2014年10月14日



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虐殺の祝日コロンブス・デー:彼らは「理想的な人類像」を破壊し、そしてそれは「4回続く皆既月食」の渦中で起きた



columbus-top.gif

▲ 2014年10月12日の Space.com より。






 



アメリカの10月第2月曜日の祝日

昨日のアメリカは「コロンブス・デイ」という祝日だったんですけれど、今回はそのことと少し絡んだ話です。

このコロンブスという人物がアメリカでおこなったことは、よく考えれば、「歴史的に巨大な出来事」だったにも関わらず、その詳細があまり学校教育などでも教えられていないために、「コロンブスがアメリカ大陸を発見した」という、ある意味では間違ったイメージが定着しているような気もします。

たとえば、コロンブスがアメリカ大陸においておこなった「インディアンへの大虐殺」は、彼の2度目の航海の時で、 1493年のことでした。

その様子は、クリストファー・コロンブス - Wikipedia によりますと、下のようなものでした。

コロンブスの率いるスペイン軍はインディアンに対して徹底的な虐殺弾圧を行った。行く先々の島々で、コロンブスの軍隊は、海岸部で無差別殺戮を繰り返した。まるでスポーツのように、動物も鳥もインディアンも、彼らは見つけたすべてを略奪し破壊した。

という壮絶なもので、そして、

コロンブスの襲撃戦略は、以後10年間、スペイン人が繰り返した殺戮モデルとなった。

というものとなりましたが、このことについては後で少し書きます。

いずれにしても、昨日のアメリカの祝日は、こういう人の名前を冠した祝日でした。

ところで、この「コロンブスの虐殺」が起きた 1493 年という年代なんですが、これは過去記事、

西暦が始まって以来の「4回連続する皆既月食」(テトラッド)の発生はたった8回。そして、その時に起きていたこと
 2014年10月03日

で書きました、西暦が始まっての約 2000年の間に、たった8回しか起きていない「4回連続する皆既月食」の中に含まれているのですね。

1. 西暦 162 - 163 年
2. 西暦 795 - 796 年
3. 西暦 842 - 843 年
4. 西暦 860 - 861 年
5. 西暦 1493 - 1494 年
6. 西暦 1949 - 1950 年
7. 西暦 1967 - 1968 年
8. 西暦 2014 - 2015 年


やはり「4回連続する皆既月食」と大量死は関係しやすいのでしょうかね。

とはいえ、これは今回の本題ではありません。

本題は、

「コロンブスは赤い月(皆既月食)を利用して生き残ったことがある」

というエピソードを宇宙関係のサイト Space で見かけましたので、ご紹介しようと思った次第です。



戦いをせず、所有の欲望がない「過去にいた未来の人びと」にコロンブスたちがおこなったこと

ちなみに、この「コロンブス・デー」という祝日は、概要としては「 1492 年に北アメリカ大陸にクリストファー・コロンブスが到着したことを祝う」となっていますが、その一方では、この日( 1 0月の第 2 週)に毎年、アメリカの各地では下のような「祝日」がいとなまれるようになっています。

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▲ 2014年10月13日の CNN より。


記事の内容はシアトルとミネアポリスの市議会が、毎年「コロンブス・デイ」として祝われている祝日を「アメリカ先住民の日(Indigenous Peoples' Day)」に変更するという議案を可決したというものです。

コロンブス・デイは国家の祝日ですが、アラスカ州、ハワイ州、オレゴン州、カリフォルニア州バークリーなどでは祝日とはされていません。

まあ、そして、冒頭のほうにも書きましたけれど、このコロンブスを含めた、当時の征服者たちがアメリカなどでおこなったことをほんの少し読むだけで、この日を祝日をすること自体がおかしなことに気づきます。

今回の本題ではないですが、この「コロンブス」および、当時「新世界」を発見していった白人たちがどのようなことをしていたのかを簡単に書いておきたいと思います。

私もすぐ忘れるのですが、こんなに巨大な大量死のことを世界全体が忘れがちになっているというのも何だかあれですので。

コロンブスという人については、一言でかくと、 Wikipedia - クリストファー・コロンブスの冒頭の

クリストファー・コロンブスは探検家・航海者・コンキスタドール、奴隷商人。大航海時代において、キリスト教世界の白人としては最初にアメリカ海域へ到達したひとりである。

