2014年10月30日



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「神の敵の登場」:神による天地創造を否定し、ビッグバンと進化論を演説で肯定したフランシスコ法王



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▲ 2014年10月29日の米国 CTV News より。



「神は万能でも創造主でもない」と演説で語ったフランシスコ法王

タイムリーというか、昨日、

人類は宇宙へは行けないし、異星人たちも地球には来られないことを悟る中、人々から「神の存在が消えていっている」ことも知る
 2014年10月29日

という記事を書かせていたただきまして、そこに、

> 「この世から神という概念を消したいと考えている存在」

という文を書いたのですが、上の記事を書いた後、海外で一斉に冒頭のフランシスコ法王の演説についてのニュースが流れました。

10月 27日、フランシスコ法王は公式な演説で、その内容を簡単に書けば、

「神による天地創造はなかった」と述べた

のでした。

下の写真は、YouTube にアップされた ODN ニュースの映像からです。

pope-speech.jpg
ODN

ニュースで映っている部分では、法王は以下のように述べています。

世界は、何か他に起源を持つようなカオス(混沌)の中から始まったのではありません。しかし、愛から作られた至高の原則を直接的に派生させます。

現在では世界の始まりとされているビッグバン理論は、神の創造的な介入と矛盾するものではありません。逆に創造論はビッグバンを必要としているのです。

自然の進化論は、神による創造の概念の逆にあるものではありません。なぜなら、進化論には「生物の創造」が必要とされるからです。

この 11月 27日の演説原稿の全文がバチカンのウェブサイトにイタリア語で掲載されているのですが、そこには以下のような下りがあり、それが冒頭の記事の「神は魔法の杖を…」というタイトルにつながっているようです。

f-pope.jpg私たちが聖書の創世記の記述を読む時には、神が魔術師であったかのような錯覚や妄想に陥る危険があります。それはまるで、神が魔法の杖ですべてのものを造り出したかのような妄想です。

しかし、それは正しくありません。

創造は、何千年、何千年といったように何世紀にもわたって続いて、現在に至っているのです。

なぜなら、神は創造者でもないし魔法使いでもありませんが、すべての存在に生命を与えた創造主だからです。

とあります。

最後の「なぜなら神は創造者でもないし…」からの下りの文章は、訳が何だか日本語が妙な感じとなっているのですが、これ以上どうもわからないです。

原文のイタリア語で、

proprio perché Dio non è un demiurgo o un mago, ma il Creatore che dà l’essere a tutti gli enti.

となっていて、英語にすると、

because God is not a creator or a wizard, but the Creator who gives being to all entities.

となります。

「a creator ではないけど the Creator ではある」の部分がうまく日本語にできませんでした。

いずれにしても、全般としては「神がすべてをお造りになったのではない」というニュアンスのものであり、これは西欧社会では驚くべき法王の発言としてとらえられた部分もあったようで、しかし、一方では VOR の報道にある、

この法王の声明は、天地創造の偽科学的コンセプトに終止符を打ち、この世と人類は唯一の創造主によって作られたという理論を終わらせるもの

だとしているメディアも多いようです。

どちらにしても、

「この世と人類は唯一の創造主によって作られたという理論を終わらせるもの」

というのは、事実上、聖書の記述と「神による天地創造」を否定するということになり、そういう意味では、ついに現れた「創造主としての神」の最大の敵は、何ということか、その象徴であるバチカンのボスだったということになったようです。

ここにきて、過去記事でもたまにご紹介していました「バチカンの受難の流れ」というものが顕著になってきている気がします。



「最後の法王」ベネディクト16世辞任後のバチカンの受難

昨年書きました、

最後の法王と呼ばれ続けたベネディクト16世(1): 聖マラキの予言とコナン・ドイルの未来感の時間軸
 2013年02月13日

では、1148年に死去したアイルランドのマラキという聖職者が記したと言われる「聖マラキの預言」、正式には「全ての教皇に関する大司教聖マラキの預言」という書のことを取りあげました。

