき、いわゆるゲーテの原植物について触れざるをえない。原植物などどこにもありえようがないが、ゲーテは植物の原形のようなものを初期から追求していたが、イタリア滞在中に一層その思いは強くなっていった。
しかし、それは仮想のものでしかありえない。それが結実するのは1794年にシラーと出会い、現実を重視するゲーテと理想主義追及の旗手シラーとの間のやり取りが原植物として結晶した。それが、一筆書きのように描かれる植物の模式図であり、いわば原植物の体現である。
ちょっと、わからない面の方が多いのですが、上のようなものらしいです。
思いつくままに書いていくうちに、何だか次第に難解さが増してきて、そろそろギブアップの感じですが、今回はじめて、 Wikipedia のゲーテの項目のページを少しだけ読んだのですが、このゲーテという人は、1810年に『色彩論』という大著を記しているそうで、そこには、「ゲーテの色彩環」という図が載せられているのですが、それが下のものです。

これは、先日の記事に「反対色」を説明する際に載せた、現在の色覚の概念での色彩環と同じものであることに驚きます。

・補色 - Wikipedia
ゲーテの色彩環(輪)でも、赤の反対色(補色)は緑となっています。
そして、 Wikipedia によりますと、
ゲーテは人間に体験される色彩を探求したため、色彩が人間の精神に与える影響のことも扱っている。その影響も色彩環から説明されるところがある。
赤は色彩環の頂点をなす最も力強い色であったが、その対極、色彩環の一番下に位置する緑はどうかというと、地に根を下ろした安定した色だという。
とありまして、この下りの
> 赤は色彩環の頂点をなす最も力強い色
から、人間や哺乳類が持つ「血の色」の意味を改めて思い浮かばせてくれるものであり、また、
> 緑はどうかというと、地に根を下ろした安定した色
の下りの「地に根を下ろして安定している」というイメージは植物そのものです。
また、先ほど書きました「植物は現世人類が地球に登場して以来、一貫して人類をサポートし続けた」ことをも意味するような気がします。
それにしても、「赤が最も力強い色」というのは、国旗に赤を使っている国が非常に多いことでも、そのことを感じますが、その中でも、「白地に赤丸だけ」というデザインの日本の国旗は明らかに他の国旗のデザインとは意味的に一線を画しているわけで、その意味の強さは理解はできます。
しかし、冒頭のほうに書きましたように「黒地に赤い丸」(皆既月食)は、ともすれば不吉なイメージを伴うわけで、何となく、「白地に赤丸」と「黒地に赤丸」を並べてイメージして、今後の世界を考えてみたりしています。
何といいましても、オカルト込みでもオカルト抜きでも、あるいは日々のニュースの気象、地質、疫病、あるいは社会、紛争、経済などを見ていても、この「4回連続して皆既月食が起きる」来年 2015年 9月末までに、とてもとても大きな変化が起きることは間違いないのでは、と感じるのは私だけではないと思います。
それがいいほうに向くのか、悪いほうに向くのかについては言及できないです。
本来は時事的な記事を書き出したつもりだったのですが、全然時事じゃない上に、何やら自分でも意味をつかみにくい妙に難解な展開となってしまい、申し訳ありませんでした。