となり、私たちの子ども時代などは、上の肩書きの中の「探検者」という側面だけをクローズアップして教えられたような気がします(あんまり覚えてないですが)。この「キリスト教世界の白人としては最初にアメリカ海域へ到達したひとりである」コロンブスに発見されてしまったアメリカ大陸は、どのようになったか。

これも Wikipedia からの抜粋です。

1492年の「新大陸」へのコロンブスの上陸時に約800万人いたインディアンの人口は、1496年の末までに、その3分の1までに減った。

さらに1496年以降、死亡率は倍加していった。

量的にもスケール的にも、コロンブスは、虐殺目的で戦争を楽しんだ最も悪名高いコンキスタドール、征服者の一人と言えるだろう。

この数字が正しいのならば、コロンブス一行は、アメリカ大陸発見後、たった約4年間で、500万人から 600万人の先住民を殺した計算となりますが、この2回目の航海では、植民地化を目的としていたもので、スペイン人側の乗組員の数も多く約 1500人と言われています。

しかし、 1500人 vs 800万人なら、先住民が本気で戦えば、何とかなりそうな数字ですが、後のほうに書きますけれど、当時のアメリカの先住民たちは「そういうこと(戦争や争い)と無縁な生活をしていたらしい」人びとだったようです。

なので、一方的にやられるだけやられてしまったようです。なお、先住民たちの死因として、「西欧から持ち込まれた疫病」も大きかったとされています。

ここに「コンキスタドール」という耳慣れない言葉が出てきますが、15世紀から17世紀にかけてのスペイン人などのアメリカ大陸の征服者、あるいは侵略者といってもいいと思いますが、その人たちを指します。

コンキスタドールはたくさんいますが、現在名前が残っている中では、その代表格ともいえるコロンブスは、冒頭にも抜粋しましたように、「行く先々の島々で、まるでスポーツのように、動物も鳥もインディアンも、彼らは見つけたすべてを略奪し破壊した」ようなのですが、 Wikipedia では、その後に次のような一種救いようのない文章に続きます。

> スペイン軍は面白半分に彼らを殺す楽しみを決してやめなかった。

この「面白半分」という部分には、この文章を書いた人の主観が入っているように思えるかもしれないですが、コロンブスの航海に同行し、その虐殺を目のあたりにしたキリスト教宣教師のバルトロメ・デ・ラス・カサスという人の日記を読むと、「面白半分に近い」状態であったかもしれないことを伺わせます。

宣教師の日記には以下のように記されています。

「彼らはインディアンたちの手を切り落として、それが皮一枚でぶらぶらしているままにするでしょう、そして、『ほら行け、そして酋長に報告して来い』と言って送り返すのです。 彼らは刀の切れ味と男ぶりを試すため、捕虜のインディアンの首を斬り落とし、または胴体を真っ二つに切断し、賭けの場としました。彼らは、捕えた酋長を火炙りにしたり、絞首刑にしました」

「イスラム国」も真っ青な非道ぶりですが、とにかく、コロンブスとその部下たちは「黄金」と「奴隷の調達」にしか興味がなかったようです。

そして、私がしみじみと悲しみを感じた部分は、コロンブス自身の記述にあります。

コロンブスが最初にアメリカ大陸に上陸した時、どうやら、その地の先住民たちは「戦争や殺し合いを知らなかった」ふしが伺えることです。

以下はコロンブスの日誌の記述です。
太字の部分は、もともとの Wikipedia でも太字となっていて、私が太字にしたものではありません。

「彼らは武器を持たないばかりかそれを知らない。私が彼らに刀を見せたところ、無知な彼らは刃を触って怪我をした。 彼らは鉄を全く持っていない。彼らの槍は草の茎で作られている。彼らはいい身体つきをしており、見栄えもよく均整がとれている。彼らは素晴らしい奴隷になるだろう。50人の男達と共に、私は彼らすべてを征服し、思うままに何でもさせることができた」

さらに、どうやら、この先住民たちには「個人所有」という意識がなかったようです。

下もコロンブスの日誌からです。

「原住民たちは所有に関する概念が希薄であり、彼らの持っているものを『欲しい』といえば彼らは決して『いいえ』と言わない。逆に彼らは『みんなのものだよ』と申し出るのだ」