この預言書は、1143年に即位した 165代ローマ教皇ケレスティヌス2世以降の 112人の歴代教皇についての預言書となっているのですが、この預言書では、最後の法王は前代のベネディクト16世となっているのでした。とはいえ、 Wikipedia によりますと、この聖マラキの預言書は、

実際には1590年に作成された偽書と見なすのがほぼ定説となっている。

とありまして、「ニセの書」とされているわけですが、その「ニセの書」の内容の「最後の教皇」に関するくだりは以下の通りです。

「全ての教皇に関する大司教聖マラキの預言」より 111番目の教皇

111.オリーブの栄光 - ベネディクト16世(2005 - 2013年)

ローマ聖教会への極限の迫害の中で着座するだろう。
ローマ人ペトロ 、彼は様々な苦難の中で羊たちを司牧するだろう。そして、7つの丘の町は崩壊し、恐るべき審判が人々に下る。終わり。


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・聖マラキの預言の一部


そんな最後の法王とされたベネディクト16世は 2013年 2月 11日に自らの意志で退位を発表します。この「自らの意志」での退位というのは大変に珍しく、1294年のケレスティヌス5世という法王以来だそうで、実に 719年ぶりの「自由意志による辞任」でした。

ベネディクト16世はラテン語で辞任の宣言を行いましたが、その出だしは次のようなものでした。

多くの急激な変化を伴い、信仰生活にとって深刻な意味をもつ問題に揺るがされている現代世界にあって、聖ペトロの船を統治し、福音を告げ知らせるには、肉体と精神の力がともに必要です。この力が最近の数か月に衰え、わたしにゆだねられた奉仕職を適切に果たすことができないと自覚するまでになりました。

そして、719年ぶりの「自由意志によるローマ教皇職の辞任」を宣言します。

ベネディクト16世の辞任の2日後の 2013年 2月 13日、バチカンの聖ピエトロ大聖堂の屋根には何度も何度も雷が落ちました

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YouTube


それでも、「 111人目(第 265代)のローマ教皇で終わり」とした聖マラキの預言は外れ、「聖マラキの預言には存在しない」112人目(第 266代)のローマ法王が無事に誕生します。

それがフランシスコ法王です。

その後、フランシスコ法王就任後の 2014年 1月 27日には、法王が子どもたちと共に聖ピエトロ大聖堂から放った平和を象徴する白いカラスが、直後にカラスに襲われて食べられてしまうという出来事が起きました。

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▲ 2014年1月29日の記事「悪魔 vs キリスト教の戦いが世界中でエスカレートしている」より。


また、フランシスコ法王とは関係ないですが、2014年 1月 25日には、第 264代ローマ法王ヨハネ・パウロ2世の「血」が盗難されるという出来事が起こります。

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La Stampa


その他にも、様々なバチカンの受難的な出来事があったわけですが、今回、「バチカンのトップがカトリックの神の創造を否定する」という、誰の受難だかわからないですが、とにかく「受難は最終段階に入った」のかもしれません。

ところで、「宗教と進化論」とか、あるいは「神と天地創造」というようなことはどのような関係になっているのかということを少し書いておきたいと思います。




この世や生命はどのように生まれ、そして何が「進化」したのか

ビッグバンに関しては、過去に何度も記事にしていまして、最近は「ビッグバン疲れ」というような感じもありますが、ビッグバンに関しての「最大の矛盾」は、計算だとか証拠の問題の以前として、ビッグバンを理論的に発展させたことに貢献した科学者の言葉そのものにあらわれています。

過去記事の、

煙と消えゆくビッグバン理論。そして名誉・賞・資金の獲得への過当競争の中で「科学の意味」を見失いつつある科学界
 2014年06月22日

に書きました、初期宇宙のインフレーション理論を提唱したアメリカのアラン・グースという宇宙物理学者がいます。この人はビッグバン理論の発展に寄与した人なんですが、自著の『なぜビッグバンは起こったのか』に書いた下の1ラインが疑問のすべてを物語っていると思います。