・争いがなく(武器を知らない)
・所有意識がない



これこそまさに「理想的な未来の人類の姿」だと感じます。

というか、未来の人びとはこのような人類であってほしいと。

この、「所有意識がない」というのは、かつての先住民の多くにあった概念だと思われ、日本のアイヌもそうだった可能性があります。縄文人と古代アイヌというページには、

もともと、アイヌの生活領域は狩猟生活を中心に移動していたから、「和人」のような土地所有意識を持たなかった。彼らの間に基本的に、土地や獲物の争いごとはなかった。

とあり、そして、そういう民族は下のような思想へと発展しやすいものなのかもしれません。

アイヌは、人間と人間がお互いを助け合うこと。自然を愛すること。生き物をむやみに殺してならないこと、などを伝統的に学び取りかつ実践した。

今では既知の世界にはこういう人々は、ほとんど消えてしまったかのように見えます。

もちろん、現在の社会でも学校でも「道徳観念」として、自然、あるいは他人を愛することや生き物をむやみに殺してならないという概念を「強制的」に大人にも子どもにも浸透させていますが、現実の世の中はそういう道徳だけで貫かれているわけではないこともまた誰でも知っています。

住居でも食料でも「所有」しなければ生きていくことは難しく、あるいは、自然や他人を愛することだけでは「所有して生きていく」ことはできない社会が現在の非常に多くの国と民族の姿だと思います。

こう考えると、「所有」という概念は諸悪の根源である可能性もありそうですけれど、「所有の願望」は現在の経済活動を支える根幹でもあるわけで、経済的に進んだ国では、「所有欲」をさらに鼓舞する方向で今の時代は進んでいます。



でもねえ……。



実際には最近は、多くの人びとが、この「所有することが価値である社会」に疲れてきている気はするんですよね。

たとえば、新しいスマートフォンが出てワーッとそれに飛びついたりする報道を見ますけれど、すでにそれを手にすることによる幸福感は存在していないような気がします。

「所有の時代の意志」を惰性で持続させているみたいな。

なんか……たまに疲れますよね。


今のこの世の中で「きれいで素敵なものばかりが見えるし、そういう体験しかしない」という人たちは羨ましいとは思いますけれど、そこにはどこかコロンブスと似た一方的な視点を感じます。

もちろん……本当に見えないなら、それを悪く言うのはおかしな話でしょうけれど。


それにしても、この日本もちょっと間違っていれば、先住民が数百万人殺されたアメリカ大陸のようになっていたかもしれないのですけれどね。何しろ、Wikipedia には、

> 『東方見聞録』にある黄金の国・ジパングに惹かれていたコロンブスは

という記述があります。

この人は狙ってたんですね、この国を。

ちなみに、その東方見聞録には、マルコ・ポーロが中国で聞いた噂話の中の日本が書かれていて、それがどのように描写されているかというと、

ジパングは、中国北部の東の海上1500マイルに浮かぶ独立した島国で、莫大な金を産出し、宮殿や民家は黄金でできているなど財宝に溢れている。また、ジパングの人々は偶像崇拝者であり、外見がよく、礼儀正しいが、人食いの習慣がある。

と書かれてあります。

当たっているのは……人食いの習慣くらいですかね(やめろって)。

いずれにしても、コロンブスが「惹かれていた」のは上の中の「黄金」だけだと思われますので、彼に発見されていたら、日本もえらいことになっていたかもしれません。


そんなコロンブスですが、1493年の「コロンブスの部隊によるインディアンの大虐殺」が、4回続く皆既月食の中で起きたことを最初に書きましたけれど、

赤い月と黒い太陽: 2014年から 2015年まで「4回連続する皆既月食」がすべてユダヤ教の重要宗教祭事の日とシンクロ
 2014年04月06日

という過去記事から書いている「皆既月食」と、犠牲や大量死との関係についての話とは違うものですけれど、コロンブスは、助かるために「赤い月」を利用していたことが記事になっていました。

その記事をご紹介したいと思います。

現地の先住民を「血のような赤い月はキリスト教の神の怒りだ」として騙す話です。


ところで、コロンブスという人物は 15世紀の人で、それほど遠い昔の人ではないにも関わらず、「出自」に関してはよくわかっていないのだそうです。 Wikipedia には以下のようにあります。

出自に関する諸説

コロンブスに関してはその出自が明らかではない事、また大航海の目的自体があまり明確に語り継がれていない事等から様々な異聞が流れている。また、残されている肖像画は全て本人の死後に描かれたものであり、今となってはコロンブスの真の素顔を知る術はない。

この時期のいわゆる有名人としては珍しいことのように思います。
そして、その中には、

多く語られているものとしては、コロンブスはユダヤ人の片親から生まれたのではないか、とする説である。(中略)コロンブス出航の真の目的はユダヤ人の移住地探しではないか、とする奇説も存在する。