「宇宙の創造が量子過程で記述できれば、一つの深い謎が残る。何が物理法則を決定したのか」

ここで彼が書きたかったと思われることは、ビッグバンという宇宙創造が物理的にあらわされるとすると、

「ビッグバン以前に物理法則が存在していた」

ということになるわけで、そこが「何が物理法則を決定したのか」という言葉となっているわけです。

もしこの宇宙がデタラメな始まりだったとすると、これだけ秩序のある物理法則を持つ「この世」というものができるわけがない。その「最初からあった秩序」は誰が、あるいは何が決めたのか

これは生物についても同じです。

地球の生物のあまりにも高度で複雑で奇蹟的な構造は、なぜ存在するのか。

ロシアのアレクサンドル・オパーリンという科学者が、1920年代から「原始地球の無機物が偶然結びつき有機物を発生させた」という説を打ち出し、それは次第に、

地球の生命は「偶然(デタラメ)」に発生した

という自然発生説が科学界に定着していき、この自然発生説が長く科学界を巣食っていました。

しかし、「そのようなことは、ほぼ無理」ということに関しても、過去記事などでかなり執拗に記してきた歴史がありますが、過去記事の、

エピローグへと近づく「生命の地球起源説 vs 宇宙起源説」: ロシアでふたたび始まった地球上で生命を作る試み
 2012年10月14日

の中に「その不可能性」について、フレッド・ホイル博士の著作『生命はどこからきたか』からの抜粋で記しています。

『生命はどこからきたか』 第14章 より

30 個の不変なアミノ酸を持ち、100 個の結合部分からなる短いポリペプチド鎖でさえも、20 の 30 乗、約 10 の 39 乗回にもなる試みが行われて初めて機能を持つ酵素となる。

300 個の不変部分を持ち、1000 個の結合部分からなる酵素の場合は、要求される試みの回数は 20 の 3000 乗で与えられ、それは 1 の後に0が 390 個も並ぶ数である。

さらに、われわれはただ一種類の酵素だけを取り扱うのではなく、最もシンプルな有機体でさえ 2000 種類、われわれのような複雑な生物では約 10 万もの酵素と関係しているという点でも超天文学的数である。

書いてあること自体は私にはよくわからないのですが、要するに生命のバーツの

「酵素ひとつ」が偶然に作られる確率は「 1 の後に 0 が 390 個も並ぶ数の確率

ということで、すなわち、下のような確率です。

1-390.gif


そして、最も単純な生物でも、上の確率での酵素の 2000 種類以上の組み合わせを持ち、人間だと、その組み合わせは 10 万種類などとなっているわけで、さらに重要なのは、

上の確率の組み合わせに「ひとつでも」間違いがあると、機能する酵素ができない

のです。

ここから考えても、「偶然に生命が組み立てられる」という確率は、「天文学的」という言葉をはるかに超えたものとなり、地球の歴史といわれる 30億年だとか 40億年だとかで起こりうるものではないんです。

あるいは 3000兆年とか、5000京年とかの年月が経っても同じで、それでも確率的を満たすためにはまったく足りないのです。

ちなみに、酵素というのは、たとえば下のような構造で、その結合が「ひとつでも」違えば、それはもうその酵素ではないです。これは、消化酵素のα-キモトリプシンというものの構造だそう。

chymotrypsin.gif


現在では多くの科学者はすでに、自然発生説のような、つまり「無機物から有機物が偶然作られる」という理論を信じてはいないのが現実だと思います。

その代表的な意見は、例えば下のロシア科学アカデミー科学者の言葉などからうかがえます。過去記事の翻訳からです。

ロシア科学アカデミーの正会員で、生物物理学者であるヴァレンティン・サプノフ博士は、「おそらく非生命的な物質に生命を与えることはできないだろう」との見方を示し、以下のように語っている。

「まず、私たちはいまだに生命とは何かということを定義づけていない。生命のあるものとないもの。この違いに対しての明確な定義を持っておらず、生命のあるものから生命のないものへの急変がどのように起こるかについても、いまだに理解していない」

「理論的な理解が不足している状態で、無機物から有機物を作り出すというような実験を行っても、いかなる結果も出ないと思われる」

「偶然の調和や、ランダムな選択によって遺伝子やDNAのような構造をつくりだすのは、事実上不可能だとしか言いようがない」

サプノフ氏は、現在、多くの科学者たちは、生命は宇宙から地球に到来したという説を支持していると述べる。


あらゆる面から見て、

・ビッグバン
・生命の自然発生説


は、どちらも無理な話であると考えざるを得ないのです。

そして、皮肉なことに「科学が進歩すればするほど」そこには「創造論的な存在」が最先端科学の前に立ちはだかるのです。

いわゆる進化論というものに関しても今回のフランシスコ法王は、それを認めたわけですが、しかし、最近のカトリックでは(ベネディクト16世以外は)進化論を認めていた傾向があります。




進化論とキリスト教

創造論と科学を融合させるために生まれた「インテリジェント・デザイン運動」というものがあります。これは、

知性ある何か」によって生命や宇宙の精妙なシステムが設計されたとする説

と説明されますが、インテリジェント・デザイン - Wikipedia には、以下のようにあります。

カトリック教会を始めとする宗教界ではインテリジェント・デザインは受け入れられていない。一般に誤解されがちだが、カトリックでは進化論は否定されておらず、むしろ、ヨハネ・パウロ2世が進化論をおおむね認める発言を残している。

ということになっています。

カトリックが進化論を容認してきた理由は、進化論があろうがなかろうが「最初の生命は神が造った」とすれば矛盾が生じないからとされていますが、フランシスコ法王は「ビッグバンまで認めた」ことになり、創造主である神の出番を消し去ろうとしているようにさえ見えます。

まあ、いろいろと書きましたけれど、悪意なく考えれば、フランシスコ法王は、あまり生体科学や生命の構造に詳しくないかもしれないわけで、つまり、

「現法王は生命に奇蹟を感じていない」

という感じがします。

人間を含めた生物の構造のあまりにも複雑で高度な作りを知れば知るほど、科学者や医学者はそこに「奇蹟」を見出すことが多くなるように思います。

私もこの何年か、 In Deep を書いている中で「生命の奇跡的な構造」を少しずつ知るにつれて、「生命の起源」というものについて考えることがありました。

しかし、宗教を持たず、何らかの特定の神を信奉しているわけではない私には、オカルトやスピリチュアル方面の見識よりも、それらを明確に否定するような科学者の言葉の中に、むしろ真実に近い何かを感じます。

たとえば、神経症の治療法である「森田療法」の創始者である森田正馬さんは、1922年(大正11年)に発行された『神経質の本態と療法』の中で以下のように書いています。

森田正馬『神経質の本態と療法』より

自然科学から見れば、神は民族心理の過渡的産物である、とかいうように、神という実体の存在はない。神、仏、真如とかいうものは、宇宙の真理、すなわち「自然の法則」であって、法そのものにほかならない。

真の宗教は、自己の欲望を充たそうとする対象ではない。神を信じるのは、病を治す手段でもなければ、安心立命を得る目的としてもいけない。神仏に帰命頂来するということは、自然の法則に帰依、服従するということである。

私も心底の意味で、「自然の法則に帰依、服従することができればいいだろうな」と思うこともありますが、ただそんな風に思うだけでなされるわけではないことも理解しています。

そして、なんとなく多くの人が、特定の宗教のものではない「ひとりひとりの神」という概念を考えることが多くなっているような感じの、最近のご時世の中で突然発表された

「神は万能ではないし、神がこの世を創ったのではない」

という主旨の法王の発言。

ま……何はともあれ、「この世から神という概念を消したい存在」のひとつが、もしかするとバチカンなのかもしれないと思った次第です。

しかし、私は今後も進化論とビッグバンの否定だけは続けるつもりです。

ジッチャンの名にかけて(ジッチャンはテキヤの親分でしたが)。

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