ということものもあるのだそう。

赤い月とユダヤの歴史のこれまでの関係を見ると、あるいは、この一見珍説に見えるこの説もあり得るものなのかもしれません。

ここから記事です。




How a Total Lunar Eclipse Saved Christopher Columbus
Space 2014.10.12

クリストファー・コロンブスはどのように皆既月食によって生きのびたのか


blood-moon.jpg


10月 13日はアメリカに住む人たちにはコロンブス・デーの祝日だが、この有名な探検の旅に「月」が関わっていたことをご存じだろうか。

1492年 10月 12日、コロンブスは、後に彼がサン・サルバドル(「聖なる救い主」の意)と名付けるキューバの北東部の島に上陸した。

この 10年間の航海の中で、コロンブスは3つ以上の「新世界」( New World )を発見したが、コロンブスの4度目の探検では、中央アメリカの海岸を探索する中で、コロンブス自身が苦境に陥ることになる。

コロンブスは、 1502年 5月 11日にスペインのカディスを、カピターナ号、ガレッガ号、ヴィズカイナ号、サンティアゴ・デ・パロス号( Capitana, Gallega, Vizcaína , Santiago de Palos )の4隻の船と共に出発した

ところが、船の板張りの木材を食べる虫が発生したことによって、 1503年 6月 25日に、今はジャマイカとして知られる島の北部の海岸に、2隻の船を放棄する他なくなったのだ。

最初のうちは土地の先住民だったアラワク・インディアンたちは、漂流者を歓迎して、食糧や避難所を提供した。しかし、日が経つに従って、両者には緊張が増してきた。

そして、漂着から半年以上経った後、コロンブスの乗組員の半数が反乱を起こし、先住民に対しての強奪と殺戮が始まった。

それまで、先住民たちは、コロンブスたちの部下たちに笛や装身具などと引き換えに、キャッサバやトウモロコシや魚を与えていた。しかし、自らや部下に飢餓が迫る中、コロンブスは独特な方法による脅迫という絶望的な計画を打ち立てた。


救助への暦

ジャマイカに取り残されたコロンブスたちを救ったのは「暦」だった。

その暦は、ドイツで高く評価されていた数学者であり、レギオモンタヌスの名前で知られている天文学者であり、占星術師でもあったヨハネス・ミュラー・フォン・ケーニヒスベルク(1436-1476年)によって作成されたものだ。

レギオモンタヌスは自分の死の前に、西暦 1475年から 1506年までをカバーする天文表を含む暦を発表した。

彼の天文表は、太陽、月や惑星についての詳細な情報だけでなく、より重要な星や星座による航海のナビゲーションに大きな価値があることがわかった。

この暦が発表されて以来、航海に出る者で、この暦の写しを持たない者は誰1人としていなかった。この暦の示す星の位置のナビにより、未知の大洋上でも、新たな方角へに向かって探検することができたのだ。

ジャマイカに取り残されたコロンブスも当然その暦を持っていた。

コロンブスは、その暦の表組みの中に 1504年 2月 29日の夕方に皆既月食が起こる項目を発見した。

この知識を武器に、コロンブスは、月食の3日前に、先住民アラワク族の首長との会談を要請した。そして、自分の部下たちに十分な食糧が供給されていないことに対して(コロンブスたちの)キリスト教の神が大変に怒っておられる、と首長に述べた。

そして、コロンブスは首長に対して、「神の怒りは3日後に現れる。(このまま食糧の供給が滞れば、神の怒りにより)夜空から満月が消え、不吉な徴候を示すだろう」と脅した。

そして、3日後の夕暮れの後、普通なら満月の時期のこの日の月は赤いボールのようだった。完全な闇の中に現れたその月は「血を流している」かのような真っ赤に染まっていたのだ。

先住民たちはこの光景を見て恐怖し、コロンブスと部下たちに協力することを約束するので、月を元の色に戻してほしいと願い出た。

コロンブスは、「それには私ひとりで神にお願いを申し出なければならない」と言い、ひとり、小屋の中に 50分間こもった。コロンブスは暦から「皆既月食が終わる時間」を砂時計で計算していたのだ。

そして、コロンブスは、満を期して小屋から出てきた。

「神はすべてを赦したもうた」

と語った。

すると、次第に、月は赤い色から通常の満月へと戻っていった。

その後、先住民たちは、コロンブスと部下たちに多く食糧を供給した。

1504年 11月 7日にコロンブスと一行は無事にスペインへ戻った。